第4話 血の咆哮 ②

 隼人はとっさに蒼依の肩をつかんだ。そして「早く乗れ」と言いつけ、彼女を軽トールワゴンへと押しやる。

「嫌!」蒼依は隼人の手を振り払った。「美羅を助けなきゃ!」

「助けられるわけないだろう。瑠奈ちゃんも早く、蒼依と一緒に車に乗ってくれ」

 隼人は瑠奈に目を向けるが、彼女は「でも」と難色を示した。

 そのとき――。

「ぎゃあ!」

 美羅の絶叫が上がった。

 見れば、鬼が美羅の首から上を食いちぎったところだった。そしてその巨大な化け物は、食いちぎったものをゆっくりと咀嚼し、一気に嚥下する。

 頭部を失った少女は二秒ほど両足を痙攣させたが、それもすぐに収まった。嚙み切られた首の断面から鮮血が噴き出している。

 鬼が再び美羅の体にかぶりついた。上半身から下半身と、漸次巨大な口に詰め込んでいく。

 鬼の口が閉じた拍子に美羅の両膝から下が嚙み切られた。ソックスと革靴がセットになった両足が、吉岡と祐佳の目の前に落下する。へたり込んでいる吉岡と立ちすくむ祐佳は、美羅の鮮血を頭から浴びてすでに赤く染まっていた。

 刹那、戸川がほかの三人を置き去りにしてこちらへと駆け出した。しかし、鬼の左手が彼の腰の辺りをあっさりととらえてしまう。

 ――見捨てるしかない。

 腹を決めた隼人は軽トールワゴンの左後ろのドアを開けた。そして蒼依を強引に車の中へと押し入れる。顔面蒼白の蒼依は、今度ばかりは無抵抗だった。

 拾ったスクールバッグを蒼依の膝の上にほうってからドアを閉じた。続いて助手席のドアを開ける。

「瑠奈ちゃん、早く」

 時機を失うわけにはいかなかった。しかし瑠奈は鬼から目を離さず、意味不明な言葉をつぶやいている。

「タイキ、どうして助けてくれないの……どうして……」

「早く車に乗れよ!」

 叱咤しつつ、隼人は見てしまう。鬼の口に押し込まれた戸川の胸から上が食いちぎられる光景を。

 断腸の思いで惨状に背中を向け、瑠奈の腕をつかむ。

「急がないとこっちも――」

 軽トールワゴンの後ろに目を留めた隼人は、思わず言いさした。

 濃いグレーのスーツを着た五人が立っていた。五人ともこの薄闇の中で、隼人には見覚えのあるスポーツサングラスをかけている。おのおのが右手に持っているのは、どう見てもグロック17かグロック18――いずれにしても小型オートマチック拳銃だ。

 隼人は声も立てられずに瑠奈から手を離した。

 気配を感じたのか、瑠奈もグレースーツの五人に目を向けた。そして「うそ……」と漏らし、肩を強張らせる。

 五人のうち中央でやや前に立っているオールバックの男が、左手を自分の肩の高さに掲げ、おのおのの指をなんらかの法則に従って曲げたり伸ばしたりした。どうやらハンドサインらしい。

 その男を含めた全員が拳銃を両手で構えた。五つの銃口が鬼に向けられる。

 そして――。

 炭酸飲料の缶を開けたときのような音が連続した。軽減された発砲音だが、やはり、それらの拳銃にサプレッサーが装着されているようには見えない。

 連続する射撃音に鈍い破裂音が重なった。

 いくつもの薬莢が跳ねる。

 隼人は廃屋のほうに目を向けた。

 射撃音と破裂音とが響くたびに、戸川の胸から下を左手に持つ鬼が、前後に激しく揺れた。巨軀のあらゆる箇所から紫色の体液が迸る。

 鬼の左肘が弾け、戸川の残骸を持つ前腕が地面に落ちた。それでも銃撃はまだ続いている。苦悶を呈するかのごとく叫びを上げた鬼は倒れそうになるが、すぐに口を閉じ、四本の足を広げて体のバランスを保った。

 オールバックの男が射撃をやめ、左手を自分の額の前にかざした。

 ほかの四人も射撃をやめる。

 鬼の左腕――前腕を失った上腕がだらりと下ろされた。紫色の体液が噴き出る傷口の中に、こより状の骨が見える。そのこよりがするするとほどかれ、しなやかにくねる十本ほどの触手に変化した。触手の一本一本は人間の指ほどの太さである。それら触手の束が傷口から真下に向かって素早く伸び、地面に落ちている巨大な左前腕に絡みついた。よく見れば、戸川の下半身を解放した五本の指が雑草をかきむしっている。

