第5話 白い巨獣 ①

 一階の応接室に通された隼人は、コの字型に配置されたソファの端に腰を下ろした。部屋の片隅に移動した真紀が、ティーポットの紅茶をカップにそそいでいる。

 隼人は所在なく室内を見回した。ソファやテーブル、戸棚、天井、壁、閉じてあるカーテン、掛け時計に至るまで、飾り気がなく落ち着いた雰囲気である。おのずと居ずまいを正してしまう。こんな気分は就職試験の面接以来だ。

 カップがソーサーとともに隼人の前に置かれた。ゆらゆらと立つ湯気を見て、どうにか気分を落ち着かせる。

「冷めないうちにどうぞ」真紀は自分のぶんのカップとソーサーをテーブルに置き、隼人のはす向かいである真ん中のソファに腰を下ろした。「上君畑で見たことや、これからわたしが話す内容は、誰にも漏らしてはならないわ」

「神津山の都市伝説に関する記事がネット上で削除されているように、おれも口をつぐまなくちゃいけない……っていうことですか?」

「そうね。隼人くんがわたし以外に情報を共有できるのは、蒼依ちゃんと瑠奈、スーツ姿のあの人たち、うちの執事の藤堂……隼人くんのお父さんである行人さん」

「おやじ? もしかして、おやじも何か知っているんですか?」

 隼人は身を乗り出した。

「ええ。隼人くんのお母さん、亡くなられた咲子さきこさんや、同じく他界したわたしの夫の神宮司清一せいいちも……この一連の事件と無関係ではないわ」

 そう告げた真紀は、丁寧にソーサーを左手で持ち、カップから立つ香りに目を細めた。

「一連の事件というのは?」

「神津山の都市伝説」真紀は口をつけることなく、カップをソーサーとともにテーブルに置いた。「つまりハイブリッド……いえ、妖怪の出現や神隠しのことよ。隼人くんのご両親は、ずっと昔にこの事件にかかわっていた。それからね、隼人くんと蒼依ちゃんも無関係ではないの」

 にわかには吞み込めず、隼人はかぶりを振った。もっとも、自分自身については心当たりがある。他人には見えないものが自分には見えてしまう――これは無視できない。

「知られてはならないこともあるけれど、できる限り、わかるように説明するわ」

「その説明されたことを、瑠奈ちゃんや蒼依やおやじ……おばさんが挙げた人たち以外に話してはいけないんですね?」

「ええ」

「じゃあ」隼人は眉を寄せた。「三人が処置されるというのは、まさか口封じで?」

「ある意味、口封じなのかもしれない。でも、命を奪うとか、そういうことじゃないの」

「じゃあ、何を?」

「公言されては困ることを、忘れてもらうの」

「え――」と隼人は言葉を吞み込んだ。

「薬物投与や催眠法、電気ショックなどによって、記憶の一部を消去するのよ」

「そんな……いったい誰が記憶の消去なんてことをするんですか?」

「隼人くんをここに連れてきた人たち……というより、あの人たちに協力する機関ね。処置専門の人たちよ」

 朗々と真紀は答えた。

「スーツ姿のやつらがおれたちをここに連れてきたのは、おばさんの命令だったみたいですが、三人の記憶を消去するのも、おばさんの命令なんじゃ……」

「確かにわたしは、隼人くんと蒼依ちゃんに処置をしないで、とあの人たちに頼んだわ。でもね、わたしには彼らに命令を下す権限なんてないの。権限はないけれど、ほうってはおけなかった」真紀はうつむいた。「処置に失敗すると、脳に異常を来してしまうのよ」

「つまり、精神崩壊、っていうことですか?」

「ええ。完膚なきまでにその記憶を消そうとするあまり、脳に大きなダメージを与えてしまう……そうなる確率が高いの。処置の成功率は一割以下よ。小学生以下の子供なら、比較的安全な催眠法だけで済むらしいけれど」

「じゃあ……」隼人は声の震えを抑えた。「処置の不具合によって脳にダメージを受けた人たちは、今はどうしているんですか? 催眠法で記憶の一部を消された子供たちは?」

「脳にダメージを受けた人たちは専門の収容施設に送られるわ。誰にも……家族や友人にさえ知られることなく、忽然と姿を消すのよ。子供たちは家族の元へ帰るか、場合によっては児童施設に送られる。当然、問題なく記憶を消された人たちは、子供たちに限らず、元の生活に戻れるわ。戻れることになっている……けれど……」

 真紀の眼差しは、自分の言葉に怯えているかのようだった。

「まさか、神津山で増えている失踪事件って……」

「神津山市内での失踪者の多くは、専門の収容施設に送られた人たち。もしくは……妖怪に食べられてしまった人たち」

 それが神津山の神隠しの真相ならば、つじつまが合う。とはいえ、人の記憶を勝手にいじったあげく、精神崩壊の状態に陥れ、秘密裏に隔離するなど、非道極まりない行為である。獰猛な妖怪もさることながら、グレースーツのあの集団をも、隼人は許せなかった。

「なら、スーツを着たあいつらは、何者なんですか?」

「警察官よ」

 答えは即座に返ってきたが、隼人は合点がいかない。

「警察官……って、日本の警察官ですか?」

「そうよ。特殊機動捜査隊……警察組織内では特機隊とっきたいと呼ばれている。警察庁警備局の下部組織よ」

「特機隊なんていう部署は知りませんでした」

 少なくとも、これまで見てきた映画――刑事ものや推理ものでは、そのような名称の部署は言及されていない。

「特機隊の存在自体は秘密でもなんでもないわ。ただ、その内部事情や任務の実態を公表していないだけ」

 真紀の言葉に隼人は首肯した。人の記憶を消去するなど、公表できるはずがない。

「おれ、よくはわからないですけど、警察庁って事務職みたいな感じで、現場での仕事ってないと思っていたんですが」

「警察庁警備局の下部組織とはいえ、特機隊の構成メンバーは警察庁に所属しているわけではないわ。しかも特機隊は、各都道府県の警察本部とも切り離されている」

「なんというか、独立部隊のような……」

「ニュアンスは近いかもしれない。現場で組織犯罪に対処する部署は、警視庁など各都道府県の警察本部にも置かれているけれど、一方の特機隊は警察庁警備局の直轄。だから特機隊は、全国のどこでも迅速に現場の任務に就けるのよ」

