第2話 探索 ①

 人として当然の反応だったに違いない。

 隼人は単眼の化け物に背中を向けて走り出した。

 素足がアスファルトを蹴る音が、すぐ後ろに続いた。

 だが、このまま坂を下れば先ほどの初老の男に追いついてしまうかもしれない。他人を巻き込みたくはなかった。

 坂を下りかけたところで右へと進路を変えた。

 その道は緩い上りの傾斜だ。三十メートルも進めばその傾斜も平坦となり、畑地と民家が点在する風景となるはずである。

 背後の足音がやんだ。

 隼人はわずかに歩調を緩めつつも、足を運びながら振り向いた。

 またぞろ化け物の姿が失せていた。

 啞然とし、隼人は足を止めた。

 周囲を見渡すが、やはり、どこにも化け物の姿はない。

 冷たいものが背中を走った。

 化け物はこちらの道に入らずにみえん坂を下ったのかもしれない。あの男のペースではすぐに追いつかれてしまうだろう。

 丁字路の起点に向かって隼人は走った。

 そしてみえん坂へと進路を変えた直後、不意に右足をすくわれ、進行方向に転倒した。

 とっさに両手で受け身を取り、なんとか顔面をアスファルトに打ちつけずに済んだ。

 右足首に感触があった。弾力のある何かが、きつく巻きついている。

 魚の腐ったようなにおいが、わずかに漂っていた。

 うつぶせに倒れたまま足元を見た。

 表面がぬらぬらとした触手が、幾重にも巻きついていた。

 そのまま視線をあげると、あの化け物が立っていた。化け物の左手の先が、隼人の右足首をとらえているのだ。

 隼人は仰向けに体の向きを変え、起き上がろうとした。しかし、右足首を緊縛する触手が、それを許さない。隼人の右足首と化け物の本体との間で、触手はぴんと張られていた。

 右足首が化け物のほうへとわずかに引き寄せられた。ただでさえ手を伸ばせば届く距離である。

 化け物の口が大きく開かれた。否、大きく開かれた、という度合いではない。上顎を残して、下顎がどんどん下がっていくではないか。

 逃げるための手立てを考えることさえ忘れていた。この異様極まりない変容から、目が離せない。

 下顎の降下は化け物の膝の高さで止まった。

 縦長の楕円形の穴、とも形容すべきその口は、内側の上下に何本もの鋭い鋸歯を備えていた。それら鋸歯のすべてが、植物の成長を早送りしたかのごとく、長く伸び、口の外へとせり出す。

 ――おれを食うつもりなんだ。

 自分の感覚の異常に絶望している場合ではない。この現状こそが、絶望的なのだ。

 上下の顎――すなわち口の周りの部分が前へと伸び始めた。縦長の楕円形の穴が、ゆっくりと隼人に近づいてくる。その突き出した長さたるや犬の口吻とは比ぶべくもない。まるで一体の独立した生物だ。

 腐臭が強まった。

 声さえ上げられない。

 硬直した体は、揺らしたゼリーのごとく、ただ震えるだけだ。

 ふと、縦長の穴の前進が止まった。

 飛び出した単眼が、それを保持する器官ごと、隼人から向かって右に向けられている。

 首を動かせない隼人は、目だけで化け物の視線を追った。

 路肩の辺りで、それはこちらに正面を向けてたたずんでいた。子供のようであるが、まるで半透明の人体模型だ。内臓も骨格もすべてが半透明である。

 その小さな姿にも、色がつき始めた。体内の各器官から体表へと、単眼の化け物がそうであったように、物質で構成された体であるのが実感できる。

 五歳前後の少年だった。こちらも全裸であり、男であることを証明するものが股間についている。頭髪はマシュマロカットであり、肌の色は明らかに人のものだ。

 少年は単眼の化け物を見つめていた。つぶらな瞳が愛らしいが、喜怒哀楽といった表情がまるで窺えない。

 単眼の化け物の顎が素早く後退した。続いて、鋸歯が口内に収まるとともに、下顎の位置も元に戻ってしまう。

 触手が隼人の右足首を解放し、持ち主の左手首の位置でとぐろを巻いた。

 自由の身になったものの、隼人はそれでも動けなかった。

「行くよ」

 化け物を見つめたまま、少年が言った。疑うまでもなく子供の声である。

 直後、少年の背後に直径二メートルほどの球体が現れた。虹色のマーブル模様に覆われたそれは、わずかながら地面から離れている。宙に浮いているのだ。まるで巨大なシャボン玉である。隼人には、その虹色の球体が空間の一点から瞬時に広がって形成された、かのように見えた。少なくとも球体の出現する瞬間までは、少年の背後には雑木林が見えていただけである。

