第6話 魔道士のいざない ①

 午前三時を過ぎたばかりだった。

 廊下も階段もホールも、皓々と明かりが灯されている。

 パジャマ姿のまま一階のホールに下りた瑠奈は、玄関から入ってきた真紀と出くわした。

「お母さん、何があったの? 水野さんの怒鳴り声が聞こえたよ。外を見たら特機隊の人たちが走り回っているし、藤堂さんの姿もあった」

「敷地内に不審者が侵入したらしいの。それで……」

 パジャマにガウン姿の真紀は、困惑の色を呈し、言葉を濁した。

「不審者? 何? どうしたの? 言ってよ」

 瑠奈がせかすと、真紀は覚悟を決めたように頷いた。

「隼人くんと蒼依ちゃんがいなくなっちゃったのよ」

「どういうこと?」

 我が耳を疑い、問い返した。

「二人の姿が敷地内のどこにもないそうなの。今、外で尾崎さんから状況を聞いたばかりよ」

「そんな……不審者に連れ出されたっていうの?」

「確かなことはまだわからないけれど、不審者は敷地内にもういないみたいだから、その可能性はあると思う。それに、特機隊の一人が殺害されていたわ」

 真紀の言葉が瑠奈の胸を激しく突いた。

「何よそれ……」

「あとね、隼人くんと蒼依ちゃんだけでなく、隊員の一人もいなくなっちゃったの。とにかく、安全が確認されるまでは、瑠奈はこの家から出ないこと。いいわね?」

 そう諭されるが、瑠奈はすぐに反駁する。

「セキュリティは万全だったんでしょう? 特機隊が警備に就いていたんでしょう? それなのに、こんな事態に陥ったのよ。安全なんて確保できるはずがないじゃない」

「瑠奈、落ち着きなさい。隼人くんと蒼依ちゃんのことや、そのほかのこれからのこととか、対策をちゃんと立てなくちゃならないの。特機隊のみんなと藤堂さんが敷地内を見回っているわ。まずは、現状の把握が先決よ」

 無理にでも平静を装わなければならない、ということなのだろう。瑠奈は唇を嚙み締め、小さく頷いた。

「泰輝は?」

 問われて、瑠奈は口を開く。

「部屋を覗いたら、まだ帰っていなかった」そして、思い当たる節を口にする。「だから、結界が弱まったとか?」

 だが、真紀は首を横に振った。

「結界の主の不在によって結界の強弱が左右されることはないわ。でも、泰輝がいれば安全性は高まるでしょう?」

「そうだけれど……それにしても、泰輝はいつもより時間がかかっている。いつもならとっくに部屋に戻っているもの」

「瑠奈の言うとおりね。わたしもちょっと気になる」

 真紀が不安げにホール内を見回していると、玄関の呼び鈴が鳴った。

「出ます」と即座にホールの奥から家政婦の一人が足早に現れた。二人いる家政婦のうち、若いほうの井上いのうえという女だ。若いとはいえ、四十一歳である。もちろん彼女も特機隊の隊員だ。

 ドアを半開きにし、外の誰かと短い会話をした井上が、ドアをそのままにして振り向いた。

「奥様、水野隊長と田口たぐちさんです」

「入ってもらって」

 真紀が指示すると、二人のグレースーツの男が入ってきた。一人は水野だ。もう一人は田口という三十代半ばの男で、瑠奈も顔と名前だけは知っている。

 ドアを閉じた井上が、素早くホールの奥へと姿を消した。

「セキュリティシステムが復帰しました」

 水野が報告すると、真紀はわずかに緊張を解いたようだった。

「わかりました。よかった」

「そうとも言っていられません。さっそくチェックしたのですが、地下金庫のロックが破られたようです」

「なんですって」

 蒼白の顔で真紀は声を上ずらせた。

「でも、あの金庫の暗証番号を知っているのは、お母さんとわたしだけ……」

 とはいえ、セキュリティシステムが働いていなければ、プロによる解除は不可能ではない。瑠奈はそれを知っているからこそ、続く言葉を控えた。

「会長、金庫を確認していただけませんか?」

 水野の声に焦りが窺えた。

「もちろんです。水野さんと田口さんも一緒に来ていただけますよね?」

「それはかまわないですが」水野は声を忍ばせた。「あそこはあなた方親子以外は立ち入れないことになっているはずです」

 その訴えに対し、真紀は眉を寄せる。

「そんなことを言っている場合じゃないでしょう。何かあったら、わたしが一人で対処するのですか?」

「会長がそうおっしゃるのなら、お供します」

 水野の言葉に納得した様子の真紀が、瑠奈に顔を向けた。

「あなたは一階の応接室で待っていなさい」

「でも――」と言いかけた瑠奈の前に、水野が立ち塞がった。

「お嬢さんは会長の言うとおり、応接室で待機していたまえ」

 水野が言うと、田口が口を開いた。

「念のため、瑠奈さんには尾崎についてもらってはどうでしょう」

「それがいいだろう」

 水野は頷いた。

「そうしていただけると助かります」真紀は言うと、瑠奈を見た。「確かに、隼人くんと蒼依ちゃんのことは心配でしょう。だからじっとしていられない、そんな気持ちはわかるけれど、こうしているうちにも泰輝が帰ってくるかもしれないのよ」

 自分はまだ子供である――瑠奈は痛感した。緊迫した状況に翻弄され、我を失い、判断を誤る。こんな自分は大人の意見に従うほかにないのかもしれない。

「わかった。お母さんの言うとおりにする」

 瑠奈はうつむいた。

 実際のところ、金庫の中身などどうでもよかった。

 金庫のある地下室など、行きたくもない。

 真紀が察したとおり、空閑兄妹の安否が気になるあまり、じっとしていられないだけだった。


 神宮司邸本宅の地下には、部屋が二つあった。一方は物置として使用されているが、もう一方には金庫が保管されており、その金庫だけでなく、部屋のドア自体にも暗証番号によるロックがかかっている暗証番号を知っているのは、真紀と瑠奈だけだ。

 瑠奈がその部屋に入ったのは一度だけだ。父の清一が他界して一カ月後のことだ。真紀に付き添われて金庫の前に立った瑠奈は、金庫から出されたそれらを手に取り、体を硬直させたのである。

