第9話 闇にさまよう 最終回
米粒のように見える蕃神が、徐々に大きくなってきた。そう、ゆっくりと降下してくるのだ。
これまで目にしたどの化け物よりも醜怪な姿だった。巨大な雲のような体であり、頭部や四肢が見当たらない。ただれた表面にいくつもの半開きの口があった。それぞれの口の中には鋸歯が並んでいる。ゆらゆらと揺らめいているのは、あちこちから生えている何本もの長い触手だ。体の内部が透けて見えるが、いくつもの肉塊が緻密に積み重なっていることしかわからない。
不意に、半透明の巨大な雲の固まりの下部から、やはり半透明の四本の足が、カタツムリの触角が伸びるかのごとく――皮膚の内側を剝き出すかのごとく突き出した。四本のどれもが、泰輝の後ろ足と同様に蹄を有している。それら四本の足を外側に大きく広げ、巨大な雲の固まりは降下を止めた。
天空における隼人の視野の半分ほどが半透明の肉塊で埋め尽くされていた。どれほどの高さに浮かんでいるのか察しがつかないが、途方もなく巨大であることは確かだ。
こんなものは見えないほうがよいに決まっている。今さらながら、見鬼であることをこの上もなく煩わしく思った。
「こいつは……」
隼人は思い出した。この蕃神こそ、夢の中で「男がほしい」と囁いていた巨大な影であることを。
夢の中での彼女も半透明――不可視状態だったが、悪臭までが夢のとおりだ。吐き気さえ覚えてしまう。
見鬼である士郎にも、蕃神の姿が見えているらしい。もっとも彼は、恍惚とした表情を浮かべていた。
蕃神の体が、一瞬、激しく揺れた。そしてその底部の中央から、一本の触手がこの儀式の場に向かって伸びてくる。無論それも、不可視状態だ。
「蕃神は何をしようとしているんでしょうか?」
焦燥をあらわにする瑠奈にどう答えればよいのか、隼人はわからない。
恵美に目を向けると、彼女は悔しそうに正面を見ていた。
「尾崎さんは、今後の展開がわかるんだろう?」
問いかけてみたが、恵美は隼人を一瞥しただけで、口を開かなかった。
半透明の触手が、蒼依の正面でその伸びを止めた。先端は地面まであと一メートル半という高さだ。
触手の先端が少しずつ膨らんでいった。しかも、膨らんでいる部分だけが赤黒く可視化する。
「見えるわ」
恵美が言った。
可視化した部分がサッカーボール大に成長した。逆さにした卵、のような形状だ。続いて、その下部から赤黒い固まりが突き出し、いくつかの部位に枝分かれしながら下に伸びていく。
「これって……」
声を震わせた瑠奈にはわかったらしい。
「人の形だ」
隼人は瑠奈の言葉に繫げた。
赤黒い二本の足が地面に達した。不可視状態の触手が頭部に繫がっている赤黒い人間、である。
「まだまだこれからだよ」
さも愉快げに士郎が告げた。
赤黒い人間のその細部――左右の耳や手足の指などが具現化していった。どうやら隼人に向けられているのは背面らしい。士郎に向けられた正面では、顔も成形されているに違いない。
半透明の触手が赤黒い頭部から離れた。ちぎれた、という感じである。そして触手は、のたくりながら上空の蕃神へと引き戻されていった。
触手から解放された赤黒い頭部に黒い毛髪が生え始めた。同時に、体表が肌色に変わっていく。どう見てもそれは、若い女の裸体だった。
「蒼依……」
呆然とした声で瑠奈は言うが、隼人は認めたくなかった。
「ばかな……そんなはずがない」
その声が届いたのか、全裸の若い女がわずかに顔をこちらに向けた。髪型も横顔も、まさしく蒼依である。
「もう一人の蒼依ちゃん、だと思っていいよ」士郎が言った。「身長や体型はもちろん、髪の長さや指紋、体臭、血液、遺伝子に至るまで、ここにいる蒼依ちゃんを完全にコピーしたんだ。それに、記憶だってコピーしている。この儀式が始まる以前の、蒼依ちゃんが見聞きしたことや感じたことは、全部複製しているはずだよ」
当の本人である本物の蒼依は、自分とうり二つの姿を前にしているにもかかわらず、なんら表情を変えていない。
隼人は士郎に目を向ける。
「何をしようっていうんだ?」
「もう一人の蒼依ちゃんの胎内には、男神と女神との間にできた幼生が、すでに宿っている。ぼくが呪文を唱えたことによって、女神の本体が男神と交接したんだ。女神が受胎したばかりなんだよ。女神は子宮を無数に有しているけど、そのうちの一つに子が宿ったのさ。そして、子を宿した子宮が本体から分離して、もう一人の蒼依ちゃんとなった」
青白い光の中で士郎の顔に満足げな笑みが浮かんでいた。
まだ話は終わっていない。
隼人は息を吞んで士郎の言葉に耳を傾ける。
「細胞分裂を初めて数分、といったところかな。でも成長は早いよ。その幼生にたった今、自我が生まれた。母体の姿形やにおいなど、あらゆる情報を覚えているところさ。つまり、コピーされた蒼依ちゃんのデータを元にして、人間の胎児に擬態するわけだ。だけど、このもう一人の蒼依ちゃんは、女神の体の一部でもある。だから胎内の幼生は、自分を宿した母体が敵ではない、と悟るんだよ。胎内の幼生が安心して母体の情報を頭に入れることができるのは、そのためさ」
