第8話 儀式 ②

 悪臭とバニラの香りがもつれ合い、漆黒の闇を浮遊していた意識が現実へと引き戻された。しかし、期待したほどの明るさは感じられない。

 隼人は何かに支えられて立っていた。うなだれたまま目を凝らすが、地面の状態が今一つわからない。足をわずかに動かし、靴底を通して、乾いた固い土であることを知った。

 顔を正面に向けると、二つの大きな炎があった。焚き火である。焚き火は隼人の前方、左右に一つずつあった。どちらの焚き火も木の枝を大量にくべてあるように見える。二つの焚き火と隼人、それぞれを直線で結べば、一辺が約三十メートルの正三角形になるだろう。オレンジ色の焚き火に照らされたこの一帯の地面に起伏はなく、ほぼ平坦だ。周囲には雑草が繁っており、さらなる外縁を杉林と闇が取り巻いている。見上げると、星空が広がっていた。

 隼人の正面、焚き火と焚き火との間に、大きな石があった。高さも幅も奥行きも一メートル、といった程度だろう。立方体に近い形ではあるが、かなりゆがんでおり、全体的に丸みを帯びている。その石を背にして、白装束姿の少女が地面にぺたんと座り込んでいた。

「蒼依――」

 隼人の脳が一気に活性化した。十メートル以上は離れているが、自分の妹を見紛うはずがない。だが蒼依は、隼人に顔を向けていながら、惚けた表情のまま反応しなかった。

 蒼依に向かって走り出そうとした。しかし足が大地を滑り、体は前に進まない。そればかりか、左右の腕も動かないではないか。

 自分の体をよく見れば、左右の腕と腰のそれぞれに灰色の触手が一本ずつ巻きついていた。触手の主は背後にいるらしい。触手からも背後からも、雌の気配が放たれている。

 さらにもう一体の気配――雄の気配もあった。どんな悪臭があってもはっきりと嗅ぎ取れるこのバニラの香りがあるのだから、泰輝以外には考えられない。

 背後を確認しようとした隼人は、自分の右隣に並んで立つ瑠奈に気づく。

「瑠奈ちゃん!」

 瑠奈も隼人と同様の状態だった。両腕と腰のそれぞれを灰色の触手の一本ずつに巻きつかれている。息はあるようだが、うなだれており、目を閉じていた。

「やっと目覚めたわね」

 その声に誘われて左に目を向けると、恵美が立っていた。

「尾崎さん」

 恵美も同様に両腕と腰を触手に巻きつかれていた。さらに、左胸のシースと右腰のホルスターが空になっている。彼女はすでに状況を認識しているらしく、落ち着いた表情を隼人に向けていた。

 そして恵美の左後ろには、白い巨獣の姿があった。泰輝だ。蛇女や鬼を斃すほどの泰輝も、やはり触手によって身動きを封じられ、地面に伏している。もっとも、この巨獣を拘束している触手は十数本だ。長い両耳、首、胴、尾、背中の翼、四肢など、体中を緊縛されている。彼は口元をわずかに震わせているが、目は半開きであり、あらがう様子はない。

 体の自由が利かない隼人は、首をさらにひねって自分の肩越しに背後を見た。

 隼人と瑠奈、恵美、泰輝を拘束している何本もの触手は、灌木や雑草が密集した藪から伸び出ていた。触手はいずれも、山なりに弧を描いて宙に浮かんでおり、なんの支えもなしにその状態を保っている。試しにあとずさりしようとしたが、やはり左右の足は地面を滑るだけだった。藪は隼人の背丈ほどもあり、触手の主の姿を完全に隠している。だが、隠れている本体がこの膂力に見合う巨体であることは、容易に想像できた。

「隼人さん、けがは?」

 恵美が尋ねてきた。

「大丈夫……だと思う」体の自由は利かないが、とりあえず、どこにも痛みはない。「尾崎さんは?」

「わたしも大丈夫よ」

 だがその目は、隼人を通り越して別の何かをとらえていた。

 隼人は右に顔を向ける。

 いつの間にか、瑠奈の右にテーラードジャケットの青年が立っていた。笑みをたたえた顔を隼人に向けている。

「山野辺士郎」

 その名前が口をついて出た。

「ようこそ、高三土山の頂上へ」

 丁重な挨拶を受け、隼人は再度、周囲を見渡す。

「ここが頂上か……」

「そうさ。君らがここに来て六時間も経つんだ。そちらの女性……尾崎恵美さんは、一時間ほど前に意識を回復したけど、隼人くんは秘薬を繰り返して服用したから、目覚めるのが遅くても仕方ないね。というより、秘薬がちょっと濃かったかもしれない。……いや、むしろよかったのかな。儀式の始まりにタイミングを合わせたかのよう目覚めだ」

「そんなことより」隼人は士郎を睨む。「貴様、蒼依に何をした?」

「まだ何もしていない。ただ、蒼依ちゃんも秘薬を繰り返して服用したからね。その副作用で意識が混濁しているんだ。しばらくすれば回復するよ」

 士郎は言うと、二つ折り携帯電話のようなものを開き、右手でつまんで隼人の鼻先に突き出した。恵美の警察手帳だった。冬用制服を着た恵美の上半身の写真がある。

「尾崎恵美巡査部長」士郎は警察手帳を閉じ、それを自分の左手のひらに載せた。「二十五歳という若さで才能を認められ、水野昭彦警部の右腕として活躍し始めたばかり」

 言葉を切った士郎が左手をわずかに揺らすと、警察手帳が炎を上げて燃え始めた。

「なのに、あろうことか」士郎は恵美を見つめた。「尾崎さんは自分の上司である水野さんを殺してしまった」

 士郎の手のひらに立つ炎が、一段と勢いを増した。

「わたしの上司というよりは、あなたの仲間でしょう。それとも……」恵美は嘲笑を浮かべた。「彼はあなたのしもべだったのかしら?」

「しもべなんかじゃないさ。彼は……昭彦さんは、ぼくの恋人だった」士郎が左手を下ろすと、炎の固まりとなった警察手帳が舞い上がった。そしてその炎は、空中で立ち消えてしまう。完全に燃え尽きたのか、燃え残りも灰も落ちてこない。「あの人が同性愛者だったなんて、やっぱりショックかい?」

