第2話 探索 ②

 翌日の朝は薄曇りだった。わずかに肌寒い。

 リビングソファーで漫画雑誌を読んでいる蒼依を残し、隼人は愛車で家を発った。妹の沈んだ表情が気になったが、出かける挨拶以外の言葉はかけなかった。

 自宅から一キロほどの位置にあるショッピングモールの駐車場に着いたのは、午前十時七分だった。待ち合わせ時間の三分前である。

 七百十二台の駐車台数、と公式サイトに記されてあるとおり、十分に広い駐車場だ。利用する施設から一番離れた位置に駐車すれば、車から徒歩で三分前後は見なければならないだろう。

 隼人は車のエンジンを切ってから一分以内にイートインコーナーに入った。テーブルは百席以上あるが、客はまだ十人にも満たない。

 窓際の席に一也の姿を認め、隼人はそちらへと足を向けた。

「おはよう」

 テーブルの脇に立って声をかけると、一也も「おはよう」と返してくれた。

「時間を割いてくれてありがとう」一也は礼を述べると、自分の向かいに用意してあるトレーを手で示した。「勝手に選んじゃったけど、食べてくれ」

 ハンバーガーにフライドポテト、コーラといったメニューが載っていた。一也の手前にあるトレーにも同じメニューがある。

「いくらだ?」

 隼人がナイロンジャケットから財布を出そうとすると、一也が片手を振って制した。

「いいよ。昨日は買いものに連れていってくれたし、おれ、ガソリン代だって払っていないんだ」

「おれは働いているけど、一也はまだ学生だろう。それに、昨日の昼飯はお互いに自腹だったじゃないか」

「いいんだって。今日も付き合わせてしまった、その埋め合わせだよ。それくらいの小遣いはもらっているよ」

「じゃあ……せっかくだから、お言葉に甘えるか」隼人は一也の向かいに座った。「早く着いたのか?」

「十時の開店と同時だよ。うちから歩いて十分足らずだけど、余裕を見すぎたな」

 一也は自嘲の笑みを浮かべていた。もっとも、深刻な何かを抱えていることを、眼鏡の奥の目が訴えている。

「で、話したいことって?」

 隼人は一也を促した。

「うん、それがな……」

 不意に、一也が神妙な趣を浮かべた。

 隼人は黙して次の言葉を待つ。

「なあ、隼人は超常現象って信じるか?」

 真剣なまなざしを正面から受けて、隼人は言葉を失った。そして、一連の出来事が脳裏をよぎる。

「やっぱり変だよな、こんな話」

 そう漏らし、一也はため息をついた。

「ちょっと待ってくれ」ようやく、隼人は言葉を紡いだ。「ちゃんと聞くから、話してくれよ」

 自信なさげに首肯した一也が、口を開く。

「わかった。……神津山の都市伝説、っていうのが、最近、一部で囁かれているんだ。隼人は知っているか?」

「ああ……まあ、わかるよ。妖怪が目撃されたとか、神隠しがあったとか」

 神津山第二高等学校だけでなく、神津山大学にもそのような噂話が広まっているのだろう。むしろ、さらなる広範囲に流布していると考えたほうがよいのかもしれない。

「でな、大学で仲のいい男……飯島いいじまっていうやつがいるんだけど、その飯島が、突然、姿をくらました」

 そして一也は、コーラを一口だけ飲んだ。

「くらました……って、どんなふうに?」

 隼人が尋ねると、一也はコーラの紙カップをトレーに置いた。そして口を開く。

「飯島は栃木県出身で、神津山大学の学生寮に入っていたんだ。それが先週の水曜日から講義に出なくなってさ。おれ、金曜日に大学の職員に相談したんだけど、昨日の夕方、家に帰ってからしばらくして、その職員から電話があってな。寮でも先週の水曜日から姿を見た人がいないそうなんだ。それに、栃木の実家にも確認を取ったそうなんだけど、家族にも本人からの連絡が入っていないらしい。えーと……」

 コットンジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出した一也が、その画面を操作した。

「この男が飯島だよ」

 スマートフォンの画面が隼人に向けられた。

 バストアップの画像は、一人の青年だった。尖った顎と気ぜわしそうな目が印象的である。屋外で撮影された写真らしい。

 一也は写真アプリを閉じてスマートフォンをテーブルに置いた。

「おそらく今日辺り、大学側から警察に捜索願が出されると思う。もしかすると、もう出されているかもしれない」

「つまり」隼人は言葉を選んだ。「一也はその失踪を神津山の都市伝説……というか、神隠しだと思っているのか?」

「短絡的だと思われても仕方ないだろうな。でも神津山大学では、去年は二人もの学生が失踪しているんだ。二人のうち一人は男子で、市内のアパートで一人暮らし。もう一人は女子で、日立市の自宅から通っていた。その前の年には、市内の自宅から通っていた男子が失踪している」

 一也は言葉を句切り、もう一口、コーラを飲んだ。

「一也が知っているだけでも、あの大学で四人の学生がいなくなったわけか」

「ああ」一也は首肯した。「それにな、別の学生の家族が失踪した、という話も耳にしている」

 考えてみれば、一也だけでなく、蒼依も神津山市内での神隠しを把握していた。それに対して隼人は、大島団地の一家失踪の件でさえ、これまでまったく意識していなかったのである。三日前の夕刻にあの二体の異形を目撃していなければ、隼人は今、ここで初めて神隠しの話題に触れることになっただろう。

「実は」隼人は言った。「おれが神津山の都市伝説を知ったのは、最近なんだ。特に神隠しについては、うちの近所や、蒼依や会社の先輩の身辺でも起きているらしいから……つまり、失踪者があまりにも多いから、都市伝説、と言われるのもわかる気がする」

 そしてさらに、蒼依が口にした「震災の直後から神津山市内で失踪者が増えている」という事例も伝えた。

 一也は頷く。

「おれもちょっと調べたんだけど、震災の直後辺りから失踪者が増えているのは事実だよ。今では毎月十五人前後のペースで、神津山市内で人が消えている。ていうか、蒼依ちゃんも調べていたのか?」

「そうみたいだな」

 隼人が答えてため息をつくと、一也はわずかに顔をほころばせた。

「蒼依ちゃんなりに、市内の不穏な空気が気になっていたんだろうな」

「そうだといいんだけどさ。友達と話題を共有して騒ぎたいだけなのかもな」言ってから隼人は、和んでいる場合ではない、と悟り、話を仕切り直す。「それよりもだ……問題は、失踪者たちがどこへ行ってしまったかだ」

「そうだな。まあ……失踪事件なんて、以前から全国で年間に何万件も起きているんだ。震災以前の神津山だって、徘徊だの夜逃げだので、毎月五人前後の失踪者がいたらしい。でも……」

「でも?」

「現在の失踪事件は手の込んだ拉致事件かもしれない、という考え方もできるぞ。妖怪の噂を広めて、それをさらに神隠しなんていう怪異に絡めてさ、拉致事件そのものをカムフラージュしている……とかさ」