 あれから一年が経つが、金庫のある部屋に立ち入っていなければ、地下へのドアさえくぐっていなかった。愛すべき存在とともに生きるためには、忌避すべき出来事も認めなければならない――これらの事実を想起させる場所など、近づきたくもない。真紀の言いつけで応接室に入ったが、成り行きとしては歓迎したかった。

 さすがにパジャマのままというのも気が引け、瑠奈はトレーナーとジーンズに着替えておいた。

「隼人さんと蒼依を連れ去ったのは、山野辺士郎という人なんでしょうか?」

 ソファに座る瑠奈は、はす向かいに座るグレースーツの恵美に尋ねた。真紀から聞かされていた要注意人物の名前を口にするのは、これが初めてである。

「というより」テーブルを見つめていた恵美は、横目で瑠奈をとらえた。「彼の配下の者たちね」

「つまり、無貌教の信者?」

「そういうことになるわ。おそらく、山野辺士郎本人は結界に入れない。だから信者を使ったはずよ」

 そう言うと、恵美は再びテーブルに視線を戻した。

「隼人さんと蒼依はどうなっちゃうんでしょうか? 二人は今頃、どうしているんでしょう?」

 さすがの恵美にも答えられないだろう。回答を期待したわけではない。抑えきれない不安が言葉となって紡がれただけなのだ。

 しかし恵美は、テーブルを見つめたまま口を開く。

「あの二人が連れ去られたわけを、瑠奈さんは知っているかしら?」

「二人とも見鬼だから、ですか?」

 確信が持てず、問い返す形となってしまった。

「特機隊としては、そのように見ているわ。しかも金庫の中身まで狙われた。つまり、無貌教のなすべきことは一つ、ということよ」

 恵美の答えは、金庫のある地下室と同様、耐えがたい記憶を想起させるものだった。だからこそ、あの二人を早急に救い出してほしいのである。

「無貌教のなすべきことって、今すぐおこなわれるんでしょうか? それとも、次の日没以降?」

「もし金庫の中身まで持ち去られていたとしても、次の日没以降だと思う。夜半を過ぎると星々の力は弱まってしまうわ。とはいえ、あと数日は晴天が続くらしいから、星空が無貌教に力を貸してしまうのは事実。あの玉と古文書の写本、そして祭壇石さいだんせきと夜半直前の星空さえあれば、星辰の位置に関係なく、無貌教の望みはかなえられてしまう。明日の日没から深夜十二時までが濃厚というところかしら」

 決して他人事として口にしたのではない。それは恵美の顔を見ればわかる。暗く沈みきった双眼は、テーブルから離れようとしていない。

「だったら今すぐにでも助けに行かないと。祭壇石を使うのなら、場所は決まっているようなものでしょう」

 瑠奈は訴えた。

「それが執りおこなわれるのなら、敵は総出で防衛態勢に入るわ」恵美は瑠奈に顔を向けた。「ならば特機隊第一小隊も、人員を揃え、厳選された装備で挑まなければならない。もし空振りなら……無貌教が裏をかいているのだとするのなら、特機隊は手薄になったところから攻め込まれるでしょうね。魔道士でもなくハイブリッドでもなく、ただの信者なら、さっきみたいにここに侵入することは可能だし」

 そして恵美は、再び視線をテーブルに戻した。

 やはり自分には事態に対処する案を構築するすることは無理なのだろうか。瑠奈は左右のこぶしを膝の上で握りしめた。

「うかつに行動すれば」恵美は続けた。「二人を救い出すチャンスを逃してしまうかもしれない。でもわたしたちは、諦めたわけじゃないのよ。それは、わかってほしい」

「はい」

 小さな声で、瑠奈は答えた。

 ドアが開き、真紀と水野、田口の三人が入ってきた。

 恵美が立ち上がる。

「隊長」

「やはり、二つとも持ち去られていた」

 水野が言うと、真紀は黙したままそっとうなだれた。

 ため息を落とした恵美は、何も語らなかった。

 四人の大人たちの間で、瑠奈は立ち上がることができない。

「お母さん」

 声をかけたが、反応はなかった。

 沈黙の中で、ふと思う。

 ――泰輝、泰輝がいてくれたら。

 テーブルを見つめながら決意し、瑠奈は息を潜めた。


 目を開けたが、脆弱な光が闇をほんのわずかに後退させているにすぎなかった。

 隼人は自分が仰向けになっていることを知った。ならば、目に映っているのは、鋼材が張り巡らされたアーチ状の天井に違いない。高さは十メートル近くあるだろう。

 冷たくて固い感触がロングTシャツを通して背中に伝わっていた。しかし、麻酔でもかけられたかのように全身に力が入らない。なんとか半身を起こしてあぐらをかくが、どうしても立ち上がれなかった。

 ジーンズの膝下がしっとりと濡れていた。なぜ濡れているのかを思い出しかけたとき、ふと自分の左を見て、隼人は目を見張った。行人が仰向けになっているではないか。

「なんでおやじが……」

 渇いた喉でつぶやいた。

 行人は薄茶色の作業服に身を包んでいた。帽子はかぶっていないが、仕事着であることがわかった。

 さらに行人の左には、蒼依も横になっていた。神宮司邸の別宅で支給されたパジャマを着たままだ。

 行人も蒼依も、目を閉じているが息はしっかりとあった。

 だだっ広い閉ざされた空間の中央に、自分たち親子三人は寝かされている――この事実を認識するのに十秒ほどを費やした。

 どうやらここは体育館のようだ。正面の奥にはステージが据えられている。照明は点いていないが、左右の壁に並ぶいくつもの窓から弱い光が差し込んでおり、その壁には何脚かのパイプ椅子が折りたたまれて立てかけられていた。

 悪臭が漂っていた。

 泥をこねるような音が聞こえる。

 隼人は息を潜めた。

 あぐらをかいたまま振り向く。

 五メートルと離れていない位置に、人間の胴ほどの太さでやたらと長いロープが、無造作に丸めてあった。しかし、鱗に覆われたロープなどあるわけがない。微妙に蠢くそれは、どう見ても大蛇だ。