「同性愛を差別するつもりはないわ。わたしが差別するのは、山野辺士郎……あなたという存在よ」

 恵美がそう吐露すると、士郎は隼人の前を悠然と横切り、彼女の前で足を止めた。

「さすがにエリートだけのことはある。まったく臆しないね」

「十分なくらいに動揺しているわ」恵美は士郎から目を離さない。「水野隊長はいつからあなたと?」

「確か、君が警視庁捜査一課に配属されたばかりの頃だよ。……三年前だったね。まあ、聞いているかもしれないけど、久しぶりに日本の大地を踏んだぼくは、さっそく特機隊に目をつけられたんだ」

「そうだったらしいわね」と恵美は返した。

「そして、すでに特機隊第一小隊隊長だった昭彦さんが、ぼくを追い詰めた。それがぼくと彼との出会いだった」

「でもどうして、あの水野隊長が?」

 恵美が疑義を呈すると、士郎は遠い目をした。

「本当は彼も特機隊のやり方を嫌っていたのさ。それだけじゃない、名ばかりの民主主義に権力者たちが擁護されているこの日本そのものを、彼は疎んじていたんだ。敵同士だったぼくたちは、やがて互いの思想を知り、そして愛し合うようになった」

「わたしはその恋人を殺したわ。さぞかし憎いでしょうね」

 吐き捨てるような口振りだった。

「そう、恋人を殺した憎い女」士郎は恵美の顎を右手でつまみ上げる。「ぼくの手で八つ裂きにしたいところだけど、殴ることさえできない。何しろ、これから降臨していただく神は、無傷の女性の生け贄を好む傾向にあるからね」

「神宮司会長の懸念したとおり、というわけね。あなたが召喚しようとしているのは、蕃神は蕃神でも、雄ではなく、雌」

「神なのだから、女性と言ってほしいな。ハイブリッドと混同してはいけない」

 士郎は渋面を呈し、恵美の顎から手を離した。

「どういうことだ?」隼人は口を開いた。「蕃神と交わった巫女がハイブリッドを産むんだろう。なら、蕃神は雄であるはずじゃないか」

「君までが雄呼ばわりか」

 渋面のまま、士郎は隼人を見た。

「どっちだっていいだろう!」蕃神を崇めるつもりは毛頭ない。それより、どのような災難が蒼依を待ち受けているのかが、気にかかる。「蒼依に何をしようとしているのか、ちゃんとした説明を聞かせろ」

 雌の蕃神ならば巫女と交わるなど考えにくい。だが蒼依は、あえて儀式に必要とされている。恵美がそうであるように、蒼依も生け贄という立場なのだろうか。

「ちゃんとした説明、ね」士郎は冷ややかな笑みを見せた。「蒼依ちゃんに神の子を産んでもらうんだよ」

「でも、降臨するのは雌の蕃神なんだろう?」

「まったく、雌呼ばわりでも仕方ないか」士郎はため息をついた。「そうだよ、降臨するのは女神めがみさ。無論、降臨した女神が蒼依ちゃんと交わることはない。しかし、蒼依ちゃんは神の子を産むことになる。あくまでも巫女なんだからね」

 要領を得ない話だった。

「尾崎さん」隼人は恵美に顔を向けた。「人間の男と蕃神の雌との間にハイブリッドを作る、なんてこともあるのか?」

 それがこの儀式の目的だとすれば、蕃神と交わるのは隼人、という可能性もある。蒼依が巫女にされるくらいなら、自分がハイブリッドの父親になってもかまわない――本気でそう思った。

「過去にはそんな例もあったようね」恵美は言った。「でも山野辺士郎の言葉どおり、今回の儀式では、それは成されない。男女や雌雄が入れ替わったところで、生まれたのがハイブリッドである限り、純血の幼生にはかなわないもの」

 やはり理解を得ることはできなかった。

 隼人は士郎に顔を向け、差し迫った問題を突き出してみる。

「生け贄っていうやつに選ばれた尾崎さんはどうなるんだ? あんたは、無傷の生け贄、って言っていた。なら、刃物で切りつけたりはしないんだろう?」

 生け贄がただのお飾りであることを願った。

「この儀式の場合、女神の供物……つまり、食事になってもらう」

「食事って……」

「女神に食われてしまうのさ」

 素っ気ない返答を受け入れられず、隼人は恵美に顔を向けた。

「どうやら、そうなってしまうみたいね」

 苦笑交じりに恵美は言った。

「笑っている場合じゃ――」言いさした隼人は、脳裏に閃いたことを口にする。「処理班が高三土山に足を踏み入れているはずだ。この事態に気づかないはずがない」

 しかし、恵美は首を横に振る。

「さっき、山野辺士郎から聞いたの。処理班は高三土山の登山道に入ってすぐ、ハイブリッドたちに襲撃されて全滅したそうよ」

「なんだって」

「そして第一小隊第二強襲班が車でこちらに向かっていたそうなんだけど、その第二強襲班も車ごと……」

「尾崎さん、よく落ち着いていられるな」たまらず、隼人は声を荒らげた。「儀式が執行されてしまったら、あんただって食われてしまうんだぞ」

「わたしの覚悟はできている。だけど、蒼依さんを救い出せなかったことが無念でならない。隼人さん、ごめんなさい。わたしは力になれなかった」

 うつむいた恵美の横顔に無念の思いが見受けられた。

「あんたが諦めたらだめじゃないか」

 士郎が生殺与奪の権を握っているのは疑う余地もない。だが、素直に敗北を受け入れるなど、とてもできなかった。

「おい」隼人は士郎に顔を向けた。「人間を生け贄にする必要なんてないだろう。犬や猫や鶏を生け贄にするんじゃなかったのか?」

「これから召喚する女神には、大いなる力を振るっていただく。ならばごちそうは豪華に、生きた若い人間にしないとね。もっとも、その女神にとって人間の男性は、ごちそうでもあるけど、絶好の交わる対象なんだ。人間の男性を生け贄として差し出すと、希に女神が機嫌を損ねたりするんだよ。女神が暴れでもすれば、こちらの命取りになりかねない」