 この現状に置かれてそう感じるのか、やけに肌寒かった。否、生理現象にしてはあからさますぎるほどの寒さだ。

 隼人には、その虹色の球体が空間の一点から瞬時に広がって形成された、かのように見えた。少なくとも球体の出現する瞬間までは、少年の背後には雑木林が見えていただけである。

 少年が背中を向け、歩き出した。そして歩調を緩めることなく、虹色の球体に入ってしまう。彼の体は虹色のマーブル模様に飲まれ、その気配さえ失せてしまった。

 少年が球体に入る際、球体の表面は穴が空くことも裂けることもなかった。虹色のマーブル模様でさえ、乱れた様子がない。まるで、空間に投影した球体の立体映像の背後に少年が隠れてしまった、かのようだった。

 単眼の化け物が少年に続いて、小走りに虹色の球体に突入した。

 少年も化け物もいなくなってしまった。虹色の球体だけが浮いている。球体の反対側に出た様子もない。

 隼人はようやく立ち上がった。

 虹色の球体の反対側を見るべく、右側に回り込んでみた。しかし、やはり少年の姿も単眼の化け物の姿もない。よく見れば、球体の表面のマーブル模様は、本物のシャボン玉のごとくゆっくりと動いていた。さらに目を凝らせば、球体の内側に深い闇が窺える。

 この中に少年と化け物が入っているのだろうか。だとすれば、まだ脅威は去っていないということだ。

 気づけば肌寒さが強まっていた。この球体が冷気を放っている、と悟った。

 隼人があとずさり始めたときだった。

 虹色の球体が消失した。というより、出現したときとは逆の現象だったのだろう。中心に向かって瞬時に凝縮し、点以下の存在になった――かのようだった。

 もはや、驚異の出来事を証明する材料は何もない。あの腐臭さえ失せている。あるとすれば、右足首のわずかなうずきと、手のひらに残ったアスファルトの跡、ジーンズの汚れだけだ。


 休日は平日よりも二時間遅く起床するのが習慣である。

 カーテンを開けてカーポートを見下ろし、隼人の車がないことに気づいた。二台ぶんのスペースが空いている。

「何それ?」

 蒼依は眉を寄せた。

 取り残された気分だった。朝から出かけるなど、一言も聞いていない。

 だが、せっかくの休日なのだ。特に予定はないが、部屋の掃除や、たまには勉強もしたい。貴重な時間をネガティブな気分で無駄にするわけにはいかず、蒼依はパジャマから普段着に着替えた。

 とりあえず朝食を取ろう――そう思い立ったときだった。

 机の上に置いたままのスマートフォンが、着信音を放った。さまざまな犬の鳴き声で作られた陽気な曲だ。

 スマートフォンを手にして画面を見ると、「お兄ちゃん」と表示されていた。

「もしもし……お兄ちゃん、どこにいるの?」

 蒼依から切り出した。

「ごめんな。今、荒川あらかわのコンビニにいる」

 恐縮した様子で、隼人は答えた。

「荒川のコンビニって、どれよ? コミマ?」

 神津山市南東部の荒川地区には、コンビニが三店ある。もっとも、詳細な位置を伝えてもらったところで、気分が晴れるわけではない。単なる当てつけである。

「ロンソンだよ」

 開き直ったらしい。面倒そうな声音だった。蒼依の険のある物言いに反応したのだろう。

 ならば、こちらも態度を改める必要はない。

「ロンソンって、ユニシロの近くの?」

「そうだよ」

「神津山市の端っこのほうじゃん」

「今から出かけるところなんだよ」

「出かけるって、どこに?」

 不本意ながら、蒼依は声をしぼませてしまった。カーポートを見下ろした時点での寂寥感が蘇っていた。

「水戸だよ」

「ええっ……あたしも行きたいよ! 連れていってよ!」

 寂寥感が転じて、焦燥が湧き上がった。県庁所在地である水戸市には、この辺鄙な神津山市では手に入らないものが山ほどある。とはいえ、片道で五十キロもの距離だ。公共交通機関を利用して出向くにはやや遠い。月に一度は行人の運転する車で家族三人揃っての買いものに出かけてはいるが、蒼依にしてみれば決して高い頻度ではなかった。

