第8話 儀式 ①
隼人は田口の先に半透明の何かを見た。距離は五十メートル以上も離れており、姿形を見極められない。それでも、雄であることは確かだ。
「田口さんの先に何かいるぞ!」
隼人が叫ぶと、田口がライフルの銃口を左の杉林の奥へと向けた。
四つ足で走ってくるそれが、下生えや杉の落ち葉を蹴散らしながら可視化した。どう見ても巨大な灰色の狸である。体長は三メートルほどだろう。
「ばかめ、興奮して姿を見せてやがる」
言い放った田口が、大狸に向かってライフルを撃った。
恵美もライフルを構え、同じ標的を狙って撃つ。
しかし敵は、右へ左へと弾丸を躱しつつ走ってきた。
さらなる気配を察知し、隼人は右の杉林を見た。
「空閑くん、見えるのか?」
隼人の視線の先にライフルの銃口を向け、須藤は尋ねた。
「まだ遠いけど、見える」
やはりこちらも五十メートルは離れているだろう。不可視状態で接近してくるそれには、雌のハイブリッドに特有の淫猥な気配があった。
「いた!」
須藤は不可視状態のハイブリッドを見つけたらしい。間髪を入れず、彼のライフルが火を噴く。
「ほかに敵は?」
水野に問われた隼人は、周囲の気配をたぐり寄せようと集中した。しかし、左右から接近する二体以外に気配は感じられない。
「いいや。ほかにはいない」
「わかった」と頷くや、水野は自分のライフルの銃口を須藤の標的へと合わせ、射撃を開始した。
続いて、田口と恵美もこちらの――右の敵に対してライフルを撃ち始めた。
隼人は左の杉林の奥を見た。大狸が地面にうつぶせになっている。その頭部は見事に粉砕されていた。
右の杉林に視線を戻すと、可視化した化け物が高く飛び跳ねたところだった。胴の差し渡しが一メートル半、広げた八本の足はどれもが三メートルを超えていそうな、黒くて巨大な蜘蛛である。そしてその大蜘蛛は、空中で全身に何発もの銃弾を浴び、隼人たちから五メートルほどの位置に落下した。
仰向けの状態で動きを止めた大蜘蛛に、田口と須藤が近づいていく。無論、二人ともライフルを構えたままだ。
隼人の背中を悪寒が走った。こちらに尻を向けている大蜘蛛は、まだ気配を放っている。
「死んでいないぞ!」
隼人は声を張り上げたが、田口と須藤が反応するより先に、大蜘蛛の尻の先端から白い液体が噴射された。
「ぎゃあああ!」
悲鳴を上げたのは須藤だった。
すぐに田口が大蜘蛛にライフルの弾丸を浴びせる。どうやら頭部を破壊されたらしく、敵は完全に生気を消した。
大蜘蛛にとどめを刺した田口が、須藤を見て「うっ」とうなった。
隼人も息を吞む。
小刻みに震えながらそこに立っているのは、溶けかかった蝋人形のような姿だった。顔や手足は無論のこと、ヘルメット、プロテクター、戦闘服、ライフルまでが、元の形を成していない。ゆがんだそれらが、重力に逆らえず、下へと垂れていく。
そして溶けかかった須藤は、下生えの上に倒れてしまった。湯気を立てながら形を崩していく様子は、まるでハイブリッドの最期である。もっとも、ハイブリッドならば染みしか残らないが、須藤の崩壊は泥状で止まってしまった。
須藤の体から立つ湯気が消えると、それを待っていたかのごとく、大蜘蛛の体から湯気が立ち始めた。こちらの崩壊は急速に進んでいく。
須藤だった泥状のものを田口が呆然と見下ろしていた。
「もう諦めろ」田口に声をかけた水野が、周囲を見渡した。「隼人くん、ほかにハイブリッドは……どうだ?」
「え……ああ、今のところは、いないみたい」
見鬼としての能力に支障はないようだが、さすがに動揺は隠せなかった。見るに堪えず、須藤だったものに背中を向けた。そして水野に問う。
「処理班にこの場所がわかるのか?」
「ああ。小型発信器を土井の遺体の近くとここにも置いた。処理班は迷わずにどちらの遺体も回収できる」