「だから」隼人は顔を引きつらせた。「女の人を生け贄にするのか?」

「しかも、若い女性だ。若い女性が女神への生け贄として一番適しているんだよ。とはいえ、蒼依ちゃんは巫女として必要だ。瑠奈ちゃんも貴重な巫女だし。状況的に見ても、都合のよい生け贄は尾崎恵美さんだったのさ」

「あいつ……水野のやつも言っていたけど、蒼依を救出する任務は、そのためのものだったんだよな?」

 素人に見抜ける罠ではなかったが、まんまとはめられて悔しくないわけがない。

「そうさ。蒼依ちゃんを救出する任務は、無貌教のために昭彦さんが計画したものなんだ。第一小隊を壊滅させ、同時に生け贄も確保する。……この計画は危険な賭だった。現に昭彦さんは命を落としてしまった。しかし、これで新しい恋人を作ることができる。ぼくは二股をかけない主義……つまり、一度に愛せるのは一人だけなんだ。どうだい隼人くん、これを機にぼくと付き合わないか?」

「お断りだ」迷わずに拒否の態度を示した。「残念ながらおれは同性愛者じゃない。というより、人の命をなんとも思っていないあんたがいとこだなんて、それだけでも腹立たしいくらいだ」

「嫌われたものだな。でも、いつの世も、革命に犠牲はつきものなんだよ」

「革命だ? こんなやり方で作る新しい世界なんて、ろくでもないものに決まっている」

 ならば現状のままで十分だ――隼人はそう思った。

「だが、特機隊だって非道なことを繰り返してきた」士郎の侮蔑するような目が、恵美に向けられた。「多くの精神障害者を生み出し、そのほとんどを極秘の施設に強制収容してきたじゃないか。そんな非道に携わった人間を生け贄にして何が悪い? 神の裁きを受けてもらうのだから、ぼくのしていることは正当なはずだ」

「どこが正当だよ!」

 隼人は声を荒らげた。多くの死を目の当たりにしたからこそ、人の命を軽んじる発言が許せなかった。

 その直後、泰輝が短いうなりを上げた。隼人は恵美の左後ろを見る。白い巨獣の体がわずかに震えていた。

「ふーん」士郎が感嘆の声を上げた。「泰輝くんは隼人くんの気持ちに共感したみたいだね」

「共感?」

 隼人は泰輝を見た。十数本の触手によって拘束されている白い巨獣が、まぶたをしっかりと開いている。その表情だけで彼の意思を窺い知ることなど不可能だが、隼人に対する親和的な感情は、確かに感じ取ることができた。

「泰輝くんのことは昭彦さんから聞いていたけど、さすがに強いね。高三土山一帯に配置しておいた三十八体のハイブリッドのうち、二十五体もやられてしまった」

 などと語るものの、士郎の表情には余裕があった。

「その泰輝くんを押さえつけてしまうこの化け物って……まさか……」

 そうつぶやいた恵美は、答えを求めるかのように士郎を見た。

 確かに、背後の藪に潜んでいる化け物は畏怖すべき存在だ。触手から伝わってくる欲情に辟易しつつ、隼人も士郎に顔を向ける。

「そう、彼女も泰輝くんと同じなんだよ。つまり、純血の幼生さ。もっとも、彼女の生まれは縄文時代だけどね」

 士郎は誇らしげに言うと、隼人の正面に移動し、たき火の明かりを背にして立った。

 そんな彼を睨みつつ、隼人は問う。

「泰輝と同じ純血の幼生……って、じゃあ泰輝は?」

「わたしの子ではない、っていうことなんですか?」

 瑠奈だった。重そうなまぶたをなんとか開き、士郎を見ている。

「お姫様のお目覚めですね」

 明かりを背にした影の中で、士郎は笑みをたたえた。

「ふざけないでください」

 今にも飛び出さんばかりに、瑠奈は上半身を前にせり出させた。もっとも、それ以上の身動きは取れず、何度かもがいたあげく、唇を嚙み締める。そして気づいたのか、隼人や恵美、泰輝を見るなり、啞然とした表情を呈した。

「みんな、つかまってしまったんですね。しかも泰輝が押さえつけられてしまうなんて、信じられない」

「信じられなくても事実なんだ。純血同士だが、彼女のほうが経験があるし、力も強い。泰輝くんはまだ幼いんだよ。だから、疲れたら眠る。しかしさらに成長すれば、疲れ知らずの強力な兵士となるんだ。そして純血の幼生ならば、長い年月を経て蕃神へと成長する可能性もあるけど、本当にそうなるのか、それはぼくにもわからない。事実、君たちを拘束している彼女だって幼生のままだ。何千年も生きているのにね」

 そう解説した士郎を、瑠奈は見つめる。

「あなたは山野辺士郎さんですね?」

「そうだよ、神宮司瑠奈ちゃん。……百数十年ぶりとなる神宮司家の巫女は、予想どおり、毅然とした聡明な女の子だね。無貌教の仲間としてふさわしい」

「あなたと馴れ合うつもりはありません」

 瑠奈は断言した。

「いいのかなあ。瑠奈ちゃんはぼくたちの仲間になるしかないんだよ。だって、あの子もぼくたちの仲間になるんだから。ほら……」

 士郎は顎をしゃくり、蒼依の存在を瑠奈に示した。

「蒼依!」

 声を上げた瑠奈は、ようやく蒼依の存在に気づいたようだ。目を見開き、小刻みに震えている。

「蒼依に何をしたんです?」

 瑠奈は士郎に視線を戻した。

「またその質問か」士郎は肩をすくめた。「儀式はこれからさ。秘薬の副作用で意識が朦朧としているだけだよ。幼生を孕む頃には、副作用は切れるだろう。そして幼生を産み落とした暁には、見鬼としての能力を開花させてあげるのさ」