 緑色の鱗を見ただけで、それは雌である、と隼人は悟った。なぜか、そう感じられた。

 大蛇の頭部が一メートルほど伸び上がり、こちらに正面を向けた。

「うっ」と隼人はうなってしまう。

 この長い胴の先端についているのは、乱れた長い黒髪を有する巨大な顔だった。般若のような形相だ。首のやや下の辺りには、白い左右の腕がついている。まさしく蛇女だ。

 彼女は何かを咀嚼しているらしく、耳まで避けた口を閉ざし、頬と顎をしきりに動かしていた。泥をこねるような音の原因は、彼女のその行為らしい。一重まぶたの目は隼人に焦点が合っているが、敵愾心は感じられなかった。

 蛇女を刺激しないように、黙して行人の肩に手をかけた。とはいえ力が入らず、軽く揺するのが関の山だ。行人はかすかにうめいたものの、なかなか目を覚まさない。

「大丈夫、すぐに目を覚ますよ」

 男の声がした。聞き覚えのある声だ。

 行人の肩から手を離した隼人は、口を動かし続ける蛇女を見た。今の言葉をこの化け物の口が紡いだとはとうてい思えない。

「こっちだよ」

 じれったそうな口調だった。

 蛇女の背後、光の届いていない壁際に、何かが立っている。

「人間?」

 隼人がつぶやくと、その影はこちらに向かって歩き出した。

「当然さ。ぼくはハイブリッドじゃないよ」

 蛇女の隣で立ち止まったのは、廃工場で隼人に迫ったあの青年だった。

「あんたはまさか……」

 その名を口にするのがはばかれ、隼人は言いさした。

「ぼくが誰なのか、もう聞いているんだろう?」

 テーラードジャケットの青年は肩をすくめると、蛇女の近くに落ちている何かを拾い上げた。

「実物を手に取ってみたかったんだ」と言いつつ青年が右手で掲げたのは、特機隊の拳銃だった。「ベースはグロックの超コンパクトモデル。でもこれは、サプレッサーが内蔵されたカスタムだよ。対ハイブリッドの弾丸のために、苦労して改良を重ねたわけだね。なかなかの逸品だ」

 と語った青年が、自分の正面に拳銃を差し出した。

 間髪を入れず、蛇女がその拳銃を長い舌で絡め取り、口の中へと引き込んだ。そして彼女は、その固い獲物をせんべいのごとく嚙み砕き、一気に飲み込んでしまう。自在なる舌の働きは蛇というより蛙であり、獲物を丸吞みにしないという点も蛇らしくない。

「拳銃なんて決しておいしくないだろうけど、残さずに食べてくれないと、困るよね。ぼくには必要ないものだし」

 青年は苦笑した。

「まさか」蛇女を凝視しつつ、隼人は口を開いた。「こいつ、特機隊の隊員を食ったんじゃ……」

「そうだよ」青年はけろりとしていた。「食われたのは、君たち兄妹を取り戻そうとして追いかけてきた男性隊員さ。でも彼は、生きたまま食われたわけじゃないよ。あの男性はここに着く直前に死んでいたんだ。秘薬を吸わないで門の内側に引きずり込まれたんだから、しょうがないね」

 そう告げた青年は、あぐらをかいたままの隼人に近づいた。

「君と会うのは、現実では二度目だ。通算で三度目かな」

 青年は言った。

「どういうことだ?」

「君とは夢の中でも会ったじゃないか」

 青年は愉快げに隼人を見下ろした。

「夢……じゃあ、あの声は……」

「もっとも、ぼくの姿は見えなかっただろうけど」

 そして青年は右手を差し出し、隼人の左手を握った。

「何すんだ!」

 振り払おうとしたが、力が入らない。青年の手に引かれるまま、隼人は立ち上がる。

 隼人の手を握る青年の手に力が入った。

 青年が顔をぐっと近づける。

 青年のもう片方の手が、隼人の頬をそっと撫でた。

 同性愛に興じるつもりはない。それなのに、なぜか引き寄せられてしまう。

「おっと」青年のほうから顔を離した。「今度こそ君を奪おう、と思ったけど、やっぱり今の恋人を裏切ることはできない。残念だけどね、隼人くん」

 隼人の体に感覚が戻った。青年の右手を振り払い、二歩、あとずさる。

 隼人は確信していた。隼人の名前を知っているこの青年こそ、真紀が告げていた危険人物――邪教集団の教祖たる魔道士に違いない。

「やっぱりあんたは――」

「山野辺士郎だ」隼人の言葉にかぶせたのは行人だった。「いつかは神津山に戻ってくる、と思っていたが、こんな形で会うとはな」

 行人は半身を起こした姿勢で、青年――山野辺士郎を見上げていた。

「行人おじさん、初めまして……というか、お目にかかるのは初めてのはずですが、ぼくのこと、よくわかりましたね」

 慇懃無礼というより、明らかに侮蔑の眼差しだった。

「おまえという人物がいることは咲子から聞いて知っていたし、だいいち、顔立ちが母親に似ている」

 ふらつきながらも立ち上がろうとする行人に、隼人は手を貸す。

「大丈夫かよ?」

「なんとかな」

 立ち上がった行人は、隼人の手をやおら押し戻した。

「心配は無用ですよ。三人とも呼吸の回復が早かったですから、秘薬の副作用はすぐに消えます」

 士郎は笑みを浮かべた。

「秘薬……」隼人は士郎に問う。「酒臭い霧か?」

「そうさ。仮死状態にする薬と、真空でも一時的に耐えられるようにできる薬……これらを調合した薬だよ。おかげで君たち三人は、生きて門を抜けることができた」

「おまえが門を使えるとは、驚いたな」

 呆れたように言う行人を、隼人は見る。

「門?」虹色の球体についてまだ知識のない隼人は、思わず眉を寄せた。「おやじ、あの虹色の球体を知っているのか?」

「ああ。時間と距離を短縮するために異次元空間を通過する、という術がある。門は、その異次元空間の出入りに使う時空の穴だ。二つの地点を結ぶ近道を作るわけだから、無論、門は最低でも二つ必要となる。……真紀さんは隼人にいろいろと話したらしいが、聞いていなかったのか?」