一也かずやと一緒に行くんだ。ここで落ち合うことになっていて、今、待っているところ」

 とりあえず、隼人は落ち着きを取り戻したようだ。それに相反して、蒼依の気分は塞いでしまう。隼人が一人でないのなら、今回の遠征に便乗するわけにはいかない。まして、出かける直前なのだから。

「一也くんも一緒なんだ……っていうか、出かける話、いつ決まったの?」

「さっき」

「さっきって? それで朝早く出かけたの?」

「いや」口ごもった隼人だが、すぐに話を続けた。「買いものがあってインター手前のコンビニに行ったんだけど、そこで一也から電話が入ってな。いろいろと話しているうちに、そういうことになった」

 蒼依は我に返った。一昨日の夕刻、隼人は常軌を逸したものを目撃したのだ。自分が落ち込んでいる場合ではない。隼人にこそ、気分転換は必要だろう。

「うん、わかった」蒼依は小さく頷いた。「感情的になって、ごめんなさい」

「おれのほうこそ、蒼依に黙ってきちゃって、すまなかった。それよりさ、今日、どこかへ出かける予定はあるのか? 学校とか、行かないよな?」

「特に行く用事なんてないけど……もしかして、一つ目小僧のことで心配してんの?」

「信じられないのはわかるけどさ」

「信じているよ。でも……」

 隼人は昨夜、登下校の送迎をする、とまで言っていた。担いでいるわけでないのは理解できる。しかし、束縛されるのは嫌だった。

「頼むから、あの坂を使うのだけは、やめてくれ」

 この執拗さに、蒼依は畏怖した。隼人の目撃したものの正体が何であるにせよ、隼人が本気で自分の妹を心配しているのは間違いない。

「わかった。お兄ちゃんの言うとおりにするよ」蒼依は兄の嘆願を受け入れた。そして続けざまに尋ねる。「送り迎えのことなんだけど、いつまでしてくれるの?」

「当分の間というか、あの化け物がいなくなった、とわかるまで……かな……」

 隼人は言葉尻を濁した。仮に一つ目小僧が実在するとしても、それがみえん坂から撤退したか否かなど、確認のしようがないだろう。

「ああ……まあ、いいや」

 登下校での仲間たちとの時間を割かれることは想像に難くないが、片道で三十分の時間を数分に短縮できるはずだ。前向きにとらえることにした。

「ところでさ、お兄ちゃんが自分の車で水戸へ行くの、初めてだよね? 疲れるだろうし、夕ご飯、あたしが作っておくよ」

 自分を気遣ってくれる兄への、せめてもの返報のつもりだった。

「何も作らなくていいよ。昨日も作ってくれたんだし。何かうまそうなものを買って帰るから、ゆっくりしていろ」

 意外な言葉だった。とはいえ、この好意を拒む理由はないだろう。

「なら、そうしてもらっちゃおうっと」

「この次こそは、蒼依を連れていってやるからな」

 嬉しい一言だった。蒼依は素直に感謝を口にする。

「ありがと」

「じゃあ、そろそろ行くからな」

「うん、気をつけてね。一也くんによろしくと伝えておいてね」

「わかった」

 通話が済むと、スマートフォンを持ったまま、ベッドの端に腰を下ろした。

 問題が残っていないわけではない。みえん坂が危険なら、仲間たちにも警告が必要だろう。それを敢行することができないのは、嘲笑されるのが落ちであることを知っているからだ。