 そんな士郎に向かって隼人は眉を寄せる。

「どういうことだ?」

「君に施した術を蒼依ちゃんにも施してあげる、と言っているんだよ」

「おれに施した術、って……あの夢か?」

 思い当たる節があるとすれば、それだけだ。

 満足げに士郎は頷く。

「そうさ。瑠奈ちゃんは幼い頃に不可視状態の幼生が見えるようになったらしいけど、君たち兄妹はどうにも開花に遅れがあるようだ。とにかく、いくら純血の幼生を産んでくれても、見鬼の能力が目覚めていなければ育てるのに支障があるだろう」

「そうまでして純血の幼生がほしいのか!」

 隼人は悪態をついた。

「もちろんだとも」士郎は即答した。「神と人間との異種混交によって生まれた混血であるハイブリッド幼生は、強力な兵士として使役することが可能だ。しかしその戦力は、純血の幼生に遠く及ばない。当然さ。何せ、純血の幼生は神へと成長する存在なんだから。しかも、多くのハイブリッドは犬並みの知能しか有さないけど、純血の幼生は、教育次第では成長するごとに知能を増していく。人間のそれを上回る場合もあるのさ。なら、純血の幼生を使いたいところだよね。……無数の純血の幼生は、宇宙の至るところを漂っている。その一体くらいなら召喚するのは可能だけど、人間になついていなければ人間からの教育を受けてもいない個体を手なずけるのは、魔道士のぼくでさえほぼ不可能だ。自分の配下に置けないのであれば、呼んでも意味がない。そこで古代の術者たちは、自分たちの守りをより強固なものにするために……つまり、純血の幼生を配下として得るために、さらなる秘術を編み出したんだ。並の魔道士には使えない高度な術さ」

「それが……雌の蕃神を召喚する儀式なのか?」

「そうさ。大いなる大地母神、千匹の仔を孕みし森の黒山羊……彼女こそが、この儀式の要なのさ。男神おがみや人間の男性との交接を好む彼女は、交接した相手の子を産み落とす。しかし、雌雄同体でもあり、交接がなくても自家受精で幼生を産み続ける」

「だったら」隼人は切り返す。「雌の蕃神が産み落とせばいい。雄の蕃神と雌の蕃神との交接があるにせよ、自家受精にせよ、蒼依は必要ないはずだ」

 隼人のその意見を否定したのは、恵美だった。

「いいえ、蒼依さんは必要なのよ」

「尾崎さん?」

 隼人は恵美を見た。

「蕃神が産み落とした幼生は、純血もハイブリッドも、絶対に人間には従わない」正面を向いたまま恵美は言う。「だから、人間に従わせるのであれば、たとえ純血であろうと、それを産み落とすのは人間の女性……巫女でなければならない」

 その答えに得心はいかなかった。問い返したいが、別の疑問が湧き上がる。

「どうして尾崎さんがそんなことを知っているんだ?」

「特機隊第一小隊の中では、水野隊長と土井副隊長、田口さん、わたしの四人が、古文書の写本を翻訳したものに目を通していたの。もちろん、会長も熟読している」

「お母さんが熟読したのは知っていますが、尾崎さんや水野さんも?」

 瑠奈にそう問われ、恵美は頷いた。

「ええ」

「なら……泰輝が純血の幼生っていうのは……そんなこと、あるわけないですよね?」

「泰輝くんは純血の幼生よ」

「そんな……お母さんも特機隊のみんなも、わたしをだましていたんですか?」

「そういうことになるわね」

 肯定の言葉が即座に返された。

 驚愕の表情を浮かべた瑠奈は、やがてうつむき、首を横に振った。

 瑠奈が受けた衝撃は理解できるが、今は、蒼依が被るかもしれない災難を回避することが先決だ。そのためにも、儀式がどういったものなのか、それを知りたかった。

「尾崎さん」隼人は恵美を見た。「雌の蕃神が孕んだ幼生を、どうして人間の女性が産めるんだ?」

「雄の蕃神との交接か自家受精によって雌の蕃神の胎内に宿った胎児……すなわち幼生を、時空の門を司る蕃神の力によって、巫女の胎内に転送するのよ」

「それって、代理出産?」

「そのとおりよ」

「雌の蕃神が孕んだ幼生を、蒼依が産む……つまり、そういうことなんだろう?」

 隼人は繰り返し尋ねた。蒼依にかかわることなのだから、くどいくらいに確認するのは当然だろう。

 その気持ちを察したのか、恵美はすぐに答える。

「ええ、そういうことよ」

「そして」士郎が言った。「純血の幼生を胎内に宿した巫女は、その数時間後に出産するのさ」

 瑠奈の言葉が脳裏に蘇り、隼人は右に目をやった。

 愕然とした表情を上げた瑠奈が、士郎を見ると、隼人を通り越して泰輝に視線を移した。

「泰輝は、わたしの子じゃない……」

 つぶやいた瑠奈は、両目から大粒の涙をこぼした。そして正面に向き直るなり、再びうつむいてしまう。

「瑠奈ちゃんの悲しむ姿、蒼依ちゃんに見せたくないだろうけど」

 士郎は隼人に言った。

「なんだと……」

 思わず、隼人は士郎を睨みつけた。

「大丈夫だよ」士郎は表情を変えない。「蒼依ちゃんの副作用はまだ続いている。目に映った情景も耳に入った言葉も、脳内での処理ができていない」

「貴様ってやつは!」

 今すぐにでも士郎を殴ってやりたかった。もっとも、蒼依の惚けた表情を見れば、士郎の言っていることが事実であるのはわかる。ならば、蒼依は代理出産についても認識していないはずだ。できることなら聞かせたくない話ばかりなのだから、声を潜めなくても済むという状況は、こちらにとっても都合がよいのかもしれない。

「おそらく、泰輝くん自身でさえ、瑠奈ちゃんを本当の母親と思っていたんだろうね。ほら、泰輝くんはこの会話を聞いてショックを受けているみたいだよ」

 士郎の言うとおり、全身を小刻みに震わせている泰輝は動揺しているようだ。たまらず、隼人は泰輝から目を背ける。

「隼人くん」士郎は続けた。「君は瑠奈ちゃんと泰輝くんとの関係が気になっていたんだね。そりゃそうだろう……神宮司清一氏が執りおこなった儀式とまったく同じ方法で、蒼依ちゃんの胎内に幼生が転送されるんだから。つまり今の蒼依ちゃんは、あのときの瑠奈ちゃんと同じ立場であるわけだ」