「なんで多くの人たちを拉致しなきゃならないんだ?」

「臓器売買なんてものがあるだろう」

「つまり、組織犯罪――」

 隼人は言いさした。それが事実ならば、都市伝説などという枠に収めておける状況ではない。

 押し殺した声で一也は言う。

「いずれにしても、すべては憶測なんだ。迂闊なことは公言できないよ」

「そうだな」と頷いて、考える。自分の家族や友人が失踪事件の当事者になることはないのだろうか。いや、自分自身もしかりである。見てしまったものが幻覚であるにせよ本物の妖怪であるにせよ、隼人が神津山市に住んでいるのは事実なのだから。

「とにかく」一也は言った。「真相がわかっていれば、都市伝説になんてならないさ。むしろ、どんな状況で失踪したかだよ。失踪者が最後に目撃された場所や時間をつぶさに調べ上げて、情報を集めるんだ。そうすれば、きっと何かが見えてくると思う」

 声音に決意が感じられた。だからこそ、隼人は自覚する。

「おれにも手伝わせてくれ」

「そう言ってくれると思っていたんだ。頼むよ」

 居住まいを正した一也が、頭を下げた。

「わかったから、やめろよ」

 隼人は慌てて周囲に目を走らせた。幸い、誰もこちらに注意を払っていない。

「とにかく、隼人がいてくれると助かるよ」

 顔を上げた一也が、安堵の色を浮かべた。

「どれだけ力になれるかわからないけど……そうだ」

 さっそく隼人は、大島団地の一家失踪や神津山第二高等学校の生徒の失踪、杉本の知人の失踪について、それらの詳細を伝えた。

 一也はスマートフォンのアプリで逐一メモする。

「ありがとう。参考になるよ」

 スマートフォンをテーブルに置き、一也は言った。

「飯島っていう学生と最後に会った人は、誰かわかるのか?」

 隼人が問うと、一也は首を横に振った。

「まだ情報を集めているところなんだ。おれが最後に飯島を見たのは、火曜日の夕方、大学の正門前であいつと別れたときだな。そのあと寮でどんな行動を取っていたかは、まだわからない。ただ……」

 と一也は眉を寄せた。

「どうしたんだ?」

「飯島自身も神津山の都市伝説に興味を持っていたんだ。そしてあいつは、妖怪の目撃と神隠しとが関連しているんじゃないかと見ていた」

 その言葉で隼人は想起する。

「蒼依も同じようなことを言っていたな」

「そうなのか?」

「妖怪を目撃したと掲示板やSNSに投稿した人の多くが、そのあと、失踪しているんだとか」

「同じだな。飯島もそう言っていたよ。それだけじゃない。投稿した記事が削除されてしまうらしいんだ」

「そうなんだよ」隼人は首肯した。「それも同じだ」

「うん……真相に迫ったような記事とかは、ことごとく消えているみたいだな。ちゃかすようなつぶやきとか、明らかに逸脱しているようなものは、そのまま残っていたりするんだけど、検索プロバイダーがかかわっているのかな? もっとも、メールでも、その一通に含まれているキーワードによっては相手に届かないこともあるらしい」

「キーワードって……神津山の都市伝説、神津山の妖怪や神隠し、とか?」

「どうかな……今のところ、おれはそういう目に遭っていないし」

「ううーん」隼人はうなった。「誰かが情報操作をしている、としか思えないんだけど」

「おれもそう思う。だから、目立たないように行動しないといけないな」

「そうだな」

 賛意を示した。自分たちには太刀打ちできない何かが起きている――そんな気がしてならない。

 一也が表情を険しくする。

「蒼依ちゃんには、これ以上の干渉はさせないほうがいいな」

「ああ」

 この暗然とした状況を再確認した隼人は、頷くしかなかった。

「妖怪に関しては、どう思う? 隼人は信じるか?」

 唐突に尋ねられ、隼人は言葉に詰まった。

 一也は苦笑しつつ言う。

「神隠しと違って、それこそ眉唾物だもんな」

「一也は、どうなんだ?」

 聞き返してみた。隼人としては、一也の考えのほうが気になっていた。

「いろいろな妖怪が市内のあちこちで目撃されている、っていう話だけど、おれは妖怪を見ていないし、投稿されたという記事も削除されていては読むことがかなわないから、なんとも言えないよ。うそっぽい記事なら何件か見たけど、かえって幻滅したな」

 この様子で異形を目撃したことを訴えてもはたして信じてもらえるか――微妙であると隼人は受け取った。

「そういえば」一也は続けた。「飯島は妖怪の目撃があった場所に、よく足を運んでいたな。原付スクーターを持ているから、市内の噂のある場所に休日のたびに出向いていたんだ。それでも、妖怪を目撃したことは一度もないらしいよ」

「目撃があった場所って、どこ?」

「例えば、上君畑にある廃屋とか、波ヶ丘ニュータウンの近くの田んぼとか、神津山第二高等学校の近くのみえん坂もあったな」

「みえん坂――」

 声が上ずってしまった。

 一也が隼人を凝視する。

「隼人?」

「みえん坂に出る妖怪は一つ目小僧だ……って、その飯島っていう学生は言っていなかったか?」

「ああ、そうだよ。そこそこ噂にはなっている場所みたいだから、飯島だけじゃなく、ほかのやつらも一つ目小僧の話はしていたけど……おい隼人、どうしたんだよ」

 思い詰めた表情をしていたのだろうか、一也が隼人の顔を覗き込んだ。

 もう隠せなかった。ともに怪異に挑もうとしているのに、有力な情報を秘匿しておくわけにはいかないだろう。ましてや、一也は隼人の親友なのだ。

「おれ、見たんだ」

 わずかに唇が震えた。

 一也の表情が固まる。

「何を……見たんだ?」

「一つ目小僧だよ。みえん坂に、そいつがいたんだ」

「見た……隼人がか?」

「ああ、そうだよ。しかもそこにいたのは、一つ目小僧だけじゃない。普通の子供みたいな妖怪もいたんだ」

「ちょっと待てよ。普通の子供みたいなら、人間の子供じゃないか」

「違うんだって――」

「なあ隼人、少し落ち着けよ」

 一也に諭され、隼人は自分が冷静さを欠いていることに気づいた。

「ごめん」

 簡明に詫びて、二、三本のフライドポテトを頬張り、それをコーラで胃に流し込んだ。

「おれは隼人がうそなんてつけないのをよく知っている」一也は言った。「その一つ目小僧や子供みたいなのがなんなのかわからないけど、隼人が、見た、って言うんなら、何かがいたのは間違いないと思う」

 フライドポテトのおかげでもコーラのおかげでもなく、一也の言葉によって、隼人はどうにか落ち着きを取り戻せた。

「そう言ってもらえると、助かる」

「隼人が見たそいつらのこと、詳しく聞かせてくれよ」

 一也に促され、隼人は頷いた。

「わかった。でも、おれが見たのはその二体だけじゃないんだ」

「ほかにも、見たのかよ?」

「昨日、車で帰ってくる途中にも、別の妖怪を見たんだ」

「おれが隣に乗っていたときか?」

「ああ、そうだよ。でも、一也には見えなかったはずだ。春山小学校の近くで赤信号に引っかかったときだよ」

「そういえば、あのときの隼人は様子がおかしかったな。でも、隼人には見えておれには見えないなんて」

 一也は眉を寄せた。

「最初から説明する」と前置きしてから、隼人は語った。木曜日の夕刻にみえん坂で二体の半透明の小さな異形を見かけたことや、昨日の早朝に同じ場所で単眼の化け物に遭遇したときのこと、その化け物が少年の姿をしたものとともに黒い球体の中に消えてしまったこと、昨日の帰りの車中から三つ目の化け物を見たときのこと――それぞれの状況を可能な限り子細に説明した。

