第5話 白い巨獣 ②

 弥生時代、古墳時代、飛鳥時代……と時代は下り、文明が発展するに従って人々の精神文化も大きく変化していった。そして、人々が太古から抱いていた闇に対する恐怖に、さまざまな姿が与えられていった。鬼や天狗といった化け物たちを創造したわけである。異国から入ってきた意匠もあるだろう。あまたの化け物たち――妖怪たちの姿が、日本中に流布されていった。

 そうして醸成された環境は、ハイブリッドたちの獲物となった多くの人々が、食われる直前に、目の前の不定形生命体に既知の妖怪の姿を照らし合わせる、という事態生むことになった。つまりハイブリッドたちは、人間を食うと同時に、恐怖に駆られた獲物が脳裏に浮かべるビジョンとして、妖怪たちのさまざまな姿を受け取ったのである。――妖怪を思い浮かべるほどの恐怖は、格別にうまかったらしい。その味を覚えてしまったハイブリッドたちは、可塑性の体質を活かし、人々の恐怖する姿へと、おのおのが変化していった。

 それらハイブリッドたちに襲われながらも逃げおおせた人々が、自分の目撃した妖怪の姿を吹聴した。そして、人から人へと伝播する過程で風聞の中の妖怪たちは多種多様に変化し、絵画などでビジュアル化された。それに対応するかのごとく、実在するハイブリッドたちも自らの姿をさらに変化させ――といったこのいたちごっこが、長いときの中で幾度となく繰り返された。

 ハイブリッドたちは獲物を狩るときや興奮したときに可視状態となるが、普段は不可視状態だ。また、日中は概ね物陰や山林などに身を潜めている。それが、闇を恐れる人々を知り尽くしているハイブリッドたちならではの狩猟技法だ。ハイブリッドたちは例の悪臭を放っているため、彼らの接近を察知することは可能である。しかし、糞尿や生ゴミなど悪臭の原因となりそうなものは、人々の生活圏内にいくらでもあった。よって、人々が悪臭を「脅威の知らせ」とするまでには至らなかったのである。

 またハイブリッドは、不可視状態にある他のハイブリッドの姿を見ることができれば、遠隔地にいるハイブリッドとの思念伝達も可能だ。そういった能力を活かしたハイブリッドたちも存在した。二体以上のハイブリッドがそれぞれの縄張りを越境し、共同で狩りをしたのだ。

 しかし市井の夜に灯火があふれると、人々は次第に闇を恐れなくなり、ハイブリッドが身を潜める場所が減ってしまった。そのため、時代が下るにつれて、文明が発展するにつれて、ハイブリッドたちが人間を捕獲するのは容易ではなくなったのである。ハイブリッドたちは再び自然界の動物を捕食するようになり、人々の前に姿を現すのは希になった。

 ハイブリッドは日本だけでなく、中国やヨーロッパ諸国、エジプトなど、世界各地で誕生していた。土地によって術者の執りおこなう儀式や呪法は異なれど、すべてのハイブリッドは、降臨した蕃神と人間とが交接したことによって産み落とされたのである。そして日本の例と同じく、ハイブリッドを魔術によって使役していた術者たちは、長い年月のうちに衰え、やがて滅んでしまった。主を失ったハイブリッドたちは食料を求めて散り散りとなり、各地方の文化の中で個体ごとに独特の進化を遂げ、民間伝承に登場する化け物として人々に認知されていったのである。そしてやはり、寿命のないはずのハイブリッドたちが日本以外の土地でも気配を消してしまった。

 ところが――。


「八年前のあの事故が、ハイブリッドたちを再びこの地へといざなったんだよ」

 隼人がそう言うと、蒼依は眉を寄せた。

「八年前の事故って、原発――」

「あの事故はやっぱり無関係じゃなかった、ということだな」そして隼人は、疲れきった目で瑠奈を見た。「頭が混乱していて、これ以上はうまく伝えられない。さっき聞いたばかりのことだけど、中身が濃すぎて覚えきれていないんだ。ハイブリッドの父親である蕃神たちのこと……瑠奈ちゃんから話してくれないか?」

「はい」瑠奈は頷き、蒼依に顔を向ける。「あの事故で大気中に放出された大量の放射性セシウムが神津山の山間部の土壌を汚染したこと……蒼依も知っているよね?」

「うん」と即答したが、声に力が入らなかった。遠い世界の出来事のように感じられた話が、ここでまた身近な問題となって迫ってきたのだから。

「自然界としては異常に高い線量が、散らばっていたハイブリッドたちをこの地に呼び寄せたの」

 瑠奈は言うが、蒼依にはまだ理解できない。

「ハイブリッドは、放射性物質が好きなの?」

「好きとか嫌いとか、そういう問題じゃないの。彼らは放射線の影響なんてたいして受けないんだけれど、自分たちの始祖の降臨を意識したのよ」

「始祖というと、ハイブリッドたちの……父方の先祖?」

「そういうことになるね。ハイブリッドに限らず、すべての幼生の始祖となるその一柱は、多くの蕃神にとっても始祖ということになるの。始祖なんだけれど、今でも存在しているんだよ。純血の幼生やハイブリッドと変わらず、寿命がないからね」