「それなのに」隼人は切り返す。「蕃神と交わった、なんていう誤った記憶があるのは本人にとって不幸なはずだ。幼生を産み落としたとしても、蕃神に犯されたわけじゃないんだからな。瑠奈ちゃんは事実を知るべきだ」

 瑠奈に忖度したつもりだった。

 しかし、長い黒髪に顔を隠されてしまった少女は、うつむいたまま首を横に振る。

「わたしは……わたしは、泰輝を自分の子供として育てました。自分が産んだ子なんです。それなのに、実の母親まで蕃神だったなんて」

 かけてあげる言葉が見つからず、隼人は口を閉ざした。

 恵美も黙していた。ただじっと、焚き火の明かりに目を投じている。

 ふと、士郎が目を細めた。その口に笑みが浮かぶ。

「どうやら、彼女のごちそうも準備が整ったようだな」

 そう独りごちた士郎は、隼人たちに背中を向けた。そして、星空に向かって両腕を広げる。

「イアイ・ングガー……ヨグ=ソトース……フエエ=ルゲブ……フアイ・トロドク……ウアアアー」

 瑠奈が上げた詠唱と同じ文句が士郎の口から流れ出た。

 極めて短い詠唱が終わって数秒後、士郎の頭上に、まるで点が急速に膨らんで巨大なボールになるかのごとく、虹色の球体が出現した。

 ほんの一瞬、二つの焚き火が小さく揺らめく。

「門――」

 声を漏らしたのは、いつの間にか顔を上げていた瑠奈だ。

 肌寒さを感じた。吐く息が白くなる。

 今度の虹色の球体は直径五メートル前後だった。底の部分は地面から約三メートルの高さである。星空をバックに鮮やかな七色のマーブル模様が微弱な光を放っているが、やはり、焚き火のオレンジ色の光さえ反射していない。

 悪臭に備えて構えていた隼人は、糞尿のにおいが現状のままであることを知った。門が開かれるたびに漂っていたあのにおいは、背後の藪に身を潜めている彼女のものだったわけである。

 士郎は両腕を下ろした。そして、おもむろに振り向いた彼は、テーラードジャケットのポケットから白っぽいビー玉のようなものを一つ、取り出す。

 再び二つの焚き火が揺れた。今度の揺れはなかなか収まらない。そればかりか、雑草や杉の葉も揺れている。

「門に向かって空気が流れている」

 恵美の言ったとおりだった。隼人や瑠奈、恵美、士郎、虹色の球体の向こう側にいる蒼依――それぞれの髪が、虹色の球体に向かってなびいている。泰輝の体毛や二つの焚き火の炎も同様の動きを見せていた。

 士郎がビー玉のようなものを自分の頭上にほうった。その玉が空中で破裂し、白い霧が広がる。だが、白い霧は一瞬で広がりを止め、玉の破片ごと黒い球体に吸い込まれてしまった。そして、空気の流れが止まる。

「今のが、おれたちを眠らせた薬か?」

 隼人は士郎を見た。

「そうだよ」誇らしげに士郎は答える。「貴重な秘薬さ」

「じゃあ、どこか別の場所に現れたもう一つの門から、今の薬が撒き散らされる――つまり、誰かをここに連れてくるというわけか?」

「察しがいいね」嬉々とした士郎は、隼人の背後に視線を送る。「さあ、いいよ」

 簡潔な指示だったが、反応はすぐにあった。

 隼人の頭上を、背後から虹色の球体に向かって、二本の灰色の触手がくねりながら伸びていった。そして、蠢く七色のマーブル模様を貫いたそれら二本の触手は、虹色の球体の反対側に突き抜けることなく、ぐんぐんと送られていく。

 誰が触手によって運ばれてくるのか、隼人には知る由もない。だが、士郎の企てが着々と進行しているのは間違いないだろう。

 二本の触手の伸びが止まった。そしてそれぞれは、二、三度大きく震えたのち、これまでとは逆に、隼人の背後へと引き戻されていく。

 隼人は正面に向き直った。

 虹色の球体から二本の触手が完全に引き抜かれた。どちらの先端にも一人ずつ、人間がとらえられている。その二人を虹色の球体の手前に寝かせると、二本の触手は背後の藪へと退いてしまった。