 しかし、それ以外にも心に引っかかるものがある。

 蒼依は目を見開いた。

 美羅たちのことよりも瑠奈を気にかけている自分に、ようやく気づいた。


 蒼依との通話を住ませた隼人は、スマートフォンをライダースジャケットの内ポケットに入れた。

 コンビニエンスストアと衣料品店、眼鏡販売店の共同駐車場は五十台以上は停められそうな規模だ。その駐車場の道路に近い一角で、隼人は愛車を背にして立っていた。腕時計を見ると、午前八時十分を過ぎたばかりだった。この時間のためか、広い駐車場に停めてある車は、隼人の愛車以外に四台だけである。

 交通量もまばらだった。歩道に至ってては人の姿が皆無だ。道の向こう側、神津山大学の正門に目をやれば、守衛が一人、門の外側に立っている。

 ライダースの右ポケットから出したのは、コンビニエンスストアで購入した缶コーヒーだ。ホットかコールドかと迷ったあげくに自分の好みで選んだコールドである。とはいえ、隼人の右手にある缶は、すでに生ぬるい。

 五月の乾いた空気にライダースは十分な装備だ。根っからの暑がりであるため、これ以上の着込みは後悔を招くと思われた。むしろ昼前後なら、ライダースの下のロングTシャツ一枚で済むだろう。

 季節の移ろいに翻弄されている、と感じた。昼夜の寒暖の差は、二十一歳を迎えたばかりの隼人にも容赦なく襲いかかる。もっとも、ここ神津山市より気温が二、三度高い東京都心ならば、終日、上着はいらないはずだ。

 百五十キロもの距離は、気温だけでなく職業や文化に至るまで差異を生んでいた。この片田舎では手にすることのできない夢を都会に求める若者が多いのも無理はない。隼人の同期の五割近くが進学や就職のために上京したほどである。上京とまでいかなくても、故郷を離れた同期は多かった。畢竟、なじみの顔が減ってしまったわけだ。

 だが隼人は、山や川や海といった自然が身近なここ神津山市が好きだった。田舎とはいえ商業施設や医療施設、ライフラインが整っており、生活に不自由はない。選ばなければ仕事もあるのだ。はなから離郷する気などなかった隼人は、当然のごとく家族とともにこの地で暮らし続けている。

 平穏な生活があればそれでよい、などと感じるほど気質が穏やかになったことは、ともすると大人として一皮剝けたように受け取られるだろう。だが寒暖の差が身に染みるのでは、単に老けただけ、という可能性もある。

 もっとも、あのような怪異に遭遇したのでは、平穏な生活を送っているとは言えないのかもしれない。

 縹渺とした気分に浸りながら缶コーヒーのプルタブを開けた。生ぬるいコーヒーを一口飲む。期待したより甘みが足りなかった。

「おーい!」

 叫ぶ声を耳にして我に返ると、眼鏡をかけた若い男が、車の流れを見計らって道を渡ってくるところだった。肩にかけた大きめのレザートートバッグとともに、衣服の下の肉までが、わずかに弾んでいる。

「待ったか?」

 眼鏡の男――佐伯さえき一也は問いながら、隼人の元へと駆け寄った。たったに二十メートルほどの小走りで息を切らせている。

 そんな一也も、出で立ちは隼人のそれを凌駕していた。黒のカーディガンにチェックシャツ、おまけにカーゴパンツだ。小太りだが見栄えはする。ダサいだのかっこ悪いだのといじめられていた少年期の彼が、今では別人のようだ。

「おれも着いたばかり、と言いたいところだけど……」隼人はライダースの左ポケットからもう一本の缶コーヒーを出した。「これはもう冷えていないぜ」

「コールドだったのか。ならちょうどいいや。冷たいのは苦手なんだ」

 缶コーヒーを受け取った一也は、息を荒らげつつそう言った。

「夏には冷えたビールばかり飲んでいたじゃん」

「ぬるいビールは、さすがに飲めないよ」

 普段なら笑える流れだが、さすがに自然な笑みは浮かべられなかった。

「相変わらず切り返しが早いな」隼人は笑顔を作れないまま言った。そして尋ねる。「それより、今朝になって、ここで待ち合わせようって一也が電話してきたけど、大学に用事があったのか? 確か今月は、土曜日の講義がなかったはずだし」

