第3話 見えない真相 ①
隼人の車を見送った一也は、玄関先の駐車スペースに父の白いセダンと母の赤い軽自動車を認めると、玄関へは入らず、自宅を背にしておもむろに歩き出した。両親は在宅らしい。日常の会話などする気分ではない。同時に、邪魔の入らない環境でゆっくりと考えをまとめたかった。
『神津山の昔話と伝説』はトートバッグに入れておいた。右手に提げたそれが、なぜか実際以上に重く感じられる。
廃工場での体験を語っていたときの隼人は、どちらかといえば饒舌だった。興奮していたからだろうことは、一也にも理解できた。しかしそんな隼人が、瑠奈と会った直後から寡黙になってしまった。一也の自宅前に車を停めたときも、「あとで電話するよ」と言っただけだった。落ち着けば電話をくれるだろう。そのときまではこちらからは何も尋ねないのが無難だ。
一也は市道沿いの狭い歩道を東へと向かっていた。
薄曇りだが、肌寒さはない。
やがて市道はショッピングモールの北側を過ぎ、南へと直角に向きを変える。そのカーブの真上に渡された陸橋は、神津山南インターチェンジから東へと延びる県道だ。
市道から左に逸れ、常磐線の手前まで延びる袋小路に入った。小学生の頃は、この突き当たりで隼人ら友人たちと遊んだものだ。その遊び仲間には、確かに蒼依と瑠奈もいた。
コンクリート製の図太い橋柱の横に、一台のスクーターがスタンドを立てた状態で停めてあった。その黒い車体とシートの下に貼られたタイヤメーカーの黄色いステッカーには見覚えがある。
思わずスクーターに駆け寄り、目を凝らした。
「間違いない」
飯島の所有車であると確信した。
「何が間違いないんだよ」
男の声がした。
見れば、スクーターのすぐ横、先ほどまでは橋柱の陰になっていた場所に、四人の若い男たちが座り込んでいた。さらに視界に入ったのは、缶ビールや缶ジュース、立ち込める紫煙だ。
「あれえ、佐伯先輩っすよね?」
野球帽を前後逆にかぶったカーゴパンツの男が立ち上がった。先の声はこの男のものらしい。
一也は身構えるが、すぐにその男の名前を思い出す。
「
「そうっすよ。お久しぶりっす」下卑た笑みのその男、石塚
「さっきまで一緒にいたんだ」
答えながら、一也は思った。石塚にとって自分は隼人のおまけにすぎないのだ、と。
石塚は一也の高校時代の後輩であり、一学年下だ。一也にとっては趣味も価値観も通ずるところがまったくない男であり、隼人を介しての顔見知りというだけである。どちらかといえば好きになれないタイプだ。
その当時、隼人と対立していた他校の不良グループが、石塚を初めとする彼のグループに執拗な圧力をかけていた。それを救ったのが隼人だった。そして隼人に諭された石塚たちは、校内外での羽目を外した行為を自粛したのである。
「高校を卒業して以来、空閑先輩と一度も会っていないんですよ。いろいろと世話になったし、顔を合わせる機会があれば、挨拶ぐらいしておきたかったんですわ。まあ、電話では何度か話したんですけどね」
卒業してすぐに市内の町工場で働き始めたという噂は聞いていたが、それなりに社会人としての自覚は備わったのかもしれない。
だが――一也はスクーターを見下ろした。
「隼人には伝えておくよ。それより、これは?」
「ああ……これは……」
言葉を濁した石塚が、仲間のうちの一人に視線を移した。
「おれのっす」
缶ビールを片手にするその男が、あぐらをかいたまま、頷く代わりに顎を軽く突き出した。その男も含め、石塚以外の三人は面識のない者たちである。
「うそだな」
一也はその男を睨んだ。
「なんすか、それ」
その男は眉を寄せた。
「このスクーターはおれの友人のだ」
「おれのだって言ってんじゃん」
缶ビールをコンクリートの地面に置いた男が、すっくと立ち上がった。
男と一也との間に入った石塚が、一也に向かって首を傾げる。
「証拠とか、あるんすか?」
「ナンバープレートの番号を照会すれば、わかるはずだ」
「ていうか、佐伯先輩がこのスクーターを自分の友達のだ、って思ったわけは?」
石塚もグルである、と悟った一也は、憤りを抑えつつ、言葉を選んだ。
「車種と車体色、それからこのステッカーだ」
「盗難届とか、出しているかもよ」
別の男が囁いた。
「盗難届は出していない。でも、その友人はこのスクーターで出かけたきり行方不明なんだ。捜索願は出ている。つまり、警察はこのスクーターをも捜している、っていうことだよ。失踪事件の証拠品としてな」
一也が言うと、石塚たちはおののいた様子で互いの顔を見やった。