 虹色の球体を見上げた士郎が、再び両腕を広げる。

「オグトロド・アイフ……ゲルブ=エエフ……ヨグ=ソトース……ンガーンガイイ……ズフロ」

 呪文を唱え終えた士郎は、静かに両腕を下ろした。その直後、虹色の球体が急速に小さくなり、唐突に消失する。冷気がはたと感じられなくなった。

 横たわっているのは、蒼依のように白装束を纏った中年の男女だった。やせぎすの男と小太りの女――一也の両親である。二人は目を閉じたまま微動だにしない。

 隼人は目を見張った。

「おじさん……おばさん……」そして隼人は士郎に目を向ける。「一也が死んだことを、おじさんとおばさんは……」

「知らないままさ。別に伝える必要もないし。それでも、すぐに起きてもらわないとな。彼女にとってこの二人の恐怖こそがうまみになるんだから」

「うまみ……まさか……」

 純血の幼生でもハイブリッドと変わらないのだろう。泰輝は特別としても、そう、純血の幼生も人間を食うはずだ。

「そのまさか、さ。君たちをとらえている彼女にも滋養が必要なんだ。いろいろと頑張ってくれたしね」

 そう言うや、士郎は右手で指を一度だけ鳴らした。

 数秒後に二つの白装束姿がもぞもぞと動き始めた。

 先に上半身を起こしたのは一也の父だった。続いて母のほうも上半身を起こし、横座りになる。

 しばらく頭を揺すったり片手で目をこすったりしていた二人が、やがて辺りの様子を窺い始めた。

「ここはどこだ?」

 一也の父が誰に聞くとなく声を落とした。

「あたしたち、助かったのかしら?」そう口にした一也の母が、隼人らのほうに顔を向けた。「隼人くん?」

「おばさん……」

 一也が助からなかったのだから、せめてこの二人だけでも救いたい。しかし、今の自分には何もできないのだ。歯がゆさが胸にこみ上げた。

「隼人くんたちもつかまったの?」

 そう尋ねながら、一也の母が立ち上がろうとした。

 そのとき。

 隼人の頭上を無数の触手が、背後から前方に向かって流れていった。

「ひいいいっ!」

 真っ先に声を上げたのは、一也の母だった。

「うわっ!」

 一也の父も声を上げた。

 触手の群れが一也の両親の体中に巻きついた。

 そして二人の体が、宙に持ち上げられる。

 男女二人ぶんの悲鳴が響いた。

「やめて」

 声を漏らしたのは瑠奈だった。

 隼人は声も出せずに、ただ見上げた。

 白装束の二人が、隼人の頭上から背後のほうへと運ばれていく。

 瑠奈と恵美がそれを目で追った。

 首を巡らせ、隼人も肩越しに背後を見た。そして、目を見張る。

 背後の藪から巨大な影が伸び上がっていた。人の姿のようにも窺えるが、ならば藪から伸び上がっているのは上半身だろう。高さは優に三メートルを超えている。頭部と思われる部位は無数の灰色の触手に覆われているが、それら触手が、士郎が言うところの「髪の毛」らしい。つまりこの巨体な化け物こそが「彼女」なのだ。

 とはいえ、この化け物の細部を見極めることはできなかった。たき火の明かりが届いているはずだが、あまりに黒々とした体が、視認性を弱めているのかもしれない。それでも、白目がちの細い双眼と、鋸歯が垣間見える大きく避けた口があるのは、かろうじて確認できた。

 化け物の太い髪の毛――無数の灰色の触手が、一也の両親を黒い巨軀の上に掲げた。もっとも、無数の触手に巻きつかれているため、横向きにされているだろう二人の体は、ほとんど見えない。

 不意に、二つの悲鳴が絶叫に変わった。

 化け物の頭部に変化があった。無数の触手を押し分けて、頭頂部の辺りが盛り上がり始める。

「なんなのよ」

 瑠奈の言葉は泣き声に近かった。

 盛り上がった部分が、突然、花が開くように裂けた。それぞれの花弁状のものの内側に無数の鋸歯が並んでいる。

 泰輝のもがきが激しくなった。彼の焦燥が現れている。

「頭にも口がある」

 声を漏らしたのは恵美だった。

「そうさ」士郎が言った。「彼女はその昔、二口女ふたくちおんなと呼ばれていたことがあったね。もっとも、成長して巨体を得た今では、二口巨大女ふたくちきょだいおんな、だけど」

 そして彼は笑った。

 泰輝の焦燥は隼人の焦燥でもあった。こんなことが、これから起こるだろう惨劇が、許されるはずがない。

 隼人は正面に顔を向けた。

「いい加減にやめろ! 理不尽な社会をつぶすんなら、理不尽な手段は使うな!」

「少なくとも」士郎は隼人を見た。「佐伯家の家族は世の中の理不尽を知らないでいたはずだ。富裕層とまでは行かないかもしれないけど、何不自由なく暮らしてきたようだからね。理不尽を知らないままで終わるなんて、せっかく生まれてきたのに、もったいないだろう」

「なんだよ、それ」

 この男は狂気に駆られている。――否、この男そのものが狂気なのだ。隼人はそれをようやく悟った。

 何かがちぎれるような音がした。

 瑠奈と恵美が正面に向き直ってうつむいていた。二人とも無念の表情である。

 隼人はゆっくりと振り向いた。

 触手に掲げられていた姿は二つだったはずだが、その二つが小さないくつかに分かれていた。そして、それぞれが化け物の第二の口へとほうられていく。やがて贄を食べ尽くした彼女――二口女は、先ほどのように藪に身を隠してしまった。

 隼人も正面に顔を戻した。

 この体の震えを、腕や腰に巻きついている触手が楽しんでいるかのようだった。人間の恐怖を味わうのだから、むしろ、味わっているのかもしれない。

「彼女が満たされたことだし、そろそろ始めようか」

 士郎はそう言うと、瑠奈の足元に手を伸ばした。そこに鞄らしきものが一つ、置いてある。よく見れば、神宮司邸に侵入した二人のうちの一人が肩に提げていたショルダーバッグだった。

 しゃがんだ士郎は、地面に置いたままのショルダーバッグから一冊の分厚い書物を取り出した。文庫本程度のサイズのそれは、紐で綴じてあり、右開きだ。表紙には『天帝秘法写本』と筆書きで縦に記されている。

「テンテイヒホウシャホン……」

 隼人は意図せず、その書名を口にしていた。

「そうだね」しゃがんだまま、士郎は言った。「これが例の古文書の写本さ。もともとは無貌教のものだよ。だから……内容はぼくの頭の中にしっかりと残っているけど、ぼくが所有しているのがふさわしい」

 士郎は『天帝秘法写本』をテーラードジャケットの内ポケットらしきところに収めると、続いて、ショルダーバッグの中から透明でつやのある野球ボール大の球体を取り出した。

「それが召喚球?」

 声を漏らした恵美も、初めて目にした様子である。

「そうさ」

 士郎は首肯して立ち上がった。そして、右手に持ったその球体――召喚球を自分の目の高さに掲げる。

「恐るべき魔力を封じ込めた水晶玉……」

 満足げに笑みを浮かべた士郎は、右手を下ろし、瑠奈を見た。

「この儀式が済んだら、瑠奈ちゃんもぼくたちと一緒に行くんだよ。次回の儀式の巫女だからね」

「嫌です」

 当然の反応だろう。だが士郎は、笑みを絶やさない。

「瑠奈ちゃんも隼人くんもわれわれの仲間にならないとすれば、蒼依ちゃんは寂しい思いをするだろうな」

「人でなし」

 士郎を見る瑠奈の瞳が、蔑みの色を浮かべた。

「この儀式のあと、ぼくは一度、日本を離れるが、瑠奈ちゃんと隼人くんと蒼依ちゃんにも、一緒に行ってもらう。次回の儀式の場はアメリカ……マサチューセッツ州のダンウィッチという寒村にする予定なんだ。そのときまで心の準備を整えておいてほしい。蒼依ちゃんに連続して幼生を産ませるのも酷だからね」