 行人が何を知っていても当然だが、隼人の知っている行人は「口不調法な父」だ。聞き慣れない言葉を並べ立てる行人を目の前にして、違和感を受けざるをえなかった。加えて、最後の一言も気になる。

「おれがおばさんと会っていたことまで知っているのかよ」

「隼人と蒼依に連絡を入れようとしていた矢先に、真紀さんから連絡が入ったんだ。仕事を切り上げることができたのも、彼女が会社に働きかけてくれたおかげだ。しかし関西から戻ってくる途中で、トラックが化け物の触手に襲われた。そして気がついたら、ここにいたわけだ」

「親子が無事に再会できて、よかったですね」

 笑みを浮かべたまま士郎は言った。

「まったくだ。門を通過して、こうして無事でいられるなんてな」

 行人は切り返した。

「二つの門の間にあるのは、宇宙空間と似たような世界なんだ」士郎は隼人を見ながら語った。「無重力で真空、しかもマイナス二百七十度さ。神の子であるハイブリッドや、神の加護を受けているぼくのような者ならともかく、常人はその空間を移動することが不可能なばかりか、その空間に入った瞬間に死んでしまう。ぼくの配下のハイブリッドと、調合した秘薬のおかげで、君たちは無事に門を抜けられたわけさ。でも秘薬は大変貴重な薬だから、あの特機隊の隊員に使うほどの余裕はなかったんだ」

「最初から殺すつもりだったんだろうが」

 行人は吐き捨てた。

「ふっ」士郎は失笑した。「殺すも何も、彼が髪の毛に近づきすぎたんですよ。とらえられて当然です」

「髪の毛だ?」

 訝りの目で隼人は士郎を睨んだ。

「何、このにおい……まだ臭い」

 寝起きのような声を出したのは、蒼依だった。体をうつぶせにし、起き上がろうとしている。

「彼女が食事を終えたばかりなんだよ」士郎は蛇女を見ながら口を開いた。「一般的にハイブリッドは、取り込んだ食物を数十秒で消化し、不要物を気体にして体中から排出するんだ。まあ常に臭いけど、食後は特にひどいんだよ。調教すれば自ら平常時の体臭を変えることもできるんだけど、その調教が結構面倒そうなんでね」

 あの白い巨獣がバニラの香りを放っていたことと関連があるのかもしれない。ならば、調教をしたのは誰なのか――隼人が脳裏に一人の少女の姿を浮かべていると、士郎は蒼依に顔を向けた。

「そういうわけなんだ。こらえてくれないか、蒼依ちゃん」

「蒼依ちゃん、って……あなた、誰?」

 四つん這いのまま、蒼依は士郎を見上げた。そして、その隣りに蠢く蛇女に目を留めるなり、「ひっ」と声を上げる。

「彼女はぼくに従属しているんだ」氷のような微笑みで士郎は言う。「ぼくの指示がなければ君たちを襲うことはない。安心していいよ」

「どういうこと?」

 尋ねながら立ち上がろうとした蒼依は、まだ力が入らないらしく、木目の床にぺたんと座り込んでしまった。

「おまえのいとこだ」行人は告げると、蒼依の横にしゃがんだ。「山野辺士郎だよ」

「シロウ……誰それ? わかんない。てゆーか、なんでお父さんがいるの?」

「おまえらと同さ。連れてこられた」

 行人は答えた。

「行人おじさんの言うとおり、ぼくは蒼依ちゃんのいとこだよ」士郎は頷いた。「ぼくの父は行人おじさんの兄、空閑幹夫みきおだ」

「幹夫おじさんの子なら、なんで山野辺っていう姓なの? ていうか、幹夫おじさんは独身だったはず」

 蒼依の目は士郎ではなく行人に向けられていた。

「おれも咲子から聞くまでは山野辺士郎の存在を知らなかった。咲子もあの事件のあるまでは知らなかったはずだ。おそらく兄貴……幹夫自身も知らなかっただろうな。咲子も幹夫も墓前の人だから、確かめることはかなわないが」

「あの事件……てゆーか」蒼依は不意に隼人に目を向けた。「お兄ちゃんも、今、初めて聞いたんだよね?」

「あ……いや……」

 こんな状況でしらを切るのは困難だった。観念し、小さく頷く。

「まさか、瑠奈のお母さん……おばさんから聞いていたの?」

「ああ、うん」問われるがままに首肯した。「おやじとおふくろは、邪教集団の企みを阻止しようとしていたんだ。そして二人は、特機隊の設立にもかかわっていた。それに、蒼依とおれも無関係ではなかった」

「何それ……どういうことなの?」

 愕然とした色を呈し、蒼依は隼人を見つめ続けた。

「最近、おれは自分自身の異変に気づいた……というより、おれに異変が生じることを、おやじは事前に知っていたらしい。そして蒼依、おまえも特別な存在だったんだ」

「お兄ちゃんに異変? あたしが特別? 意味がわかんない。ゆうべ、どうして話してくれなかったの?」

「自分たちに関することだから、おやじ本人に言ってもらいたかったんだよ」

 だが、それでは蒼依のためにならない。いずれわかることなのである。今さら気づくこんな自分を、愚かに思う。

「蒼依、悪かった」

 しかし蒼依は、首を左右に激しく振った。

「何がなんだかわかんない。お兄ちゃんなんて、もう信じられない」

 この状況と隼人の失態とで混乱しているのだろう。そんな蒼依が隼人から顔を背けた。

「おれなりに考えたつもりだったんだ。おれなりに――」

 声を詰まらせた隼人に代わって、士郎が口を開く。

「自分たち親子の平穏な日常が、血生臭い因縁の上に成り立っている、なんて話せるわけないよね」

 その言葉の意味がわかるからこそ、隼人の胸は痛んだ。

「血生臭い因縁って、お父さんがかかわっていたっていうやつなの?」

 蒼依が問うと行人は静かに首肯した。

「士郎」行人は士郎に視線を定めた。「父親の復讐をするためにおれたち親子三人をとらえたのか?」

 唯一事情を把握していない蒼依は、声も出せずに目を丸くしている。

「ありえませんよ」士郎は否定した。「ぼくの父である幹夫を殺した咲子おばさんは、ぼくの手にかかってすでに亡くなっているじゃないですか。そもそも、ぼくが咲子おばさんの命を奪ったのは、復讐のためではありません。幹夫は父として尊敬するに値しませんし。念のために付け加えれば、ぼくの母の直子なおこも同様です。直子は幹夫の計画に恐れおののき、ぼくを腹に宿したまま幹夫から離れました。ぼくにとってそんな両親は残念な人たちにすぎません。恨むほどの価値はないと思っています。行人おじさんは勘違いをしているようですね。ぼくは自分の両親に愛情なんて抱いていないんですよ」