「このスクーターが警察に見つかったら」一也は続けた。「ただの窃盗扱いじゃ済まされないぞ。もっと厄介なことになるに違いない」
「だっておれ、行方不明事件になんてかかわっていないし」
スクーターの所有車と言い張った男だが、すでに気勢はそがれていた。
「
石塚がその相沢という男に言った。
「だってよ、やばいじゃん」
そう訴える相沢を、石塚は睨みつける。
「いいから黙れよ」そして石塚は一也に向き直った。「すいません、うそをついていました。三日以上も同じ場所に停めてあったから、捨ててあったんだ、って都合のいいように解釈しちゃったんです。こいつが……石塚がほしいって言うから、いいじゃん、っておれも言ってしまって」
「どこにあったんだ?」
一番知りたかったことを尋ねた。
「神津山南インターチェンジの近くにある廃工場です。あそこの門の前に」
石塚の答えを耳にし、一也は背中に冷たいものが走るのを覚えた。やはり飯島は廃工場に赴いていたのだ。
「警察に届けたほうがいいんですかね?」
諦念の色を浮かべた石塚が、上目遣いに一也を見た。
「いや……」
慎重に答えたかった。たとえ自分の好きなタイプでないとしても、警察沙汰にするに忍びない。それはおそらく、隼人も望まないだろう。
「今すぐにこのスクーターを元の場所に戻してくれ。約束するなら、石塚くんたちの行為は警察に話さない」
「本当っすか?」
石塚の顔に明るさが戻った。
「ナンバーを外してしまえば、問題ないんじゃないかな」
手放すのが惜しいのか、相沢は食い下がった。
「そういう問題じゃないんだよ」一蹴した石塚が、一也に頭を下げた。「佐伯先輩の言うとおりにします。それとできれば、空閑先輩にも内緒にしてほしいんです。あの人、ただ怖いだけじゃなくて、割と厳格だから」
「それは無理だな」
「無理っすか?」
石塚の顔に焦燥が浮かんだ。
「隼人はさっき、そこへ行ったんだよ」
「なんで空閑先輩が?」
「あいつもおれと一緒に、行方不明の学生の消息を追っているんだ。その友人が廃工場に行ったかもしれない、っていう情報をおれが仕入れたところで、隼人が一人でその廃工場に入ったんだ。廃工場の様子はすでに把握している。隼人はスクーターを見ていなかったはずだよ」
「なあ、石塚よ」相沢が石塚に声をかけた。「そのなんとかっていう先輩、そんなに怖いのか?」
「そうだよ。島田さんと戸川さんを黙らせた人だぜ」
「ああ、思い出した。空閑さん……そうだったな」
相沢が驚愕の様子で言うと、残りの二人も得心がいったらしく、体を硬直させた。
「大丈夫だよ。隼人は怒ったりしないさ」そして一也は続ける。「とにかく急いでくれ。おれは隼人に連絡してから、可能であれば彼と一緒に廃工場へ行く。そして、放置された状態のスクーターを確認したうえで、行方不明の飯島のスクーターを見つけた、と警察に報告するかどうか、隼人と相談する」
「はい」
石塚が頷くと、残りの二人も立ち上がった。二人のうちの一人が言う。
「じゃあ石塚、おれんちに寄っていこう。おれの車を出すよ。スクーターの相沢以外は、おれの車に乗ればいい」
「だな。おまえんち、ここから歩いて五分もかからないもんな」
石塚がそう言うと、相沢がこめかみをかいた。
「みんなも一緒に来てくれるのか?」
「おれらもかかわっているんだ。だいいち、おまえ一人で行ったら、帰りの足がないだろう。バスで帰りたいんならかまわないけどよ」そして石塚は、一也に言う。「たぶん、三十分くらいでスクーターを廃工場の前に置けると思います」
「うん。それともう一つ。スクーターはできるだけ藪とか背の高い雑草とかの陰になるように置いてほしいんだ」
一也は念を入れたかった。その思案に得心したように、石塚は頷く。
「目立たなくするんですね」
「そういうこと。置いてあったと思ったら消えていて、また置いてあった……なんて、第三者に口を挟まれる隙を、できるだけ排除したいんだ」
だが一也のその言葉に対して、相沢は不安そうに口を開いた。
「おれたちがそこにスクーターを戻すところを誰かに見られてしまったら? 田んぼばかりだったけど、農家の人がいる可能性があるじゃん」
「人目を避けてするしかないんだって」石塚は言い張った。「車が先行して、廃工場の近くになったら、一人が歩いて様子を見に行く。誰かが近くにいたら、しばらく様子を見るんだ」
「その辺の作戦は、石塚くんに任せるよ」
ことが順調に運ばなければ、石塚たちが厄介ごとに巻き込まれるのだ。慎重に、かつ早急に手を打つことは、一也が口にするまでもない。だが、あの場所は危険である、と認識したばかりだ。