 引き続きハンドサインが出されると、両端に立っていた二人の男が前方に走った。鬼から五メートルほど手前で立ち止まった二人が、再び両手で拳銃を構える。

 抑えられた射撃音が二つ、ほぼ同時に鳴った。

 鬼の鼻から上が吹き飛び、巨軀が仰向けに倒れた。

 四本の間接肢が、天に向かって伸びきっている。

 すかさずオールバックの男がハンドサインを出した。その彼の右に立っていた男が、小走りで先の二人へと近づく。合流した三人の男は、拳銃を右手に提げたまま廃屋に向かって歩いていった。

 祐佳と島田は呆然と立ち尽くしていた。吉岡は未だに立てないでいる。吉岡と祐佳の前には美羅の両足、そして背後には仰向けに倒れている鬼とその前腕、戸川の胸から下と戸川のものとおぼしき二本の腕があった。

「さて」片手でネクタイを緩めたオールバックの男が、ゆっくりと振り向いた。「お嬢さんは無事だったようだな」

 男は言いながら隼人たちのそばに歩いてくると、軽トールワゴンの助手席のドアをおもむろに閉じた。

「どうしてここがわかったんですか?」瑠奈が男を睨んだ。「やっぱりわたしのスマホに細工をしたんですね」

「ふっ、察しがいいね」

 失笑した男は、肩をすくめた。

 瑠奈は唇を嚙み締めると、再度、口を開いた。

「そうだと思ってスマホを使わなかったのに」

「君はそれ以前に蒼依くんに電話しただろう。そのとき、何を話したかな?」

 男の言葉を受け、瑠奈は思い当たったように目を見開いた。

「それに君も隼人くんも蒼依くんも、スマホを持っているからな。ならば、電源が入っている限り、われわれは居場所を探り出せる」

「GPS? それに隼人さんと蒼依のも?」

 そうこぼし、瑠奈は肩を落とした。

「ちょっと待ってくれ」隼人は男の前に立った。「一体これはどういうことなんだ? あの化け物はなんなんだ? あんたらは何者だ? どうしておれと蒼依を知っている? あんたらと瑠奈ちゃんとはどういう関係なんだ? あんたらが石塚やほかの多くの人たちを連れ去ったのか?」

「申し訳ないが、君の質問に答えている時間はない」男は隼人から目を逸らし、瑠奈に向き直った。「とにかく今は、われわれと一緒に帰ってもらうよ」

「わかりましたが、ほかのみんなは?」

「向こうにいる三人には処置が必要だな」

 廃屋のほうを見て男は答えた。

 グレースーツの三人はそれぞれ、吉岡と祐佳、島田の前に立っていた。うち、吉岡を見下ろしていた男が、へたり込んでいる吉岡に合わせておもむろにしゃがみ込む。

「どうしてもですか?」

 瑠奈の瞳が愁いを帯びた。

「どうしてもだよ」

 男の声に迷いはなかった。

「じゃあ、隼人さんと蒼依は……」

「会長のたっての願いがあってな、処置はしない」

「本当ですか?」

 訝しむ表情だった。

「本当だが、二人にも一緒に来てもらう。このまま彼らの自宅に帰すわけにはいかない」

「勝手なことを……」隼人は男を睨んだ。「ふざけるのもいい加減にしろ」

「ふざけてはいないさ。事情は会長が……このお嬢さんの母親が話してくれるよ」

「おばさんが?」

 隼人が困惑していると、グレースーツのもう一人がオールバックの男の横に並んだ。この一人だけがノーネクタイである。よく見れば女だった。ショートヘアだ。前回とは服装が異なるが、ろくろ首のような化け物を斃したあの女である。

「隊長、ターゲットの体が崩壊し始めました。ほかにハイブリッドはいないようです」

 女の報告を受けた男が、廃屋のほうに顔を向けた。

 鬼の全身から幾筋ものうっすらと湯気が立っていた。筋骨隆々とした肉体だったはずだが、心なしかしぼんでいるように見える。四本の間接肢は、それぞれが体の外側に向かって地面に倒れていた。

「よし、武装解除だ」

「了解」と答えた女は、拳銃をスーツの内側に入れた。そしてサングラスを外し、それをスーツの内ポケットに差し入れる。年の頃は隼人とさほど変わらないかもしれない。もっとも、隼人と比べれば大人の物腰である。

 隊長と呼ばれた男も拳銃をスーツの内側に入れてサングラスを外した。こちらは四十路過ぎだろう。彼もやはりサングラスを内ポケットに差し入れるが、出した手に握られているペンライトは、これも隼人には見覚えのあるものだった。