 話が済むと、一也は神妙な趣で口を開いた。

「つまりその三体は、隼人が半透明の状態で見えているときは、ほかの人には見えていない……というより、多くの人たちにとって不可視状態のときでも、隼人には半透明の状態で見えている、ということなんだな」

「そういうことになるだろうな」

 これまでは化け物の存在だけに気を取られていたが、自分だけに見える、という問題を改めて意識した。

「おれにしか、見えない……でもそれって、幻覚というか、幻視の可能性もあるということだよな」

「足首を触手に巻きつかれたんだろう? 幻視ではないという証しじゃないか」

「巻きつかれたような気がしただけ、とかもありえそうだけど」

「確かに幻覚って、触覚も含むからな。足首に、巻きつかれた跡とかないのか?」

「それらしいものは、何もないんだ」

 幻覚でないことを信じたいが、慎重に構えたかった。しかし、慎重になればなるほど、現実だったという証しが遠のいていく。

「おととい」隼人は言った。「神津山の都市伝説について、職場の先輩と休み時間に話したんだ」

「幻を見たとか妖怪を見たとか、伝えたのか?」

「いいや。都市伝説はたまたま話題になっただけさ。妖怪を見たなんて口にしたら、こいつヤバいって思われるかもしれないじゃん」

「かもな」

 一也は頷いた。

「その話の中で、神津山に出没する妖怪は未確認生物かもしれない、って先輩は言っていたよ」

「未確認生物?」

「UMAだよ」

 隼人が補足すると、一也は首を傾げた。

「UMAか……」

「でも、おれが見たのは一つ目小僧や三つ目の化け物、あとはただの子供のようなやつだろう。それにほかに目撃されているのは、ろくろ首や猫の化け物とか、いかにも妖怪という姿をしたやつだった」

「でもさ、海外ではチュパカブラやモスマンなどという突拍子もないUMAも報告されているし、古典的な妖怪をUMAとするのもあながち的外れではないのかもしれないぞ」

「そうなのか?」

 隼人は妖怪にもUMAにも詳しいわけではない。むしろ、それらに対して興味を持ったことなど一度もないのである。だが、それら突拍子もないものたちが実在するとすれば、隼人が目撃したものとなんらかの関係があってもよさそうだ。つまり、隼人に幻覚症状など起きていない、という可能性も見えてくるわけである。

「ていうか」一也は言った。「隼人の遭遇した一つ目小僧って、一般的に知られている姿とは違っているよな。妖怪図鑑に載っているやつとかアニメに登場するのは、もっとかわいいような気がする」

「でも、おれは妖怪なんて興味がなかったから、一般的に知られている姿なんて、意識もしなかった」

 隼人がそう返すと、一也は頷いた。

「だよな」そして、不意に背筋を伸ばす。「そうだ、これ」

 思い出したように言った一也は、隣の椅子に置いてあったトートバッグから一冊の分厚い本を取り出した。

「大学のロッカーに置き忘れた、っていう本だよ。昨日は結局、見せずじまいだったな。妖怪の話とか、結構あるんだ。次の水曜日まで貸してやるよ」

 箱入りであるうえ、中の本はパラフィン紙で包まれているのがわかった。箱の表面と背表紙に『神津山の昔話と伝説』と記されてある。確かにこれまでの隼人なら興味の対象外となった本だ。

「大学付属図書館のだろう。おれなんかが借りていいのか?」

 念のために確認した。

「だから三日間だけなのさ」一也は笑みを浮かべた。「参考になることがあると思うから、あとで目を通してみてくれ。みえん坂の一つ目小僧の話も取り上げられているぞ」

「みえん坂の……って、この本に載っているのは、昔の話なんだろう?」

 隼人が疑念を呈すると、一也は笑みを消し、両手で持つその本を見つめた。

「つまり……少なくとも現在のみえん坂の一つ目小僧に関しては、昔話をなぞっている可能性がある、ということだ」

 そして一也は、その本、『神津山の昔話と伝説』を隼人に手渡した。

「どういうことなんだ」

 ずっしりとした手応えを感じながら、隼人はつぶやいた。

「隼人が何かを見たのは確かだと思う」一也は言った。「神津山を何かが徘徊しているのは事実だよ。それが犯罪組織か妖怪の群れなのかは、まだわからないけどな」

 幻覚症状でなければないで、このようにまた新たなる脅威を見出してしまう。根本的な解決策は、妖怪と神隠しという二つの都市伝説の実態を把握することだ。

「やつらがなんなのか、何をしているのか、絶対につかんでやる」

 隼人が決意を口にすると、一也は静かに頷いた。


 ショッピングモールで買いものをする、という一也とその場で別れ、隼人はすぐに自宅へと戻った。

 リビングダイニングキッチンに入ると、部屋着姿の蒼依がソファに座ってテレビを見ていた。

「お帰りなさい。あたし、ここでテレビを見ているから、見たい番組があったら自分の部屋で見てね」

 画面に映っているのは、バラエティ番組だった。

「別に横取りするつもりはないよ。蒼依の部屋だけ、テレビがないんだし」

「そうそう、お兄ちゃんもお父さんもずるいよね」

 蒼依は横目で隼人を睨んだ。少し前までは沈んでいたくせに、何があったのか、この横柄な態度だ。

「おれは自分で稼いだ金で買ったんだよ。それに蒼依は、いつもスマホをいじってばかりじゃないか」

 ため息交じりに隼人が言うと、蒼依は口を尖らせた。

「勉強だってしているもんね」

「たまにだろう」

「たまにだよ」

 肯定されては、それ以上の突っ込みははばかれる。

「おれ、自分の部屋で本を読むから、二階は静かにしてほしいんだ」

 隼人の言葉に蒼依が目を剝く。

「静かにするのはいいけど、本? お兄ちゃんが? 一也くんに会ってくる、って言って出かけたけど、勉強しなきゃな、って感化されたの?」

 面倒だった。適当に受け流したほうがよいだろう。

「ああそうだよ」

「なんの本?」

「昔話」

「なんで昔話の本なの?」

「面白いから読んでみろ、って勧められたんだよ。じゃあ、部屋へ行くからな」

 強引に話を切り上げ、隼人はリビングダイニングキッチンを出ようとした。

「あのね、お兄ちゃん」

 引き止めるに十分な、かしこまった声音だった。

 ドアの手前で、隼人は振り向いた。

 しかし蒼依は、「あの……」と口ごもってしまう。

「どうした?」

 問いかけるが、蒼依は首を横に振ると、目を逸らしてしまった。

「なんでもない。ごめん」

「いいのか?」

「うん」

 何かある――そう思えた。気分の浮き沈みが激しいのも気になる。たたみかけるのは良策ではなさそうだ。

「話したいことがあったら、いつでも声をかけてくれよ」

「ありがと」

 こくりと頷いた蒼依に背中を向け、隼人はドアを開けた。


 いつものように振る舞おうとしたが、無理があった。そのうえ、瑠奈から電話があったことさえ伝えられなかった。ゆうべも今朝もたった今も、自分が臆病なばかりに機会を逃してしまったわけだ。瑠奈から電話があったこととその内容を伝えるには、美羅たちと怪奇スポットへ出かける、ということにふれなくてはならない。それが負担だった。