「くれぐれも、廃工場の中には入らないでくれよ」
注意喚起は怠らなかった。
「この状況での不法侵入は、やっぱまずいすか?」
石塚に問われ、一也は慎重に答える。
「そういうこともあるけど、一人の男がいなくなってしまったんだ。彼の失踪が犯罪絡みである可能性もあるんだよ。やばいやつらがいないとも限らない」
一同の顔に緊張が走った。
不安を煽りすぎたかもしれない。やるべきことを彼らが躊躇したのでは元の木阿弥だ。
「工場に入って遊んだことはあるけど、ほかにも誰かがたむろっていた形跡は、確かにありましたからね。気をつけて行きます」
取りなすように石塚は言った。
「ああ。頼むよ」
一也が頷くと、石塚を先頭にした四人がその場をあとにした。相沢はスクーターのエンジンをかけずに押して歩く。
彼らを見送り、一也はコットンジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出した。
気後れはあるが、思いきって隼人に電話をかけた。
隼人は空き地に愛車を停めると、すぐに車から降りた。
「あいつらはもう帰ったのかな?」
尋ねた隼人は、ドアを閉め、廃工場のほうへと歩き出した。腕時計を見て、午後二時半を過ぎたばかりであるのを確認した。
「そうみたいだな」
遅れてドアを閉めた一也が、答えながら隼人に並んだ。
「勝手にことを進めてしまって、悪かった」
車中で繰り返した言葉を、一也はまたしても口にした。
「正しい判断だと思う」隼人は返した。「だから何度も謝るなって。……石塚たちを警察に突き出すのは簡単だけど、そうすれば警察は失踪事件に石塚が関与していると疑うだろうな。つまり、関係ないほうに目を向けてしまうわけだ」
「そうか……そうだな」
一也はうつむき加減だった。
自分のこの動揺が一也の判断を鈍らせているに違いない、と隼人は悟った。自省し、背筋を伸ばして言う。
「一也、自信を持てよ」
「うん、ありがとう」
頷いた一也は、右手の親指で眼鏡のブリッジを上げた。
門の前にたどり着き、二人は足を止めた。
先ほどと変わらぬ光景だった。少なくとも、隼人にはそう感じられた。スクーターが見当たらないのも、先ほどと同じである。
「藪の陰に置いてくれ、って頼んだんだけど」
門の手間の左右に生い茂る雑草に目を配りながら、一也は言った。
隼人は向かって左の藪をかき分けた。
「なさそうだけど」
「おかしいな」
そう返した一也が、向かって右の藪をかき分けた。
見切りをつけた隼人は、倒れている門扉を避けてロープをくぐった。
「まだ来ていないのかな」隼人に続いて敷地に足を踏み入れた一也が、不安げな表情で言った。「事情も事情だし、約束を反故にするとは思えないけど」
門と正面のシャッターとの中間で、隼人は足を止めた。
目を走らせるが、やはりスクーターは見当たらない。
「これ以上は先に行かないほうがいい」
「そうだな」
首肯した一也だが、まだ周囲を見渡していた。
「諦めよう。石塚たちはまだ来ていないんだ」
隼人は言いきり、一也を誘って愛車の場所へと戻った。
「どうする?」
問うた一也は、まるですべての責任を負うかのような色を呈していた。
「電話してみる」
即答し、ナイロンジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出した。幸いにも、石塚の電話番号は登録してある。
電話帳から石塚の連絡先を表示して、タップした。
「さっきのこともあるから、通じるかどうか」
隼人が言った直後に、耳に当てたスマートフォンから、呼び出し音が聞こえた。そして同時に、すぐ近くで明らかに着信音とわかる電子音が放たれる。
一也が傍らの草むらから何かを拾い上げた。それが音の発生源だった。スマートフォンである。
神妙な趣で、一也はそのスマートフォンの画面を隼人に見せた。『空閑』と表示されている。
画面をタップした一也が、スマートフォンを耳に当てた。
隼人のスマートフォンで鳴っていた呼び出しが途切れる。
「もしもし」
一也の声が隼人のスマートフォンから聞こえた。
「どういうことだよ」
つぶやいた隼人は、通話を切った。
一也もそのスマートフォンの通話を切ると、それを隼人に渡した。
「石塚くんのスマホということだよ」
そう告げる一也から目を逸らし、受け取ったスマートフォンを確認した。
画面も背面も傷だらけだった。スリープになったので復帰させるが、パスワードが必要だった。
隼人は一也を見る。
「やつらはここに来た、ということなのか? なあ一也、どう思う?」