 男はペンライトの明かりを点けた。オレンジ色の小さな光――ではなかった。白くまぶしい光だ。

 そして男は、ペンライトを高く掲げ、大きくゆっくりと振った。島田の前に立っているグレースーツの男が、片手を振ってこれに応える。

「それにしても」男はため息をつくと、ペンライトの明かりを消し、それをスーツの内ポケットに戻した。「お嬢さんも無茶なことをしてくれる。われわれに相談してくれたら犠牲者は出なかったはず。で、何人の人間が食われたのかな?」

「二人です。……でも、あなたたちに相談できるはずがありません。現に、向こうにいる三人には処置を施すつもりじゃないですか」

「食われるよりはマシだと思うが」

「マシだなんて、ひどい……」

 瑠奈は眉を寄せた。

「お嬢さんのことだ。彼に助けてもらうつもりでいたんだろうがね」

 その言葉に対する返答はなかった。うつむいた瑠奈が左右のこぶしを握り締めている。

 ――彼?

 隼人はふと思い、廃屋の左の杉林を見た。しかし、もう一体の化け物の姿はない。あの甘いにおいもいつの間にか消えており、悪臭だけが漂っている。

 視線を右に移すと、グレースーツの三人が、それぞれペンライトを照らして鬼の死骸を観察していた。三人とも拳銃とサングラスは収納したらしい。

 湯気の中に横たわる巨軀は、なぜか骨だけの状態だった。骨格の全体的な配置としては人間のそれと大差ないだろう。だが、可視化する過程で視認したとおり、骨の一本一本がねじれていた。隼人の位置からでは、その程度しかわからない。

 気づけば、廃屋の手前で吉岡と祐佳、島田が地面に倒れていた。

「おい貴様!」隼人はオールバックの男に詰め寄った。「あいつらに何をした!」

 だが男は表情を変えない。

「眠ってもらっているだけだ」

「眠って?」

 隼人は自分が眠らされたことを思い出した。

「では」男は言う。「君の車のキーを貸してもらおう」

「断る!」

 感情が高ぶっており、かなり取り乱してはいるが、正しい対応だと自認した。

「ここには何も残しておけないんでね。君の車はわれわれが運ぶ。車に傷はつけないから安心してくれ」

「そういう問題じゃない!」

「拒まないでくれないか。最近の車のようだから強引なエンジン始動は手間がかかるだろうし、かといってレッカー移動は目立ってしょうがない。それから、自宅の鍵も含めたすべての鍵類と携帯電話の類いもしばらくは預からせてもらう」

 男は言うと、不意に隼人の左腕をひねり上げた。

「いてっ……何すんだ!」

「この腕時計は、特に預かる必要はないようだな」

 笑う男を睨みつけ、隼人はその手を振り払う。

「冗談じゃねーぞ」

 隼人が切歯扼腕していると、一台の車が隘路を徐行してきた。そのヘッドライトが、隘路沿いの草むらに停めてある二台の黒い車を照らす。停めてある二台はどちらもSUVであり、グレースーツの五人が乗ってきた車、と思われた。二台は同型らしい。

 徐行してくる車は二台のSUVの横を通り抜け、空き地へと入った。軽トールワゴンの後ろで停止したそれは、灰色のマイクロバスだった。フロントガラス以外の窓はすべてスモークである。

 ヘッドライトを消してエンジンを切ったマイクロバスから、上下とも紺色の作業服の集団がぞろぞろと降りてきた。皆、作業服と同色のつばつき帽子をかぶっており、白い立体形マスクを装着している。おのおのがなんらかの機材らしきものや大きなバッグを携行していた。

 二十人ほどの作業服姿がマイクロバスの左側で横一列に並んだ。そんな彼らに遅れて降車した同じ作業服の一人、四十歳前後の大柄な男が、オールバックの男の元に駆け寄る。

「変更は?」と尋ねた大柄な男は、スーツケースのようなものを左手に提げていた。作業服も帽子も無地である。

「いいや、予定どおりだ」

「了解」と答えた大柄な男は、マイクロバスの横に並んでいる一同に向かって片手を上げると、廃屋へ向かって歩き出した。その背中に作業服の集団が続く。

 ドアの閉じる音がした。

 見れば、蒼依とグレースーツの女が、並んで軽トールワゴンの左に立っていた。蒼依の目はうつろだ。女は左手を蒼依の肩に回しており、もう一方の腕でスクールバックを抱えていた。