「始祖に放射性物質が関係しているの? 始祖は放射性物質の中で生きている、とか?」

「放射性物質の中……というか、始祖を含め、蕃神の多くは、時空を超越した究極の混沌の中心、と呼ばれている空間で、不定形の体を永遠にくねらせて――」

「ちょっと待って」蒼依は口を挟んだ。「究極の混沌の中心……って、どこにあるの?」

「わたしにもわからない。時空を超越しているんだから、この宇宙空間ではないんじゃないかな。時空連続体の外側にあるさらなる高次元の空間、とかね。量子力学的な話になっちゃうけれど」

「えーと……ごめん、よくわかんない」

 何もかもが重要に思えたが、すべてを理解するには途方もない時間を要するだろう。羞恥を覚えつつ、蒼依は瑠奈に「本題に戻って」と促した。

「じゃあ、続けるね」瑠奈は言った。「時空を超越した究極の混沌の中心で身をくねらせている万物の王……盲目にして知遇の神は、放射性物質と深いかかわりを持っているの。始祖自身が放射性物質なのか、もしくは始祖の性質が放射性物質を好むものなのか、それは定かでないけれど、始祖を召喚する儀式に多量の核分裂性物質が必要なのよ。だから、この土地に大量の放射性セシウムが付着したことによって、ハイブリッドたちは、始祖が降臨する、と勘違いしたの」

「でもその始祖って降臨しなかったんでしょう?」

 蒼依の質問を受けて瑠奈は神妙な趣を呈する。

「降臨していたら……神津山市はおろか、日本全土が壊滅していたよ」

「え……」

 言葉が見つからなかった。

「始祖がその気になれば地球くらい破壊できる、っておばさんは言っていたな」

 隼人が言うと瑠奈は頷いた。

「そのとおりです。世界中の軍隊が束になってもかなわないでしょう」

 漠然としていた。何をどのように想像すればよいのか、蒼依にはわからない。だが、始祖の降臨が人類を滅亡へと導く、ということだけは理解した。そして問う。

「ハイブリッドたちは始祖の降臨を心待ちにしているのかな?」

「ううん」瑠奈は首を横に振った。「始祖はね、蕃神たちや幼生たちから恐れられているの。つまり、ハイブリッドたちも自分たちの始祖を恐れている、っていうことよ。万物の王……始祖の怒りにふれないよう、ハイブリッドたちは出迎えの態勢に入っただけなの」

「ハイブリッドたちは始祖を恐れるあまり神津山に集まってきた、っていうことだよね。なら、放射性物質が付着したほかの土地にハイブリッドは集まらなかったのかな? 神津山が結界だっていうことが、何か関係しているの?」

 蒼依のその疑問に瑠奈は答える。

「というか……例の一族が蕃神たちを召喚した土地だから、かな。ここは蕃神たちが降臨するための土地、とハイブリッドの脳にインプットされているのかもしない」

「そうか……それに加えて線量まで上がっちゃったんだもんね。でも、神津山の今の線量はかなり下がっているよ。始祖だって降臨していないし。それなのに、ハイブリッドたちがいつまでも神津山に居座っているだなんて」

「ハイブリッドたちがこの土地に居座り続けているのは、隼人さんがふれたように、結界内の居心地がいいからよ」そして瑠奈は言い添える。「神津山に集まってきたハイブリッドの中には、日本の他所か海外のどこか……この土地以外で生まれた個体も交じっているらしいの。どの土地で生まれようと、ハイブリッドは始祖の降臨に対して敏感みたいだし、自分の生誕地以外であろうと結界内なら居心地がいいみたいね。それに現在の神津山で確認されている個体数は五十体くらいだから、飽和状態ではないのよ」

 つまり、始祖の降臨はなくても、ここ神津山において、ハイブリッドの脅威はこの先も続くということだ。

 蒼依は言う。

「なら、神津山から出ていかないかもね」

「そうだね。だから特機隊はここにいるの。ハイブリッドの数が減った要因の一つは、あの人たちの活躍のおかげね。でもハイブリッドたちは、神津山の外にもまだまだ散らばっているのよ。日本全国……世界中にね。総数は、それこそ把握しきれていない。そして、それらハイブリッドたちを利用するいくつもの邪教集団が、世界中で暗躍している」