「なら」隼人は口を開いた。「その幼生は蒼依の胎内に転送されたとたんに、そこがただの人間の胎内だと感じ取って、蒼依を攻撃するんじゃないのか?」
「そうならないようにするための呪文もセットで唱えてあるよ。転送先の母体に女神の気配が感じられなくても、幼生はその母体を自分の母親として認識するんだ。自分が生まれ出たあとも、母体が生き続ける限りね」
泰輝が瑠奈を母親として認識し、かつ守っているように、蒼依が産むことになる幼生も蒼依を母親として認識し、守ってくれるのだろう。だが、徹底的に異なることがある。瑠奈と泰輝は人間と今の社会を守ろうとしているが、蒼依と彼女の産む幼生は無貌教の企てに加担することになるのだ。
「しかし」と士郎は全裸の蒼依を見た。「胎児の転送はこれからだ。まだ儀式の最中なんだよ。まずは、こちら……女神の化身に滋養をつけていただく」
「そこでわたしの出番となるわけね」
口を差し挟んだのは恵美だった。
隼人は恵美に顔を向ける。
「待ってくれよ。それって、尾崎さんが食われてしまう、っていうことじゃないか」
「そうだよ」士郎が首肯した。「そして滋養をつけた化身は、自分の胎内の幼生を蒼依ちゃんに転送するんだ。門を司る神の準備も整っている。でもね、これだけでは女神は満足してくれない。尾崎さんという贄は幼生を転送するための力になるけど、その滋養は転送が済めチャラになってしまうだろう? 真に女神に満足していただくための貢ぎものは別途必要、というわけさ」
隼人は背中に冷たいものを感じ、士郎に問う。
「どういうことだよ?」
「女神は男性の見鬼と交わる、ということだよ」
隼人を見つめたまま、士郎は答えた。
「その見鬼って、おれか?」
「君しかいないだろう」
呆れたように士郎は肩をすくめた。
「おれが、その化身と?」
「そうさ。君はもう一人の蒼依ちゃんと交わるんだ。この場で……瑠奈ちゃんと本物の蒼依ちゃんの目の前でね」
士郎の言葉を受け入れることなどできるはずがなかった。こちらに背中を向けて立つ全裸の少女は、まだはっきりとは確認していないが、蒼依のコピーなのだという。自分の妹と性交するようなものではないか。まして彼女は蕃神の一部であり、人間ではない。それ以前に、他人に指図されるまま「見知らぬ女」と交わるなど、言語道断である。しかも、そのまぐわいは瑠奈と蒼依の目の前で披露されるのだ。
「君は断れないんだよ」士郎は言った。「その貢ぎものがなければ、女神は帰ってくれない。それどころか、女神は怒り、ここにいるみんなを食い殺し、近隣の集落、もしくは市街地までも破壊するだろう」
「なんてことだよ」
愕然とする隼人に向かって、士郎は微笑む。
「安心したまえ。それでできた子……つまりハイブリッドは、君の元に送られてきたりしないから」
「ちょと待って」瑠奈が士郎に向かって声を上げた。「じゃあ、わたしのときは? 一年前の儀式では、わたしにそっくりな化身が、男性の見鬼と?」
「その通りさ。その様子を教えてあげようか?」
「もうやめなさい山野辺士郎!」
恵美が声を荒らげた。
「知るべきだと思うけどね」
目を細め、士郎は笑った。
「言ってはだめ! 言わないで……」
恵美は訴えるが、士郎はそれを無視する。
「あのときの瑠奈ちゃんは、儀式の様子をすべて見ていたんだ。しかし、その記憶をきれいに消されてしまったのさ」
「わたしは意識を失っていたんじゃなくて、儀式をずっと見ていた? そして、その記憶を消された?」
「そうさ。瑠奈ちゃんの母親、神宮司真紀さんの要請によって、特機隊に協力する組織が瑠奈ちゃんの脳に処置を施したんだ。ほかの大勢の人たちにしたようにね。でも瑠奈ちゃんへの処置は、数少ない成功例の一つだったんだよ」
「お母さんは……わたしにそっくりな化身が男の人と交わった事実を忘れさせようとして、わたしのために……」
「それはそうさ。だって――」
「やめなさい!」
恵美の抵抗は空回りするばかりだった。
「瑠奈ちゃんにそっくりな神の化身と交わったのは、神宮司清一氏、瑠奈ちゃんの父親だったんだからね」
言いきった士郎は声を上げて笑った。
「うそ」
瑠奈が目を見開いた。
笑いをこらえ、士郎は口を開く。
「瑠奈ちゃんは知らなかっただろうけど、清一氏も見鬼だったんだよ」
「そんなの、聞いていなかった」瑠奈は首を横に振った。「お父さんもお母さんも、言っていなかった」
「若い頃に見鬼の能力を開花させた清一氏は、神宮司家でも江戸時代に見鬼が生まれていた、という事実を突き止めていたらしいね」
士郎は得意げに言うが、おそらくそれも水野から仕入れた情報なのだろう。
「そして」と士郎は続ける。「自分の娘までが見鬼であることを、清一氏は知ってしまったんだ。折しも、神津山にはハイブリッドが集まり始めていた。家族を守りたかった彼は、そのために『天帝秘法写本』を長い時間をかけてひもとき、瑠奈ちゃんに純血の幼生を産ませた。もちろん、女神との交わりは避けられなかった。擬似的な近親相姦とはいえ、自分は娘を犯してしまった、という罪悪感にさいなまれてしまったわけだ。だから清一氏は、それから数時間後に自宅で首を吊った」