「蒼依にさわるな!」

 隼人は女に向かって毒づいた。

「大丈夫。蒼依さんはおとなしくしてくれている。隼人さんのときのようなことはしないから、安心して」

 無表情で女は答えた。

 憤懣をこらえ、隼人は歯を食いしばった。

「さあ、隼人くん」オールバックの男が隼人に右手のひらを差し出した。「車のキーと自宅の鍵と携帯電話だよ」

 蒼依と瑠奈のためにも抵抗しないのが得策だろう。隼人はジーンズの後ろポケットから愛車のキーを、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出す。

「おれたちをどこへ連れていくんだ?」

「お嬢さんの……瑠奈くんの自宅だ。君の車は君の自宅に戻しておく」

 キーとスマートフォンを受け取りつつ、男は瑠奈を見た。不遜な視線を避けるように瑠奈は隼人と目を合わせるが、すぐにうつむいてしまう。

 受け取ったものをスーツの脇ポケットに入れた男は、断りを入れたうえで、隼人のボディチェックを始めた。ジャケットの内ポケットから運転免許証と財布を取り出し、それぞれを確認する。財布に至っては、中身まで調べられてしまった。

「免許証と財布は残しておいてやろう」

 返してもらったそれらを、隼人は無言で元の位置にしまった。

 作業服の集団と入れ替わりにグレースーツの三人が戻ってきた。ペンライトは三本とも、まだ明かりが灯されている。

「二人の高校生はどちらも血まみれですが、どうやら犠牲者の血を浴びたようです。本人たちにけがはありません。ただ、金髪の男は額と手首にけがをしています」

 三人の中でも年かさの三十代半ばとおぼしき男が告げた。あとの二人は彼よりも若干若いらしい。

「やつの二つのけがはおれが――」

 隼人は言いかけたが、瑠奈にジャケットの袖を引かれて口を閉ざした。そして、蒼依をかばおうとしていた自分に気づく。

「黙っていたほうがいいです」と瑠奈が耳打ちした。

「何かな?」

 オールバックの男に問われ、隼人は「なんでもない」と返す。

「ふっ」見透かしたような目で失笑したオールバックの男は、報告した男に顔を向けた。「金髪の男の容態は?」

「出血していますが、命に別状はないようです。処理班が応急手当てを施しています」

「わかった。あとは処理班に任せよう」

 オールバックの男は言った。

 隼人のジャケットの袖をつかみ続ける瑠奈の手が、小刻みに震えていた。


 彼は闇の中をさまよっていた。出口はどこにもない。前後左右、上下とも、漆黒の闇に塗り固められているだけだ。

 糞尿のにおいがあった。巨大な何かがすぐそこで蠢いている。

 巨大な何かは女である。言われるまでもない。彼にはそれがわかっていた。

 しかし、巨大な何かに目を向けることはできなかった。それを見たからこそ、あのときは正気を失ったのだ。

 彼は気配の根源に目を向けまいと努力した。それでも巨大な何かはにじり寄ってくる。

 女の声が悪臭を放ちながら耳元で囁く。

「男がほしい」


「うわあああ!」

 隼人は叫んだ。

 左右をグレースーツの男に挟まれていた。SUVの後部座席である。三人掛けとはいえ、手足を弛緩させるほどの余裕はない。

 煙草のにおいがきつかった。夢の中の悪臭よりひどいかもしれない。

「悪夢にでもうなされたか?」

 そう茶化して右の男は失笑した。オールバックの男だ。煙草自体は見当たらないが、においはこの男から漂ってくる。ヘビースモーカーであるようだ。

 この煙草のにおいに影響された可能性は否めないにせよ、糞尿のにおいまで感じたのだから、まさしく悪夢だった。しかし、声を上げてしまったことは羞恥の極みである。隼人は返事もせずにシートに身をゆだねた。

 左の三十台半ばの男は無言を決め込み、こちらを見ようともしない。運転しているのはもう一人の若い男だ。助手席は空である。

 日は完全に暮れ、車外は闇一色だった。まだ山間部らしい。街灯さえ見当たらない。

 もう一台のSUVが先行していた。そちらの後部座席には蒼依と瑠奈が乗せられている。

 うつむいた隼人は、ふと、気づいた。見たばかりの今の悪夢が、自分の誕生日の朝に見た夢の続きであることを。

 あの朝、自分の誕生日の朝は、「目覚めよ」と声をかけられて目を覚ました。しかしその言葉の意味が「眠りから目覚めろ」というものではなく、「能力を覚醒させろ」という意味ならば、あの朝の夢は前ぶれだった可能性があるだろう。