「ハイブリッドたちを使って、テロみたいなことをするとか?」

「そういう感じかな。一カ月くらい前に中国の奥地で村が一つ壊滅したんだけれど、どうやら邪教集団の一つがハイブリッドを使ったみたいなの」

「ひどい」と蒼依は漏らした。

「当然、中国でもハイブリッドの存在は公にされていない。中国政府に反抗する組織が起こしたテロ事件、とされているのよ」

 ため息をついて口を閉じたのは、話を終わらせる合図だったらしい。指示を仰ぐかのごとく、瑠奈は隼人を見た。

「ありがとう」隼人は礼を述べた。「でも最後の部分……中国の奥地で村が壊滅した事件について、おばさんは何も話していなかったけど、おれたちに聞かせちゃっていいの?」

「特機隊に知られない限り、大丈夫です」

 恬然とした態度で瑠奈は答えた。

「わかった」と返した隼人が、ふと、室内を見回した。ハイブリッドでも潜んでいるのだろうか、と蒼依は固唾を吞む。もっとも、隼人の表情はそれほど深刻そうでもない。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「特機隊が盗聴器や盗撮カメラを仕掛けているかもしれない、って気になったんだ」

「大丈夫です」瑠奈の表情が緩んだ。「あのお母さんでさえ、特機隊を全面的に信じているわけじゃないんです。盗聴器や盗撮カメラが仕掛けられていないか、藤堂さんに毎日欠かさず敷地内の隅から隅まで調べてもらっているんですよ。お父さんと藤堂さんが前もって敷地内のあちこちに設置しておいた監視カメラは別として、今のところ、盗聴器や盗撮カメラは一つも仕掛けられていないようです。録音機の類いも見つかっていません」

「まさか、藤堂さんが一人で調べているのか?」

 隼人は尋ねた。

「はい、ちゃんと発見器を使っているんですよ。……そうそう、盗聴器や盗撮カメラはいいとして、わたしとお母さん、藤堂さん、この三人のスマホなんて、通話やメール、ネットの閲覧履歴、掲示板の書き込み……メッセージアプリまでもが、特機隊に傍受されているんです。あと、うちの固定電話も傍受されていますね」

「なるほど」隼人は頷いた。「上君畑の現場で瑠奈ちゃんが水野さんと話していたのは、そういうことなんだな」

 美羅たちが食い殺されてからの蒼依の記憶は曖昧だ。そんな会話があったことなど覚えていない。

「盗聴だなんて」顔をしかめた蒼依は、ふと、背筋に冷たいものを感じた。「あたしとお兄ちゃんのスマホ、特機隊に取り上げられちゃったんだよ。それってまさか、傍受するための準備をしているとか?」

「二人のスマホ、もしかすると、取り上げられる前に傍受されていたかもしれないよ。スマホ自体はすぐに返してもらえると思うけれど、当分の間、スマホを使うのは我慢したほうがいい。特機隊の盗聴アプリは簡単にはアンインストールできないの」

 瑠奈に助言された蒼依は、ますます気が重くなり、肩を落とす。

「ほとぼりが冷めるまでは、うちの固定電話を使うのも気をつけないとな」隼人は蒼依にそう告げると、瑠奈に顔を向けた。「どうりで瑠奈ちゃんがスマホを使いたがらないわけだ。それにしても、外部とのやり取りを傍受されているんじゃ、盗聴器を仕掛けられているのと変わらないよ。おばさんが特機隊の会話を盗聴してやればいいのに、っておれは思ってしまうな」

「お母さんは、逆に盗聴してやろう、とは思っていないようです。ですから、うちの敷地内に盗聴器や盗撮カメラは一つもないことになります。特機隊もお母さんも、ここでのわたしたちの様子を知ることはできない、ということです。あ、でも、家政婦には気をつけてください」

「どうして?」と蒼依は問う。

「うちには二人の家政婦がいるんだけれど、二人とも特機隊の隊員なの」

「家政婦さんも?」

 啞然とする蒼依に、瑠奈は付け加える。

「家政婦は二人とも、藤堂さんと同じく本宅に寝泊まりしているの。でもわたしは、あの二人にはできるだけ話しかけないようにしている。尾崎さんと違って、なんとなく近寄りがたくて」

「そうだったのか」隼人は言った。「でも、ここで会話するぶんには心配ないだろう」

「あ……」不意に、瑠奈が顔を強張らせた。「盗聴や盗撮の件はオフレコですよ。藤堂さんが発見器で調べているだなんて、特機隊の人たちには隠しているんです。もしかすると、特機隊の人たちはとっくに気づいているのかもしれないけれど」

「わかった。大好きな瑠奈のためだもん、聞かなかったことにするね」

 いつもの調子で言おうとしたが、重い口調になってしまった。「大好き」の部分が嫌味に聞こえたかもしれない、と蒼依は自省する。

「特機隊の人たちだけじゃなく、お母さんと藤堂さんにも、言わないでね」

 顔を紅潮させた瑠奈に嫌味と受け取った様子はなかった。

 ――こんな素直な子に、あたしはひどいことをしていたんだ。

 自分の情けなさを再認識した蒼依は、ふと、隼人にプレゼントした手編みのマフラーを思い出した。

 瑠奈の趣味は読書や手芸といった文化系のものが多い。蒼依が隼人にプレゼントした手編みのマフラーは、二年ほど前にそんな瑠奈の手ほどきを受けて、蒼依が自分用として遊び半分で編んでいたものだ。当時は作業がはかどらず、途中で放棄したが、隼人の今年の誕生日に間に合うように、あのときの手ほどきを活かしながら、一カ月をかけて一人で仕上げたのである。まだ見ぬ彼氏のために練習したというのは照れ隠しであり、隼人のプレゼントというのも半ばこじつけだ。瑠奈の手ほどきを受けたマフラーを完成させたい、というのが本心だった。