隼人が衝撃を受けるほどの内容だった。
横目で見れば、瑠奈は目を見開いたまま、小刻みに震えている。
その視線の先で、青白い光を背にした士郎が、悦に入ったような表情を浮かべながら口を開いた。
「まあね、儀式を目の当たりにしたうえ、幼生を出産し、自分の父親の自殺まであったのだから、瑠奈ちゃんの受けた精神的な打撃もよほどだったんだろう。それで真紀さんは、危険と知りつつ瑠奈ちゃんへの処置を水野さんに要請したんだ。その処置が成功したのだから、清一氏の自殺を瑠奈ちゃんが覚えているわけがない。……それらのことは、一部の特機隊隊員にとって既知の事実だよ。ね、尾崎さん」
だが恵美は唇を嚙み締め、士郎から目を逸らした。
代わって隼人が言う。
「おじさんは交通事故で亡くなった、って聞いたぞ」
隠蔽されたことくらいは想像できたが、瑠奈のためにも黙っていられなかった。
「昭彦さんはね、自殺する直前の清一氏からすべてを打ち明けられていたんだよ。だから、間違いないさ。まあ確かに、清一氏はあの晩のうちに自分が運転する車で事故を起こした、ということになってはいるけどね」
人を見下すような口調が忌々しかった。そこまで説かれると、返す言葉がない。
「それにしても」士郎は語り続ける。「真紀さんに至っては、自分の夫の擬似的な近親相姦の一部始終を、今でも覚えているんだよ。それなのに真紀さんは、そのことを娘の前ではおくびにも出さなかったんだろうから、たいしたものさ」
瑠奈が嗚咽を漏らしながらかぶりを振ると、士郎は片眉を上げた。
「たとえどんないきさつがあろうと、これからも瑠奈ちゃんは泰輝くんを可愛がるだろう。それが巫女の本能なんだよ。すべての巫女は、自分で産んだ幼生……純血にしろハイブリッドにしろ、その子を何よりも愛し、大切に育てるのさ。幼生のほうも、自分を産んでくれた母親をいとおしむ。蒼依ちゃんもきっと、自分が代理出産する純血の幼生を、愛情を持って、たくましい兵士に育ててくれるだろう」
そう告げて笑う士郎を、隼人は睨んだ。そして、何も言えない自分に気づく。瑠奈を前にしては、幼生を産み育てることに対し、肯定も否定もできない。
「わたしが泰輝を可愛がるのは」瑠奈は涙をこぼしながら言う。「巫女としての本能からではありません。心の底から泰輝を愛しているんです。でも、お父さんの苦しみやお母さんのつらさも、わたしにはよくわかります。周りの人たちが苦しむんです。だから蒼依には、幼生を産ませるわけにはいかない」
「今の瑠奈ちゃんには何もできないさ」
士郎が言ったそのとき――。
「ごちそう……食べたい……」
蕃神の化身が口を利いた。蒼依の声である。
「これは失礼しました」蕃神の化身に恭しく頭を下げた士郎が、隼人たちのほうに顔を向ける。「さあ、神に生け贄を!」
「くっ」
声を漏らした恵美を見ると、彼女の体が三本の触手によってわずかに持ち上げられていた。そして、蕃神の化身のほうへと運ばれていく。
蕃神の化身がこちらに正面を向けた。妹の全裸など、幼少の頃に見たきりである。どこまでが本物の蒼依と同一なのか知る由もないが、少なくとも顔は蒼依のものだ。体臭もコピーしていると士郎は説いたが、そもそも隼人は、蒼依の体臭など嗅いだことがない。ましてやここはすでに悪臭が満ちているのだから、たとえ蒼依の体臭を覚えていたとしても、それを確認することは不可能だろう。
触手に拘束されたまま、恵美は全裸の蒼依の前に立たされた。
全裸の蒼依が右手のひらを恵美に向けて突き出す。
「いただきまーす」
普段の蒼依と変わらぬ口調で、全裸の蒼依は言った。
白い手のひらが横に小さく裂けた。手のひらに口が生じたのだ。唇や歯など、人間のそれと変わりない色形である。それどころか、この異様な口まで蒼依の口を模倣しているではないか。
その口が前にゆっくりと突き出るや、瞬時に大きく開いた。この忌々しい大口は、みえん坂で隼人を食らわんとしたあの口と同様、人間一人を一飲みできるほどのサイズである。
「お願い、尾崎さんを食べないで」
泣きながら、瑠奈は全裸の蒼依に請うた。
「あなた」瑠奈に顔を向けた全裸の蒼依が、首を傾げた。「前にここで会ったよね?」
声だけでなく、口調も蒼依と変わらなかった。
「わたしを覚えているの?」
濡れた瞳をしばたたかせて瑠奈は尋ねた。
「だって、前はあなたの姿になったんだよ。そしてあなたに子供を産んでもらった。そうそう、あなたは瑠奈だ。神宮司瑠奈。あたしの……空閑蒼依の一番の友達」
蒼依からコピーしたという記憶は、確かにあるらしい。それが邪神としての意識に介在しているのだろう。
「蒼依とは……友達だよ」
蒼依のコピーに向かってなんと言えばよいのか、瑠奈は戸惑っているようだ。
「あれ? あたしの子供が、そこにいる」
右手の大口を恵美に向けたまま、全裸の蒼依が泰輝の無様な姿を見た。そしてすぐに顔を曇らせ、士郎に視線を移す。
「なんであたしの子供が締めつけられているの? それに、締めつけているのも、あたしの子供じゃん。ねえ、なんで?」