「スクーターを持ち出したときに落とした可能性もあるけど、もしスクーターを返しに来たときに落としたとすると……何かあったのかもしれない」
見返す一也が眉を寄せた。
「石塚と一緒にいたのは、相沢だったんだよな?」
二つのスマートフォンを持ったまま、隼人は尋ねた。
「そうだよ」
「そいつ、
隼人が言うと、一也は目を丸くした。
「だったら、石塚くんとは敵対していたわけじゃないか」
「島田は後輩いびりをしていたんだ。相沢のグループは、上級生である島田のグループにいつもぼこぼこにされていた」
「それで、相沢くんは石塚くんと組むようになったわけか」
「おそらく、ほかの三人も神一高の卒業生だろうな」
「そっちのほうの連絡先はわからないのか?」
問われるが、さすがに首を横に振らざるをえなかった。
「直接的な付き合いはなかったんだ……そうか」隼人は一也を見た。「当時の石塚の仲間なら、相沢やそっちのメンバーと連絡が取れるかもしれない」
その言葉に一也は頷く。
「頼みの綱だな」
「ああ」
隼人は石塚のものとおぼしきスマートフォンの電源を切ると、それをジャケットの右ポケットに入れた。そして、自分のスマートフォンに石塚の仲間だった
相手はすぐに電話口に出た。
用件を簡明に伝え、隼人はスマートフォンを内ポケットに戻した。
「連絡がついたら、おれのスマホに直接電話させてくれるそうだ」
隼人たちは、その電話を車の中で待つことにした。
「だめっすね。何度も試したんですけど、石塚と一緒にいたらしい三人の誰とも、連絡が取れませんでした」
電話の向こうで吉田は言った。聞けば、呼び出し音も音声案内もなかったという。
「試しに石塚にも電話してみたんですが、そっちは、電波が届かないか電源が切られている、ってな音声が流れました」
石塚の言葉を聞き、運転席の隼人はジャケットのポケットにあるスマートフォンを意識した。電源は切ったままだ。
「そうか、わかった」
そして簡単に礼を述べ、通話を切った。
「やっぱりだめか」
助手席の一也が言った。
「ああ」と頷いた隼人だが、すぐに首をひねった。「でも、一也と電話が繫がらなかったときとは状況が違うな。一也と繫がらなかったときは、音声案内があった。吉田はおれが持っている石塚のスマホにもかけたらしいが、電源を切ってあるから、やっぱり音声案内はあったそうだ。それなのに、石塚以外の三人のスマホにかけたら、呼び出しも音声案内もなかったらしいんだ」
「意図的に通信を妨害しているんだとしたら、やり口がたまたま違うだけで、同じやつの行為じゃないかな」
一也の意見に隼人は眉を寄せる。
「通話ができないことも誰かのせい、って考えているのか?」
「なら隼人は、偶然の通信障害だと思っているのか?」
そう返され、隼人は言葉に詰まった。
「石塚くんのスマホがここに落ちていたんだ。彼らの身に何か起きた、と考えるのが至極当然だろう」一也は言った。「なら、こんな大それたことをするくらいなんだから、連中にとっては通信妨害を人為的に起こすなんて造作ないことかもしれない。隼人がおれと連絡が取れなかったのだって怪しいよ」
「連中? 複数っていうことかよ」
「当たり前だろう。石塚くんは四人でここに来たはずだ。その四人をどこかへ連れ去るなんて、単独では無理に決まっている」
「まあ……そうだな」
考えるまでもないことだ。いかに自分が冷静さを欠いているのか、隼人は改めて思い知った。
「やっぱり……」一也が助手席側のドアガラスの外を見ながら言った。「おれが余計なことを言わなければ、石塚くんたちが巻き込まれることはなかった」
「それは違うぞ」
とっさに口を開いた隼人に、一也が顔を向ける。
「どう違うんだよ?」
「あのままにしていたら、石塚たちは警察につかまっていたはずだ。窃盗の容疑だけじゃなく、飯島っていう学生の失踪にかかわっている疑いもかけられる。だいたい、人のものを盗んだあいつらが悪いんだろう。一也が責任を感じる必要はない」
「石塚くんは隼人を慕っていたんだぞ。そんな言い方って――」
「石塚は社会人だ」隼人は一也の言葉を遮った。「社会の一員になって、働いて、給料をもらっているんだ。へたにかばうのは、あいつらを大人として認めないことにもなるんじゃないかな」
寸時の間があった。
そして、一也は正面に顔を戻し、うつむいた。
「おれはまだ学生だけど、隼人や石塚くんたちと同じように、責任を持たなきゃならない年齢だ。つまり、自分の言動に無責任でいてはいけないっていうことなんだよ」