 蒼依はリモコンでテレビの電源を落とした。

 リビングダイニングキッチンが静寂に包まれる。

 ――お兄ちゃんの言うとおりだ。あたしは弱い。

 悔いただけではどうにもならない。それを承知しているからこそ、膝の上に置いた左右のこぶしを握り締める。

「瑠奈、ごめんね」

 うつむいて目を閉じた。

 こらえようとしたが、涙がこぼれてしまった。


 隼人はベッドの端に腰を下ろし、『神津山の昔話と伝説』を開いた。慎重に取り扱わないと、表紙を覆っているパラフィン紙を痛めそうである。

 真っ先に奥付を見た。編集には市内の各小中学校の教員らが担当しており、神津山大学も協力していた。発行は背表紙にも記されてあるとおり神津山市である。どうやら市内在住の高齢者らから聞き取ったいくつもの話が掲載されているらしい。

 編集に携わった教員らに隼人の知っている名前はなかった。自分の卒業した小中学校に絞ってもう一度よく見てみるが、記憶にない名前ばかりだ。もしやと思って発行日を確認すると、昭和五十五年十月一日だった。隼人はまだ生まれていない。

 巻末の資料に一つ目小僧の名を見つけた。そこに記されている話数の番号から掲載ページを探り当てる。

 タイトルからして「一つ目小僧」だった。

 短い話である。

    *    *    *

 神津山第二高等学校の上がり坂に、昔、一つ目小僧が出たんです。

 夜にそこを一人で通ると、「一つ目小僧だぞ」なんて言いながら、一つ目小僧が出たんです。二つ目である人間は、すっ飛んで逃げちゃうんです。

 あるとき、目の不自由な人が来たんですね、その坂に。

 もちろん、一つ目小僧はいつものように「一つ目小僧だぞ」って脅かしたんです。

 でも目の不自由なその人は、「おめえは目が一つあっからまだいいよ。おれは一つもないんだよ」と言って平気で通っていっちゃったんです。

 一つ目小僧は嫌になっちゃったんですね。もうそれっきり出なくなりました。

「みえん坂」という名前は、一つ目小僧を追い払った目の不自由な人をたたえたものなんです。目が見えないという意味なんですよ。 

    *    *    *

 そして最後に、話者の名前が記されてあった。

 この話自体が実話には思えなかった。まるで笑い話ではないか。もっとも、この昔話が実話であるとするなら、隼人の遭遇した単眼の化け物がこの一つ目小僧だという可能性はあるだろう。

 ほかにも「笹岳山ささだけさんの天狗」や「ぬめりがふちの大蛇」など妖怪がらみのタイトルが目を引いた。もっとも、内容的にはその多くが聞き覚えのある話である。全国的に知名度の高い昔話を素材として作り直しただけ、にも思えた。

 みえん坂の一つ目小僧以外にも、この『神津山の昔話と伝説』に掲載されている話と関連のありそうな妖怪――神津山の都市伝説とされる妖怪はいるのだろうか。

 そんな考えに浸っていると、スマートフォンの着信音が鳴った。

 ページを閉じた『神津山の昔話と伝説』をローテーブルの上に置き、枕元からスマートフォンを取る。

 画面を見ると、一也からだった。

 隼人が口火を切った。

「さっきはごちそうさん。ありがとうな」

「こっちこそ世話をかけたな。それよりさ、さっきモールで買いものをしていたら、神津山大学の学生と行き会ったんだよ。飯島と同じ寮に入っている男なんだ。そいつが、火曜日の夕方、スクーターで出かけようとしていた飯島と言葉を交わしたそうなんだ」

「本当か?」

 ベッドの端に腰かけたまま、隼人は背筋を伸ばした。

「本当だよ。もしかすると、そいつが飯島と最後に会った人間かもしれない」

「どんな会話があったのか、聞けたのか?」

 聞くまでもないことだが、それを早く知りたいばかりに、隼人は一也をせかしてしまった。

「もちろんだ。どうやら飯島は、関根口せきねぐちの廃工場へ行こうとしていたようだ」

「廃工場? もしかして、そこで妖怪が目撃された、なんていう噂があるのか?」

「どうやらそのようだな。化け猫だか猫又だかわからないけど、猫の化け物らしいよ」

「化け猫か……とにかく、早めにそこを調べたほうがいいかもしれないな」

「もう、そこへ向かっているよ」

「なんだって……まさか一人じゃないよな?」

 一人の青年が消えた場所かもしれないのだ。潜んでいるのが化け物であるにせよ、犯罪組織であるにせよ、単独で行くのは危険極まりない。

「一人だよ。バスで来たんだ。今、停留所からその廃工場に向かって歩いているところ」

「おい、何考えてんだ。その辺でちょっと待っていろ。車ですぐに行くから」

「ありがとう。隼人も来てくれると、助かるよ」

「まったく」隼人は呆れ返った。「で、関根口のどの辺なんだ?」

 位置の詳細を聞き出し他ところで、不意にノイズが流れた。そして二秒と経たずに通話が切れてしまう。かけ直そうとも考えたが、その時間がもったいなかった。

 スマートフォンをジャケットのポケットに入れた隼人は、ベッドから立ち上がった。

 ふと、枕元を見下ろした。そして、『神津山の昔話と伝説』は一也が持っているべきだ、と悟る。

 手にした『神津山の昔話と伝説』を専用の箱に入れ、それを持ったまま自室を出た。

 階段を下りてリビングダイニングキッチンを覗くが、蒼依の姿はない。

 二階に向かって「ちょっと出かけてくる」と声をかけてみた。

「わかった」

 返事はすぐにあったが、なんとなく浮かない声だった。

 だが今は、かまっている場合ではない。

 隼人は気持ちを切り替え、玄関を出た。


 その交差点を右折すれば、タゴシマ製作所神津山事業所が所在する上手縄工業団地であり、左折すれば常磐自動車道神津山南インターチェンジだ。隼人の愛車は西へと直進し、交差点を通り過ぎた。そして、常磐自動車本線の下をくぐってすぐに左折する。