問われた士郎は、へつらいの笑みを浮かべた。
「彼らは姉弟でじゃれ合っているだけなんですよ」
「なんだ、そうか。じゃあ、気にすることはないね。早くごちそうを食べて、力をつけなくちゃ」そして彼女は、恵美に顔を向ける。「前回は鶏が三羽だったなあ。三羽だったけど、鶏では力を出すのが大変だったよ。でも、今日のごちそうは力が出そうだね」
この全裸の少女は見かけも声も話し方も蒼依と変わらないが、間違いなく蕃神の一部なのだ。ならば逆の見方もできよう。蕃神ではあるが、蒼依の記憶を持っている。士郎の言葉が正しければ、少なくとも、この儀式が始まる以前の蒼依の記憶があるはずだ。
「おい蒼依」隼人は全裸の蒼依に声をかけた。「おれが誰か、わかるか?」
「お兄ちゃん、だよ」
きょとんとした様子だが、隼人を兄として存知しているらしい。
「なら、目の前にいるのが尾崎さんだっていうのも、わかるだろう? おまえによくしてくれた尾崎さんだぞ」
「もちろん、わかるよ。親切にしてくれた尾崎さん、大好き。とてもおいしそうじゃん」
本物の蒼依と寸分も変わらぬ口がそう告げると、第二の口――今にも恵美にかぶりつこうとしている大口が、わずかに蠢いた。
「どうしてそうなるんだよ……」
思惑が外れ、唇を嚙み締めた。
「無駄さ」士郎が言った。「呪文によって契約は交わされている。儀式は滞りなく進行するんだよ」
だが、諦めるわけにはいかない。
「なあ、蒼依。ごちそうを食べたら、何をするんだ?」
「えーとね、あたしのお腹にいる子供を本物のあたしに送って、それから、選ばれし者とエッチするんだよ」
俗っぽい口調は確かに蒼依のものだ。とても蕃神とは思えない。しかし、彼女の右手の巨大な口は、紛れもなく異形のものである。
「選ばれし者って、誰だよ?」
それが見鬼であることは百も承知しているが、隼人はあえて問い続けた。
「えーと」全裸の蒼依は隼人を見ながら答える。「お兄ちゃん」
「それがどういうことだか、わかっているのか?」
「近親相姦っていうやつ?」
「蒼依はそういうのを許せないよな? へらへらしているようで、意外にしっかりしているもんな。なあ、そうだろう?」
隼人はたたみかけた。蒼依の誠実な部分を引き出したかった。
「うーん」全裸の蒼依は首を傾げた。「でもあたしは、蒼依であって蒼依でないしー」
そんな彼女の背後で、士郎がため息をつく。
「隼人くんも粘るね。でも無理なんだよ。どんなに蒼依ちゃんをコピーした姿であっても、やはり女神なんだから」
「そういうこと。じゃあ……」全裸の蒼依は恵美を見た。「ごちそうを食べちゃおうっと。そうしたら、お兄ちゃんとエッチするんだ」
「ごちそうは、なしだ!」
隼人は怒鳴った。
「どうして?」
得心のいかない様子で、全裸の蒼依は隼人に顔を向けた。
「その人はおれの仲間だ。食べたりしたら、おれは舌を嚙み切って死ぬ。おれと交わりたかったら、おれの大切な人たちを誰も傷つけるんじゃない」
恵美だけでなく、本物の蒼依、瑠奈、泰輝――仲間たちを助けるためにはどうすればよいか、ずっと考えていた。この手しかない、と自分に言い聞かせた。
「えー、お兄ちゃんが死んじゃったら、エッチできないじゃん」すねるように全裸の蒼依は言った。「尾崎さんを食べなかったら、あたしとエッチしてくれる?」
隼人の予想したとおりだった。この蒼依もどきは――否、雌の蕃神は、贄を食らうことよりも、胎内に宿した幼生を本物の蒼依の胎内に転送することよりも、見鬼と交わることを欲している。
「ああ。だから、尾崎さんを解放してやってくれ。それから、瑠奈ちゃんと本物の蒼依、おまえの子供でもある泰輝もだ。みんなをこの山から逃がしてくれるのなら、そして、おまえの胎内に宿った子供を本物の蒼依に転送しない、と約束してくれるのなら、おれはおまえと交わる」
「隼人さん、早まってはいけない」
首をこちらにひねった恵美が、肩越しに訴えた。
考えるまでもなく、隼人がしようとしているそれは、神宮司清一が瑠奈の目の前でしたことと変わらぬ擬似的な近親相姦だ。しかし、儀式がこのまま進行すれば、やはりそれはおこなわれてしまう。
「尾崎さんが犠牲になっても、事態は好転しないよ」
隼人が諭すと、恵美はうなだれ、かぶりを振った。
「えーと」全裸の蒼依が本物の蒼依を一瞥し、そして隼人に顔を向けた。「お腹の中にいるこの子はね、あたしが産んじゃったら……巫女には懐かないよ」
「懐かせる必要はない。おまえが自分の子供として自分で産む。そして生まれた子供は、申し訳ないけど、おまえが育ててくれ」
「あたしは子育てはしないのっ」
そう返され、隼人はすぐに提案する。
「だったら、生まれた子供には、ほかの神の子みたいに勝手に生きてもらう。それじゃだめなのか?」
「かまわないよ。問題ない。じゃあ、お兄ちゃん以外のみんなには、シロウさんも含めて、今すぐ帰ってもらおうかな」
邪神としての考えを聞き、隼人は機運が巡ってきたと感じた。
「お待ちを」士郎が全裸の蒼依に声をかけた。「神に刃向かうつもりなどございませんが、神の子の出産は巫女に委ねていただきたい。それで隼人くんが交わりを拒むのなら……彼には秘薬を吸わせますので」