「でもな、おれが一也の立場だったら、やっぱり同じことを言ったよ。すぐにそのスクーターを元の場所に戻してこい、ってな。……いや、それだけじゃないな。一発や二発は殴っていただろう」
「暴力だって、社会人としては無責任な行動だよ」
うつむいたまま、一也は言った。
「言えてるな」
そう返し、隼人はフロントガラスの外に目を向けた。
曇り空の下の田園地帯にそよ風が吹いていた。規則正しく並んだ小さな苗が、揃って揺れている。
「石塚たちが姿を消した責任が誰にあるのか、ということが、考えるべき問題ではないはずだ。落ち着いて考えよう」
それは自分に向けての言葉でもあった。
「そうだな。石塚くんたちはどこにいるのか、誰が石塚くんたちを連れ去ったのか、それを考えなくちゃな。それから――」
と言葉を切った一也が、隼人に顔を向けた。
隼人も一也に顔を向ける。
「それから?」
「石塚くんがいなくなったことや、ここに飯島のスクーターがあったことを警察に届けるべきか」
「警察に……それは無理だろう」痛恨の極みで返した。「現にスクーターはどこにもないし、石塚と連絡が取れなくなってまだ間もないんだ」
「だよな。それに、警察に追求されたって、化け物がかかわっている可能性がある、なんて言えるわけがない」
すなわち、やるべきことは決まった、ということだ。
「振り出しに戻ったほうがいいだろうな」
隼人が言うと、一也はトートバッグから『神津山の昔話と伝説』を取り出した。
「なら、これも活用しよう。ネットとは違う情報が得られるかもしれない」
「一也はその本を調べてくれ。おれはネットから情報を集めて、現地を回ってみる」
「何を言っているんだ。それこそ危険じゃないか」
一也は反駁するが、隼人には妥協する余地などなかった。
「おれには、見える、という能力が備わっている。どうしてこんな能力があるのか、それはわからないままだけど、これを使わない手はない」
「特殊な能力があるからって、素人には違わないだろう。おれたちはおれたちにできることをやるべきだ」
「なあ、一也」
隼人は左手を一也の右肩に置いた。議論するつもりはない。これまでの調査で得られたものはほとんどないのだ。時間は有効に使いたかった。
「おれは家族や友達を守りたいんだ」隼人は言った。「今、この神津山では何かが……恐ろしい何かが起こっている。化け物が現れたり、人が姿を消してしまったり。そんな脅威から、おれは家族や友達を守りたいんだ。人には見えない化け物の姿を見ることができる能力があるのなら、おれはそれを使う。そして、前にも言ったけど、地道に手がかりを集めて、そのうえで警察に届けるなり、何かしらの手を考える。行き当たりばったりだけど、それがいいと思う」
黙って聞いていた一也が、ふと、目を逸らした。
隼人は一也の肩から手を離す。
「一也、わかってくれたか?」
「確かに、振り出しに戻る、ということだな。だけど、絶対に深入りしない……これだけは守ってくれよ。化け物を見つけても、近づきすぎない、っていうことだぞ」
「わかったよ」
隼人が首肯すると、一也は『神津山の昔話と伝説』をトートバッグに入れつつ、言う。
「もう誰も犠牲にはしない」
「ああ。誰も犠牲にはしない」
合い言葉のごとく復唱した。
事実、合い言葉にしてもよい、と隼人は思った。
今となっては、これ以上の価値のある言葉はない、という気がした。
一也を彼の自宅まで送り届けた隼人は、自分の自宅へは戻らずショッピングモールの大駐車場へと車を乗り入れた。さすがに三度目に家を出たときは、「お兄ちゃん、何かあったの?」と蒼依に詮索されたのだ。出たなら出たままのほうがよい――そう悟り、隼人は次の行動の準備をすることにした。
店舗付近は車が多かった。空いている端のほうに車を停め、エンジンを切る。
運転席に着いたまま、隼人はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し、吉田に電話した。
「もしもーし」
先方はすぐに電話に出てくれた。
「たびたび悪いな」
「いいっすよ。で、どうしたんです?」
「さっきの話なんだけど、誰かに言ったか?」
「まだ誰にも言っていませんよ」
その答えに安堵しつつ、要件を告げる。
「そうか。あのな吉田、石塚やその仲間らと連絡がつかないこと、誰にも言わないでほしいんだ」
「わかりました。お安いご用です」
「もしかしたら……もしかしたらだけど、警察に何か訊かれるかもしれない。そのときも、しらを切ってくれ」