 一也から電話があったのは、隼人が赤ノ浜の海岸にいたときだった。神津山第二高等学校の前からすぐに赤ノ浜あかのはまへと車を走らせ、一人で砂浜に立ち、海を眺めていた。そうでもしなければ、わずかであっても落ち着くことなどできなかっただろう。

「付属図書館から借りた本をロッカーに入れたままだったんだ。今朝、仕事に行くおやじにここまで車で送ってもらってさ」

「そうだったのか」

「面白い本なんだ。あとで少し見せてやるよ」

「面白い……のか?」

 大学の付属図書館に所蔵されているほどの書物だ。面白いという度合いが、隼人には想像もつかない。

「隼人に興味があるかどうか、微妙なところだけどな」と笑いかけた一也が、隼人の顔をのぞき込んだ。「なあ隼人、なんだか顔色が悪いぞ」

「そう……か?」

 取り繕うとしたが、自分でもわかるほど口調が不自然になってしまった。

「出かけるの、やめにしたほうがいいんじゃ――」

「大丈夫だよ」隼人は一也の言葉を遮った。「初めての遠出だから、たぶん、緊張しているんだよ」

 日常に戻りたい一心だった。平静を失っていては事故を起こす危険性が高まる。それは理解していた。だが、自分は平静なのだ、と思いたかった。というより、右足首に巻きついた弾力のある感触と、あの腐臭とを、忘れたかったのだ。

「なら、いいんだけど」

 困惑した様子で一也が頷くと、隼人はどうにか笑みを作った。

「せっかく都合がついたんだ。楽しんでこような、一也」


 経費節減のため、往復で約百キロの道程を高速道路を使わずに走った。行きは国道6号を南下したが、帰りは渋滞を避けるため、国道349号を北上して途中から国道461号で東へ向かう、というルートである。そのドライブもそろそろ終点だ。

 国道461号は山中で神津山市に入った。適度なカーブが続く片側一車線の道を、平地へと向かって下っていく。

 午後三時五十分を過ぎたばかりだ。日没にはまだ早いが、山間では太陽を拝める時間は短いものだ。ときおりルームミラーに青空が映るが、二日前の夕方に睨みつけたあの夕日は、今は見えない。

 神貫かみぬきダム沿いを過ぎて四つのカーブをクリアすると、道はほぼ平坦となり、やがて左右の森林が開けた。はるか数十メートルの頭上を左右に横切る常磐自動車道の下を走り抜ける。

 田植えの済んだ水田と鬱蒼とした雑木林が広がるこの一帯は、思いのほか交通量が少ない。交通量だけではなく民家も少ないためか、人の姿に至っては皆無だ。

 ハンドルを握る隼人は、夕日に染まる寂寞とした景色がどことなく現実離れしているような気がしてならなかった。カーオーディオで再生しているのは女性アイドルグループの陽気な曲だが、それさえむなしく思え、音量を大幅に下げる。

「ボリューム、大きかったな。悪かった」

 正面を見つめたまま、隼人は詫びた。

「別に音は大きすぎなかったよ。この曲、嫌いじゃないし」

 助手席の佐伯一也は、呆気に取られた様子だった。

「なら、いいんだけど」

 そう言って隼人が横目で見ると、一也は顔をこちらに向けて笑った。

「何を言うのかと思えば……気にすることなんてないじゃないか。むしろ、おれのほうこそ買いものに連れていってもらって、申し訳ないと思っているんだ。おれ、免許はあるけど自分の車がないじゃん。たとえ助手席でも快適だし、こうやって乗せてもらうと、いい気晴らしになるよ」

 一也は笑顔を崩さなかった。

「申し訳ないも何も、出かけようと言い出したのは、おれだぞ」隼人は続けた。「とにかく……軽自動車だけど、快適に感じてもらえてよかったよ。一人でドライブなんていうのも冴えないからな」

「だったらおれじゃなくて、かわいい女の子のほうがよかったんじゃないのか?」

 眼鏡の丸顔が、皮肉っぽく返した。

「そんな相手、いるわけないじゃん」

 隼人は肩をすくめた。この車に乗せた女の子といえば、蒼依だけである。

 納得しかねる様子で一也は言う。

「女の子と付き合った経験のある男が口にする台詞とは思えないな」

「付き合った経験……って、高校のときだけだよ」

 事実を伝えた。高校時代は恋人とそつなく付き合っていたが、束縛されている感覚が否めなかった。ゆえに、卒業式の二日後に隼人から別れを切り出したのだ。それ以来、恋人がいたことなど一度もない。