 真紀はそう諭すが、特機隊の最も不可解な部分にはまだふれていない。

「そもそも特機隊は、どういう目的で作られた組織なんですか? テロリストやカルト教団なんかが相手ならわかりますが、どうして化け物なんかと戦うんですか?」

「特機隊が相手にするのは、カルト教団というより、邪教集団ね。そして同時に、邪教集団が崇拝する蕃神たちや、蕃神ばんしんの眷属……そういった異形とも戦わなければならない」

「蕃神って?」

「つまり、邪神よ」

「邪神――」

 妖怪が実在するならば幽霊や神が現れてもおかしくはないだろう。だが、妖怪や邪神といった一般的には想像の産物とされるものに警察という組織が真っ向から対処していること自体が、どうしても眉唾に思えてしまう。眉唾に感じられるだけならまだしも、事実を隠蔽しようとする行為が解せない。

「隼人くんも見たとおり、人を襲う異形は実在するわ」真紀は言った。「神津山の都市伝説で言うところの、妖怪ね。それら妖怪たちの力を利用して自分たちに都合のよい世界を作ろうとしている集団や、妖怪たちの親たる蕃神たちも実在する」

「おばさんは、蕃神たち、って言っていますけど、邪神が複数存在するということなんですか?」

「そうね。複数……というより、無数ね」

「つまり、無数の蕃神がいて、無数の妖怪がいる……」

 妖怪の親たる蕃神――似たようなことが『神津山の昔話と伝説』に記されていた。それをいち早く指摘した一也に、隼人は賞賛を送りたかった。しかし、特機隊の行動についてまだ得心がいっていない。

「化け物が実在することは、認めます。でもどうして、特機隊は事実を隠すんですか?」

「それらの存在が公になれば、世間はパニックに陥ってしまう。それに、特機隊だけではなく、邪教集団側も事実を隠蔽しているわ」

「世間がパニックに陥れば、邪教集団にとっては都合がよさそうですけど」

 合理的な考えと思えたが、真紀はそれを否定する。

「パニックが起これば、邪教集団は世界中から注目を浴びて活動がしにくくなる。妖怪たちだって、その存在が明るみに出され、人間たちに攻撃されてしまうわ」

「なるほど」隼人は頷いた。「好き好んでパニックを起こすやつはいない、っていうことはわかりました。それでも、真実が流布されそうになればどんな手段を行使してでもそれを隠蔽するなんて……人の記憶を勝手に消すなんて、警察のすることじゃないですよ」

 迷わずに告げた。信頼する真紀だからこそ、無慈悲な行為を認める発言などしてほしくないのだ。

「ある意味」真紀は言う。「特機隊は公安警察に近いセクションなのかもしれないわね」

「公安警察というと?」

「刑事警察が国民の安全を守る立場であるのに対し、公安警察は国家の安全を守る立場である、ということよ」

「国を守るためなら人の尊厳を奪うのも厭わないんですか? そういや拳銃で化け物を射殺したし、あれではまるでSATサットです。相手が人間だったとしても、やっぱり撃ち殺すんでしょうね」

「状況によっては、それはあるかもしれない。けれど、公安警察もSATも特機隊も、必要とされて設立された部署なのよ」

「そうであったとしても、特機隊は非情です」悔しさで胸が張り裂けそうだった。「特に指揮を執っていたあの男は、傲慢な感じでした」

 隼人がうつむくと、真紀はオールバックの男の名を水野みずの昭彦あきひこと告げ、話を続ける。

「確かに、特機隊の任務は非情よ。でも、水野さんは融通の利く人だわ。水野さんが単なる堅物だったら、隼人くんと蒼依ちゃんも処置されることになっていたはず」

 そっと顔を上げると、愁いをたたえた目で見つめられていた。

 ――この人は苦しんでいる。

 隼人はそう悟り、「わかりました」と返した。

 慰めになったのだろうか、真紀の顔にうっすらと安堵が浮かんだ。そして彼女は、水野の部下の女が尾崎おざき恵美えみという名であることを付け加えた。

「水野さんは人当たりのよくない感じだけれど、尾崎さんはいつも瑠奈に優しく接してくれるの」

 蒼依を気遣う様子を顧みれば、尾崎恵美という女は水野と違って人との接し方をわきまえているに違いない。しかし――。

「いつも……って、あの人たちはいつからここにいるんですか?」

「半年前からこの敷地内の別宅を分駐所にしているわ。神津山に多くの妖怪たちが寄り集まった現状では、当地での駐在は避けられないのよ。メンバーの入れ替わりはあるけれど、常時、特機隊第一小隊の二十人前後が、ここを拠点として任務に就いているわ」

 真紀は説明するが、紺色の作業服の集団も二十人前後はいたはずだ。

「鑑識みたいな人たちもですか? あの人たちが処置をするとか?」

「あの人たちは特機隊の処理班で、処置を施す部署ではないわ。彼らも神津山に派遣されているのだけれど、その分駐所がどこなのか、それはわたしにもわからない」

 いずれにしろ、特機隊の実働部隊が神宮司邸を根城としていることには違いない。

「どうしてここが特機隊の分駐所になっているんですか?」

「そもそも、ここには使われなくなった別宅が二棟もある。しかも、周りに民家がないわ。特機隊の一個小隊を受け入れるには都合のよい場所だったのよ。そして、一年前に他界した神宮司清一が、特機隊の設立に尽力したメンバーの一人だったから」

「おじさんが?」

 隼人も面識はあるが、挨拶を交わす程度だった。蒼依の話によれば、神宮司清一はキャリア組のエリート警察官であり、最終的に警察庁長官官房長まで上り詰めたという。警察庁勤務の彼が神津山の自宅に帰ってくるのは、月に一、二度だったらしい。家族から離れて暮らしていた一人の警察官僚が、妖怪退治の青写真を描く一員だった――ということなのだろう。

「清一は特機隊の設立に関して、所属する部署の内部でも表だっての行動は控えていたわ。相手が妖怪や蕃神だもの。……でもこれは日本だけの問題ではなかった。アメリカやヨーロッパでは、そういった脅威に対処するための専門機関が何十年も前に設立されていたわ。それに、日本にしても今になってあの魔物たちが出没するようになったわけじゃないの。神津山に限らず、全国でその存在が以前から確認されていた。もちろん、この問題が公的に取り上げられることはなかったわ。日本国政府が……いえ、行政の一部がやっと動き始めたのが、たったの五年前」