「ええっ……警察ですか? とりあえずそれも問題ないですけど、えーと、その……何かあったんですか?」
やはり吉田は度を失ったようだ。
「あいつら、どうやらやばいことに巻き込まれたようなんだ。へたなことを口にすると、吉田まで巻き込まれないとも限らない」
うそも方便の気持ちで伝えたが、今の言葉は、事実とも解釈できるだろう。
「そうなんですか……わかりました」
「ごめんな、おれのせいで」
「いいんすよ。別にまだ巻き込まれたわけじゃないし、おれだってやばいのは慣れっこです。それに空閑先輩の力になれてちょとは誇らしい気持ちなんですから」
「よせよ」こそばゆさを感じつつも、隼人は続ける。「ところで、吉田は神津山の都市伝説ってしっているか?」
「知っています……ていうか、それもやばい話ですよね。妖怪が出たとか、神隠しがあったとか」
苦笑する様子が伝わってきた。
「まあ、そんな感じだ」
「あ、でもあれですか、石塚らと連絡が取れないのは、もしかしてその神隠しと関連しているんすかね?」
まずい方向に話が進みそうだった。吉田の想像力を侮っていたらしい。
「ああ……いや、それはわからないけど、石塚と連絡が取れないことで、たまたま今、頭に浮かんだ」
「つまり空閑先輩は関連づけたわけっしょ? なんだかぞくぞくそますね」
「だからな、たぶん関係ないんだ」
少し強めに言ってみた。
「は、はあ。すいません」
効果はあったらしい。申し訳なく感じながらも、隼人は言う。
「まあ、いいよ。でさ、神津山市内の妖怪が出没するポイント……とか、吉田は知っているか?」
「へ?」虚を突かれたような声が返ってきた。「えーと、知っているといえば、知っていますよ」
「そうなのか。教えてもらってもいいかな?」
「は、はあ……」
解せないのだろう。煮えきらない反応だった。
「妹とさ、話が合わなくてな。はやりってものを少しは取り入れろ、だなんて言われてしまったんだ」
「ああ、なるほど。そうですよね、高校生と話を合わせるのは大変でしょう」
そして吉田は、妖怪の出没すると言われている場所を語り出した。
南中之郷駅から田園地帯を一キロほど北上した辺りに小高い丘があった。この丘は、西に広がる山林の東へと張り出した一部であり、ここに造成されたのが波ヶ丘ニュータウンである。
南北に延びる幹線道路を北上した黒い軽トールワゴンは、丘の南側の裾で右折し、田んぼとの間に延びる未舗装路へと入った。そして十メートルほど進んだ辺りで、左端に停車する。
エンジンを切って車外に出た隼人は、ドアをロックするなり道の先へと歩き出した。
歩きながらスマートフォンを取り出し、一也に電話する。
一也は自室で『神津山の昔話と伝説』を読んでいるところだという。
「何か手がかりになりそうなことは見つかったか?」
隼人は尋ねた。
「まだだな。前書きとか凡例も熟読しているから、時間はかかりそうだよ」
「そうか。ところで……」
一瞬のためらいがあった。心配をかけたくなかったのだ。とはいえ、それでは何も進展しない。
「今、波ヶ丘ニュータウンの近くにいるんだ。住宅地の南側……田んぼのへり」
「なんでまたそんなところに? まさか――」
察しがついたらしく、一也は声を詰まらせた。
「そのまさか」
「妖怪か?」
「うん。吉田から情報を仕入れたんだ。いくつかの噂を聞いたんだけど、一番ありえそうな話だったから」
「一番ありえそうな?」
「最近、一人のOLが帰宅途中にここの田んぼ沿いの道でろくろ首のような化け物を目撃したらしい。ほかにも、波ヶ丘ニュータウンと田んぼとの間にある雑木林でろくろ首を目撃した、っていう噂が多いそうなんだ」
「波ヶ丘ニュータウンのろくろ首……そういえば、おれも耳にしたことがあったな。林の中をふらふらと歩いている首の長い女性を見たとか、そいつに追いかけられたとか」
「確かに、波ヶ丘ニュータウンの近くの田んぼに妖怪が出る、って一也は言っていたもんな。割と広まった噂、ということか。ちなみに、波ヶ丘ニュータウンのろくろ首は、『神津山の昔話と伝説』には載っていないのか?」
「昔話に波ヶ丘ニュータウンというのは出てこないよ」
「そりゃそうだけど」
顔から火が出るほど恥ずかしかった。一也はまれに、激しい突っ込みをする。許せる範囲で済むのが毎度だが、今回のように深刻な場面では遠慮してほしい、というのが隼人の本音だ。
「えーと、ろくろ首だな」
電話の向こうで、ページをめくる音がした。人の揚げ足を取りながらも、対応は怠らないのが一也の取り柄だ。
「目次と巻末の一覧を見ているんだけど、今のところ見当たらないな」