 ――瑠奈と一緒にまた編み物ができるといいな。

 そんなときが来るのか否か、蒼依は計りかねていた。


 隼人がリビングのソファにかけたまま呆然と見つめているのは、レトロ調の振り子時計だった。それが指し示す時刻は、午後十時三十七分だ。自分の腕時計も、変わらぬ時刻を指している。話を終えてから三十分以上は経過していた。

 掛け時計の音以外は何も聞こえなかった。気持ちを落ち着かせるにはちょうどよい環境かもしれない。とはいえ、心の渦はまだ鎮まりそうになかった。

 話を終えてすぐに風呂を借りたが、用意されていた着替えには手をつけなかった。ここに来たときの服装のままである。パジャマで熟睡する、などというつもりはない。あの惨劇を目の当たりにしただけでなく、常軌を逸する真相を知ってしまったのだから。

 一方の蒼依は、話が済んで五分と経たずに眠気を訴え、二階の寝室に引っ込んでしまった。だが一人は怖いとのことで、彼女は瑠奈に添い寝を請うた。瑠奈はそれを予測していたらしく、嫌な顔一つせず、蒼依とともに二階へと上がっていった。

 突然のノックがあった。

 隼人が「はい」と答えると、ドアを開けて瑠奈が入ってきた。

「まさかとは思って覗いてみたんですが、やっぱり起きていたんですね。尾崎さんはあれっきり戻ってこないんですか?」

 閉じたドアを背にして、瑠奈は隼人に顔を向けた。

「ああ、戻ってこないな」

「そうですか。……隼人さんはまだ休まないんですか?」

「どうにも落ち着かなくてさ。蒼依は?」

「ぐっすり眠っています。よほど疲れたんでしょう」

 瑠奈は立ったまま答えた。

「そうか」と頷いて隼人は尋ねる。「瑠奈ちゃんは大丈夫なのか?」

「少し疲れました。明日、わたしは学校へ行きます。ですから、自分の部屋に戻って休みますね。蒼依のためにも、明日の授業ではきちんとノートを取らなくちゃ」

「瑠奈ちゃんは学校へ行くのか。あんまり無理するなよ」

 と言ってみたものの、日常に戻れる瑠奈に羨望の念を覚えた。

「気遣っていただいて、ありがとうございます」

「こっちこそ、いろいろとありがとう。蒼依のこと、これからもよろしく頼むよ」

「はい」と答えた瑠奈が、思案顔を見せた。「お母さんから聞いた話って、わたしが補足した箇所も含めて、あれで全部だったんですか?」

「ああ、そうさ」

 動揺が表れなかったか、と隼人は案じた。

 しかし、瑠奈は納得したように頷き、ドアノブに手をかける。

「わかりました。隼人さんも無理しないでくださいね。じゃあ、お休みなさい」

 隼人が「お休み」と返して片手を軽く振ると、瑠奈はリビングを出ていった。

 確かに無理は禁物である。眠れそうにないが、横になるだけでも疲労は軽減するに違いない。とりあえず寝室に行こう、と思い、隼人は腰を上げた。

 玄関のほうでドアの閉じる音がした。瑠奈が出ていったらしい。恵美が戻ってきた可能性もある。

 隼人はリビングの照明を消して廊下に出た。すぐ目の前の玄関はしんと静まり返っており、恵美が戻ってきた様子はない。瑠奈が出ていった事実を知るだけだった。

 一階も二階も、廊下や玄関ホールは照明を点けたままだ。恵美が伝えてくれたここで過ごすための心得では、風呂や洗面所やトイレを含む各部屋以外の照明の点灯と消灯は、彼女の判断でなされることになっている。概ね、夜は照明を点けたままらしい。

 玄関の鍵をかける気遣いも無用とのことだった。鍵をかけないのは、本宅やもう一棟の別宅も同様らしい。特機隊の隊員たちが敷地内の随所で警備に就いているため、施錠の必要はないのだという。万が一の事態に特機隊の隊員が各建物に素早く出入りできるようにしているためでもあるらしい。

 トイレに行き、洗面所でうがいをしてから、隼人は二階へと上がった。階段を上がりきって正面の部屋が隼人に宛がわれた寝室だ。その左隣、南側にあるのが、蒼依の寝室である。右にはあと一つの部屋があるが、今は物置として使われているらしい。

 妙な胸騒ぎを覚えたのは、自分の寝室の前に立ったときだった。ドアノブを握ったまま、右に顔を向ける。廊下の突き当たりに、カーテンのない中窓があった。北向きの窓だ。

 隼人は物置代わりの部屋の前を通り過ぎ、北側の突き当たりで立ち止まった。廊下の照明のおかげで自分の姿が窓ガラスに反射し、外の様子は見えにくい。だが、窓ガラスにふれんばかりに顔を近づけると、うまい具合に明かりを遮ることができた。