 決め込むのは軽率かもしれないが、あの夢から六日後に半透明の化け物たちを見てしまったのは、事実である。しかも今回の夢だけではなく、あの朝の夢でも糞尿のにおいを感じたのだ。少なくともあの朝の夢で感じた悪臭は、煙草のにおいなどの影響ではなかったはずである。先ほどの鬼の悪臭に鑑みれば、二つの夢を無視できないのは当然だろう。もっとも、あの朝の夢で目を覚ます直前に巨大な何かと対面したはずの隼人は、その姿をどうしても思い出せなかった。

 ――こんな目に遭わなきゃならない何かを、このおれがしでかした、っていうのかよ。

 確かに小中高と、就職する以前の隼人は荒れていた。母のいない寂しさもあったが、片親というだけで差別される、そんな境遇に対する反動もあった。まして蒼依に至っては、同様の理由でいじめられていたのだ。アクション映画を参考に喧嘩の腕を磨いたのは、自分の身を守るためではなく、蒼依を守りたい一心だった。その甲斐があってか、蒼依をいじめる者はいなくなった。それどころか、神津山第二高等学校に入学した隼人は、喧嘩の強者として同校の不良グループにへつらわれるようになったのである。やがてその不良グループに加わったわけだが、対立するグループ――神津山第一高等学校の不良グループに、戸川と島田がいたのだ。もっとも隼人は、徹底的に相手を打ちのめす割には、警察に目をつけられるような愚挙だけは犯さなかった。要領のよさを体得したわけである。男手一つで育ててくれた行人に迷惑をかけたくなかっただけでなく、蒼依に肩身の狭い思いをさせたくなかったのだ。高校を卒業すると同時に、荒れていた連中との付き合いを断ち切ったのは、順当な成り行きだった。

 やっとまっとうな生活ができるようになった、と感じていた矢先のこの災厄だ。しかも、常軌を逸することばかりではないか。

 とはいえ、蒼依と瑠奈は無事だった。自分もこうして生きている。食い殺されてしまった二人を思えば、自己憐憫に浸れるだけで贅沢なのかもしれない。

 小さくため息を落とし、隼人は車外に目を向けた。

 平野部に差しかかったところだった。街灯の明かりが、ここがまだ地獄でないことを実感させてくれる。

 やがて民家や交通量が増えてくると、あの惨劇が現実ではなかったかのような気さえしてきた。しかし、この車も両脇の二人の男も幻ではない。

 隼人は目を閉じた。

 せめて瑠奈の母に会うまでは、現実から逃げていたかった。


 二台のSUVは幹線道路を左折し、乗用車同士がどうにか擦れ違える程度の狭い舗装路を北上した。田畑の中に散在する民家から明かりが漏れている。遠くを雑木林に囲まれた一帯だ。西の山並みの上に浮かぶ丸い月が、この田園を静かに照らしていた。

 二台は右左折を何度か繰り返した。民家が密集する区間を抜けてからは西へと進む。右の奥に見えるのは鬱蒼とした雑木林だ。左には田畑が広がっている。

 唐突に右側の雑木林が途切れ、高さ二メートル強の白い塀が現れた。塀は道の右に延々と続いており、どれほどの規模なのか見当がつかない。しばらく進むと、スレート屋根を冠した門が現れた。もっとも塀と道は、さらに先へと続いている。

 巨大な門扉の手前で停止した先行車に合わせ、隼人が乗せられているこの車も動きを止めた。間を置かず、観音開きの門扉が左右同時に内側へと開く。

 巨大な門扉はトラス格子状だった。向かってその右には通用門の扉がある。敷地内にも外側にも、視野の範囲に人の姿はなかった。門扉は自動で開閉するらしい。

 再び二台が動き出す。

 ヘッドライトに照らされた門の先には疎林があった。コンクリート敷きの道が、木立を縫うように延びている。

 二台は木々の間を十秒ほど徐行し、開けた場所へと出た。

 ガーデンライトに彩られた芝生が、夜空の下に広がっていた。中央には直径二十メートル前後の池がある。そこは、幻想的な風情を漂わせる広壮な洋風庭園だった。

 木立に囲まれた庭園の奥に、三棟の建物が見えた。向かって左が一番大きな建物であり、その右に並ぶ二棟はやや小ぶりだ。もっとも、小ぶりの二棟でさえ隼人の自宅と大差ない大きさである。三つの建物のどれからも明かりが漏れていた。

 神宮司家は地元でも名の知れた旧家だ。代々国会議員や官僚を輩出しているうえ、瑠奈の母に至っては財界の名家からここに嫁いできたのである。隼人ら庶民が目を剝く豪邸であるのは、むしろ当然かもしれない。