 このやり取りの傍らで、蒼依は明らかに狼狽していた。小さな肩が大きく震えている。

「あたしのお母さんは人殺しなんてしていない。それにお母さんは、あたしが小さいときに病気で死んだんだもん」

 しかし、蒼依の訴えに同意する者も反論する者もいなかった。

「なら、召喚の儀式のためか?」

 問いつつ、行人は立ち上がった。

「こんな田舎に戻ってくるなんて、それしかないでしょう」

「うちの子供たちは使わせないぞ」

「理解していただきたいです」そして士郎は、隼人と蒼依を交互に見やった。「隼人くんと蒼依ちゃんはともに見鬼だ。特に蒼依ちゃんには、巫女として努めてもらいたい。二人には、是非、ぼくの仲間になってもらいたいんだ。よき世界を作るためにね」

 たまらず、隼人は両手のこぶしを握り締める。

「何がよき世界だ。邪教の魔道士なんかに好きにされてたまるかよ」

「ねえ、お父さん」蒼依は行人の右手にすがってどうにか立ち上がった。「お兄ちゃんとあたしって、この人にとってそんなに嬉しい存在なの?」

 疑問を呈した蒼依は、行人から手を離した。

 得心がいったように士郎は頷く。

「なるほどね。あらかたの事情は、隼人くんも蒼依ちゃんも知っているわけか。でも蒼依ちゃんは、自分の両親の過去や、隼人くんのこと、自分自身のことについては、まったくわかっていない」

「それをお父さんから聞きたいんだよ」

 行人の顔を見つめて蒼依は言った。

「いい機会、というわけですね」士郎の声には余裕があった。「蒼依ちゃんにも事情を知っていただきたい。ぼくの仲間になってもらうためにね。無論、隼人くんと蒼依ちゃんが仲間になることを拒否した場合は、三人とも生きては帰せません。じっくりと事情を説明することを、お勧めしますが」

「貴様……」

 行人は怨嗟の声を放った。

 ――なんてことだよ。

 活路が見出せず、隼人は絶望した。蒼依を巫女にするなど、容認できるはずがない。だが、ここで士郎の要求を拒めば、親子三人の命は絶たれてしまう。瞳に憂いをたたえた蒼依も、自分たちの窮地は理解しているのだろう。

「仕方ない」行人は言った。断腸の思いに違いない。「蒼依………これからおれが言うことは、すべて事実だ」

 そして行人は、窓際に目をやった。

「少し疲れた。座って話してもいいか?」

 士郎が「どうぞ」と承諾すると、行人は蒼依から離れて窓際まで進み、パイプ椅子の一つを広げ、その場で腰かけた。

「隼人も蒼依も聞いているだけで行ったことはないだろうが」行人は話を再開した。「おれの実家……つまり空閑の家は、下君畑にあった。そしてこれは言っていなかったはずだが、おまえたちのおじいちゃんである空閑孝義たかよしは高三土山の麓……上君畑に高三土神社を建立し、その宮司を務めていた。飯綱権現いづなごんげんを祀っていることで知られているあの高三土神社だ」

「高三土神社の宮司はおじいちゃんだったの?」蒼依は驚嘆の色を浮かべた。「じゃあ、今の宮司さんって、誰?」

「宮司はいない。管理責任は神宮司家が引き受けている」

「瑠奈のうちで?」

「そうだ。清掃婦を雇って、定期的に手入れしているんだ」

「瑠奈も知っているの?」

「知っているらしいな」

 行人のその言葉を受け、蒼依は首を横に振った。

「瑠奈も知っている……って、なんなの、それ。……だったら、そのイヅナゴンゲンって何? お兄ちゃんは昨日の夜、おばさんから聞いたかもしれないけど、あたしにはわからないよ」

 蒼依の言葉どおり、隼人は飯綱権現についても真紀から説明を受けていた。しかし蒼依は、その話さえ行人から聞きたいのだろう。こちらを見ようともしない。

「天狗だよ」行人は答えた。「烏天狗の姿をしているが、神仏習合の神だ。この神の信仰は、長野県の飯綱山いいづなやまで興った山岳信仰が始まりらしい。だが空閑家は、表向きには飯綱権現を祀っておきながら、実際には蕃神、すなわち邪神を崇拝していたんだ。邪神たちの始祖の使者である無貌神むぼうしん……それが空閑家の……いや、無貌教の祀る邪神だ」

 真紀は無貌神や無貌教についても言及していたが、行人の口から発せられた言葉を耳にして、隼人は改めてそれらの存在に現実味を覚えた。

「邪神ではありません」士郎が顔をしかめた。「神ですよ」

「神なものか!」

 行人は反駁したが、士郎に臆する様子はない。

「多くの人間が崇めるのは、慈愛に満ちた、いわゆる善神なのかもしれない。しかし、この世の理に反した都合のいい神なんて、彼らが創造したにすぎません。我らが崇める神、そしてその同族は、宇宙の真理を示すものとして実在しています」