 疎林が宵闇の裏庭に広がっており、コンクリートの小道がその奥へと延びていた。前庭ほどの明るさはないが、かろうじて届くガーデンライトの光によって、その様子はどうにか視認できる。この別宅から漏れる明かりも、わずかながら力添えになっているようだ。

 視線を東に移すと、もう一棟の別宅が木立の向こうに見えた。一階の窓の一つから皓々とした明かりが漏れている。

 この中窓の真下から北へ三、四メートルの位置に、一人のグレースーツの男が立っていた。東の別宅のほうを向いており、センサーグラスをかけている。警備を担っている隊員らしい。いくら隼人が天井灯の明かりに照らされているとはいえ、この位置関係では男が思いきり顔を上げない限り気づかれることはないだろう。

 瑠奈によれば、立哨は各隊員が二時間で交代する二十四時間体制なのだという。非常事態などよほどの理由がない限り続行されるわけだ。悪天候の場合は雨合羽を着てまで立哨に就くというが、隼人はそんな特機隊隊員たちを殊勝だと思った。

 不意に、その男がこの別宅のほうに体を向けた。しかし隼人は、特機隊に臆する必要などない、という信念があるからこそ、身じろぎ一つせず男を見下ろし続けた。

 注意深く目すると、男は顔を上げていなかった。その状態でこちらを見据えているとすれば、かなりの上目遣いである。もっとも彼はもっとも彼はセンサーグラスをかけているため、その目がどこに向けられているのか、判然としない。

 どうやら男が見ていたのは、そこへと近づく何者かだったらしい。隼人は思わず目を瞠った。男の前で立ち止まったその後ろ姿は、紛れもなく瑠奈のものである。

 瑠奈は男に何やら話しかけた。頷いた男は、躊躇することなく東側の別宅のほうへと立ち去ってしまう。

 胸の高鳴りを鎮めつつ、瑠奈の挙動を見守る。

 瑠奈は男を見送ると、疎林に向かって歩き出した。同時に、彼女の進む先――疎林の中から、巨大な何かがのそりと姿を現す。

「瑠奈ちゃん!」

 防音効果なのか、隼人の上げた声は届かなかったらしい。瑠奈は歩調を緩めることなく、巨大な何かに近づいていく。その巨大な何かは半透明であるが、瑠奈がその存在に気づいているのか否か、隼人にはわからない。

 矢も楯もたまらず、隼人は窓を開けようとした。

 半透明の体に色がついたのは、そのときだった。白い体毛に覆われた四つ足の巨獣が、瑠奈の行く手に姿を現したのだ。しかし、可視化したはずの白い巨獣に向かって、瑠奈は走り出す。

 隼人はスライド式の窓を開け放った。そして、言葉を失う。雑木林の手前の暗がりで、瑠奈が巨獣の首に抱きついたのだ。

 白い巨獣は背中に一対の翼を有し、両耳の先端が異様に長かった。上君畑の雑木林にじっと潜んでいたあの化け物に違いない。

 隼人の鼻をバニラのような香りがくすぐった。

 窓を開けた音に気づいたのだろう。巨獣の首を抱き締めたまま、瑠奈がこちらに顔を向けた。

 巨獣も肉食哺乳類のような顔をこちらに向けた。イタチに似ているかもしれない。赤一色の眼球が、らんらんと輝いている。

「どういうことなんだ……」

 やっとの思いで口にした言葉だった。

 瑠奈は気まずそうに隼人から目を逸らすと、抱き締めていた長い首を解放した。そして、長い首の先端に位置する頭を優しく撫でる。巨獣は心地よさそうに目を細めた。

 眼下の光景が何を意味するのか、隼人には想像もつかない。ただ、白い巨獣は雄である、ということだけはわかった。性器を確認したわけではなく、本能でそう判断した。

 不可視状態にある幼生の姿を視認する能力、幼生の気配を察知する能力、幼生の雌雄を見分ける能力、これら三つのすべて、もしくはいずれかを有すれば見鬼けんきと見なされる。真紀によれば隼人はその見鬼なのだという。相手が幼生であれば、純血やハイブリッドを問わずその能力を発揮できるらしいが、隼人はこの巨獣が幼生であるという確信を持てなかった。能力がまだ完全に開花していないのかもしれない。

 巨獣が首をもたげた。それだけでも頭の位置は地面から三メートル以上はあるだろう。

 ほんの数秒、アマガエルの鳴き声に似た音が聞こえた。巨獣が喉を鳴らしたらしい。

 何が始まるのか、と隼人は息を吞んだ。

 巨獣は頭を低くすると、瑠奈に尾を向け、雑木林のほうへと歩き出した。一歩一歩、悠々と足を進めている。

 まじまじと眺めていた隼人は、「彼」の後ろ足の足先が蹄であることに気づいた。もう一度確認するが、蹄は後ろ足だけに付属しており、前足が有しているのは鉤爪だ。そのうえ全体のシルエットが哺乳類とドラゴンの特徴を兼ね備えているのだから異様極まりない。