「でもおれは」一也は不服そうに声を低くした。「あと半年で、彼女いない歴二十一年になるんだよ」

「一也は大学生なんだし、いくらでもチャンスがあるじゃないか。日がな一日、ずっと工場の現場で油にまみれているおれには、出会いも何もないさ」

 出会いがないというよりは、未だに恋愛を面倒と感じているだけである。

「じゃあ、おれに彼女ができた暁には、なんとかして隼人に女の子を紹介してやるよ」

 真摯な口振りだった。

「楽しみだな。期待しているよ」

「責任重大だ」

 そう告げるなり、一也は噴き出した。

 隼人も笑う。自然に笑えた。

 建物が密集する景色となった。田畑も山も視界にはない。そして、平野部に差しかかってから三つ目の信号機が赤となり、数十分ぶりの停止を余儀なくされた。

 交差点ではなく、横断歩道があるだけの信号機だった。左右ともに歩道は狭く、民家や商店が車道に迫る勢いで並んでいる。右前方には春山はるやま小学校の校舎が見えた。

 エコバッグを手にした中年の女が一人、横断歩道を左から右へと歩き出した。

 その女が向かう先、向かって右側の歩道の片隅に何かがしゃがみ込んでいる。

 おもむろに立ち上がったそれが、隼人に顔を向けた。

「なんだ、こいつ……」

 隼人はのけ反った。

 間髪を入れず、一也が「え?」と声を漏らした。

 隼人は惑乱しつつ、口ごもる。

 人間のようではあるが、身の丈が二メートル以上もあった。何より、左右の目以外に、もう一つの目が額の中央にある。しかも、全身が半透明なのだ。

「女の人が道を渡っているだけじゃん」

 そう諭され、隼人は中年の女に視線を移した。

 確かにその女も、自分の進む先に立ち塞がる異形に気づいていないようだ。

 対向車線に一台の軽トラックが停止した。運転手の初老の男と助手席の青年が、半透明の何かを無視するかのごとく談笑している。

 ――やっぱり、おれにしか見えないんだ。

 現状を認識しようと、歩道にたたずむ何かを凝視した。

 それは半透明とはいえ、ガラスやプラスチックのようなつやはなく、おまけに、夕日を浴びているはずなのにその光をまったく反射していなかった。禿頭とおぼしき頭部と男性的な体軀はわずかに白濁しており、臓器や骨がおぼろに窺える。半透明であるためにはっきりとはわからないが、衣服を纏っているようには見えない。形態や大きさが異なれど、あの二体の小さな異形と無関係ではないだろう。

 三つの目、というより三つの眼球が、興味深げに隼人を見ていた。眼球を半ば覆っているまぶたも半透明であるため、眼球の全体が露わになっている。もっとも、その眼球自体も半透明だ。