「邪神だからこそ、おまえの母親は幹夫から離れたんだ。結婚の直前になってな。そしておれと咲子も、空閑家に見切りをつけた」

 凜然とした言い回しだった。

「なら、大目に見ましょう。邪神でもなんでも、好きに呼んでください」

 士郎の投げやりな言葉を受け、行人は蒼依に顔を向ける。

「おれは結婚と同時に市街地のアパートに引っ越したが、あとになって思ったよ……それでよかったんだとな。邪神を崇める儀式は陰惨だ。生け贄の……犬や猫、鶏などの首を切り落としたりしてな。そんな邪教を嫌った直子さんは、巫女になることを放棄した。一方、おれと結婚して間もなかった咲子も見鬼としての素質を持っていたため、死んだおやじの跡を継いだばかりの幹夫に巫女として仕立てられそうになった。だが、おれは知ってしまった。幹夫が世界を転覆させようとしている……という事実をな。その企みは無貌教が立ち上げられたときから始まっていた。つまりおやじが……孝義がすでに進めていたことだったんだ。だからおれと咲子は、おれの友人……若き警察官僚だった神宮司清一に、無貌教の企てを打ち明けたんだ」

「それが特機隊の作られるきっかけだったの?」

 蒼依の中では、おぼろだったものが明確になりつつあるに違いない。目つきも声も、わずかに力を帯びている。もっとも、怯えている様子に変わりはなかった。

「そうだ。しかし、特機隊が設立されるのは、それよりずっとあとになる。いずれにしても、手をこまぬいているわけにはいかなかった。清一は警視庁捜査一課の若手刑事に極秘で協力を依頼した。清一の大学時代の後輩でもあるその刑事というのが、現特機隊第一小隊隊長の水野さんという人だ」

「水野さんという人は、知っている。あの人が、そうだったの」

 蒼依は相槌を打った。先を促す合図でもあったらしい。

 応じるかのごとく、行人は続ける。

「孝義が死んだあと、幹夫は無貌教の目的を果たすため、各地に散らばる化け物たちを集めようとしていた。同時に、邪神と人間との混血を作る、という太古の秘術を現代に復活させようとしていた。巫女が産んだハイブリッドなら、巫女になつく。無貌教の強力な兵士として育てることができるわけだ。その太古の秘儀をなすためには、邪神を召喚しなければならない。そして邪神の召喚には、二つの秘宝が必要なんだ。それを奪えば儀式を阻止することができる。清一と水野さん、咲子、おれの四人は、下君畑の空閑邸へと赴いた。日中、留守を狙って忍び込み、二つの秘宝、古文書の写本と召喚球しょうかんきゅうなる水晶玉を見つけたんだ」

「写本はとある民家で発見された、って聞いていたけど、下君畑の……お父さんの実家だったんだね。でも、召喚球っていうのは?」

 まるで恐怖にあらがうかのように、蒼依は顔を強張らせていた。

 古文書の写本と召喚球、これら二つは、どちらも行人と咲子の過去に根深くかかわっている。そのため隼人は、これら二つに関することや、空閑家にかかわる高三土神社についても、自分の口からは蒼依に伝えたくなかったのだ。昨夜は、古文書の写本に限って、蒼依に尋ねられるまま、差し障りのない概要のみを口にしただけだった。

「縄文時代の代物だ」行人は蒼依を慮るように、優しく答えた。「当時の中国王朝……周から逃げてきた一族が、古文書の原本とともにこの土地に持ち込んだ水晶玉だよ。手のひらに載るほどの大きさしかないが、邪神を召喚する力を秘めている」

「その召喚球、そして写本を、お父さんたち四人は手にすることができたんだね?」

「だがな、空閑邸を出たところで、幹夫に見つかってしまったんだ。家の外で待ち伏せしていたらしい幹夫は、刃物をかざして清一に襲いかかった。少し離れた場所で事態に気づいたおれと水野さんは、とっさに幹夫を押さえようとしたんだが……咲子が、足元にあった大きな石を拾って幹夫を殴り殺してしまったんだ。おれは止めようとしたが、間に合わなかった。刃物をかざす幹夫の姿を見て、咲子は理性を失ったんだよ」

 行人の話は真紀の話と符合していた。しかし、蒼依は首を横に振っている。自分の母が殺人を犯したなど、信じたくないのだろう。

 蒼依が何かを言いかけたが、それより先に行人が話を再開する。

「清一と水野さんが裏から手を回し、幹夫は交通事故で死亡したことにされた。そしてときは過ぎ、おれと咲子との間に隼人と蒼依が生まれた」

 行人はそこで息継ぎをした。

 言葉の間隙を狙っていたらしい蒼依が、再度、割って入ろうとした。だが彼女はすぐに口を閉ざし、うつむいてしまう。

 息を落ち着けたらしい行人が、口を開く。

「あれは、蒼依が四歳の誕生日を迎えた翌月だった。仕事中だったおれは、真紀さんから連絡を受けた。咲子が病院に搬送された、とな。おれはすぐに病院へと駆けつけ、目を見張った。ひどい傷だった。刃物で胸や背中を何カ所も刺されていたんだ。息も絶え絶えの咲子は、こう言った。……家に上がり込んできた中学生くらいの少年が、ナイフをちらつかせつつ自分を連れ出そうとした。その少年が山野辺士郎と名乗った。彼は自ら、自分は空閑幹夫と山野辺直子との間に生まれた子供だ、と告げた……とな。聞けば、台所に逃げ込んだ咲子は、空閑邸でのときのように興奮し、包丁を振り回して身を守ろうとしたらしい。だがその少年、士郎によって、返り討ちに遭ったんだ。そして咲子は、その日のうちに息を引き取った。事件のあったとき、隼人は小学校に、蒼依は幼稚園にいた。二人が巻き込まれずに済んだのは不幸中の幸いだったな。……咲子の死に関しても清一が根回しをした。そして咲子は、心臓発作で死亡したことにされた」

 行人は口を閉ざし、パイプ椅子に腰かけたままうなだれた。

「お母さんは殺された……っていうこと?」誰に問うとなく口にした蒼依は、我に返ったかのように士郎を見た。「あなたがあたしのお母さんを殺したのね。復讐じゃないって言っていたけど、やっぱり復讐じゃん」