「たまらないわ」恵美が仰々しくかぶりを振った。「特機隊を非情とののしってくれたけど、あなたたちも変わらぬ非情さ……いえ、特機隊を上回る非情さね」

「精神障害者を作る特機隊と比べてもらったら困るな」

 呆れ顔で恵美を見た士郎は、背中を向けて歩き出した。二つの焚き火に照らされることにより、彼の影が二つになり、こちら側へと伸びる。

「あれが、祭壇石……」

 蒼依の背後に鎮座する大きな石――祭壇石に、隼人は視線を定めた。

「隼人さん」瑠奈が隼人を見た。「山野辺士郎は呪文を唱えるはずです。呪文は一言でも間違えると効力がありません。彼の気を散らせるとかすれば……」

「そうね」

 答えたのは恵美だった。

 絶望に震えている場合ではない。隼人も首肯する。

「大声で歌とか歌ってやればいいわけだ」

「浅薄だな」

 ゆっくりと歩く士郎が、背中で言った。

 不意にうなりが聞こえた。

 振り向けば、泰輝の口に一本の触手が巻きついていた。上顎と下顎をぐるぐる巻きにされた泰輝が、口を開けずにうなりを上げている。

「泰輝!」と声を上げた瑠奈も、すぐにうめき声を漏らした。

 隼人は瑠奈を見た。

 やはり一本の触手が、彼女の口とうなじとを結ぶライン上に巻きついていた。たった一巻きだが、触手が猿ぐつわのように彼女の口を塞いでいる。

 続いて隼人も、瑠奈と同様に触手によって口を塞がれてしまった。二口女の髪の毛であるそれは、冷たくて弾力があり、かさついている。口にふれているぶん、においも強烈だ。

 首が固定されているため横目で見ると、恵美の口も触手によって塞がれていた。

 これで士郎の呪文を阻止する手立てはなくなってしまったわけだ。

 ――確かに理不尽だ。

 母がいなくても家族三人で力を合わせればなんとでもなる、と信じて前向きに生きてきた。それなのに、この現実である。諦めるわけにはいかないが、隼人は打ち拉がれそうだった。

 士郎が蒼依の横――祭壇石の正面で足を止めた。

「もうあとには戻れない」

 独りごちた士郎は、召喚球を祭壇石の上面の中央に宛がった。よく見れば、そこに丸い窪みがある。召喚球は祭壇石の表面に半球を突出した形で、その窪みにはめ込まれた。

 祭壇石に固定された召喚球が、青白く輝いた。

 満足げに頷いた士郎が、天空を仰ぎ、両腕を大きく広げる。

「イエット、ニエル、サム……ンリリリ……ングググ……クォーン、ンルルル……シェエン……」

 時空の門を開閉するための詠唱とは趣が異なっていた。詠唱する声が先の詠唱のときより明らかに高めでる。文言の一つ一つの発音に至っては、中国語を想起させる部分が多かった。そんな詠唱が、延々と続く。

 悪臭に耐えながら、隼人は何度ももがいた。もがき続けたが、屈強な触手たちは隼人に自由を与えてくれない。

 瑠奈は涙を浮かべたまま正面を見ており、恵美はあらがうそぶりも見せずに目を閉じ、泰輝はうなり声を上げるだけだ。

 いつの間にか詠唱が終わっていた。

 士郎は振り向き、右手を軽く挙げ、そしてすぐに下ろした。

 隼人の口が解放された。

 瑠奈の口からも触手が離れる。

 見れば、恵美と泰輝も口を解放されていた。

 もっとも、それぞれが解放されたのは口だけで、体の自由は利かないままだ。

 士郎が口を開く。

「この祭壇石には逸話があるんだ」士郎は言った。「真ん中にある窪みは古代になんらかの儀式を執りおこなっていた証拠かもしれない、なんて一時は考古学者たちの間で取り沙汰されたけど、その後の調査で、窪みの部分のみ数十年前に加工されたものである、とわかったんだ。学者たちは、さぞ肩を落としただろうね。実はね、加工した犯人というのは、ぼくの父、空閑幹夫だったんだ」

 だからなんだというのだろう。蒼依を救い出せる可能性は消えてしまった。何を耳にしたところで、隼人にとっての希望とはなりえないのだ。

「縄文時代……」士郎は能書きを続ける。「作られた当時の祭壇石には、召喚球を固定するための窪みが、ちゃんと存在していた。長年の風化によって表面が削り取られ、肝心の窪みが消えてしまったんだよ。儀式を執りおこなうために、召喚球の大きさに合わせて、窪みだけ新たに掘り直したわけさ。しかし幹夫は、男神しか召喚できなかった。女神の召還、そして巫女への幼生の転送……それらを成すための呪文が複雑すぎたのさ。……それにしても、特機隊はよくこの祭壇石を残しておいてくれたよ。そのうえ召喚球や写本を保存していた、ということは、儀式を執りおこなうつもりだったのかな?」

「冗談も休み休み言ってほしいわ」恵美が吐き捨てた。「祭壇石も召喚球も写本も、蕃神召喚のメカニズムを研究するために必要だったの。その研究のおかげで、わたしたちは、再生された窪みが無意味なものではない、ということをすでに解明していたわ」

「ぼくたち無貌教が神の召喚に乗り出すことを、特機隊は予測していたんだね。それなのに、このざまとは」

 そして士郎は失笑し、天空を見上げた。言いたいことを言い尽くしたのか、こちらを見ようともしない。

 うつむいた瑠奈が、首を横に振った。

「うちの地下室から召喚球が持ち出されたりしなければ……」

「でもね」恵美が言った。「たとえ召喚球がなくても、彼らは別の方法で蕃神を呼び寄せるわ」

「そんなことができるのか?」

 隼人が尋ねると、恵美は頷いた。

「ええ……次回はアメリカのダンウィッチで儀式を執りおこなう、と山野辺士郎は言っていたでしょう」

「ああ、言っていたな」

「そこでは召喚球は使えないの。およそ百年前、マサチューセッツ州のその村で、人間の女性が蕃神と交わり、蕃神の子を産んだわ。でも儀式の方法は、古代中国で編み出されたものとは違っていた。そこの儀式の場に召喚球の台座はないのよ。環状列石に囲まれたその儀式の場では、少なくとも召喚の呪文については、今回とは違う呪文を唱えなければならない。儀式を執りおこなう日時も定められているわ。つまりね、召喚球を奪えなかったとしても、そこに行けば、違うやり方で召喚の儀式はできる、ということよ」