 横断歩道を渡りきった女が、ふと足を止め、辺りを窺った。自分のすぐ横に立っている何かに気づいた様子はないが、顔をしかめて片手で鼻をつまんでいる。

「おい、青だぞ」

 一也に声をかけられ、隼人は我に返った。

 信号が青に変わっており、対向車線の軽トラックはすでに走り出している。

「でも――」と言いさした隼人は、半透明の姿がなくなっていることに気づいた。

「隼人、大丈夫か?」

「あ……ああ、大丈夫だ」

 答えてかぶりを振り、軽トールワゴンを発進させた。幸いにも後続車はなく、交通の妨げにならずに済んだ。

「どうしたんだよ?」

 そう問われても、なんと説明してよいのかわからない。

「なんでもない。たぶん、疲れているんだ」

 百キロの道のりを運転したのだ。疲れているのは事実である。

「そうだろうな。早く帰って、休んだほうがいいよ」

 一也は気遣うように言った。

「そうだな」隼人は頷いた「こんなんじゃ、事故を起こしてもおかしくないし」

 自分の運転技術を過信する傲慢さに気づき、隼人は今度こそ己を律した。

 一也を送り届けたら、夕食を買って帰るだけだ。


 ダイニングテーブルに置かれたのは、パックの寿司セットとパックのオードブルセットだった。蒼依は思わず驚嘆する。

「何これ、すごーい! どっちも三人ぶんはあるよね?」

「そのとおりだよ。蒼依が二人ぶん食っていいぞ」

 ライダースのフロントファスナーを下ろしながら隼人は言った。

「そんなに食べられないよ。半分こにしよっ」

 寿司といえば、半年前に市内の回転寿司で食べたきりである。家族三人で出かけたあのときは、蒼依が一番多く食べたのだった。

「じゃあ、そうしよう」

 頷く隼人に、蒼依は言う。

「あたし、もうお風呂に入っちゃったんだ。お兄ちゃんも早く入ってきてよ。その間に準備しておくから」

「わかった」

 隼人がリビングダイニングキッチンを出ていくと、蒼依は戸棚から取り皿とコップをそれぞれ二人ぶん、取り出した。

 リビングテーブルの上でスマートフォンが着信音を鳴らしたのは、隼人の足音が二階の彼の部屋に入ったときだった。

 急いでスマートフォンを手にすると、画面に「瑠奈」と表示されていた。

 画面を操作する指が、震えた。

「もしもし……蒼依?」

 確かに瑠奈の声だった。

「うん」と答えたきり、声が出せなくなってしまった。

「蒼依、聞こえている?」

 おびえたような声だった。この空気の危うさに慎重なのは、蒼依だけではないらしい。

「聞こえているよ」

 はっきりと言いたいのに、消え入りそうな声になってしまった。

「話したいことが――」

「あたしも話が――」

 思わず瑠奈の言葉にかぶせてしまった。またしても、蒼依は声を出せなくなってしまう。

「蒼依も話があるの?」

「あの……あたしの話はあとでいい。瑠奈から話して」

 だが、瑠奈の声は返ってこない。

 階段を下りてくる足音がした。そして、脱衣所にドアが開き、閉じる。

 やや間があって、スマートフォンから小さな声が届いた。

「じゃあ、わたしから話すね」

「うん」

 返事をしてから、後悔した。もしかすると、瑠奈の話は絶交の宣言かもしれない。それならこちらから先に話すべきではないか――何しろ蒼依の話というは、和解するための譲歩なのだから。そして、みえん坂の妖怪に対する注意喚起がそれに続くはずだったのだ。

「蒼依、今度の月曜日の夕方に上君畑の怪奇スポットへ行く、って野村さんたちと話していたでしょう?」

「うん……話していたよ」

 今はまだ話が読めないが、仲間はずれにされている現状を訴える、とも予想された。

「行ってはだめ」

 はっきりとした声だった。図らずも蒼依は萎縮してしまう。

「だめ……って、どうして?」

「危険なの」

「え、えっと、何が危険なの? ねえ、わかるように話して」

「詳しくは言えない。とにかく、危険なの」

 これでは埒があかない。蒼依はしぶとく尋ねてみる。

「だから、何が危険なの? 車で行くこと? あたしの知らない人たちが一緒に行くことかな?」

「その人たちのことは、わたしにはわからない。わたしが言っているのは、蒼依が行こうとしている場所のことだよ」

「場所って、怪奇スポットのこと?」

「うん」

 瑠奈は答えた。

 なんとしてでも、瑠奈の渋っている部分を引き出したかった。蒼依は懲りずに試みる。

「あたし、その場所がどんなところだか知らないけど、なんていうか、倒壊しそうな廃屋であるとか、今にも崩れそうな崖があるとか?」

 沈黙があった。

 五秒……十秒……と時間が過ぎていく。

「まさか」たまらず、蒼依は言った。「お化けか何かが出る、とか?」

「お化けが出る、と言ったら、行くのを諦めてくれる? 信じてくれる?」

 すかさずそう返され、蒼依は口ごもった。

「ねえ、蒼依」瑠奈は続けた。「それがお化けであれ、倒壊のおそれのある廃屋であれ、崩れそうな崖であれ、危険なものは危険なの。行ってはいけないところへは、行ってはいけないの」