 田んぼの中の一本道だった。舗装は施されているが、普通車同士がどうにか擦れ違える程度の幅である。寂寥とした一帯であり、民家は遠くにまばらに見えるだけだ。

 道は大きな弧を描いて右へとカーブしていた。進路は南から西へと変わる。

 速度を控えめにしたのは事実だが、心なしかアクセルが重かった。ハンドルも手応えを感じる。緊張感がなす錯覚に違いない――と思った。

 狭い舗装路を百メートルほど進むと右に空き地があった。雑草だらけのその空き地に愛車を乗り入れ、エンジンを切る。

 車外へと出た隼人はドアを閉じ、一也の姿を求めて辺りを窺った。しかし、一也はおろか、人の姿など皆無だ。

 左右と背後には、田植えが済んだばかりの水田が広がっていた。前方は雑木林が立ち塞がり、その手前に工場らしき建造物が見える。

「まったく」と吐き捨て、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。すぐに一也に電話をかける。しかし――。

「おかけになった電話は電波が届かない場所にあるか電源が入っていないためお繫ぎできません」

 という女性アナウンスが流れた。

 画面を見れば、少なくともこちら側は通信可能の状態だ。

「どういうことだよ」

 薄曇りの空の下で、寂寞とした空気を感じた。

 湿度が高いのだろうか、確かに空気は重い。

 スマートフォンをジャケットのポケットに戻し、工場らしき建造物を眺めた。

 金網のフェンスに囲まれた敷地で沈黙するそれは、手前側が正面らしい。隼人の立っている位置から門までの距離は、五十メートル弱だ。

 どこかでカラスが短く鳴いた。

 そして、静寂が訪れる。

 隼人は門に向かってアスファルトの道を歩き出した。

 歩きながら見れば、アコーディオン型の門扉は倒れており、二本の門柱の間にロープが張ってあった。ロープには黄色いふだのようなものがかけてある。

 倒れたままの門扉の前に隼人はたどり着いた。

 二メートルほどの高さのフェンスに囲まれた敷地は、背の高い雑草に視界を遮られ、奥行きがどれくらいあるのかわからない。建造物の正面は、門から二十メートルほどの位置にある、とかろうじて把握できた。倒れている門扉は大きくひしゃげており、大人一人が通れる程度の間隙がその門扉と門柱との間にあった。ロープにかけられてあるのは樹脂製とおぼしきプレートであり、「立ち入り禁止」と手書きで記してある。

 向かって右の門柱の際から、ロープをくぐって敷地へと足を踏み入れた。倒れている門扉を避けて建造物の正面へと向かう。生い茂る雑草は隼人の胸の高さまで届き、歩行は困難を強いられた。一歩一歩、慎重に進む。

 なんとか茂みを抜け出した隼人は、目の前に聳える建造物を見上げた。高さが十メートル近くはありそうな、工場然とした建造物だった。もしくは倉庫だろう。幅は三十メートル余りだ。正面は、下ろされたままの巨大なシャッターとなっており、手の届く範囲は、たわいない落書きで埋められていた。

 向かって左は、側面の外壁と敷地の境界であるフェンスとの間に、鉄屑やスクラップなどが山のように積み上げられていた。これでは奥の様子が確認できない。

 向かって右の側面を覗くと、壁の下半分はコンクリートで、それより上はスレートだった。おそらく屋根もスレートだろう。壁のあちこちに大きなひびが走っており、隼人の顔の高さに並んだ窓は、ほとんどのガラスが割れていた。側面の手間のほうには、通用口のドアがある。建造物の右側面とフェンスとの距離は三十メートル以上はあり、砂利敷きの区画となっている。黄色のロープが地面に張り巡らされている状態からして、この区画はどうやら駐車場だったようだ。奥行きが五十メートル以上はありそうなことをなんとか確認するが、雑草が多すぎるため、進める距離はその半分程度だ。

 とにかく、外装はくたびれていた。薄い雲を通して届く弱い日差しが、壁のひびだけでなく、至る箇所の煤や水垢、ガラスの割れた窓なども子細に浮き上がらせている。

 隼人は通用口の前に進んだ。よく見ると、ガラスなしのドアは金属製で、ほんの少しだけ外側に開いていた。

 生唾を飲み込み、取っ手に手をかけた。

 ひんやりとした感触に逡巡するが、覚悟を決めて、そっと取っ手を引いた。ドアがかすかにきしむ。

 油と埃とが入り交じったようなにおいが鼻を突いた。隼人は眉をひそめつつ改めてにおいを確かめるが、紛れもなく工場のにおいである。しかし、隼人の職場より、すえた感じが強い。

 静かに中の様子を窺ってみると、バレーボールコート一面ぶんほどの広さの床面積だった。外観から推測するに、奥にまだ空間があるはずだ。天井にはクレーンのレールが正面と奥との間に走っているが、肝心のクレーン本体は影も形もない。床は打ちっ放しのコンクリートで、加工機械などの設備もやはり見当たらなかった。

 建造物の中に入り、ドアを背にして立った。

 照明の落とされた昼間の体育館、といった程度の明るさがあった。天井に大きな穴があり、弱い光が差し込んでいる。

 ガラスの破片があちこちに散らばっていた。通用口側の壁際の床に重ねてあるのは、長さ三メートルほどの鉄骨だ。

 割れた窓から吹き込んだのか、それとも雨漏りでもしたのか、ところどころに大きな水たまりができていた。それらの水面に油が浮いている。

 水たまりのない部分には埃がうっすらと積もっており、無数の靴跡が残っていた。もっとも、どの靴跡も靴底のパターンは曖昧だ。

 万が一に備え、隼人はドアを閉じなかった。その万が一とはどういった事態なのか、深く追求できないまま、静かに建造物の中央まで進む。

 奥の壁、と思った一面も、下ろされたままの巨大なシャッターだった。正面の巨大なシャッターと向かい合うように設置されている。反対側の側面の壁を目で追うと、奥のシャッターの手前辺りに、もう一つの通用口があった。隼人が背にしている通用口とは対角の位置である。

 建造物の中でさえ、あちこちに稚拙で無意味な落書きが確認できた。そのうえ、菓子類の袋や空き缶などが散らばっている。

「荒れ放題だな」

 つぶやきが空間に吸い込まれた。

 人の気配はまるでない。

 ――まさか、一也まで?

 最悪の事態が脳裏をよぎった。

 水たまりを避けながら進み、奥の通用口の前で足を止めた。こちらのドアも同じようなガラスなしだが、ぴったりと閉ざされている。

 おそらく建造物は二枚目のシャッターの奥にも続いているだろう。このシャッターを上げることができれば、建造物の奥側に入れるかもしれない。

 シャッターは電動式のようで、二つ目の通用口の脇に操作盤がある。だが、操作盤のランプ類は一つも点灯しておらず、電気が来ていないのは明らかだった。もっとも、廃墟なら当然である。

 自分に焼きが回った気がして、隼人は幻滅した。と同時に、この通用口を使って外に出てから建造物の奥側への入り口を見つける、という手段を立案していた。ガラスの割れた窓から見る限りでは、二つ目の通用口の外側にスクラップの山はない。もしこの通用口のドアが開かなければ、窓を開けてそこを通り抜けるか、駐車場の茂みを強引に突破するまでだ。

 とにかく、まずは一番身近な可能性を試すべきだろう。

 二つ目の通用口は閉ざされているが、ノブに手をかけると、なんの抵抗もなくすんなりと外側に開いた。

 通用口の内側から外の様子を窺った。こちらにも背の高い雑草が生い茂っている。建造物とフェンスとの距離は二メートルほどで、こちらのほうが圧倒的に狭い。フェンスの外は、もう雑木林だ。