「そういえば、水野のやつも言っていたな。アラブの狂える詩人が著したとされる魔道書には、古代中国で編み出されたものとは違う方法が書いてある、って」

「そうよ。山野辺士郎が時空の門を使うために唱える呪文だって、その魔道書に記されているの。でも蕃神を召喚すること自体は、召喚球を用いる方法が、容易であるうえに失敗する確率が低いわ。今回は雌の蕃神を召喚しようとしている。その雌の蕃神を召喚する難易度はかなり高い、と言われているの。だから山野辺士郎としては、召喚球を使いたいわけ。そして召喚球を用いるのなら、当然、儀式の場所はここになるわ」

 ならば、召喚球を奪うか破壊できれば、一時しのぎにはなるだろう。もっとも、それを実行できる人間は、ここにいない。

 大気が揺れた。隼人はほんの一瞬、わずかな頭痛を感じた。さらには、焚き火の炎が二つともかき消えてしまう。一帯を照らすのは召喚球の青白い光のみとなるが、その光が明るさを増した。そして冷気と、これまでにないほどたまらない悪臭とが、どこからともなく押し寄せてきた。

 天空を見続ける士郎が笑みを浮かべた。

 思わず、隼人も頭上を見上げた。しかし、虹色の球体はどこにも浮かんでいない。星空が広がっているだけだ。

「また門が開いたのか? 何も見えないけど……」

「すぐに閉じたんだわ」同じく見上げている恵美が、静かに言った。「蕃神が通過するための門だもの、とても巨大な門だったに違いない。蕃神は近くにいる」

 確かに、冷気が収まっていく一方、強烈な悪臭は残ったままだ。

「それにしては気配がないし、姿も見え――」

 隼人は言いさした。そして、目を凝らす。

 不意に、白っぽい半透明の何かが天空の全体を覆ったのだ。まるでフィルターでもかけたかのように、星々の輝きがかすんでいる。

 泰輝がうなった。ひどく警戒している様子だ。

「空の色が……」

 白っぽくかすんでしまった星空を見上げたまま、瑠奈が声を震わせた。

「結界よ」

 そう告げた恵美も、頭上を見上げている。

「尾崎さんにも見えるのか?」

 異様な空から目をそらせないまま、隼人は尋ねた。

「ええ」

「でも、結界……って? 結界が空にあるのか?」

「地面に描かれた魔法円は、地上と地下とのそれぞれに半球状の結界を作る。その上下の半球を合わせれば、一つの球体ね。つまり、平面に結界線を描くことによって、三次元としての結界を作るのよ。でも、神津山を取り囲む結界線は、現在の市境とほぼ一致するわ。市境自体が複雑な形をしているだけでなく、市境は場所によって標高差がある。今、空に見えているのは、ドーム球場の屋根をめちゃくちゃにゆがめたようなもの、と言ったらわかりやすいかしら。泰輝くんが神宮司邸に作った結界も、複雑な形状の立体なの」

「どうしてそれが発色しているんだ?」

「蕃神が結界の中に入ろうとして、外側から圧力をかけている……それで発色しているのよ。プラスチックの板を折り曲げると白化するみたいにね」

「でも気配はないし、姿も見えないんだ。見鬼っていうのは、幼生の存在は感知できても、相手がその親の蕃神ともなるとお手上げみたいだな」

 確かに、見鬼の能力が蕃神にも通用する、とは聞いていなかった。

「いいえ」恵美は首を横に振った。「見鬼は蕃神の存在をも感知できるわ。おそらく、結界を隔てているから気配が感じられなければ姿も見えないのよ」

「それでも、においだけは結界を越えてしまう……」

 瑠奈が言った。今のところ結界を越えているのは、このにおいだけ――ということだ。

「このまま結界が持てば、蕃神はこちら側に来ることができない」

 隼人は結界の強度にわずかな望みを抱いた。

「あの蕃神は結界の内側に入ってくるわ」恵美はあっさりと否定してくれた。「神津山を覆う結界は、周から追われてきた一族が、自分たちの魔術の効力を高めるために張ったものなの。泰輝くんが神宮司邸の敷地に張った結界とは違って、蕃神や幼生や魔道士の侵入を防ぐ目的のものではない。蕃神側の勢力にとっては多少の障壁となっているけど、それは副産物的な効果なのよ。それに蕃神たちは、何度もここに召喚されている。そのたびに結界を突破しているのよ。ハイブリッドたちや山野辺士郎でさえ出入りできるんだもの、蕃神ならば難なく入ってくるはず」

「ああ、そうか」と隼人が唇を嚙み締めた瞬間、天空を覆っていた白っぽいかすみが消失した。星々の燦然とした輝きが蘇る。

「結界が……消えちゃった」

 瑠奈が落胆の声を漏らした。

「結界が消えたんじゃないわ」恵美は見上げ続けていた。「結界は結界として元のまま残っている。蕃神が結界の中に入った、ということよ」

「そんな……」

 つぶやいた直後、隼人は雌の強い気配に意識を揺さぶられた。

 はるか高みに、半透明のそれはいた。縦長の楕円形であり、米粒のようにも見える。

「あれが……」

 天空を見上げる瑠奈が言葉を詰まらせた。

「隼人さんと瑠奈さんには見えるのね?」

 視線を星空にさまよわせている恵美には見えていないのだ。

 泰輝がどこか控えめに低くうなった。彼には蕃神の姿が見えているに違いない。

 隼人を拘束している触手が、脈打つようにせわしなく蠢いた。蕃神の降臨に対する動揺は、士郎の配下の幼生にもあるらしい。

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