「あのね瑠奈、あたし、お化けは信じるよ」

 唐突だったかもしれない。だが、言わずにはいられなかった。

「蒼依、わたしは真面目に話しているんだよ」

 やるせなさそうな声だった。

 これで終わってしまったら、とても耐えられないだろう。今、言わなければ、手遅れになってしまうかもしれない。

「あたし、ふざけていないよ。だって、うちのお兄ちゃんが、みえん坂で妖怪を見たんだもん。あそこは通るな、ってあたしに言ってくれたんだもん。だからね、あたし、瑠奈に言いたかったの。あそこは危ないから、通らないほうがいい、って。車で送り迎えしてもらったほうがいい、って。それをね、みんなにも教えてあげたかったの。そしてね、瑠奈や美羅と……みんなでまた……みんなで……」

 声が詰まってしまった。しかし、伝えたいことは口にできたはずである。

「隼人さんが見た……ということなの?」

 瑠奈は尋ねた。

「うん。お兄ちゃんはうそなんて言っていない、と思う」

 答えたが、再び沈黙が訪れた。

 それでも、蒼依は待つ。

「蒼依がそうまで言うのなら、わたしは信じる」瑠奈は言った。「けれど……野村さんたちとは仲よくできないよ」

 耳を疑うような言葉だった。蒼依の開きかけた口が、震えてしまう。

「蒼依、野村さんたちがいじめをしていること、知っているよね? 最近は隣のクラスの子……二人の女の子が標的にされている。蒼依はそれでも、まだ野村さんたちと仲よくするの?」

 蒼依は直接的な加担をしていないものの、知らないわけがなかった。要するに、見て見ぬふりをしているのだ。

「だって」蒼依の口が勝手に開いた。「だって、瑠奈だって黙っているじゃない。瑠奈だって……」

 見て見ぬふりをしている――そう言いたかった。

「わたし、おとといの放課後にね、職員室に行って先生たちに訴えたよ」

 瑠奈の言葉に蒼依は声を吞む。

「え……」

「でもね、先生はみんな、苦笑していた。当てにできないんだ、ってわかったの。だから、月曜日に、野村さんたちに直接言うよ」

「ちょっと待って。そんなことしたら、今度は瑠奈が……」

 これまで瑠奈がいじめの対象にならなかったのは、彼女の家柄が関係していた。しかし、面と向かって牙を剝かれたら、さすがに美羅たちは黙っていないだろう。

「かまわない。わたし、野村さんたちに改心してもらいたいから。それに、上君畑へ行くのも諦めさせたいし」

「そんなこと……できっこないよ」

 蒼依は泣きたい気分だった。

「それからね、蒼依。みえん坂の妖怪は、もう大丈夫だよ。一つ目小僧は、もうあそこには出ないから」

「え……どういうこと?」

 虚を突かれた気分で、蒼依は問うた。

「みんなが、一つ目小僧、って呼んでいる妖怪ね、もう、あそこにはいないの。……とにかく、上君畑の怪奇スポットへは行かないでね」

「でも――」

 と蒼依は言いかけたが、通話は切れてしまった。

 こちらからかけ直そうかと指を画面に伸ばしかけるが、結局、それはなされなかった。


 夕食の席につくと、あれほど喜んでいた蒼依が、何があったのか浮かぬ様子だった。蒼依が電話で誰かと話していたのは、隼人にはわかっていた。蒼依の変わりようにその電話がかかわっているのは、概ね相違ないだろう。

 だが、食事を滞らせたくなかった隼人は、蒼依が寿司やオードブルを頬張るのを黙って見ていた。片づけは隼人が一人で済ませた。「手伝う」と言ってきた蒼依を強引に二階の部屋へと引き上がらせたのだ。

 片づけを終えた隼人は、ジャージのポケットに入れたままのスマートフォンが鳴っていることに気づいた。メッセージの着信音だ。

 おもむろにスマートフォンを取り出し、内容を確認した。一也からのメッセージである。

    *    *    *

 今日はお疲れさんでした。

 明日の午前中、時間空くかな?

 連日で申し訳ないんだけど、ちょっと話したいことがあって。

    *    *    *

 電話では話せないことなのだろうか。

 とりあえず、隼人は承諾のメッセージを返信した。

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