 噂には聞いていたが、初めて目にする神宮司邸はやはり壮観だった。隼人にとってはまるで別世界である。

 二台は一番大きな建物へと向かっていた。よく見れば、和風ではないが単なる洋館でもない。ほかの二棟が瀟洒で現代的な二階建ての家構えであるのに対し、こちらは平面と曲面とを組み合わせた近未来的なデザインの三階建てだ。車寄せで三十代とおぼしきグレースーツの男が一人、待機している。二台はその屋根の下で左側を玄関に横づけし、エンジンを止めた。

 隼人の左に座る男が真っ先に車を降りた。そして、隼人の顔を覗き込んで言う。

「出たまえ」

 あらがうつもりはないが、擦り寄るつもりもない。隼人は「ふんっ」と鼻を鳴らして車外に出た。

 反対側のドアから出たオールバックの男がそのドアを閉じると、先に下りた男も左側のドアを閉じた。

 オールバックの男が隼人の横に立つ。

「まあ、悪いようにはしないさ」

 答えるつもりのない隼人は、無言で顔を背けた。連中のふてぶてしさより、こんな連中が瑠奈や瑠奈の母と繫がりを持っていること自体に、憤りを感じてしまう。

 もう一台のSUVから降りた蒼依が、グレースーツの女に支えられつつ、おぼつかない足取りで歩いてくる。女は先ほどと同様、蒼依のスクールバッグを小脇に抱えていた。その後ろに、スクールバッグを右肩にかけた瑠奈が続く。

 そばに立った蒼依が隼人に顔を向けた。救いを求めるような視線は痛いが、何もしてやれない。

 改めて見れば、SUVは二台とも水戸ナンバーだった。この組織は県内に拠点を置いているのだろう――と隼人は推測する。少なくとも、神宮司家が関与しているのは事実だ。

 玄関前で待機していた男がオールバックの男に近づき、手短に何かを伝えた。

「そうか」と頷いたオールバックの男は、グレースーツの女に目を向ける。「訊くまでもないだろうが……蒼依くんはかなり参っているな?」

「はい。会長と面会するのは無理かと」

「だろうな。会長もそれを案じているらしい。会長自身の意向だ……蒼依くんは先に別宅へ行ってもらおう。頼んだぞ」

「わかりました」と答えた女は、蒼依を促し、玄関に向かって右、あと二つある建物のほうへと歩き出した。

「蒼依をどうするつもりだ!」

 隼人はオールバックの男に詰め寄った。

「ゆっくり休んでもらうだけだ。風呂と着替えと寝室を用意してある。それから、食事も出る予定だ」

 意表を突く答えだった。

 蒼依が心許なげに何度も振り向いた。それを見送りながら、オールバックの男は付け加える。

「だが君には、もう少し我慢してもらおう」

「おばさん……神宮司会長と面会するんだな?」

 尋ねてから、瑠奈を見た。しかし彼女は、とっさにうつむいてしまう。

「われわれはここまでだ。さあ、入ってくれ」

 オールバックの男が言うと、瑠奈は静かに顔を上げ、隼人を見た。

「隼人さん、入りましょう」

「ああ、わかった」

 頷くしかなかった。

 待機していた男が玄関ドアを開けると、瑠奈が先に中へと足を踏み入れた。

 観音開きの大きなドアだった。開けられたのは右側だけだが、それでも空閑家の玄関ドア二枚を足したよりも一回りほど大きい。

 ドアの内側は、皓々と照明に照らされたホールだった。この空間だけでも、十五畳ぶんはありそうだ。傍らにはソファが置かれている。何より隼人が瞠目したのは、三和土のないリノリウムの床だったことだ。つまり、土足のまま入るというわけである。

 ホールに入ってすぐ、瑠奈が足を止めた。黒服の男が二人の中年の家政婦を従えて前に出る。この姿勢のよい細身の初老の男は藤堂とうどうという執事であり、隼人も面識はあった。

 隼人は瑠奈の左に並んだ。ちょうど玄関マットの上だった。汚れを取ろうと、さりげなく靴底をマットにこすりつける。

「お嬢様、お帰りなさいませ」

 藤堂が恭しく一礼すると、瑠奈は「ただいま」と返した。と同時に一人の家政婦が早足で玄関に向かい、しずしずとドアを閉じる。ドアが閉じきる前に、二台の車の走り去る音が聞こえた。