「つまり震災の一年後……神津山で失踪者が増え始めた頃ですね?」

「そうね。それは同時に、妖怪たちが神津山に集まり始めた頃でもあったわ。その妖怪たち……蕃神の眷属たちの存在を知った一部の官僚が、五年前に水面下で動き始めたの。証拠となる資料を揃え、蕃神の研究では先鋭となるアメリカの機関の協力を得て、日本の警察機関内を調整したのよ」

 そして真紀は再度、警察内部でも特機隊の任務の実態が知悉されていない、という事実にふれた。有事の際は各警察本部に通達が出されるが、その中身は特機隊が任務に就くという旨だけである。しかも、特機隊の任務がいかなる警察活動よりも優先されるという。

「ひとたび特機隊が任務に就くと、所轄の警察が支援態勢を取るわ。それなのに、特機隊が妖怪退治をしているだなんて、所轄の警察には知らされない。だもの、処置の失敗や妖怪の犠牲になったとかで失踪者が増えても、所轄の警察に対処のしようはないわ」

「所轄だって警察なのに、特機隊との情報の共有ができないなんて」

 まるで縦割り行政の見本である。特機隊の例に限らず、こういったシステムによって市井の人々が損害をこうむる現実は、枚挙にいとまがない。

「蒼依とおれを助けてくれたことには感謝します。でも、あとの三人も、なんとか助けてやってください」

 力を込めて訴えた。

「それはできないわ」

 すげない返事だった。

「なぜです?」

「何度も言うけれど、妖怪……あの異形たちは、現代社会において、あってはならない存在なの。あの異形たちの存在を公にしてしまえば、社会そのものが成り立たなくなる。それを防ぐためには、目撃者の処置が必要となるわ」

「どうしても、あいつらは処置されてしまうんですか?」

 いくら問い詰めようと、答えは変わらないだろう。隼人は憤りを抑えられなかった。

「ええ」

 真紀はうつむき加減に答えた。

「だったら、どうして蒼依とおれだけは特別扱いなんですか? 知り合いだから? それとも……」隼人は鎌をかけてみる。「おれに特殊な能力が備わっているから、ですか?」

 真紀が顔を上げた。表情に変化はない。

「普通の人には見えない存在が、見えてしまう……ということね?」

 やはり真紀は知っていたのだ。

「そうですよ」

「確かに貴重な能力よ。でも、隼人くんと蒼依ちゃんをここに招いたのは、奸計があってのことではないわ。どんなに信じられない話ばかりでも、これだけは……本当に信じてほしい」

 まっすぐな瞳だった。訝る気持が維持できない。

「三人の処置を回避できないのは、わたしの力不足のせい。でもこれで精いっぱいなの」

「なら、せめて」隼人を諦念が包んでいた。「特機隊以外のことについても教えてほしいです。あの妖怪のこと、おれのこの変な能力について、おれたち一家がどうかかわっているのか……」

「今から話すわ」

 真紀は頷いた。


 月はすでに西の山並みの背後に隠れ、星空の下、辺りはしんと静まり返っていた。

「気が済みましたか?」

 本宅の車寄せで、水野は真紀に尋ねた。

「打ち明けられることは、できる限り伝えました」

 答えた真紀が見送るのは、水野の部下の一人に付き添われて別宅へと歩いていく隼人だった。グレースーツの男に並ぶその後ろ姿は、水野の目から見ても疲労感に満ちている。

「まさか、無貌むぼう教や山野辺やまのべ士郎しろうのことも詳らかにしたのでは?」

 愚問だったかもしれない。水野は真紀に横目で睨まれた。

「あの子たちが巻き込まれた場合は、あの子たちにすべてを打ち明ける……これは行人さんとの約束です。それを反故にするわけにはいきません」

「さすがに会長ですな。約束は守る、ですか」

「特機隊の皆さんは、日頃からわたしを買いかぶっているようですね。水野さんと違って、わたしは小胆なんです。約束を堂々と破るなんて、とてもできません」

「とんだご無礼を……」

 詫びながら、水野は仰々しく頭を下げた。

「すべての人にそういう態度で接してもらいたいものです。ところで、わたしに話があるとか?」

 真紀に尋ねられ、水野は答える。

「空閑隼人の友人の佐伯一也と彼の両親が、さらわれたそうです」

「佐伯さんご家族が……」

 見れば、水野を前にした真紀としては珍しく、動揺を呈していた。

「われわれは、この事実を空閑隼人とその家族に伝えるべきではないと判断しました。無論、お嬢さんや藤堂さんにもです」

「わかりました。わたしもそのように対処します。……ほかには?」

「ありません」

 水野が答えると、真紀は背中を向けた。

「なら、わたしは家に入るとします」

 抑揚をつけずに告げた真紀が、玄関ドアの取っ手に手をかけ、そして振り向く。

「そうそう……今回の件が一段落したら、警察庁長官が拙宅に遊びに来られるとか」

「本当ですか? ならば、その際は可能な限り分駐所にこもるようにします」

「そう言わずに、長官と杯を交わしてくださいな」

「よしてください」

 危うく顔をしかめるところだった。

「それから、もう一つ」

 真紀は満面に笑みを浮かべた。水野にとって嬉しくない話に違いない。

 げんなりとして「どうぞ」と促した。

「煙草を吸いながら敷地内を歩くの、やめてくださいね。あなた方が使っている別宅に喫煙所を設けてあるはずです。もしくは、あなた方の車の中で吸っていただきたいわ」

「手厳しいですなあ。われわれは出動がなくても二十四時間ずっと、この敷地内の警備に当たっているんですよ。広々とした場所で息抜きしたいところですが……まあ、会長から直々に仰せつかったことですし、行儀を正すよう、ほかの連中にも伝えておきます」

 愛想笑いを浮かべつつ、そう返した。

「お行儀が悪いのは水野さんだけ……みたいですけれど」

「そうですかね」

 愛想笑いが崩れかかったが、うつむいてごまかした。

「では、お休みなさい」と告げて真紀は玄関に入った。

「やれやれ、これだからセレブの奥様は……」

 思わずこぼし、顔を上げた。

 敷地内のそこかしこで立哨に就いているはずの部下たちに、「今すぐその場で煙草を吸っていいぞ」と勧めてやりたい気分だった。


 蒼依はリビングのソファで休んでいた。この別宅内で風呂を済ませたばかりであり、わずかながら気分は落ち着いている。身に着けている下着やパジャマは、用意されていた何種類かの中から自分で選んだものだ。とはいえ、パジャマはサイズを優先した結果、地味なデザインの上下になってしまった。