 隼人は外に歩み出たが、当然、脱出ルートを確保するためにドアは閉じなかった。

 予測通り、建造物は奥に続いていた。正面側の区画と同じくらいの規模がある。そちら側の通用口が、すぐ目の前にあった。その通用口より先は背の高い雑草が密集しており、足を踏み入れるには困難を強いられそうだ。

 建造物の正面のほうに視線を向けると、スクラップの山は正面付近だけに積み重ねられていた。雑草をかき分けてスクラップの山に近づき、じっくりと確認する。加工機械や工具類もあるが、それらはすべて壊れており、鉄屑に至ってはさびの塊と化していた。少なくとも、一也に関するものはなさそうだ。

 調べるべきは、建造物の奥側だろう。

 雑草の猛威に辟易しつつ、隼人はなんとか三つ目の通用口にたどり着いた。このドアもガラスなしの金属製である。

 建造物の奥側の側面に並ぶ窓も、そのほとんどのガラスが割れていた。

 隼人は通用口の隣の窓から中を覗いた。ガラスがないため、正面側の区画とほぼ同じ明るさであるのがわかる。広さも同程度らしい。

 こちら側のドアも支障なく外側に開いた。一歩踏み込むと、中にこもるにおいも同じであるのがわかった。窓のガラスが割れていても換気の効果はほとんどないようだ。

 ドアを開けたままにして見渡すと、こちら側の床も無数の靴跡が埃の上に残っており、いくつかの水たまりがあった。ガラスの破片もところどころに散らばっている。

 見上げると、こちらの天井には直径一メートルほどの穴が二つもあいていた。

 通用口から向かって右に正面側と奥側とを仕切るシャッターがあった。そして向かって左となる奥の面もシャッターであり、やはり下まで下ろされている。

 隼人が立っている位置から見て反対側の壁には、隼人が入ってきたばかりの通用口と対になる、数えて四つ目の通用口があった。そちらの通用口も閉ざされている。

 隼人は壁伝いを時計回りに歩き出した。こちら側にも、壁やシャッターなど至るところに落書きが見られた。床の隅のほうにはゴミが散乱している。一つ一つを確認するが、侵入者たちの乱痴気騒ぎの残骸には、手がかりになるようなものが何もない。

 四つ目の通用口の前で足を止めた。

 このドアも外側に開く構造らしい。ドアノブを握ると、これまでの例に漏れずすんなりと開いた。しかし、半開した辺りで手応えを感じてしまう。見れば、雑草の群れがドアの動きを阻害しているのだった。

 半開の開口部から顔を出し、外の様子を窺った。正面側から確認したとおりに雑草だらけである。少なくとも、誰かが足を踏み入れた様子はない。通用口の横の窓からも窺ってみるが、雑草の群れは建造物の外壁に押し迫っている。

 隼人はドアを閉じた。

 電源が生きていない現状では、奥のシャッターも上げることは不可能だ。となれば、この敷地内でまだ見届けていない箇所を調べるには、雑草をかき分けるという最終手段に出なければならないだろう。

 もう一度だけ一也に連絡を試みたほうがよいかもしれない。それも不可能なら、最終手段である。

 隼人は決意し、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出そうとした。

 少量の誇りが、床の中央付近に舞い落ちた。

 意図せず、隼人は天井を見上げた。

 二つの穴から少し離れた位置に、背中を下にして四肢で天井にしがみついている何かがいる。人の大きさほどの、半透明の何かだった。

 隼人は息を吞んだ。

 皮膚も体内の器官もすべてが半透明であるため、外観の詳細がつかみづらい。もっとも、尾らしきものが存在するのは、確認できた。

 よく見れば、二つの巨大な眼球が隼人に向けられていた。逆さの状態で、上目遣いに隼人を見ているのである。

 自分に対する敵意を感じた。気のせいではない。隼人の体中の神経をびりびりと刺激するほどの強い敵意である。

 隼人はあとずさった。しかし、すぐに四つ目の通用口のドアが背中に当たる。

 ドアを思いきり開ければ、瞬時に外へ飛び出せるだろう。だが、雑草をかき分けて逃げきれるかどうか、自信がなかった。

「へー、あれが見えるんだね?」

 突然の声に隼人は視線を下ろした。

 三つ目の通用口の内側に一人の青年が立っていた。

 思考が惑乱した。この状況がまるで把握できない。

「やっぱり、半透明に見えるのかな?」

 さらに問うた青年が、歩き出した。ゆっくりと近づいてくる。

 この青年と天井の化け物がどう繫がるのか、導き出そうと試みるが、答えが見つからない。すなわち、この青年の問いに答えてよいのかどうかも、わからないということだ。

「見えるんだよね?」

 語調が強まった。もっとも、青年は穏やかな表情である。

 青年が隼人の前で足を止めた。息がかかりそうな距離だ。

「半透明、なんだろう?」

 執拗な問いに、隼人は小さく頷いた。わずかに体が震えていた。

 青年は隼人より頭一つぶんほど上背があった。髪はやや長めで、整った顔立ちだ。ジャケットもパンツも芥子色のコットン地である。

「そうか……ほかには? 何か、感情のようなものは感じなかったか?」

 質問は続いた。

 青年が隼人に顔を近づけた。

「か、感じた……」隼人は小声で答えた。「敵意、みたいなのを」

「素晴らしい」青年もささやき声で応じた。「君は逸材だ」

 背後のドアを瞬時に開けたかった。しかし、体が動かない。

 半透明の化け物がゆっくりと四肢を動かした。巨大な穴から出ていくところだった。

「ぼくの仲間にならないか?」

 言葉を受けて、隼人は青年に視線を戻した。

「え?」

 意味が飲み込めず、問い返してしまった。そして再度、横目で天井を見上げる。

 すでに、化け物の姿はなかった。

「なんなら、恋人だっていい」

 青年の唇が隼人の唇に近づいた。

 体中の力が抜けていた。あらがう気力もない。

 重い空気の中、隼人の意識が遠のきかけた。

 唇と唇がふれそうになった。

 そのとき――。

 屋根の上から猫のうなり声が聞こえてきた。

 とたんに空気が軽くなった。

 屋根の上で、何かが走り回るような音がした。それなりの重さのものが転がっているようでもある。

 猫のうなり声が激しくなった。

 隼人から体を離した青年が、眉を寄せて天井を見上げるなり、不意に背中を向けた。そして、「また会おうね」と背中で告げ、悠然とした歩調で、三つ目の通用口へと歩いていく。