 こんな姿の妖怪など隼人は知らなかった。そもそも妖怪に興味がなかったのだから、知らなくて当然だ。海外の妖怪の姿を模倣している可能性も否めないが、スマートフォンを使えないのではインターネットでそれを確かめることもできない。

 もっとも、原型となった妖怪の姿を知ったところで、なんの役にも立たないだろう。人々の恐怖する姿は時代とともに複雑怪奇な意匠へと発展する。それに比例して、ハイブリッドの姿も常に変化するのだ。上君畑に現れた鬼の下半身が昆虫然としていたように。

 そう、白い巨獣の容姿がどうであろうと脅威の大小に差し響きはない。瑠奈とハイブリッドらしき異形が仲むつまじくしている現状が問題なのだ。

 瑠奈と水野が口にしていた「彼」とは、この巨獣のことに違いない。それを確信すると同時に、担がれているような気持ちが湧き上がった。瑠奈はこの巨獣を「タイキ」と呼んでいたではないか。あの泰輝という少年との関連がないわけがない。

 隼人が黙して見ていると、巨獣は反動をつけて飛び上がった。それは跳躍ではなく、飛翔だったようだ。四肢を折りたたんだ白い巨軀は、翼を閉じたまま、地面に落下することなく上昇していく。

 不意に、白い姿が半透明――不可視状態となった。高度を上げ続けるそれを、隼人はすぐに見失ってしまう。見失う直前に、それがようやく羽ばたいたことを、見て取った。

 視線を下ろすと、瑠奈がやはり星空を見上げていた。そして彼女は悲しそうな目で隼人を一瞥し、本宅のほうへと歩き出す。

「瑠奈ちゃん!」と呼びかけたが、次の言葉が頭に浮かばない。

 瑠奈は振り向くことなく足早に歩を進め、隼人の視界の外に消えた。

 甘い香りが次第に薄くなっていく。

 もう一度、夜空に目を向けた。

 星のまたたきが隼人を見下ろしている。

 静かに窓を閉じ、うつむいた。

 思いが錯綜していた。子供の頃からの顔見知りが、遠い存在になってしまったかのようだった。

 誰を信じればよいのか、もうわからない。自分にとって仲間とは誰なのか。

 ――仲間?

 不意に行人と一也の顔が浮かんだ。

 ――もしかすると、おやじと一也はおれに連絡を取ろうとしたかもしれない。

 とはいえ、隼人の手元にスマートフォンはないのだ。こちらから連絡することも不可能である。

 真紀や瑠奈からは事実を伝えられたはずだが、未だに何もかもが胡乱だ。そのうえ、何もかもが束縛されている。

「ちくしょう」

 小声で己の状況を罵倒し、右手のこぶしを窓ガラスにそっと当てた。

 立哨の男が元の位置に戻ってきた。そしてセンサーグラスの顔を隼人に向けるが、すぐに背中を向けてしまう。

 隼人が二度も声を立てたにもかかわらず、蒼依が起きてくる様子はなかった。

 宵闇の中の疎林が沈黙を守り続けていた。


 人の気配を感じて目を覚ました。

 カーテンの向こうに陽光はない。夜明けはまだらしい。

 何か夢を見ていたような気がした。悪夢だったのか瑞夢ずいむだったのかは、思い出せない。

「空閑隼人、起きろ」

 押し殺した声だった。男の声である。

 それを受けて、神宮司家の別宅に宿泊していることを、隼人はようやく思い出した。

「誰だよ?」

 ベッドの上で上半身を起こしつつ、隼人は問うた。寝起きの声は自分でも幻滅するほど間延びした低い声だった。

 どうせ特機隊の隊員だろう――そう思いつつ、隼人は目を凝らした。

 ドアは半開きだった。そのドアの隙間から入り込むわずかな光だけで、状況は把握できた。

 室内に三人ぶんの人影があった。

 ベッドの足元に立つのは、やせぎすの中年男だ。作業帽に作業服という姿である。彼の足元を見れば、運動靴を履いているではないか。

「土足でいいのかよ?」と突っ込みを入れそうになるのをこらえて視線をずらすと、その斜め後ろに立っているのが蒼依であると知った。

 パジャマ姿の蒼依は、どうやら身動きを封じられているらしい。両腕は後ろ手にした状態であり、よく見れば手首を紐で拘束されているのだった。体を小刻みに震わせ、涙を浮かべた目で隼人を見ている。

 蒼依を後ろからとらえているのは、中肉中背の若い男だった。やはり作業帽に作業服であり、右肩にはショルダーバッグを提げている。彼は左腕を蒼依の首に回し、右手に持つナイフを彼女の顔に突きつけていた。