「でも」隼人は重ねて問う。「処理班だけで行動して大丈夫なのか? あの人たちがハイブリッドに襲われないとは限らない」
「彼らは最低限の武器を装備している。それに、彼らもプロだ。いざというときの覚悟はできているさ」
二人の部下が酸鼻を極める最期を迎えたというのに、凜然とした受け答えだった。
蒼依を救出するためとはいえ、この犠牲はあまりに大きいだろう。水野のような割りきりなど、隼人にはとてもできない。
「今のうちに、それぞれ自分のライフルの弾倉を交換しておけ」
水野の采配に淀みはなかった。
ただでさえ父が殺害されたばかりだ。そのうえ蕃神と呼ばれる得体の知れない化け物に妹が陵辱されるなど、絶対に認められない。ゆえに隼人は、肩で息をしながらも歩調を緩めなかった。だが、強襲班の三人は重装備なのだ。ペースメーカーである先頭の水野は無論のこと、二番手の恵美と最後尾の田口も、まるで疲れ知らずである。
二人の隊員が殉職した現場から、十分ほど歩いた。
「いる!」
気配を感じた隼人が足を止めると、ほかの三人もそれに倣った。
「どこだ?」
水野がライフルの銃口で杉林の暗がりをなぞった。
「わからない……」
そう答えるしかなかった。強い気配は感じるが、かなりの距離があるらしい。気配を放つものが何体なのか、雄なのか雌なのか、判断できない。
田口と恵美もライフルを構えて周囲に目を配っていた。この二人にも敵の姿はとらえられないらしい。
遠くで地響きが鳴った。
全員が息を凝らす。
ようやくそれを視認できた隼人は、矢も楯もたまらず叫ぶ。
「前だ! 右前方!」
隼人の告げた方向に三丁のライフルが銃口を定めた。
右前方、五十メートルほどの距離に立つ何本かの杉が、次々と倒れた。不可視状態の巨大な何かが急斜面を転がり落ち、自らの体に当たったすべての杉を押し倒している。
転がりながら、それが可視化した。倒れた人間が横に転がっている――隼人にはそのように見えた。しかし人間にしてはあまりに巨大である。
その刹那、それよりもずっと奥の杉林の暗がりに白い何か――雄の気配を放つ可視状態の巨獣が疾走しているのを、隼人は垣間見た。
不意に悪臭が立ち込めた。
「鬼だ!」と田口が叫んだ。
一行の真横、右に約二十メートルの位置で、転がっていた巨軀が止まる。
よろよろと立ち上がった巨軀は、隼人にも見覚えのある鬼、その姿だった。身長十メートルの巨人が、こちらに正面を向けた。頭部には二本のよじれた角があり、昆虫の胴体のような下半身には、節のある足が四本備わっている。彼――紛れもなく雄であるそれは、右肩から胸の中央にかけて大きな裂傷があった。
三丁のライフルが一斉に火を噴いた。
鬼の首から上が弾け飛ぶ。
巨軀が仰向けに倒れた。
「隊長」恵美が言った。「あのハイブリッドは負傷していました」
「おれにも見えた。現れた状況からしても、やつはおれたち以外の何かから攻撃を受けていたようだな」答えた水野は、まだ周囲を警戒している。「隼人くん、ほかには?」
「来る!」新たなる気配を感じ、隼人は即答した。「今度のやつも右前方だ!」
右前方に三十メートルほどの位置だった。不可視状態のそれが、斜面の下方に頭を向け、仰向けに倒れる。巨大な雄のハイブリッドだ、と察した瞬間に可視化したそれは、またしても鬼だった。昆虫のような下半身がのたうっている。
水野と田口、恵美が、ライフルでその鬼を狙った。
「待ってくれ!」と隼人は三人を制した。
ライフルを構えたまま水野が問う。
「どうした?」
「白いハイブリッドだ」
暗がりから走り出た可視状態の白い巨獣――瑠奈が「タイキ」と呼んでいたあのハイブリッドが、鬼に飛びかかった。
ライフルを構える三人は、トリガーを引くことなく傍観している。
仰向けの鬼の上に乗った白い巨獣が、二本の前足で赤黒い両腕を押さえ込んだ。同時に、ねじれた二本の角のそれぞれに白い巨獣の長い両耳が巻きつく。