 隼人の体が動かせるようになったのは、青年が通用口から外に出た直後だった。

 屋根の上は静かになっていた。

 我に返り、三つ目の通用口へと走った。

 表に出てみると、建造物とフェンスとの間に青年の姿はなかった。すぐさま正面側の区画に入ってみるが、そこにも青年の姿はない。

「ばかな」

 目を見張っている場合ではない。あの青年は一也の行方を知っているかもしれないのだ。

 隼人は走った。

 一つ目の通用口から飛び出し、周囲を見渡す。

 建造物の正面にも雑草のはびこる駐車場にも、青年の姿はなかった。

 雑草をかき分けて、正門から敷地の外へと出た。

 愛車のところまで走って戻るが、見渡す限り、人の姿はない。

 スマートフォンの着信が鳴った。

 取り出して画面を見ると、一也からだった。

「おい一也、無事か?」

 すかさず尋ねた。

「無事って……無事だけど。隼人、今、どこにいるんだよ?」

 呆気にとられた様子で一也は問い返してきた。

「おれは例の廃工場に来ているんだよ」

「なんだって? 隼人が一人で行くなってって言うから、コンビニで待っていたんだぞ」

「コンビニ?」

「電話が途中で切れちゃったから、留守電に入れておいたんだぞ。工業団地の出入り口のコンビニで待っている、って」

「留守電?」

 少なくとも着信音は聞いていない。

「隼人、大丈夫か?」

 こちらの様子を察したらしい。一也の声のトーンは下がっていた。

「ああ、大丈夫だよ。ちょっと待っていろ。すぐに行くから」

「そのまま休んでいろよ。今からそこまで走る。五分もあれば着くよ」

「いや、来ないほうがいい」

「この程度の距離じゃダイエットにもならないけどさ」

「そうじゃなくて……とにかくそこにいてくれ。話は会ってからだ」

「おい隼人――」

 一也の言葉を待たずに通話を切り、隼人は愛車に乗り込んだ。

 ここを早く離れたい――その一心で、エンジンをかけた。


 正午を三十分ほど回っていた。

 神津山南インターチェンジ出入り口の向かい側、上手縄工業団地出入り口の角にあるコンビニエンスストアの駐車場に、隼人は愛車を乗り入れた。日曜日の昼過ぎとあって二十台ほどの駐車スペースはほぼ満車だった。駐車場の片隅に空きを見つけ隼人はそこに愛車を入れる。

 エンジンを切ってすぐ、スマートフォンを確認した。確かに留守電が入っている。再生すると、「工業団地の出入り口のコンビニで待っているよ」と一也の声が流れた。録音された時刻は、隼人が家を出た数分後だった。

 スマートフォンをポケットに戻していると、一也がコンビニ袋を片手に駆け寄ってきた。

 運転席に着いたまま、隼人は片手の親指で助手席を指し示した。

「昼飯まだだろう? おにぎりだけど、食うか?」

 助手席に着くなり、一也はコンビニ袋を隼人の目の前に掲げた。

「モールで食ったばかりだろう。おれはいいよ」

 隼人は片手を振って遠慮した。

「なんだよ、いい若者が」

 そんな台詞を吐くようではやせられるわけがない。だが今は、突っ込みを入れている場合ではないのだ。

「あの廃工場に近づくのはやめよう」

「え? なんで?」

 一也は眉を寄せ、コンビニ袋に入れかけた手を引いた。

「やばいんだよ」

「やばいって……何かあったのか? 説明してくれよ」

「ああ、もちろん説明するさ」

 請われるまでもない。一也と連絡がつかなかったことや廃工場の一帯で感じた空気の重さ、廃工場の様子、半透明の化け物、隼人に迫ってきた青年、留守電に気づけなかったことに至るまで、順を追って詳しく説明した。

「じゃあ、飯島は……」

 青ざめた顔で一也は言い淀んだ。

 これまで無意識のうちに避けていた懸念を、隼人は口にしてみる。

「神津山の都市伝説の妖怪って、結局のところ、何が目的で現れるんだ? 何か悪さでもするのか?」

「何って……人をさらうんじゃないのか。なら、もう一つの都市伝説、神隠しとも繫がるわけじゃん。でも――」

 一也は口をつぐんだ。

「でも?」

 重要な部分である。促さずにはいられなかった。

 一呼吸置いて、一也は口を開く。

「妖怪が人を食う、っていう噂もある」

 予想どおりの答えだった。

「一つ目小僧がおれをつかまえて口を大きく開いたのは、つまり、おれを食おうとしていたわけだ」

「待ってくれ、まだそうと決まったわけじゃ――」

「人知れず食われてしまったんなら、行方知れずだ。神隠しに遭ったも同然だろう」

「飯島は食われちまった、って言いたいのか?」

 泣きそうな顔だった。しかし、隼人は自分の主張を否定しない。

「これも一つの可能性にすぎないけど、危険性もあるっていうことだ。だから、一人で行動するのは避けるべきだし、少なくともあの廃工場には、もう行かないほうがいい」

 できれば神津山の都市伝説にはかかわらないほうがよいのだろう。だが、自分の家族や友人は神隠しに遭わない、とは言いきれない。大切な人たちを災厄から守るためにも、怪異の謎を明かさなければならないのだ。

「そうだな」一也はようやく頷いた。「慎重に行動しないと、元も子もないな。かといって、警察に相談したって、先が見えている」

「ああ」

 頷き返し、コンビニエンスストアの出入り口付近で談笑するグループを見た。二十歳前後の男女五人である。こうやって楽しそうに過ごしていても、明日、いや、数分後には、あのけ物たちに食われてしまう、という可能性もあるわけだ。

「で、どうする?」一也は隼人を見た。「今後の活動は……」

 活動、というほどの計画も立てていなければ、この二人だけでは大した組織でもないだろう。しかし、危険であればこそ、計画は必要だ。

「一也が言っていたように、情報の収集が必要だろうな。ただし、安全性は優先しなければならない」

「わかった」と首肯した一也は、続ける。「じゃあ、さっそく情報の整理だけど、まずは、隼人が出くわした例の男のことから」

 あの長身の美青年は、ある意味、化け物に引けを取らない脅威である。

「化け物たちと無関係ではない、と思う」

 いの一番に出た答えは、それだった。

「隼人の話によると、その男も化け物が見えていたんだよな」

「どうだろうな……あの様子からすると、見えていた感じだけど、本人に尋ねてみないとわからないな」

 正直な見解だった。

「尋ねてみるというか、コミュニケーションは取れるかな? その男から話が聞ければ、一番だと思うんだけど。だって、仲間にならないか、って言っていたんだろう?」

 そんな言葉を受けて、隼人は首を横に振った。

「仲間……って、やつの正体はわからないんだぜ。化け物と同じくらい危険だと思う。へたに接触を図れば、もう帰ってこられないかもしれない」

「化け物たちよりはいいんじゃないかな。少なくとも、人間みたいだし」

「いきなり姿をくらましてしまったんだぞ。化け物を恐れているふうでもなかったし。とてもまともな人間とは思えないな。それに、どこにいるのかわからないよ。廃工場に行けば会えるかもしれないけど、あそこはもうやめておこう」