「おまえの指図は受けない!」隼人は断固として拒否する。「秘薬なんて吸うものか!」
「いいのかな? こんな手段は使いたくなかったんだけど」
士郎は本物の蒼依の横に移動し、テーラードジャケットの懐からおもむろにナイフを取り出した。ナイフは特機隊のものらしい。おそらく、恵美のシースから抜き取ったものだろう。
蒼依の白くて細い首にナイフの刃が押しつけられた。無論、惚けた表情の蒼依は、嫌がるそぶりさえ見せない。
「儀式の成功が望めないのなら、まあ、仕方がないね。今回は諦めるしかないか」
脅し文句を並べた士郎は、蒼依の首筋を見つめながら目を細めた。
「貴様あああ!」
声を張り上げたが、それで状況がよくなるはずがない。現に儀式の執行人は冷笑を浮かべ続けている。
「どうしようかなあ」
考えあぐむ全裸の蒼依は、隼人と士郎を交互に見やった。
「あなた、神様なんでしょう?」
瑠奈にそう問われ、全裸の蒼依は右手の大口を恵美に突き出したまま頷く。
「人間から見れば、そういう存在ということになるね」
「なのに、人間の言いなりになっているのは変よ」
「言いなり?」
蒼依とそっくりの瞳に、冷たい光が宿った。
「そう、言いなりよ。よく見て。神様なら、許せないことがあるでしょう?」
瑠奈は一計を案じたのだ、と悟った隼人は、黙して成り行きを窺う。
「君!」蒼依の首にナイフを押しつけたまま、士郎が声を上げた。「余計なことは言わないほうがいいぞ!」
しかし瑠奈は、全裸の蒼依から目を離さない。
「この儀式を成功させるために、あの魔道士はあなたの子供を拘束しているのよ。それも、同じあなたの子供を使って」
「そっか……子供たちはじゃれ合っているわけじゃないんだ」
地面に押さえつけられている白い巨獣を見ながら、全裸の蒼依は頷いた。
「つまりね」瑠奈は続ける。「あの魔道士はあなたを見下しているの。神であるあなたや、あなたの子供たちを、自分のために利用しているだけなのよ」
「じゃあやっぱり、つかまっているみんなを解放してあげなきゃ。お兄ちゃんとの契約は成立したよ」
全裸の蒼依が言ったとたん、隼人をとらえていた三本の触手がほどけた。それと同時に、瑠奈や恵美、泰輝も解放される。そして、すべての触手が背後の藪に退いてしまった。
長時間の緊縛のためか、全身の力が抜けてしまい、隼人は前屈みになった。それでも、どうにか腰を伸ばす。
見れば、瑠奈と恵美も同じ状態だったらしく、体勢を立て直したところだ。
泰輝は四本の足で凛と立っている。
全裸の蒼依の右手から大口が消失した。その右手が静かに下ろされる。
「隼人さん、ごめんなさい」瑠奈が失意の表情を隼人を向けた。「これでは隼人さんが蕃神の化身と交わることに……」
「いいんだ。これで蒼依もみんなも助かる」
隼人のその答を聞いた瑠奈は、唇を嚙み締めてうつむくと、すぐに顔を上げ、全裸の蒼依を見つめた。
「あなたを見下した魔道士を、このままにしておく?」
「そうだなあ……ほうっておけば、また同じことをするかもしれないよね」
そう返して、全裸の蒼依は士郎を横目で見た。
「ならつかまえなきゃ。その魔道士は、わたしたちの共通の敵だよ」
さらに言い募った瑠奈に向かって、士郎の手からナイフが飛んだ。
一瞬の出来事だった。
耳をつんざく音とともに、泰輝の両耳から光が走った。
その光が、空中でナイフを弾く。
「きいいい!」
奇声を上げたのは、頭部をのけ反らせた全裸の蒼依だった。彼女の額にナイフが突き刺さっている。
「しまった!」
士郎が顔をゆがめた。
左右の瞳をそれぞれあらぬ方向に向けている全裸の蒼依が、両腕を大きく広げた。その両腕が、赤黒い触手に変化する。どんどん伸びていく二本の触手が、辺りかまわず振り回された。
隼人はとっさにうつぶせに倒れた。見上げた直後に、すぐ上を一本の触手が「びゅん」と音を立てて通過する。
「瑠奈さん!」
叫びつつ走った恵美が、呆然と立ち尽くす瑠奈を抱き締め、地面に倒れ込んだ。
今や二本の触手は十メートル以上の長さとなっていた。それでもこの触手による被害はまだ出ていない。士郎は本物の蒼依の横で身を低くしており、泰輝も藪の手前で頭を低くしている。
「どうなっているんだ」
伏せたまま、隼人は恵美のほうに顔を向けた。
「人間体としての脳を傷つけられたから、本体の意思に反して暴走しているのよ」
瑠奈を抱き締めたまま伏せている恵美が、そう答えた。
「暴走……」
蹄を有する巨大な四本の足を、隼人は見上げた。
化身が暴走しただけでこのありさまなのだ。士郎の言うとおり、本体までが暴れ出せば被害は甚大なものとなるだろう。
隼人は恵美に顔を向ける。
「なら、化身の脳を完全に破壊すれば、あいつの暴走は止まるのか?」
「破壊するも何も、今のわたしは丸腰なのよ。それに化身とはいえ、相手は蕃神。ハイブリッドとは、わけが違うわ」
「でもこんな状況じゃ、体が自由になたって意味がないじゃないか」