四百ページ以上もある本である。数分で目的の記述の有無を認識するのは至難だろう。
「とりあえず、今はいいよ」
隼人は言った。
「そうだな。調べておくよ。で、もうその雑木林に着いたのか?」
「ちょうど、目の前まで来たところ」
答えつつ、足を止めた。
道の左、丘の斜面にへばりつくように雑木林が広がっている。
周囲を見渡すと、幹線道路はそれなりの交通量があるが、少なくとも人影は、どこにもない。
「なあ隼人、さっきも言ったけど……」
「わかっているよ。深入りはしない。そいつが可視状態なら、近づかずに写真を撮ってみる。そこまでやれば、上等だろう?」
「そうだな……うん、それ以上はいらないよ。とにかく、気をつけてくれよな。あとでまた連絡してくれ」
「ああ、わかった。じゃあ、今から探ってみる」
隼人は通話を切ると、スマートフォンをミュートモードにした。それを左手に持ったまま、雑木林へと足を踏み入れる。
下生えが鬱陶しいが、立ち往生を迫られるほど背が高いわけではなかった。落ち葉の絨毯も足を取られるほどではない。躊躇せず、ゆっくりと歩を進めた。
木漏れ日がまばらに落ちている林の中は、静まり返っていた。風はなく、葉ずれもない。
どこか近くで鳥が羽ばたいた。羽音からすると鳩かカラスほどのサイズらしいが、鳴き声がなければ姿も見えない。そして再び、静寂が訪れる。
鼻を突くのは、木々の香り――というよりは、腐葉土のにおいだろう。カビのにおいも入り混じっている。
木々の大半は向かって左の斜面にあるが、傾斜がきつく、そちらに進路を取るのは困難そうである。
においに変化があった。糞尿のにおいが漂っている。
顔をしかめ、足を止めた。
背後に自分以外の足音があった、ような気がした。
不意に、背後から首に腕を回され、右のこめかみに何かを突きつけられた。
その何者かが、耳元で囁く。
「声を出さないで」
女の声だった。
悪臭の元は、背後の何者かではないらしい。代わりにその者からは、香水のにおいが漂っていた。
振り向こうとしたが、首に回された腕がそれを許さない。
目を下に向ければ、首に回されているのはからし色の袖だった。カジュアルジャケットであることが認識できた。
続いて、目を右に向けた。よくは見えないが、こめかみに突きつけられているのは、どうやら小型の拳銃らしい。
「そのまましゃがみなさい」
言われるまま腰を低くすると、相手もそれに合わせた。
両膝を地面につけた隼人は、たまらず口を開く。
「あんた、誰なんだ?」
「声を出さない」女が囁いた。「あれに気づかれるわよ」
「あれ……って?」
正面に目を向け、隼人は息を吞んだ。
半透明の何かが、十メートルほど先の薄暗がりで蠢いていた。
立ち尽くす人、のように見えるが、頭部が地上から三メートル以上の高さにあった。首が異様に長い。
「ろくろ首!」
思わず声を上げてしまった。
首の長いそれに、じわじわと色がついていった。この距離と薄暗さで子細は把握できないが、その変化は体内から表皮へと移っているらしい。一つ目の化け物に色がついていく過程を想起させた。
人間らしさを醸し出しているのは長い黒髪だけだ。蛇のごとく丸い双眼と縦に裂けた口、両手足それぞれの先に並ぶかぎ爪、薄桃色のたるんだ皮膚――全裸であると思われるそれは、隼人の知るろくろ首とは異なる醜い化け物だった。
化け物はこちらに顔を向けていた。
好意――を隼人は感じた。拳銃を突きつけている女からではない。首の長い化け物から放たれている感情である。
「ちっ」と舌打ちした女が、隼人を放すなり立ち上がり、化け物に向かって走り出した。
ショートヘアの女だった。ジャケットにジーンズというルックスである。
遅れて、化け物が女に向かって進み出した。極めて鈍重な動きだ。
ショートヘアの女が足を止め、拳銃を両手で構えた。
好意という感触が強まった。それを放つ化け物は、ショートヘアの女には目もくれていない。明らかに隼人だけを見ている。ショートヘアの女が邪魔なのか、長い首をくねらせ、どうにか隼人を視界に入れようとしていた。
よく見れば、化け物の股間の辺りが濡れていた。なんらかの透明な液体がしたたり落ちている。
隼人の脳に流れ込んでくる感触は、もはや好意を逸脱し、欲情と化していた。逃げ出したかったが、両膝が地面から離れない。
炭酸飲料のプルタブを開けたような音が一度だけ鳴った。どうやら女が銃を撃ったらしい。
化け物の頭部が破裂した。
女が銃を下ろすと同時に、頭部を失った化け物が仰向けに倒れた。胴体に遅れて、長い首がしなりながら横倒しになる。