「まあ、あの廃工場に行くのはやめる、ということにするけど……じゃあ、例の男のことは、とりあえず課題とするか」

 一也の提案に隼人は頷く。

「そうだな」

「次に」一也は言った。「廃工場にいた化け物についてだ」

「人の姿にも見えたけど、尻尾があったな。あの廃工場に化け猫がいる、って一也は言っていたけど、あれがそうなのかもしれない」

「そういや、屋根の上から猫の声がしたんだよな?」

「うん」

 隼人は認めた。

「化け猫の噂は、概ね当たっていそうだな」

 一也のその言葉に隼人は危惧を覚える。

「化け猫が出る、というだけの話が広まれば、多くの人は、好奇心をそそられてその場所に行きたくなるもんじゃないか」

「だよな。行ったら絶対に生きて帰ってこられない、ってわかっていれば行かないんだろうけどさ」

「そんな噂、広められるかな?」

「都市伝説を逆に利用するわけか」一也は感心したように頷くが、すぐに表情を曇らせてしまう。「でも、それは難易度が高いな。へたをすりゃ、かえって好奇心を煽ってしまいかねない」

「好奇心というよりは、怖いもの見たさか」

「化け物……つまり、妖怪自体が一般的に信じられていないだろう。それに対する危険性の訴えに信憑性がついてこないのは、当然だよ」

「本当に、難しいな」

 最善の策がどうしても見つからず、隼人はため息をついた。

「これも課題だな。でも、なんとなく方向性は見えてきたんじゃないか」

 そう言われても、隼人には見当がつかない。

「どんな方向性なんだ?」

「神津山の都市伝説において、妖怪と神隠しが関連しているのはほぼ間違いない。で、それらの怪異にかかわっている人物が、少なくとも一人はいる。つまり……」

 その先は任せたとばかりに、一也は隼人を目で促した。

「あの男と接触を図ることは避けて通れない」

 隼人が言うと、一也は頷いた。

「もし失踪した人たちが無事なら……その男に……というか、複数だとして、その男の組織に拉致されたのなら、なおさらそうしなければならない」

 むしろ、一般人には到底かなわない難題である、ということが見えてきたような気がした。

「組織犯罪なら、やっぱり警察じゃないと無理じゃないか」

 弱音というよりは、現実的な考えだった。

 そんな意見に一也は答える。

「少なくとも、妖怪なんて持ち出しても警察には相手にされないよ。確かな情報をより多く集めて、それをまとめて警察に突き出すんだよ」

「それが、一也の言う方向性、なのか?」

「ああ、そうだよ」

 一也の迷いのない目を見て、隼人にもその方向性が見えた気がした。

「わかった。なら計画の詳細を練らなきゃならないけど、とりあえず……」

 隼人はダッシュボードから『神津山の昔話と伝説』を取り出した。それを一也に差し出す。

「もう、読んだのか?」

 それを受け取りつつ、一也は尋ねた。

「斜め読みしかしていないよ。でも、これは一也が持っていたほうがいい。情報を整理するのは一也のほうが適任だし、それならば、参考書は手元にあったほうがいいだろう」

「そうか、わかった」

 答えた一也は、両足で挟むようにフロアに立てておいたトートバッグに、『神津山の昔話と伝説』を入れた。

「計画の案は、うちに帰ってから考えてみるよ」一也は言うと、コンビニ袋からウーロン茶のペットボトルを取り出し、隼人に差し出した。「水分くらいは補給しろよ」

「ああ。ありがとう」

 隼人はそれを受け取った。


 コンビニエンスストアを立ち去る前に、二人はゴミを処分することにした。

 一也に遅れて車外に出た隼人は、ゴミ箱の前に立つと、ウーロン茶の残りの四分の一ほどを一気に飲み干した。

 店の前のゴミ箱にそれぞれのゴミを投入した二人が、車に戻ろうとしたときだった。

「あれ?」

 駐車場と車道との間の歩道を、見知った少女が歩いていた。山側から市街地方面へと向かっている。

「瑠奈ちゃんじゃないか」

 白いブラウスにジーンズ、背中にはリュック、という姿の少女――神宮司瑠奈に隼人は声をかけた。

「え?」と声を漏らして、瑠奈は立ち止まった。しかし、彼女は一人ではなかった。五歳前後とおぼしき少年の手を引いている。

 隼人は瑠奈に近寄った。

「こんなところでどうしたんだ?」

「隼人さん」

 意表を突かれた様子だった。

 そして、隼人の横に並んだ一也が言う。

「瑠奈ちゃんかあ。久しぶりだね」

「わかるだろう?」隼人が瑠奈に解説した。「佐伯一也だよ。小さい頃、瑠奈ちゃんと蒼依とおれと……四人で遊んだじゃないか」

「あ……はい」瑠奈は思い出したように頷いた。「一也さん、お久しぶりです」

「家から歩いてきたのか? ていうか、歩いて帰るところなのか?」

 隼人が尋ねると、瑠奈は苦笑を浮かべた。

「ええ、そうです」

 瑠奈の自宅はここから一キロほどだ。ここと神津山第二高等学校とのほぼ中間地点だろう。

「そんな小さな子を連れてかい?」

 一也のその言葉に、隼人は改めて瑠奈の傍らに立つ少年を見た。

 ワイシャツに七分丈のズボンという姿の少年は、目が大きな愛らしい顔つきだった。どこかで見たような顔である。

「往復で一時間程度の散歩です。この子の足なら余裕ですよ」

 瑠奈は答え、少年を見下ろした。

 何が楽しいのか、少年は市街地の方向を見ながら笑顔を浮かべている。

「ていうか、弟……なの?」

 隼人は尋ねた。十歳ほども年の離れた弟など珍しくもないが、腑に落ちないものがあった。瑠奈に弟がいるなど、聞いたことがない。たとえ蒼依との間に軋轢が生じてしまったにせよ、この少年の見た目からするに、軋轢が生じる以前に生まれているはずだ。

「親戚の子、なんです」

 気のせいか、瑠奈の目が泳いだように見えた。

「そうなんだ」

 頷いた直後に、隼人は気づいた。そして、あとずさりそうになるのを、ぐっとこらえる。

「じゃあ、そろそろ行ってみます」

 瑠奈が言うと、一也が隼人に顔を向けた。

「送ってやったほうがいいんじゃないか」

 そんな言葉を振られたら断れるはずがない。

 承知の意を示そうとしたが、その前に瑠奈は言う。

「いいんです。だって、散歩の意味がなくなっちゃうじゃないですか」

 瑠奈は笑顔を浮かべた。

「そうか、そうだよね」

 つられたように一也も笑った。

 ふと、少年が瑠奈を見上げる。

「瑠奈お姉ちゃん、早く帰ろうよ」

 笑顔は失せていたが、不満を呈するでもなく、淡々とした表情だった。

 少年を見下ろし、瑠奈は頷く。

「そうだね。じゃあタイキ、お兄ちゃんたちにばいばいだよ」

 瑠奈に促され、少年が隼人と一也に顔を向けた。

「ばいばい」

 空いているほうの手を軽く振り、少年は言った。

 ぺこりと頭を下げ、瑠奈は少年の手を引いて歩き出した。

「そういや、瑠奈ちゃんって蒼依ちゃんと同じクラスなんだったよな?」

 去り行く二人を見送りながら、一也が隼人に声をかけた。

「そう……だな」

 どうでもよい答えを口にすることに、意識を向けたくなかった。

 頭の中が整理できていない。

 一也に伝えるべきかどうか、隼人は迷った。

 タイキと呼ばれた少年が、単眼の化け物とともにいた小さな異形とうり二つであることを。

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