 リビングの調度は簡素だった。テーブルを挟んで二つのソファが向かい合っており、中央の奥には大型テレビが鎮座している。ほかにはエアコンが据えてあるくらいだ。

 本宅は下履きのまま入る、とグレースーツの女から聞いていたが、その本宅の隣にあるこの別宅には、三和土と床に段差があった。靴を脱いでスリッパに履き替える手間も、日本の通常の民家と変わらない。床面積にしても蒼依の自宅と大差ないだろう。一階にはこのリビングを始め、キッチンやバスルームがあった。二階には寝室が三部屋あると説明を受けている。

 瑠奈とは幼稚園以来の付き合いだが、この敷地に立ち入るのは今回が初めてだ。瑠奈から「遊びにおいで」と誘われたことは何度もあったが、蒼依は敬遠していた。上流階層の大邸宅に立ち入るのが、分不相応に思えたのである。

「何か飲む? ミネラルウォーターなら冷えているものをすぐに出せるけど」

 閉じてあるドアの手前に立ったまま、グレースーツの女が蒼依に声をかけた。この別宅に入ってすぐに「尾崎恵美」と名乗った女である。

「いえ、今はまだ……」

 何も口にする気がせず、蒼依は否んだ。

「じゃあ、テレビでも点けようか?」

 重ねて問われた蒼依は、テーブルの上に置いてあるリモコンと電源の入っていないテレビとを交互に見た。そして、そっとうつむく。

「ごめんなさい」

「謝ることはないわ。蒼依さんは悪いことなんて何もしていない。……そうよね、テレビなんて、気分じゃないわね。わたしのほうこそ、気が利かなくてごめんなさい」

 グレースーツの女――恵美は忖度してくれたが、蒼依は罪悪感を払拭できなかった。自分の言動のすべてに罪があるような気がしてならない。

 口をつぐんだ恵美が静かに腕を組んだ。奥の壁の一点を見つめ、その場に立っている。

 恵美が監視の任務に就いていることは、蒼依にも理解できた。着替えの準備を含めた蒼依の身辺の世話も、恵美が監視を兼ねて担当しているらしい。

 この別宅の中にいるのは、今のところ自分たち二人だけ――と恵美から聞いていた。あの無愛想な男たちの姿がないだけで気持ちはいくぶん楽だが、彼らがいかなる組織なのか、彼らが神宮司家といかなる繫がりを持っているのか、まだ不明だ。たとえ優しく接してくれる恵美であっても彼らの仲間なのだから、心を開くのは迂闊かもしれない。

 ふと、着信やメッセージがないか、気になった。しかし、スマートフォンはスクールバッグごと没収されている。帰宅するときに返してもらえるらしいが、いつ帰宅できるのか、それ自体がわからない。もっとも、パジャマを着せられたうえ、寝室まで用意されたのだから、少なくとも今晩は帰宅できない、ということなのだろう。

 チャイムが鳴った。

 恵美が玄関へと向かうが、応接室のドアは開けっぱなしだ。玄関ドアを開ける音や衣擦れ、スリッパを履く音などが、ストレートに耳に入ってくる。

「あとは頼む」

 聞き覚えのない男の声だった。

 玄関ドアはすぐに閉じられたらしい。そして、二人ぶんの足音が廊下を近づいてくる。

 蒼依は身をすくめた。

 開けっぱなしのドアの外で足を止めた恵美が、「どうぞ」と誰かを促した。

 リビングに入ってきたのは、隼人だった。

「お兄ちゃん!」

 蒼依は立ち上がった。

 伏せ見がちだった隼人が、蒼依を見るなり目を丸くする。

「蒼依、その格好……」

「お風呂に入ってから、貸してもらったパジャマに着替えたの」

 そう伝えつつ、無事に再会できたことをまずは喜んでほしかった、と思った。

「隼人さんも、よかったらお風呂を使ってね。一階の一番奥にあるから」

 リビングの外に立ったまま恵美は勧めるが、隼人は首を横に振る。

「おれは、まだいい」

「なら、好きな時間に使って」と言った恵美が、自分の腕時計を見た。「食事はあと一時間くらいしたら家政婦がここに持ってくるわ」

「飯なんて、喉を通らないよ」

 そう訴えた隼人に、蒼依も倣う。

「あたしも無理」

「わかった。そのように会長に伝えておくわ」頷いた恵美は、隼人に視線を定めた。「蒼依さんには言ってあるけど、あなたたちの寝室は、それぞれ二階に用意してあるわ。就寝時間は自由よ。………わたしはここの一階に部屋を借りているの。今晩からは、この三人で一つ屋根の下で過ごすことになるわね」

「今晩からは、ってどういうことなんだ?」

 訝しむ表情で隼人は恵美を見た。

「状況が安定するまでは何日でもここに滞在してもらう、ということよ」

 さも当然とばかりの答えだった。もっとも、何泊もする可能性があるということを蒼依が恵美の口から聞いたのは、今が初めてである。

「おれは仕事があるんだけどな」隼人は切り返した。「蒼依だって学校がある。二人ともここから通う、っていうことなのか?」

「二人とも、ここにいる間は敷地の外に出られない。敷地内……庭や裏の林を歩き回るのはかまわないわ。といっても、とてつもなく広いけどね。それから、この東にあるもう一つの別宅はわたしたちの分駐所になっているから、立ち入らないように」

 隼人は「まるで刑務所だな」と吐き捨てた。

 しかし蒼依は、しばらくはここにいてもよい、と思っていた。確かに自宅には帰りたいが、今は学校のことなど考えたくもない。それにここにいれば、学校の時間以外ならいつでも瑠奈に会える。たとえ会えなくても、彼女のそばにいられるのだ。