「おまえら!」

 声を上げた隼人は、ベッドから飛び起きた。

「静かにしろ」

 中年男が隼人の胸に向けてナイフを突き出した。

 足を止めざるをえなかった。

 二人の男の作業服は灰白色であり、処理班のものとは明らかに違う。

「おまえら、誰なんだ?」

 身動きができぬまま、隼人は中年男を睨んだ。

「声を出すな。妹の顔をピザみたいに切り分けられたくなかったらな」

 どこにでもいそうなありふれた顔の中年男が、抑揚をつけずに言った。


 別宅の裏口から隼人と蒼依は連れ出された。ご丁寧にも、二人はそれぞれ自分の靴を宛がわれた。とはいえ、兄妹のどちらも、上着を着用することまでは許されなかった。

 外に出た隼人は、すぐに訝しんだ。立哨に就いていたはずの男の姿が見えない。

 空気は乾いていた。ロングTシャツではわずかに肌寒さを感じる。パジャマの蒼依に至っては、恐怖のためも相俟ってか、肩をすぼめていた。

 蒼依のように両手首を後ろ手に縛られた隼人は、中年男に押されるまま、疎林に向かって先頭を歩いた。後ろから隼人の首に左腕を回している中年男は、ときおり右手のナイフをちらつかせ、隼人を威嚇した。