痛恨の極みで唇を嚙み締めた直後、隼人の頭上を赤黒い二本の触手が背後の藪に向かって伸びた。背後で老婆の叫びのようなしわがれ声が上がり、二本の触手が引き戻される。
「なんだよ、あれ……」
隼人が目にしたのは、赤黒い二本の触手によって星空に掲げられた巨大な灰色の腕だった。全長は五メートル近くあるだろう。人間の腕に酷似しているが、右腕か左腕かは確認できない。かぎ爪を有するそれは、いずれにせよ、隼人たちをとらえていた雌の幼生のものに違いない。その巨大な腕はすぐにほうり出され、杉林の中へと消え失せた。
しわがれた悲鳴が遠くに聞こえた。泰輝の姉でもある彼女は、どうやら逃げ出したらしい。
上空の邪神の本体から一本の触手が伸びてきた。本体と同様に半透明――不可視状態の触手である。化身を地上に下ろした先ほどの触手か否かは、定かでない。
不意に、全裸の蒼依の額からナイフが抜け落ちた。傷口が塞がるとともに、毛髪も耳も目も鼻も口も、蒼依の容貌を表現していた各部位が消失する。そして全身が赤黒く変色し、ほっそりとしていた胴がぶくぶくと膨れていった。その胴のあちこちから触手が伸び、今や、足だったものも触手に変じている。
膨れ上がった胴が横倒しになった。無数の触手を体毛と見なせば、巨大な毛虫のようである。
上空から伸びてきた不可視状態の触手は、その巨大毛虫にふれようとしていた。何本もの赤黒い触手にはねのけられながらも、不可視状態の触手の試みが続く。
――化身の暴走を本体が止めようとしているんだ。
隼人は息を吞みつつ、輝き続ける召喚球のほうへと視線を移した。
身を屈めながら、士郎が蒼依の右腕を引いていた。この場から脱出しようとしているらしい。
恵美にかばわれて伏せている瑠奈が、「泰輝、蒼依を!」と叫んだ。
ためらうことなく白い巨獣が飛び出す。
何本もの赤黒い触手が走った。
泰輝はそれらを躱して大きく跳躍した。――が、一本の赤黒い触手が空中で彼をとらえてしまう。触手に胴を巻きつかれた泰輝が地面に落下し、横倒しになった。さらにもう一本の赤黒い触手が、白くて長い首に巻きつく。
赤黒い触手の別の一本が高く振り上げられた。そして振り下ろされるであろうそこには、蒼依と士郎がいた。
「蒼依!」
声を張り上げつつ、隼人は立ち上がった。
振り下ろされた触手が、座り込んでいる蒼依のすぐ横の地面を叩いた。士郎のいた場所だ。しかし、士郎の姿はどこにもない。
隼人は何も考えずに走り出した。
地面を叩いた触手がわずかに退き、鎌首をもたげた。鋭い先端のその延長線上に、蒼依がいる。
蒼依の正面で立ち止まった隼人は、ふと、首をひねって肩越しに背後を見た。
巨大毛虫の体の中央に、不可視状態の触手が繫がっていた。無数の赤黒い触手は、動きを止めている。
瑠奈と恵美が立ち上がった。その二人がこちらを見るなり、顔を強ばらせた。
触手から解放された泰輝も、四本の足で立ち上がるなり、こちらをじっと睨む。
「お兄ちゃん……」
座り込んだまま、蒼依が隼人を見上げた。きょとんとした表情である。ここで何が起きていたのか、認識できないのだろう。
「気づいたか。よかった」
安堵した隼人は、激痛があることにようやく気づいた。
自分の体を見下ろすと、みぞおちの辺りから、棘のようなものが十センチほど突き出ていた。鋭く尖ったその先端から、赤い液体がしたたり落ちている。
もう一度、肩越しに振り向いた。巨大毛虫はおとなしくしているが、それから伸びている一本の赤黒い触手が、隼人の背中に届いていた。
「お兄ちゃん、それ………」
蒼依の瞳が隼人の腹部に向けられた。
残された時間はわずかなのだ、と隼人は悟る。
「蒼依、ごめんな。おれはだめな兄貴だった」
「何を言ってんの?」
蒼依は再び顔を上げ、隼人と目を合わせた。
「おやじも死んでしまった……家族は誰もいなくなっちまうな。でも、瑠奈ちゃんがいる。おまえには……最高の友達がついている。だから、何も心配はいらない。おまえは、おやじやおれのぶんまで……幸せになるんだ」
「お兄ちゃん……」蒼依の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。「お父さんが死んでも、あたしにはお兄ちゃんがいるよ。これからもお兄ちゃんと一緒に暮らすんだ。そしてね、お兄ちゃんには、お父さんの代わりになってもらうんだ。お兄ちゃんにだって幸せになってもらうんだもん」
「蒼依……負けるなよ……」
苦しさで息をするのもやっとだった。これ以上の言葉は紡げなさそうだ。
涙があふれた。蒼依の顔がにじんでしまう。召喚球の光が、やけにまぶしい。
蠢く何かが隼人の腹の中に広がっていった。
――男がほしい。
蕃神の欲情が伝わってきた。
意識の中で隼人は答える。
―――契約は成立したんだったな。でもおれの体は、もう耐えられないぞ。
隼人の体が持ち上がった。少しずつ上昇していく。
「わがままは、もう言わないから……ずっとあたしと一緒にいてよ……お兄ちゃん……」
嗚咽混じりの声が、隼人の足元で小さくなっていく。
「その人を連れていかないで! 隼人さんを返して!」
瑠奈の叫びをどうにか聞き取ることができた。