「あなたたちに処置を施さないためよ」恵美は言った。「状況が安定するまで、とはそういうこと。……二人の休暇届は、とりあえず明日のぶんだけ、もう出してあるわ」

 明日だけでも休める、と蒼依は安堵した。しかし「処置」という言葉が何を意味するのか、わからない。

「おれが勤めている工場は、本人が直接電話しなきゃ、無断欠勤になるんだよ」

 隼人は顔を引きつらせていた。

「財界の重鎮……神宮司会長に動いてもらったわ。タゴシマ製作所神津山事業所の代表に、善処せよ、とタゴシマ製作所本社から連絡が直接届いているはず」

「たった一人の従業員を休ませるために?」

 隼人は呆れ顔を呈した。

 ふと、蒼依は不安にさいなまれ、恵美に顔を向ける。

「仕事で関西に行っているお父さんが明日の夜に帰ってくるんです」

「それも把握しているわ。お父さんには、すぐに会えるから、安心して」

 恵美の言葉を耳にした隼人が、すぐに眉を寄せた。

「おやじもここに来る、っていうことか?」

「わたしが決めることじゃないけど、おそらくそうなると――」

 再びチャイムが鳴り、恵美は言葉を切った。

「何かしら」

 独りごちた恵美がやはりドアを閉めずに玄関へ向かうと、蒼依は隼人に顔を向けた。

「今の人……尾崎さんはね、あたしによくしてくれたの。もっと穏やかに接してあげて」

「よくしてくれた? おれたちは軟禁されたも同然なんだぞ」

 突っ返されてしまった。

 ――そんな言い方ってないじゃん。

 ただでさえ押しつぶされそうなのだ。涙をこらえようと唇を嚙み締めた。

「あの……すまなかった」

 蒼依の気持ちに気づいたのか、隼人はばつが悪そうに目を逸らした。そして彼は、窓際まで移動すると、閉じてあるカーテンを少しだけめくり、前庭のほうを覗いた。

 剣吞な空気の中で、蒼依は推し量った。隼人は真紀と会っていたのである。もし隼人が真紀から衝撃的なことを伝えられたのだとすれば、蒼依だけが落ち込んでいる場合ではないはずだ。――いや、隼人の様子を見れば衝撃的な何かを伝えられたことは疑う余地がない。蒼依はそっと改悛した。

「なあ、蒼依」隼人が蒼依に顔を向けた。「神宮司さんちの親戚の子で、タイキという男の子、知っているか?」

 唐突な問いに、蒼依は逡巡するが、思い当たる節があり、すぐに頷いた。

 一年前、ショッピングモールで瑠奈が幼い少年を連れて買いものをしているところに、ばったりと出くわしたのだ。瑠奈はその少年を「親戚の神宮司泰輝たいき」と紹介してくれたが、いとこなのか、もっと遠い血縁なのか、詳細にはふれたくなさそうな様子だった。いずれにしても、その後すぐに瑠奈とは疎遠になってしまい、泰輝という少年について尋ねる機会がなければ、彼の存在を思い起こすこともなかった。

 かいつまんで隼人に伝えた蒼依は、すぐに問い返す。

「お兄ちゃんは泰輝くんに会ったの?」

「うん……昨日、道端でな。瑠奈ちゃんと散歩していたんだ。でもなんていうか、泰輝っていう子はさ……」

 神妙な趣で口ごもった隼人だが、再び口を開こうとした。そのとき――。

 開けっぱなしの出入り口の外に、戻ってきた恵美が立った。そして彼女の横に、トレーナーにジーンズという姿の瑠奈が並ぶ。

「あ……」と蒼依は思わず声を漏らした。

 蒼依の視線を追うように、隼人がそちらに顔を向ける。

「瑠奈ちゃんか」

「お母さんがいいよって言ってくれたから、来ちゃいました」いたずらを咎められた子供のように、瑠奈は肩をすくめた。「隼人さんと蒼依が夕食を取らないって、今、聞いたんですけれど、わたしも食欲がないんで、ここで一緒におしゃべりしてもいいですか?」

 瑠奈は隼人に尋ねた。しかし隼人は、答えを求めるかのように蒼依に顔を向ける。

「あたしはそうしてほしいな」

 断る理由はなかった。

 続けて、隼人は恵美を見る。

「いいのか?」

「かまわないわ。わたしは分駐所で仲間たちと話があるから、あなたたちはここでくつろいでいて」

 答えた恵美は、瑠奈に向かって頷いた。

「尾崎さん、わがままを聞いてもらって、ありがとうございます」

 瑠奈はそう言ってリビングに足を踏み入れた。

「そうそう……隼人さん、まだ説明が途中だったけど」と恵美はこの別宅での過ごし方や割り振られた寝室の位置などを簡単にレクチャーしたうえで、廊下の暗がりにあとずさり、ドアを閉じた。

「蒼依、ここ、いい?」

 蒼依に近寄った瑠奈が、ソファを見下ろした。

「うん」と頷いた蒼依が瑠奈と並んでソファに腰を下ろすと、隼人はその向かいのソファにどっかりと腰を埋めた。

 玄関のほうでドアを閉じる音がするや否や、隼人が蒼依に顔を向けた。

「さっきの人から何か話を聞いたか?」

「この家の間取りとか、敷地の外に出てはいけないとか」

 とりあえず答えたが、どうやら期待に添えなかったらしい。隼人は続けて問う。

「さっきの人やほかの男たち……スーツ姿のあいつらがどんな組織に所属しているか、とかは?」

「聞いていない」

 蒼依は正直に告げた。

「隼人さん」瑠奈が口を開いた。「お母さんは、蒼依にも伝えるように、と言っていたんですか?」

「ああ、そうだよ」

「なら、隼人さんがお母さんから聞いた話は、蒼依が知ってもかまわない内容、ということになります。わたしは余計なことを言わないほうがいいですね。わたしが好き勝手に話したら、二人が知ってはいけないことまで教えてしまうかもしれません。それに、公にできない内容を口にしてはいけない、ってお母さんに言いつけられているんです」