 続いて藤堂は、隼人にも一礼した。

「いらっしゃいませ。お久しぶりです」

 慇懃な言葉をかけられ、隼人はぎこちなく頭を下げた。形式的にも状況的にも、なんと返せばよいのかわからない。

「瑠奈」と聞き覚えのある声がした。

 ホールの奥、階上に通じる階段の上り口の近くに、一人の女が立っていた。黒髪を後ろで結い、白いブラウスと紺色のスカートを装っている。その顔立ちが瑠奈に受け継がれていることは、一目瞭然だ。

「おばさん……」

 三年前に街でばったりと会ったとき以来だった。隼人の記憶が正しければ四十代前半のはずだが、二十代後半で通るかもしれない。「おばさん」という響きが似つかわしくないこの婦人が、瑠奈の母、神宮司真紀まきである。

「お母さん、わたし……」

 瑠奈が声を詰まらせた。

「わかっている」真紀の声は落ち着いていた。「あなたは自分の部屋で待っていなさい」

「うん」答えた瑠奈は隼人に正面を向けた。「あんな危険な状況でみんなを助けようとしてくれて、本当にありがとうございます」

 とはいえ、隼人が戸川たちを見捨てようとしたのは事実だ。

「おれは、なんの役にも立たなかった」

「そんなことはないです。あとでゆっくりお話しさせてもらって、いいですか?」

 その玲瓏たる瞳に見つめられれば、拒む気持ちなど生じるはずがない。

「ああ、いいとも」

 決断するより先に言葉にしていた。

「よかった」

 ほっとした顔を見せたのも束の間、瑠奈は再び悲愴の色を浮かべた。その心境は隼人にも理解できた。二人の人間が目の前で化け物に食い殺されたのだ。大の男の隼人でさえ、当分は笑顔など作れそうにない。

「隼人さん、またあとで」

 ぺこりと頭を下げた瑠奈が、階段を上がりかけて足を止めた。

「お母さん、タイキは?」

 振り向いて問うた瑠奈に、真紀は答える。

「いつものところ」

「そう」

 物憂げな色で頷くと、瑠奈は階段を上がっていった。

 ――タイキ。

 あの少年と、上君畑で遭遇したドラゴンのような化け物――双方の姿が隼人の脳裏に浮かんだ。しかし、真紀の声がそれらをかき消してしまう。

「あなたたちも、もういいわ」

 真紀が告げると、藤堂と二人の家政婦は一礼して一階の奥へと歩いていった。

「隼人くん」

 真紀に声をかけられ、隼人は思わずすくみ上がる。

「はい」

「隼人くんも蒼依ちゃんも、無事でよかったわ」

 だが真紀の表情は曇っていた。声からして沈みぎみである。

「二人の人間が死にました」

 やり場のない怒りが言葉に表れてしまった。

「聞いたわ」

「それに、三人は処置されるとか。処置ってなんですか?」

「わたしに話せることは、今から話すわ。さあ、こちらへ」

 そう言うと、真紀は背中を向けて奥へと歩き出した。

 隼人は黙し、白いブラウスのあとに続いた。


 神津山大学から帰宅すると、母が買いものに出かける準備をしているところだった。調味料を切らしてしまったという。

 父はまだ帰宅しておらず、母が車で出かけてしまうと、自宅は静寂に包まれてしまった。

 自室に入った一也は、机の上で『神津山の昔話と伝説』を開いた。すでに読了しているが、見落としている何かがあるかもしれない。

 ページをめくりながら、ふと、隼人の顔が脳裏に浮かんだ。

 言い知れぬ不安が湧き上がった。自分が窺い知ることのできないところで歓迎されざる何かが進行している――そんな気がしてならない。

 一也はスマートフォンを手にすると、椅子に腰かけたまま隼人のスマートフォンに電話を入れた。しかし、呼び出しが鳴らなければ音声案内も流れない。まったくの無反応である。メッセージアプリで「ちょっといいかな?」と送ってみるが、五分ほど待っても既読の表示さえ出ず、当然、返信もない。思い立って空閑家の固定電話にかけ直してみるが、こちらは留守電モードになってしまった。