遠のいていく意識の中で、蕃神の帰還の意図がわかった。
もう何も聞こえない。
何も見えない。
痛みさえ消えていく。
無限大の闇へと、隼人は吸い込まれていった。
まだ夜は明けていない。恵美によると、午前三時を過ぎたばかりだという。
二の鳥居の先に広がるのは、砂利が敷き詰められた空き地だった。スタンドによって立てられた大型LEDライトが、空き地の外周にいくつも設置されている。
LEDの光によって照らされた空間の中ほどに、二台の白いワンボックス車と五台の黒いSUVが駐車してあった。それら車両の間をグレースーツの隊員たちや作業服の処理班班員たちがせわしなさそうに動き回っている。うち何人かのグレースーツの隊員が、センサーグラスをかけていた。グレースーツ姿と作業服姿は総勢で五十人以上はいそうだが、正確な員数は把握できない。
ライトがなければ、また人もいなければ、この時間のこの場所は、静寂に包まれたただの闇なのだろう。ハイブリッドが潜むにはうってつけである。人間の生活圏から少し離れれるだけでいくらでも見つかる暗黒の領域だ。
グレースーツ姿や作業服姿の中にパンツルックスの真紀を認め、瑠奈は駆け寄った。
「お母さん!」
「瑠奈、無事だったのね」
二人は両手を取り合った。
「泰輝は?」
瑠奈の手を離そうともせず、真紀は尋ねてきた。
泰輝はあのあとすぐに高三土山の頂上から飛び去った。今頃は神宮司邸にいるだろう。真紀とは行き違いになったわけだ。
「先に帰ったよ。それより、隼人さんが……」
意図せず声を詰まらせてしまった。
「分駐所に入った連絡を聞いたわ。本当に無念で……悲しい……」
真紀は言いながら、涙をたたえた目を伏せ、瑠奈の両手をさらに強く握り締めた。
二人の作業服姿の男が、蒼依を乗せた担架を瑠奈の背後から運んできた。両目を閉じている蒼依には、首から下にシーツがかけられている。そのシーツに隠されているが、彼女は白装束姿のままだ。
待ち受けていた一人の作業服姿が一台のワンボックス車の左リアドアを開けた。担架はそこから車中に搬入された。
高三土山の頂上まで救護に来てくれたのは、水野らの装備と同じ仕様で身を固めた特機隊第二小隊強襲班の十五人だった。彼らは東京の本部から直接駆けつけたのだという。
下山の途中で合流した二十人の処理班班員も本部から派遣された部隊だった。強襲班の一人に背負われていた蒼依は、処理班が用意していた担架にそこで乗せられ、麓の空き地まで運ばれてきたのである。担架を運ぶ二人の処理班班員以外に、強襲班の三人が護衛としてついた下山だった。強襲班、処理班とも、残りのメンバーは山中で現在も任務に当たっている。
山中にあったはずの隊員たちの遺体は、すでにすべてが回収されていた。境内にあったはずの一也の遺体もである。おかげで、下山の途中で瑠奈が無残な骸を目にすることはなかった。
「お母さん、蒼依に会ってあげて」
「もちろんよ」
促された真紀は、瑠奈の手を離し、ワンボックス車へと歩み寄った。瑠奈も真紀の背中についていく。
ワンボックス車の二列目と三列目の座席はすべての背もたれが倒されていた。広くなった座面の右寄りに、蒼依は担架ごと乗せられている。乗せられているというよりは、頭を前方に向けて寝かされている状態だ。
「ちょっといいかしら」
真紀が声をかけると、三人の作業服姿が即座に身を引いた。
ワンボックス車に乗り込んだ真紀が、蒼依の横の座面に腰を下ろす。
「蒼依ちゃん」
真紀が静かに声をかけると、蒼依は目を開けた。
「おばさん……」
そして蒼依は半身を起こそうとした。
「いいの、そのままで」
真紀は制したが、蒼依は半身を起こして白装束姿をあらわにした。
「おばさん……お兄ちゃんが……お兄ちゃんが……」
泣きながら、蒼依は両腕を大きく広げた。彼女の要求が何か、車外から見ていた瑠奈にも察することができた。
真紀は迷わず蒼依を抱きしめた。
「蒼依ちゃんは何もしなくていい。あとはわたしに任せて。これからのこと、何も心配しなくていいのよ。全部、わたしがなんとかするからね」
そう言って、真紀は蒼依の頭を何度も優しく撫でた。
担架に遅れて空き地に入ってきた戦闘服姿の恵美に、一人のグレースーツの男が近づいた。瑠奈がまだ見たことのない男だ。水野と同世代に見える彼は、禿頭だった。センサーグラスをかけていないため、眉がないことも見て取れた。
「ご苦労だった。暫定的だが、君たち第一小隊はおれの指揮下に入る」
「了解しました」
疲れているはずの恵美が、凜とした声で返した。
「第二小隊の三つの強襲班が山に入ったばかりだが、さらに第三小隊からも応援が来る予定だ。応援の員数や装備など、詳細はのちほど連絡が入る」
「はい」
「とりあえず、君は休んでいてくれ」
「ありがとうございます」
恵美が一礼すると、禿頭の男は「すぐに戻る」と言い残し、二の鳥居のほうへと歩いていった。二の鳥居の下には、瑠奈たちの護衛についていた三人の戦闘服姿が待機している。
禿頭の男を見送る恵美に瑠奈は近づいた。
「尾崎さん、この付近はもう安全なんでしょうか?」