 知ってはいけないこと――事情を把握していない蒼依にとって、その言葉の響きは重かった。浮き足立ち、隼人に確認してみる。

「お兄ちゃんがおばさんから聞いた話って、もしかして、あの人たちが極秘にしていることなんじゃないの?」

「そうなんだけど、おれたちが二度とこの事件にかかわらないように……注意喚起的な意味を込めて、おばさんは話してくれたんだ」

「あの鬼がそうだったように、とても怖いことがまだある、っていうこと?」

 上君畑での惨劇が脳裏をよぎった。

「ああ、とても怖いことが、もっとたくさんある。でもその内容は、口外しちゃいけない。蒼依が言ったとおり、あの人たちが極秘にしている件だからな」

「じゃあ、お父さんにも話しちゃいけないんだよね?」

「おやじ……」隼人の顔に緊張が走った。「そうだな、話しちゃいけないな」

「わかった」

 首肯したものの、重大な話であるに違いないだけに、それを自分の父に打ち明けられないのは、あまりにつらい。はたして行人の前で平然としていられるものなのか、蒼依には自信がなかった。それどころか、行人は明日の夜に帰宅の予定である、ということを思い出してしまう。

「まずは、あいつらが何者なのかだけど……」と隼人はグレースーツの集団について話し始めた。

 彼らが警察庁警備局の特殊機動捜査隊第一小隊の隊員であること。この別宅の東隣にあるもう一棟の別宅が神津山における特機隊第一小隊の拠点であること。特機隊がインターネットや報道関係に干渉して情報操作をおこなっていること。現場での特機隊隊員が特殊な拳銃やセンサーつきサングラス、ペン型パラライザーを装備していること処理班が戦闘の痕跡を隠滅していること。特機隊の設立に瑠奈の父がかかわっていたこと。――蒼依はそれらの話をすんなりと受け入れた。人を食う鬼と比較すれば、よほど現実味がある。

 もっとも、「特機隊の相手は妖怪だけでなく邪教集団や邪神までもが含まれる」と聞くなり、蒼依の中で事件の背景のリアリティがもろくも崩れ去ってしまった。すべてが冗談だったのではないか、と期待したほどである。

 蒼依は困惑しつつもじっと耳を傾けていたが、真相を知った人々が特機隊によって記憶を消去される、というくだりになると、さすがに落ち着いてはいられなくなった。混乱を避けるために必要な情報の隠蔽なのだろうが、その処置によって、吉岡や祐佳、島田ら三人の精神が崩壊してしまうかもしれないのだ。

「瑠奈も……知っていたんだよね?」

 蒼依は瑠奈を横目で見た。

「うん」と力のない声が返ってきた。

 瑠奈の母――真紀はもとより瑠奈までがこの真相を秘匿していたことが、蒼依にはショックだった。とはいえ、瑠奈を恨む気持ちはない。人々の目から隠さなければならない真実があるということを知った今になって初めて、瑠奈の苦しみがわかったのだ。だからこそ、自分自身が許せなかった。

「瑠奈の言うことを聞いていれば」蒼依は言った。「あたしがみんなを止めていれば、こんなことにはならなかった。あたしがもっとしっかりしていれば、誰も不幸にはならなかった。誰も……」

「やめて蒼依」

 瑠奈が蒼依の肩を揺さぶった。

「だって!」蒼依は声を荒らげた。「美羅は食べられちゃったんだよ! 生きたまま食いちぎられて、足しか残っていなかったじゃない!」

「蒼依が止めようとしたって、たぶんあの人たちは上君畑へ行ったよ。どうしようもなかったんだよ。それにわたしだって、あそこに妖怪がいるだなんて確信を持っていたわけじゃないし」

 そう言って瑠奈は蒼依の肩を抱き締めた。

「あたしのせいなの。あたしのせいで……あたしのせいで……」

 瑠奈の腕の中で蒼依は慟哭を繰り返した。涙が止めどなくあふれる。瑠奈だけでなく先ほどは恵美にも諭されたのに、どうしても自分を責めてしまう。

「なら」隼人は言った。「蒼依はこの話の続きを知らなくていいんじゃないかな」

「やだ……」瑠奈の腕を押しのけ、蒼依は隼人を見据える。「聞かせて」

「さっきも言ったけど、とても怖い話なんだよ」

 隼人は気乗りしない様子だった。

「どんなに怖い話だって、ちゃんと聞くから」

 訴えた蒼依は、涙を片手でぬぐった。

「隼人さん」瑠奈が身を乗り出した。「話してあげてください。蒼依はもうあの妖怪を見てしまったんです。しかも蒼依は、見てしまったものを公言してはならない立場に置かれています。それなのに真相を知らないでいるなんて、かえって孤独感にさいなまれると思うんです」

「真相を知れば、瑠奈ちゃんやおばさん、おれともその秘密や恐怖を分かち合える……ということか?」

 隼人の問いに瑠奈は頷く。

 口を閉ざし、隼人はうつむいた。

 それを契機に、リビングは静まり返った。


 三分は経っただろうか。隼人が顔を上げ、蒼依を見た。

「蒼依のためになるのなら、話すよ」

 蒼依は「うん」と頷いた。これから耳にするのは「冗談」ではなく事実である。突拍子もない話に違いない。どんな話でも真面目に耳を傾けよう、と意気込む。

「さっきも言ったとおり……」隼人は話し始めた。「特機隊は妖怪たちと戦っている。上君畑でおれたちの目の前に現れた鬼みたいな化け物も、その妖怪たちの一体だ。蒼依も実際に見たからわかるだろうけど、あの鬼みたいな化け物は張りぼてでも立体映像でもない。実在する化け物だ。神津山の都市伝説で囁かれている妖怪たちは、一部のデマを除いて、概ね実在するらしい。でもそれら妖怪の出自は、意外なものだったんだ」

 そこで言葉を切った隼人は、蒼依と瑠奈とを交互に見やった。二人の反応を窺っているらしい。

 蒼依は黙して隼人の次の言葉を待つ。瑠奈も無言だった。

「およそ三千年前……縄文時代の後期だった」隼人は話を再開した。「大陸……というかしゅうから渡来した一族が、当時の上君畑の一角に居を構えたんだ。彼らは自分たちの故郷でなんらかのトラブルに巻き込まれ、追っ手から逃れてきたんだよ。そして、その追っ手から身を守るために魔術を使用したんだ」