 涙声で謗るが、士郎は意に介さない様子だ。

「あのときのぼくは確かに中学生だったけど、多くの術を体得していた。ぼくの愚かな父が成し遂げられなかった世界の改革……つまり、人種差別も貧富の差もない新しい世界を作ること……それをこのぼくなら完遂できる、と確信したんだよ。そのためには、咲子おばさんの協力が必要だった。当然、二つの秘宝も手に入れたかったよ。だから咲子おばさんの元へと出向いたんだ。抵抗されなければ、あんなことにはならなかったさ。そして、虫の息の咲子おばさんが口走ったことで、ぼくは自分の父が咲子おばさんによって殺されたことを知ったんだ。つまり、復讐のために咲子おばさんを殺したわけじゃない、ということさ」

「おまえはそれまで……そしてそのあとも、どこでどうやって暮らしていたんだ?」

 行人が問うと、士郎はわずかに目を細めた。

「母の直子はぼくが小学生のときに病死しました。その直前、病床で母は真実を告げたんです。ぼくの父が空閑幹夫という男性であること。そして、幹夫が企てていた世界の改革をね。だから自分が死んでも父親を頼ってはならない、と直子に念を押されたんです。それから間もなくして、直子はこの世を去りました。母方の祖父母はすでに他界しており、頼れる親戚はありませんでした。つまりぼくには、身寄りがなかったんです。施設に預けられたぼくは、やはり、父である幹夫のことが気になりました。必死に調べた結果、交通事故ですでに死んでいる、という情報を手に入れたんです。直子は幹夫の死を知らなかったわけですね。その後、施設でいじめに遭い、この世の世知辛さを思い知ったぼくは、無貌教の敬虔な信者を探し出し、自分の出自を伝えました。当然のごとく、その信者はぼくを引き取ってくれましたよ」

 士郎のそんな身の上は隼人にとっても聞き及んでいないことだが、同情する気など微塵もなかった。こらえきれず、ついに言葉を放つ。

「何をどう説明されようと、おれたちが邪教に協力するなんて、絶対にありえない。見鬼の能力も、あんたには利用させない」

「さっきからケンキとかミコとかか出てくるけど、それってなんなの?」

 しゃくり上げながら蒼依が疑問を呈すると、行人が即座に答えた。

「ケンキは、鬼に見る、と書く。純血でもハイブリッドでも、不可視状態にある幼生を視認したり、気配だけで幼生の存在を察知したり、幼生の性別を見分けたり……そんなことができる男女のこと。そしてミコは、神社にいる、巫女、と書く。無貌教で言う巫女は、ハイブリッドを産む役目を持った女の人のことであり、それが務まるのは見鬼だけだ」

「そうですね」士郎は頷くと、蒼依に顔を向けた。「そういった特殊な人間の生まれやすい血統が世界中に存在しているんだけど、空閑一族でも、ときどき生まれるんだよ。蒼依ちゃんや隼人くんのようにね。そしてぼくも見鬼だ。でも、空閑家ではないけど、ぼくの母と咲子おばさんも見鬼の資質を持っていた。だから、君たち兄妹やぼくが見鬼なのは空閑家の血が流れているからなのかどうか、不明だ」

「お母さんが……」つぶやいた蒼依は、ふと、士郎に目をやる。「お兄ちゃんは自分自身の能力に気づいていたみたいだけど、あたしが見鬼だなんて、あたしには自覚がないよ。どうしてあなたは、あたしが見鬼だなんて、そんなことを言うの? 空閑の血を受け継いでいても、絶対に見鬼になる、っていうわけじゃないんでしょう? お母さんが見鬼だったからなの?」

「確かに、親や先祖がそうだからって、絶対に見鬼になるわけじゃないよ。君やぼくにとってのおじいちゃん、空閑孝義は見鬼だったらしいけど、行人おじさんと幹夫は、双方ともにその資質が見られなかったからね。問題はなのは、男性の見鬼がいないこと、ではなかった。女性の見鬼、すなわち巫女がいなかったことだよ。だから孝義は、見鬼の資質を有する女性を探し出した」

「じゃあ、どうやってその人が見鬼かどうかを見分けたの?」

「手はいろいろとあるさ。でも、さすがに見鬼だからって、目の前にいる人が見鬼かどうかは、見分けがつかない。資質が脆弱な見鬼は自覚さえしていない場合が多いし、覚醒前という場合もある。だから、孝義がどうやって見鬼の女性を探し出したかは、ぼくにもわからない。それに、君たち兄妹にその資質があることを調べ上げたのは、ぼくじゃないよ。孝義もとっくに死んでいるし。それを調べたのは、行人おじさんと、神宮司清一氏さ」

 士郎の言葉を受け、蒼依は行人に視線を移す。

「どういうこと?」

「空閑家に見鬼が生まれやすいということを、おれは幹夫から聞いていたんだ」行人は言う。「それで不安になってな、清一の手を借りて、おまえたちが見鬼なのかどうか、調べたんだよ。その調べた結果が、どういうわけか、士郎に知られていたんだな」

「無貌教の信者はどこにでもいますからね」

 言って士郎は、失笑した。

「お兄ちゃんとあたしが見鬼であることなんて、どうやって調べたの?」

 蒼依は答えを要求したが、行人は伏し目がちに首を横に振った。

「そんなのは知らなくていい」

「何も隠さないで。隠されるの、もう嫌」

 そうまで訴えられてさすがに拒めなかったのだろう。行人は不承不承といった様子で話す。

「清一が、研究用に小柄なハイブリッドを二体、捕獲しておいたんだ。雄と雌が、一体ずつだ。そいつらを別々に、強化ガラス製の頑丈な小部屋に閉じ込めておき、それぞれの小部屋の前に幼いおまえたちを一人ずつ、交互に立たせたんだ。蒼依はまだ、立つようになったばかりだったな。もっとも、おまえたちには怖い思いをさせたくなかった。二人とも目隠しをさせておいた。そうしたら、雄のハイブリッドは蒼依に反応し、雌のハイブリッドは隼人に反応したわけだ」

「ハイブリッドを使ったんだね」蒼依は渋面を呈しつつも頷く。「それで、反応って?」

 被験者として携わったとはいえ、隼人にも当時の記憶は残っていない。だが実験の内容は、真紀から伝えられている。不快極まりない話であるのを知るからこそ、隼人はかぶりを振った。