地面に膝を突いたまま、声も出せずに、隼人はその様子を見守っていた。
振り向いた女が、拳銃をジャケットの内側、左脇の辺りに入れた。ホルスターらしきものが垣間見えた。
収められた拳銃は小型のものだった。アクション映画でよく見かけるグロック17やグロック18に似ていたが、もしそのいずれかだとすると、弾は九ミリパラベラム弾であるはずだ。化け物の頭部がよほど脆弱でない限り、粉々に粉砕できるとは思えない。おまけに、発砲音は小さかったが、サプレッサーを装備しているようには見えなかった。
女はサングラスをかけていた。左右のレンズが一体化したスポーツタイプである。
そのサングラスを、女は外した。切れ長の目をした美しい顔立ちだった。
女はサングラスをたたんでジャケットの内側に入れると、隼人のほうへと歩み出した。
「空閑隼人さん」
隼人の前で立ち止まった女が、見下ろして言った。
「どうしておれの名前を……」
それを口にするだけで精一杯だった。立ち上がることさえできない。
そんな隼人と目の高さを合わせるように、女はしゃがんだ。
「佐伯一也さんに協力してもらって、神津山の都市伝説について調べているわね」
表情を変えずに言葉を紡いだ女が、再びジャケットの内側に右手を入れた。
「一也のことまで」
この女が脅威であるのは間違いない。だが、あらがうすべがなかった。
「もう手を引きなさい。でなければ、あなたはもちろん、一也さんも無事ではいられない。あなたの家族だって」
女のその言葉によって、ようやく隼人は反駁を口にする。
「どういうことだ? わかるように説明しろよ」
「どこから説明しろと?」
聞き返した女が、懐からペンのようなものを取り出した。両端ともドーム状であり、キャップをかぶせてあるように見える。
「どこから、って……最初から、全部だよ」
「全部を知ってしまったら、否応なく処置されるわ」
「処置?」
ペンのようなものの一端に、オレンジ色の明かりが灯った。小さな光だ。
「処置を受けた人間の多くは、元の生活には戻れない。たとえ元の生活に戻れたとしても、記憶の一部を失っている」
女がペンのようなものを逆手に構えた。オレンジ色の小さな光が、隼人に向けられる。
「なんでそんなことを……」
自分が震えているのがわかった。開けてはいけない箱を開けてしまった、という思いにさいなまれた。
「知ってはだめ。知ろうとしてもだめ。家族や友人を大切に思うなら、わたしの言うことを守りなさい」
そして女は、オレンジ色の小さな光を隼人の右の首筋に静かに当てた。
電気が走ったかのような衝撃があり、左手のスマートフォンが、落ち葉の絨毯の上に落ちた。
隼人の意識は闇に包まれた。
仰向けの状態だが、足元が窮屈だった。寝返ろうとしても、足が何かに当たり、姿勢が変えられない。
隼人は目を開けた。
愛車の運転席だった。背もたれが倒されている。
背もたれを起こした隼人は、周囲に目を走らせようとするが、頭痛に襲われてしまう。
十秒ほど目を閉じ、ゆっくりと目を開けた。
丘の裾だった。車の位置は変わっていない。
夢を見ていたのかもしれない、と思ったのは一瞬だった。
ジーンズの膝が汚れていた。地面に膝を突いた証拠だ。
腕時計を見ると、ここに到着してから四十分ほど経過していた。
そして隼人は気づく。
愛車のスマートキーと画面が消灯した状態の隼人のスマートフォンが、助手席に置いてあった。スマートフォンの下には、手のひらサイズの白い紙が一枚、敷いてある。
隼人はその紙を抜き取った。
横書きで三行の文が記されていた。ボールペンによる筆記だ。少なくとも、読みやすい字である。
* * *
言われたことを守ること。
あなたとあなたの家族、あなたのお友達は、いつも監視されている。
お友達にもこのメモを見せなさい。
* * *
「ちくしょう」
隼人は悪態をつくと、その紙を助手席に置き、スマートフォンを取った。スリープモードになっており、それを解除する。さらにミュートを解除し、背面を見てみるが、特に変わった様子はない。
不意に憂いが湧き上がり、ジーンズやジャケットに手を入れて確認する。
自宅の鍵、免許証、財布など、所持品は揃っていた。しかし――。
「やられた」
石塚のスマートフォンがなかった。
ハンドルに両手をかけ、隼人はうなだれた。
――そういえば。
ある事実を思い出し、隼人は顔を上げた。
あの女は、不可視状態の化け物を認識していたのだ。
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