 スマートフォンの待ち受けを見ると、午後七時半を過ぎていた。

 ――杞憂では済まされない事態かもしれない。

 一也はスマートフォンを机に置いて立ち上がった。

 ――隼人もおれも、監視されているんだ。

 自室を出て階段を駆け下りた。

 サンダルを履いて玄関のドアが施錠されていることを確かめ、安堵のため息を漏らす。

 ドアに背中を向け、サンダルを脱いで上がり框を跨いだときだった。

 ドアがけたたましく音を立てた。誰かが外からノックをしている――というより、ドアを叩いているか蹴っているらしい。

 一也は玄関ドアに正面を向けた。

 ドアが激しく揺れていた。今にも外れんばかりだ。

 廊下に尻餅をついた一也は、そのままの体勢で無意識のうちにあとずさっていた。

 ドアの揺れは鎮まらない。

「やめろ……」

 あとずさりながら訴えたが、思うように声が出せない。

「やめろよ」 

 わずかに音量が上がった。

 もっとも、ドアの揺れは続いている。

「やめろ……やめろおおお!」

 どうにか声を張り上げた。

 とたんにドアの揺れが鎮まった。

 壁を頼りに立ち上がり、聞き耳を立てる。

 それが人であるにしろ異形であるにしろ、気配は伝わってこなかった。物音は一切聞こえない。

 意を決し、一也はサンダルを履いて玄関ドアの前に立った。

 ドアスコープを覗くが、外灯に照らされた玄関アプローチは平然としており、特に変わった様子はない。

 ドアノブにそっと手をかけた。

 息を凝らし、静かにドアを外側に三分の一ほど開ける。

 ドアの隙間から顔を出し、玄関先の様子を確認した。

 やはり、異常は見受けられない。

 一也は外に歩み出ると、後ろ手に玄関を閉じた。

 車が二台とも不在の駐車スペース、外灯の明かりが届いていない庭、夜の帳の中で団らんの灯火を漏らす家々――。

 気のせいだったのかもしれない。

 玄関ドアを開けようとした一也は、異臭を嗅ぎ取った。糞尿のにおいである。

 次の瞬間、両足首に何かが巻きつくのを感じた。

 見下ろせば、自分の腕ほどもある太さの長いものが、左右の足に一本ずつ巻きついているではないか。

「わっ」と声を上げる間もなく、二本の長いものが一也の両足を引いた。

 なすすべもなく、一也は仰向けに転倒した。

 左右のサンダルが玄関先で舞った。

 二本の長いもの――触手らしきものは、庭の暗がりから伸び出ていた。その暗がりへと一也は引きずられていく。

 ほどこうと上半身を起こしかけるが、腹筋が足りなかった。なんとしても左右の手は触手らしきものに届かない。

 灰色のそれは屈強だった。表面はかさついており、まるで象の鼻である。

 一也の体はコンクリートのアプローチから庭の土の上へと引きずられていた。

 触手らしきものの出所に目をやった。暗がりの中の植え込みの辺りがそうらしい。もっとも、二本の触手らしきものの付け根は確認できない。そればかりか、その二本の付け根がありそうな位置は、一段と暗く、漆黒の闇のようである。

 一也の足先が漆黒の闇に届きかけていた。

 思わず地面に両手のひらを突き、力の限り踏ん張った。しかし、一也の体はむなしく引きずられていく。両手のひらが黒土をえぐった。

 強い光が闇をなぞった。

 車の音がする。バックしている音だ。

 エンジン音が消え、ドアを閉じる音がした。

「あんた、何やってんの?」

 母の声だった。

 首を回して後方を見ると、マイバッグを片手に提げた母が立っていた。

「何って……」

 説明するより現状を見てもらったほうがよいだろう。もう隠すことなどできない。それ以前に、助け出してもらうほうが先決だ。

 一也は自分の足先を顎でしゃくった。

「これ、見てくれよ」

「はあ?」

 背後から返ってきたのは、素っ頓狂な声だった。

 一也は自分の足先に視線を戻した。

 触手のようなものは二本とも消えていた。無論、両足とも解放されている。あれほど暗かった植え込みの辺りに、外灯の明かりが届いていた。糞尿のにおいも消えている。

「何もない……というか、あんた、こんなところで転んだりして、よほど鈍くなったんじゃないの? 少しはダイエットしたら?」

 小太りの母が言うべき台詞ではないだろう――と返したくなるのをこらえて、一也は立ち上がった。

「履き物も履かないで……靴下だけじゃないの。手も汚しちゃって。タオルを持ってくるから、うちに上がる前に、玄関で靴下を脱いで、ちゃんと手を拭きなさいよ」

 そう言い残し、母はそそくさと玄関に入ってしまった。

 左右のサンダルを拾った一也は、もう一度、植え込みに目を投じた。

 なんの痕跡も確認できないが、隼人の報告を顧みれば、この状況は納得できる。

 ――気のせいなんかじゃなかったんだ。これは、警告なのかもしれない。

 当惑しつつ、靴下のまま玄関ドアの前に立った。

 あの異臭が再び鼻腔に入り込んでくる。

 一也とドアとの間に、表面が乾燥しきった一本の太くて長いものが垂れ下がっていた。

 一也の目の高さに位置する先細りの先端が、くねくねとのたくっていた。

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