「興奮するんだよ」士郎が言った。「ハイブリッド同士が性交することは滅多にないんだけど、雄のハイブリッドは女性の見鬼との交わりを望み、雌のハイブリッドは男性の見鬼との交わりを望む、という傾向にある。人間とハイブリッドが交わった事例はいくつかあるけど、それで子供ができた、なんていう話はまだ聞いていないね。まあ、おそらく、強化ガラスの中のハイブリッドは、生殖器を肥大化させたか、それを体液まみれにしたかだろうけどね」

「やだ……」

 蒼依も隼人と同様にかぶりを振った。

 ふと、隼人は蛇女を見た。こちらを見つめる双眼に淫猥なゆがみがあるように思えてならない。

「まさか……」隼人は眉を寄せた。「こいつもかよ?」

「確かに、このハイブリッドは隼人くんに好意を抱いている。君たちをここに運んでくれたハイブリッドも雌だけど、彼女もそうだったよ。ここに君たちが到着した直後は、一触即発だったんだ。隼人くんを渡すまい、と互いに思ったんだろうな。……雌同士が息巻き始めたのさ。でも、君たちをここに運んでくれたハイブリッドは賢いから、すぐに出ていってくれたよ」

「あんただって見鬼だろうが」

 士郎とハイブリッドとは主従関係にあるのだ。意味のない反駁だったに違いない。

「ハイブリッドたちはね、山野辺士郎は女性に興味がない、ということを知っているんだよ。今のところはハイブリッドに同性愛の個体は見受けられない。そんなわけで、ぼくの配下のハイブリッドは、誰もぼくをかまってくれないのさ」

「あなた、同性愛者なの?」

 蒼依に問われた士郎は、笑みを浮かべたまま「そうさ」と答え、行人を見た。

「儀式の有無にかかわらず、ハイブリッドをできるだけたくさん集めておきたいんです。現状ではハイブリッドを集める仕事は配下のハイブリッドたちが担っていますが、たった一体のハイブリッドを捕獲するために、配下のハイブリッドを四、五体も動員しなければならないんですよ。捕獲すべきハイブリッドを、ぼくの配下のハイブリッドたちが勧誘するわけです。それに、捕獲したハイブリッドを従属させるだけで一苦労ですから。……隼人くんの助けが必要なんです。そのうえで、隼人くんと蒼依ちゃんには儀式に協力してもらいます」

「だが……」行人は伏し目がちに士郎を見返した。「おれたちをとらえただけでは、邪神の召喚はできないはずだ。奪われた秘宝を取り戻すつもりでいる……そうだろう?」

 写本と召喚球は神宮司邸本宅の地下にて厳重に保管されている。それを知っているからこそ、隼人はほくそ笑みそうになった。しかし、神宮司邸のセキュリティが万全でないという事実に突き当たってしまう。自分と蒼依はあの屋敷から拉致されたのだ。しかも――。

「あんた」隼人は士郎を見た。「秘宝はもう手に入れているよな」

「なんだと」

 反応したのは行人だった。

「おれたちを神宮司さんの屋敷から連れ出した二人の男のうち、一人がバッグを持っていた」

 隼人は士郎に向かって言った。

「バレバレだったね」

「秘宝って、つまり、写本と召喚球……」

 蒼依の声は、この悪臭に染み込んでしまいそうなほど小さかった。

「それ以外にはないよね」一方の士郎の声は潑剌としている。「その二つが、ぼくの立ち入れない場所に保管されていたのさ」

「立ち入れない場所って、もしかして、瑠奈の家……神宮司さんち?」

 蒼依が案外な色を呈すると、士郎は頷いた。

「特機隊による警備はあるし、秘宝が保管されている地下金庫は最新のセキュリティによって保護されている。でも、それだけじゃないよ。神宮司邸の敷地境界線には結界が張られているんだ。しかもその結界は、ぼくが最も苦手とするタイプだ」

「結界?」と隼人は声を上げた。

「知らなかったのかい?」

 嘲弄する士郎をよそに、隼人は行人に顔を向ける。

「神宮司邸の結界、ってなんだよ? おやじは知っていたのか?」

「おれに訊くということは、隼人は知らなくていいことだ」

 頑として返され、隼人は口ごもる。

「なんのこと?」

 蒼依が隼人に顔を向けた。

「おやじが言ったとおりだ。知らなくていいこと、なんだよ」

 ならばあの白い巨獣がかかわっているのだろうか、と隼人は勘ぐった。少なくとも行人はそれを知っている。

 蒼依は隼人の答えが気に入らなかったらしい。またしても顔を背けてしまう。

「蒼依ちゃん、結界について知らなくても、儀式に差し支えないから大丈夫だよ」士郎は苦笑交じりだった。「ぼくの立ち入れない土地がある、という事実があるだけさ」

「いずれ特機隊が動き出す。儀式は諦めろ。とにかく、子供たちだけでも無事に家に帰してやってくれ。おれにできることなら、なんでもしよう」

 そんな譲歩が受け入れてもらえるとは思えなかった。しかしそれが、父としての期待なのだろう。

「お父さんも一緒に帰るんだよ」

 全身を大きく揺さぶって蒼依は訴えた。

「儀式は執りおこないます。特機隊にぼくの儀式は阻止できません」

「なんだと?」

 訝る表情も露わに行人は士郎を睨んだ。

「とりあえず、準備はもうすぐ済みます。無貌教の信者たちと、ハイブリッドたちの協力があったればこそです。あとは、召喚球を祭壇石に安置し、星が出るのを巫女とともにそこで待っていれば、儀式を始められるんですよ」

 行人は「不可能だ」と言った。

「可能にしてみせますよ。それより行人おじさん、ぼくがどういった儀式をするのか、本当にわかっているんですか?」

「蒼依を巫女にし、無貌神を介して不定形の邪神を召喚する……いや」行人は悟ったように士郎を見据えた。「隼人まで必要ということは、そういうことか」

「はい。ぼくは優秀な兵士を作りたいんですよ。ただのハイブリッドならば、神津山を徘徊している個体で十分です。儀式をするまでもない」

 覇権を満悦しているかのような顔だった。

 いずれにしろ、隼人には中身の読めぬ会話だ。士郎が優秀な兵士とやらを作ろうとしている――それを理解するのみである。

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