「幼生が上君畑のどこかに潜んでいる可能性はあるわ。同じく、無貌教の信者が潜伏していることも、考えられる。予断は許されない、ということね。それより……」
恵美は言葉を切ると、瑠奈を見つめた。
次の言葉を待ち、瑠奈は黙して見つめ返す。
「みんなのために行動を起こしてくれて、本当にありがとう」
そう口にした表情に慈しみが現れていた。
「そんな」瑠奈は首を横に振った。「わたしは何もできませんでした。泰輝が頑張っただけです。それに、隼人さんがあんなことに……」
「あなたと泰輝くんが来てくれなければ、儀式は成功してしまったはずよ。それに、儀式の途中であなたが機転を利かせてくれなかったら、どうなっていたことか。蒼依さんが助かったのは、瑠奈さんと泰輝くん……それから、隼人さんのおかげ」
「わたしが化身を挑発したのは、得策ではなかったと思います。だって、それでうまくいっても、隼人さんは化身と交わらなければならなかったんですから」
では何が得策だったのか、それは未だにわからない。瑠奈の機転のおかげで士郎をとらえることができたとしても、時間稼ぎになっただけだろう。
「それでも」と恵美は言った。「瑠奈さんは特機隊のわたし以上に働いてくれた。それは、隼人さんが一番知っているはず」
「はい」
頷いた瑠奈は、思わず涙をこぼしてしまった。
瑠奈の右肩に恵美の左手が置かれた。
「強くなりましょう、お互いに」
恵美にそう声をかけられ、瑠奈はもう一度、頷いた。そして涙を片手でぬぐう。
「わたし、強くなります」
決意を言葉にした。
「瑠奈さんがみんなを守りたかったように、わたしもみんなを守りたい」
諭した恵美は瑠奈の肩から手を離し、ワンボックス車の横に移動した。
頃合いよく真紀が降りてきた。
瑠奈が車中を覗くと、蒼依は横になって目を閉じていた。
「尾崎さん、お疲れ様でした」
真紀は恵美をねぎらった。
「わたしは役に立てませんでした」
軽く頭を下げて、恵美は伝えた。
「隼人くんのことは、悲しくてたまらないわ。でも、あなたが生き延びてくれてよかった。蒼依ちゃんや瑠奈を連れて帰ってきてくれて、感謝してもしきれないくらいよ」
真紀がそう言うと、恵美は「とんでもありません。お気遣いいただき、ありがとうございます」と返し、気持ちを切り替えたように背筋を伸ばした。そして話を続ける。
「水野隊長の件があります。屋敷に戻ったら彼の関与の証拠となるものがないか、調べなければなりません。もちろん、第二小隊隊長の指揮の下で……ですが」
「そうね。わたしも協力するわ」
真紀は首肯した。
「では、さっそく分駐所に連絡を入れます」
恵美は言うと、無線を使うためだろう――もう一台のワンボックス車へと歩いていった。
「お母さん」瑠奈は真紀に顔を向けた。「泰輝が純血だったこと、聞いたよ。それから、一年前の儀式であったことや、お父さんのことも」
「そう……」
真紀は瑠奈の言葉の意味を悟ったらしく、諦念の色を浮かべた。
「でもね、やっぱり泰輝は、わたしにとって自分の子供なの。それは変わらない」
そう言いきった瑠奈に向かって、真紀は頷く。
「あなたらしいわ。……じゃあ、わたしは今までどおり、泰輝には、おばちゃん、って呼んでもらうわね。くれぐれも、おばあちゃん、だなんて呼ばせないように」
真紀の笑顔を見て、ようやく元の世界に戻ってきた、と瑠奈は感じることができた。もっとも、真紀のような笑顔は、当分は作れそうにない。
「わかった。泰輝をちゃんとしつけておく」
「ありがとう」真紀は言う。「さあ、瑠奈は蒼依ちゃんのそばにいてあげて。わたしは尾崎さんと一緒に帰るから」
瑠奈は頷くと、真紀の背後のリアドアからワンボックス車に乗り込んだ。すぐに真紀が、そのドアを閉じてくれる。
瑠奈は二列目の左の背もたれを起こし、そこに座った。
右に横たわる蒼依は、小さな寝息を立てている。
不意に、どこかでカラスが鳴き出した。この夜中にねぐらの近くで騒がれて怒っているのだろうか。
士郎がカラスを自分の配下としていることを、真紀から聞いたことがあった。それを思い出し、背中に緊張が走る。
外の様子を窺うが、特機隊も警戒しているようだ。
ひとしきり鳴いていたカラスだが、しばらくするとその声は聞こえなくなった。
瑠奈はため息をついた。
そして思う。
まだ何も解決していない――と。
士郎は遁走しただけだ。無貌教も壊滅していない。それどころか、無貌教以外にも、蕃神を崇拝する輩は無数に存在するのだ。
気を引き締め直した瑠奈は、蒼依の右手を両手でそっと握った。
蒼依の手は冷えきっていた。それをどうにか温めようと、握る両手に少しだけ力を入れた。
「瑠奈……」
目を閉じたまま、蒼依は囁いた。そして彼女は、すぐに寝息を立てる。
――冷えきったこの手は、わたしが温めるよ。今も、これからも。
蒼依の右手を両手で握りながら――一人の青年の顔を思い浮かべながら、瑠奈は心にそう誓った。 了
うちのお兄ちゃんは闇にさまよう 岬士郎 @sironoji
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