 そのあとに続く一方の蒼依は、先ほどから変わらず若い男に拘束されたままだ。隼人の耳に、蒼依の嗚咽が届いた。

 疎林の手前の植え込みから、何かが出ていた。地面に横たわる二本の足――黒靴にグレースーツのボトムだ。

 植え込みの横に差しかかるなり、隼人は歩きながらそれを見た。鬱蒼とした灌木の陰に仰向けに倒れているのは、立哨に就いていた男だった。

 それを見たのだろう蒼依が「ひっ」と声を漏らした。

 隼人は目だけで周囲を見渡した。監視カメラがあるはずだが、この暗がりではそれを見定めることなど不可能だ。

 ――特機隊は誰も気づかないのかよ。

 あらがうすべもなく、ただ唇を嚙み締めた。

 やがて四人は疎林の中の小道を抜け、敷地の外れに至った。

 白い塀が立ち塞がっている。

 小道の突き当たりに小さな門があった。観音開きの扉がぴたりと閉ざされている。

 足を止めた中年男が、隼人の首に回したほうの手にナイフを持ち替え、空いた右手で門扉を開けた。鍵は外されていたらしい。

 中年男の体に押され、隼人は裏門から敷地の外に出た。

 不意に立ち止まらされた隼人は、振り向いた。

 蒼依が若い男に押されて裏門をくぐった。そして若い男もナイフを左手に持ち替えると、右手で門扉をそっと閉じた。

 裏門の外にも塀伝いに狭い舗装路があった。もっとも、その舗装路を挟んだ敷地の反対側は、雑木林に覆われた山である。

「急げ。早くしないと、あいつが戻ってきてしまう」

 中年男が小声で若い男に言った。

「はい」

 若い男が答えると同時に、中年男はまたしても隼人を背後から押し出した。

 進行方向は裏門から出て左右のどちらでもなかった。塀沿いの舗装路は完全に無視されている。中年男の誘導する先は、目の前の鬱蒼とした雑木林だ。

 四人は雑木林の下生えに突入した。緩やかな上りの傾斜だ。夜露が容赦なく下半身にまとわりついてくる。

 後方の足音からすると、パジャマの蒼依はけなげについてきているらしい。

 そして周囲は漆黒の闇に包まれた――と思いきや、前方がほんのりと明るい。

 進むとともに下生えはすぐになくなり、落ち葉の堆積する大地となった。

 木立の開けた場所に出た。

 二十メートル四方ほどの草地の真ん中で、隼人は停止を余儀なくされた。

 明かりの出どころが頭上にあった。

 巨大な月、と見紛う存在は、虹色に輝く直径五メートル前後の球体だった。球体の底は地面から十メートルほどの高さに位置している。

 隼人の左に蒼依が並んだ。頭上の球体を見上げた彼女は、憂いをたたえた目を隼人に向ける。

「お兄ちゃん……」

「おれは、前にもあれを見ている」

「知っているの?」

「いや……」

 見ただけなのだ。正体が何かなど、説明できるはずがない。

 とたんに、隼人は後ろから体を揺さぶられた。

「黙っていろ」

 中年男が耳元で囁いた。

 正面に向き直った蒼依が、「ごめんなさい」とつぶやき、蒼白の顔をすまなそうにうつむかせた。自分が声をかけたことで隼人が恫喝された、とでも思っているらしい。

 舌打ちしそうになるのをこらえ、隼人は唇を嚙み締めた。蒼依に何も声をかけてやれないのが口惜しい。

 隼人の鼻腔にアルコール臭が入り込んだ。

 気づけば、周囲に白い霧が漂っている。

「よく吸い込んでおけよ」

 中年男が言った。

 意味がわからず眉を寄せた隼人は、霧が頭上から降りそそいでいることに気づいた。

 見上げれば、霧は虹色の球体の底から音もなく勢いよく噴き出していた。まるで、流れ落ちる滝である。

 隣の蒼依も見上げていた。恐怖にとらわれているというより、その異様な現象の虜になっているかのようだった。

「死にたくなかったら、霧状のこの秘薬を肺いっぱいに吸い込むことだな」

 横柄な口調で言葉を放ったのは若い男だった。

「おいおい」中年男が苦笑した。「生きたまま連れていかなきゃならないんだぞ。吸い込んでもらわなければ困る」

「確かに」

 笑って返した若い男が、大きく息を吸い込んだ。霧に包まれているのだから、自ずとそれを吸い込んでいるのは間違いない。

 隼人の背後でも息を吸う音がした。ゆっくりと、長く吸っている。

 秘薬、と中年男は言ったはずだ。このアルコール臭に鑑みると、なんらかの薬品である可能性があった。

 隼人は呼吸を浅くした。

 蒼依も口を一文字に結んでいる。

「吸えって言ってんだよ」

 中年男が隼人の体を激しく揺さぶった。

 思わず、隼人は息を吸い込んでしまった。甘ったるく湿っぽい気体が口の中に広がった。

「いいか、これを吸わないままあの門をくぐったら、絶対零度の真空の中で、おまえは死ぬことになる」

 中年男の言葉に、隼人の堪忍袋の緒が切れた。

「黙っていればいい気になりやがって。門ってなんなんだ!」

「そこに浮かんでいる、あれだよ」

 指差すわけでもなければ、顎をしゃくったか否かもわからない。それでも、門が虹色の球体であることを悟った。

「あの球体が門で、その先には真空の空間があるっていうこと?」

 蒼依だった。誰に尋ねたのかは定かでない。

「そうだよ」中年男が答えた。「だからお嬢ちゃんも、思いっきりこの霧を吸っておけよ。この霧を吸えば、真空でも死ぬことはない」

「だって……」

 嫌悪の表情を見せた蒼依だが、呼吸をこらえるのが限界に達したのか、すぐに大きく息を吸ってしまった。

「それでいい」

 言った中年男は、心なしか声に覇気がなかった。

 蒼依をとらえている若い男が、眠気をこらえるように瞬きを繰り返している。

 不意に、中年男が隼人を草むらに突き倒した。

 両手首を後ろ手に縛られているため受け身は取れなかったが、雑草と軟らかい土のおかげでダメージはなかった。

 右肩から倒れた隼人はすぐに仰向けに体勢を変え、上半身を起こした。しかし、強い倦怠感に襲われ、立ち上がることができない。まぶたが重かった。

 蒼依が両目を閉じて若い男に寄りかかっていた。その若い男はなんとか両目を開けているものの、体は前後左右に揺れている。

「どうやら秘薬が体中に回ったようだな。もう大丈夫だ」

 そう言った中年男を見ると、やはり両目は半開きであり、体が揺れていた。

 直後、灰色の何かが隼人と中年男との間に落ちてきた。

 とたんに糞尿のにおいが鼻を突く。

「なんだ?」

 目を凝らせば、太さが腕ほどもある無数の触手が頭上から垂れ下がっているのだった。

 蠢く触手の束が草地をまさぐり、一本一本に散開して四方に走った。

 二本の触手が隼人を襲った。胸と腹にそれぞれが巻きつき、両腕ごと隼人を締め上げる。

「こいつ」

 わめこうとしたが、声に力が入らなかった。

 象の鼻のようなかさついた触手だった。まさしく象のごとく、人間など足元にも及ばない力強さだ。まして全身から力の抜けてしまった隼人には、太刀打ちできるはずがない。

 蒼依は背後の若い男から離れていたが、やはり何本かの触手に巻きつかれており、それら触手によって立たされている状態だった。彼女は完全に意識を失っている。

 中年男と若い男もおのおのが複数の触手に巻きつかれていた。そして二人とも、うなだれた状態で目を閉じており、両手をだらりと垂らしている。

 糞尿のにおいとアルコール臭が混交し、強烈な異臭が満ちていた。鼻と口を押さえたかったが、このありさまではどうにもならない。

 身もだえしながら目を走らせれば、二人の作業服姿の足元に、それぞれナイフが落ちていた。身動きさえ取れるのなら、逃げ出せるチャンスなのだろう。

 何もかもが思うようにならないまま、そしてわめきさえ上げられないまま、隼人は強烈な睡魔に耐えた。

 浮遊感を覚えた。

 隼人の体を二本の触手が持ち上げていた。

 直立の姿勢で、隼人の体は徐々に地面から遠ざかっていく。

 その二本の触手よりも速く引き戻る一本の触手があった。先端には、若い男が左肩にかけていたショルダーバッグがとらえられている。

 隼人に続く形で、蒼依、中年男、若い男も、それぞれ触手によって宙に持ち上げられた。

 遠ざかる意識の中、隼人は頭上を見上げた。

 虹色の球体が、ぶれることなく夜空を背にして浮かんでいる。

 表面のマーブル模様が、隼人を歓迎するかのごとくゆっくりと蠢いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る