 蒼依の脳裏に浮かんだのは、古代日本の竪穴式住居と、西洋魔法の魔法円だった。双方のイメージが、どうしても嚙み合わない。

「縄文時代に魔術、なの?」

「まあ、大昔の魔術だから、木とか水とかに精霊が宿っているという考えを基本としたものらしいけど……そういうの、おばさんはなんて言っていたかな……」

 そして隼人は、瑠奈に視線を移した。助言を求めているらしい。

「精霊崇拝……アニミズムです」

 瑠奈の答えを聞いた隼人が、「そう、それだ」と頷く。

「お兄ちゃん、大丈夫なの?」

 真面目に聞いているのだから、語る側も真剣に進めてほしかった。

「ごめん。ちゃんと覚えたつもりなんだけど、おばさんの話、結構、中身が膨大だったんだ。おれがつまずいたら、瑠奈ちゃん、補足してくれないか? おばさんには口止めされているんだろうけど」

 決まりが悪そうに隼人はうつむいた。

「わかりました。補足するくらいなら問題ないです」

 瑠奈の言葉が励みになったのか、隼人は安堵の表情を見せた。

「ありがとう」と告げてから、隼人は本筋に戻った。「その一族は魔術を使うんだが、魔術が効力を発揮しやすいように、まずは結界を作った。広範囲に及ぶ結界だ。まあ、結界を作ること自体も魔術の行使だったんだろうけど」

「えーと」蒼依は問う。「広範囲って言ったけど、どれくらい広かったの?」

「今の神津山市の境界線が、一族の作った結界の名残だ……というより、今でも結界の効力はあるらしい」

「じゃあ、今の神津山市そのものが結界の中……っていうことじゃん」

 蒼依は啞然とした。

「そういうことだな。その結界内ならば、敵対者の魔術の効力を抑えることもできるんだ。さらに、結界はそれ自体が一族の領地を示すものでもある。そのため、結界内に以前から住んでいた縄文人は、すべて近隣の土地へと追いやられてしまった」

 ここまでは特に難しい話ではないが、蒼依は疑念を抱いた。

「三千年前も昔のことなのに、どうしてわかるの?」

「古文書が残されていたんだ」隼人は答えた。「原書は古代中国の文字で書かれていたに違いないけど、残されていたのは写本で、漢語で書かれている」

「その写本って、どこにあったの?」

「神津山市内のとある民家で発見された。今は別の場所で保管されているみたいで……」

 言葉尻を濁した隼人が、瑠奈に視線を送った。

「写本が発見された場所や現在の所在を……隼人さんは知らないんですね?」

 瑠奈は真紀がどこまで話したのかを確認しているらしい。

「うん……まあ、そうだよ」

 煮えきらない返事だった。

 瑠奈が不審そうに口をつぐんだのを機に、蒼依は隼人を促す。

「お兄ちゃん、続きを言って」

「わかった」隼人は背筋を伸ばした。「一族が次にしたことだけど、自分たちの手先となる軍隊を作ったんだ。その兵士たちが、神津山で目撃されている妖怪たちさ」

「上君畑に現れた鬼も?」

 今の蒼依にとって妖怪といえば、目の前で二人の人間を食い殺した巨大なあの化け物である。

「ああ。でもその当時の妖怪は姿形が定まっていなかった。形はないけど、一体一体が精強な兵士だったんだ。一族を守るための無敵の軍隊が結成されたわけだ。……魔術によって無敵の軍隊を作り、魔術によってそれを操った。おかげで一族は、周から追ってきた敵を打ち負かすことができたのさ」

「姿形がなくても無敵だったの? てゆーか、形がないのに戦えるの? それとも、形がないというのは、あの鬼みたいに透明だったという意味なのかな?」

 得心がいかず、矢継ぎ早に質問した。

「確かに鬼以外の妖怪たちも姿を消せる。しかもその当時……まだ姿が不定形だったころからな。つまり、形がないというのは、今も言ったように、不定形ということだ」

「不定形っていうと、ぐにゃぐにゃした感じだよね。でも、どうすればそんな不定形の兵士を作れるの?」

「一族の中から選ばれた女が、その兵士を産むんだよ」

「それってつまり、人間の女の人が妖怪を産んだっていうこと?」

 聞き違えたのかと思い、蒼依は重ねて尋ねた。

「高三土山の頂上に神々を降臨させ、何人もの女がそれら神々と交わった。そして女たちは、神々の子を産み落とした」

「ちょっと待ってよ」重要な箇所らしいと悟り、蒼依は確認する。「妖怪って、母親が人間の女の人で、父親が神様? しかも神々って、複数の神様? そもそも、神様なんて本当にいたの?」

「古文書の写本にそう記されているの」と答えたのは瑠奈だった。

「もしかして、瑠奈もその写本を読んだの?」

「手にしたことはあるけれど、漢文で読みづらいし、貴重な書物でもあるから、すぐに表紙を閉じちゃった。でも、写本には妖怪という表現は使われていないらしいの。神の子、という意味の言葉で書かれているとか」

「おばさんは妖怪を、ハイブリッド、と呼んでいた」隼人は言った。「特機隊のやつらも、そう呼んでいたし」

「ハイブリッド、って?」

 蒼依の問いに隼人は答える。

「幼いに、生まれる、と書く幼生ようせいという言葉があるけど、特機隊は、神の子が神になる前の幼体という意味で用いている。で、人間との間に生まれた混血の幼生は純血の幼生に対して、ハイブリッド幼生、と呼ばれているんだ。略して、ハイブリッドだ」

 ならば神というより生物ではないか、と蒼依は感じた。神もその子供たちも、太古より存在する人智を超えた生き物なのかもしれない。

 蒼依は瑠奈に顔を向ける。

「お兄ちゃんの言うとおりなら、あの鬼はハイブリッド?」

「そうだね。この地球上に存在する妖怪のほとんど……つまり幼生のほとんどがハイブリッド、だと思う」そして瑠奈は隼人を見て言う。「隼人さん、続けてください」

「ああ」隼人は頷いた。「ハイブリッドの誕生の様子は人間本来の出産の過程と変わらないし、生まれたときの姿も母方の遺伝子を受け継いだものなんだ。でもハイブリッドは、生後一週間ほどで父親似の……不定形の姿となる」

 嫌悪の色も露わに隼人は語るが、蒼依とて平気なわけではない。

「不定形の赤ちゃんだなんて……でも、それが父親似の姿なら、女の人と交わった神様も不定形、っていうことじゃん」

「ああ、そうだな。まあ、神といっても邪神だし」

「邪神……」

 怖気を振るう蒼依に向かって、瑠奈は頷く。

「そう、邪神よ。特機隊は蕃神と呼んでいるけれど」

「どっちにしても、あたしたちがイメージする神様じゃないんだよね? それはともかく、その不定形のハイブリッドが、どうして無敵なの?」

「流動的な体でも、剣や槍で傷つけられることはなく、高熱にも耐え、岩をも砕く力を有するんだ。そのうえ寿命がない。父譲りの肉体、ということなんだろうな」

「そうか、邪神の子だもんね。でも、あの人たちは鬼をやっつけちゃったよ」

「ハイブリッドの弱点は脳なんだ」隼人は答えた。「ほかの部位を傷つけてもすぐに再生してしまうんだよ。ハイブリッドの形によっては、どこに脳があるのかわかりにくい場合もあるらしい。けど、特機隊はなんとしてもそれを探り出し、そして破壊するんだ。脳さえ破壊すれば、ハイブリッドの体の組織はおのずと崩壊していき、やがて跡形もなく蒸発する。特機隊が装備している拳銃と弾丸は対ハイブリッド用ということなんだけど、そういった武器がなければ、あいつらを斃すのは容易ではないんだろうな。そういや、あのサングラスだって、不可視状態のハイブリッドを視認するための高感度センサーなんだ。センサーグラスというらしい」

 あのときの蒼依は軽トールワゴンの後部座席に乗っていたため、鬼の体の崩壊は見えなかった。しかし隼人の話したとおりならば、美羅と戸川を食い殺した化け物は、その死骸さえ残していないのだろう。古代においてハイブリッドがそのような最期を遂げることはあったのだろか、と蒼依は考えてしまう。

「昔の人たちにとってのハイブリッドは、簡単に斃せるような相手じゃなかったんだね」

「ああ。そんなハイブリッドたちを使役し、一族は追っ手に勝利した。それでも一族は、先住民である縄文人たちとの交流を図ることはなかった。自分たちの秘儀が流出するのを恐れたんだ。おかげで一族はときとともに衰退し、わずかとなった者たちもこの地を去って散り散りとなってしまった。あとに残されたのは、ハイブリッドたちだけだよ」

「そのハイブリッドたちは、もちろん死に絶えなかったんだよね?」蒼依は問う。「寿命がないんだもん、現在生きているハイブリッドたちはその当時から生き続けている、っていうことでしょう? もしくは、それらの子孫とか?」

「やつらの世代交代は確認されていない。しかし少なくとも、現在生きているハイブリッドの多くは、その当時に生まれた個体らしい。それは、食料を与えてくれた主に見放された多くのハイブリッドが、三千年もの間、自分たちで食料を確保していた、ということでもある。まあ、食べなくたって死にはしないらしいけどな。いや、食べても食べても飢え続けている……と言うべきかな」

 蒼依には話が吞み込めなかった。言った本人が首を捻っているくらいだ。もっとも、瑠奈を一瞥した隼人はすぐに蒼依に視線を戻し、「話を進める」と告げた。どうやら重要な箇所ではないらしい。

「ハイブリッドは肉食だ。つまり、生きた動物を補食するようになったわけさ。しかも、獲物が断末魔に覚える恐怖を、やつらは欲していたんだ」

「恐怖……」

 嫌な予感がした。それを耳にすることを躊躇してしまう。

「不定形の異形と対峙したときの恐怖や、死を目前にしたときの恐怖だよ。恐怖だけじゃない。絶望や悲しみ、怒り……獲物が抱くネガティブな感情が、獲物の血肉に味を添えるんだ。ハイブリッドにとって、うまいかまずいかはそれで決まる。だから獲物を食うのは、その獲物を徹底的に追い込んでからなんだ。おばさんは、ハイブリッドが好むのは情緒を持つ人間だ、と言っていたけど、さっきの現場を見れば、それは間違いないだろう」

 食後に聞いたなら嘔吐していたかもしれない。食前なら、食事は何も喉を通らないだろう。夕食を断ったのは正解だったようだ。

 ならば、と冷静に考えてみた。繫がっていない部分に気づき、すぐに指摘する。

「あの鬼には姿形があったよ。神津山で目撃されている妖怪だって姿があるし。不定形だったハイブリッドは、どうしてあたしたちの知っている妖怪の姿になったの? というか、メジャーな姿形ではないかもしれないけど」

「それは時代がもっと下ってからだな。順を追って説明する。……渡来した一族が姿を消すと、外の土地に追い立てられていた縄文人たちが、この土地に戻ってきたんだ。ハイブリッドたちにとっては願ってもない幸運だよな。ごちそうが自ら寄ってきたんだから」

 捕食されるのは人間である。まるでハイブリッド側に立ったかのように言う隼人を、蒼依は凝視した。

「もっとも」隼人は続ける。「いくらうまくても飢えが満たされるわけじゃない。食い続けるしかなかったんだ。やがてハイブリッドたちは獲物を奪い合うようになったけど、同種族が傷つけ合う、という事態を避けるためか……それぞれが縄張りを作り、互いに距離を置くようになった」

 隼人はそこで息をついた。表情に疲れが見える。あの事件の直後なのだ。隼人の精神は疲弊しているに違いない。蒼依は休憩を入れる旨を伝えようとしたが、それより早く、隼人は口を開く。

「でも古文書の写本によると、ハイブリッドにとっては、この土地、つまり結界の内側が最も居心地のいい場所だということなんだ。居心地のいい場所なんだけど、どうやら飽和状態だったらしい。当時の神津山にはハイブリッドが五百体以上はいたというからな。そんな飽和状態の中でハイブリッド同士の距離は広がり続け、ついに、おのおのの縄張りは結界を越えてしまった。そして長い年月を経て、ハイブリッドたちは日本中に散らばったんだ。自分たちの主である一族が散らばったようにな。しかも、ハイブリッドが生まれたのは日本だけじゃなかった。似たような事例は世界中にあったんだ」

 二度目の息継ぎがあった。疲労の色は濃くなっている。

 さすがに黙っていられず、蒼依は「休憩しようよ」と訴えた。しかし隼人は、「大丈夫だ」と告げて話を再開する。

「この土地を離れた一族は、ハイブリッドたちをどこかで観察し、その様子を古文書に書き残した。だが古文書の写本に記されてあったのは、ここまでだ。それ以降のハイブリッドの生態や分布については、特機隊との連携組織である秘密研究機関の調査によって判明したことなんだ。この先は、その秘密研究機関が調べた結果だ」

 隼人は語り続けた。

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