板を割ったような音とともに、白い巨獣の両耳に稲妻のような光が走った。
振り上げられた触手状の両耳が、角を二本とも引き抜いた。鬼の頭部に穿たれた二つの穴から紫色の体液が迸る。よく見ると、その頭部全体が真っ黒に焼け焦げていた。
完全に沈黙した鬼の上に乗ったまま、白い巨獣は二本の角を自分のすぐ目の前にほうり捨てた。そして彼は、こちらに顔を向ける。赤い二つの眼球が杉林の中で輝くとともに、悪臭にバニラの香りが混淆した。
不意に白い巨獣は飛び跳ね、一行からほんの五メートルほどの距離に着地した。
三丁のライフルが一斉に白い巨獣を狙う。
鬼の二つの死骸から湯気が立ち始めた。しかし特機隊の三人と白い巨獣は、睨み合ったまま動かない。
「大丈夫です。いつものタイキですよ」
背後から声をかけられ、一行は振り向いた。
一本の巨大な杉の陰から、トレーナーにジーンズという姿が現れた。
瑠奈だった。彼女は背中にリュックを背負っている。
「どうして君がここにいるんだ?」
ライフルを白い巨獣に向けたまま、水野は尋ねた。
「門を使いました。頂上に直接出るつもりだったんですけれど、頂上に作った出口の門がすぐに閉ざされてしまったので、やむなくここに出口を作り直したんです。門に入る前に気づいたので、どうにかなりました」
瑠奈が答えると、水野は呆れたように首を傾げた。
「訊きたいのはそういうことではないんだが……しかし、その様子からすると、秘薬なしで門を使ったのか?」
「はい」瑠奈は頷いた。「わたしは蕃神の加護を受けていますから。それにわたしは、秘薬を持っていません」
「そうだったな」と返して曖昧な表情を浮かべた水野は、ライフルを下ろした。田口と恵美もライフルの構えを解く。
「どういうことなんだ?」隼人は瑠奈に疑問をぶつける。「君が門を使うだの、秘薬なしで門を出入りできるだの……それに、この白いハイブリッドと一緒にいたり」
最初に返ってきたのは、悲しみをたたえた微笑みだった。そして彼女は、水野に向かって口を開く。
「これはわたしのことですから、特機隊やお母さんの許可なしに答えます」
「かまわんが、今は時間がない」
水野の言葉に瑠奈は頷いた。
「そのとおりです。歩きながら話します」
「いったい、君は何をするつもりなんだ?」水野は渋面を呈した。「門を使えるなら、すぐに帰ってほしい」
瑠奈は背中のリュックを胸の前に持ち、蓋を開けながら続ける。
「強襲班の人数が二人足りません。殉職されたんじゃないんですか?」そして瑠奈は、白い巨獣を一顧した。「戦力になるはずです」
「痛いところを突くんだな。あの会長のご令嬢だけのことはある」
水野は言うと、軽くため息をついた。
「痛いところを突くのは、水野隊長も同じだと思います」
リュックの中身を右手に持った瑠奈が、そう切り返した。彼女が手にしたそれは、折りたたまれた衣類らしい。一足の小さな運動靴がその上に載っている。
「好きにするがいい。ただし、おれの指示に従わなければならないぞ」
「わかりました」
答えた瑠奈が、白い巨獣に顔を向けた。
とたんに、白巨獣の体に異変が生じた。
全身を覆う白い体毛が、見る見る短くなっていった。体毛の変化だけではない。首や尾、両耳、四肢までもが短くなっていく。翼も縮んでいき、ついには背中に吸い込まれてしまった。太い胴体も縮んでしまう。
この変化を隼人は目を見開いて見ていた。もっとも、特機隊の三人にとっては日常的な光景なのか、動揺を呈するものは一人もいない。それどころか田口に至っては、この時間が惜しいかのように体を揺すったり腰に手を当てたりしている。
赤い眼球が人間の「目」に変わり、変幻が済んだ。
そこに立っているのは、全裸の少年、泰輝だった。
バニラの香りとともにハイブリッドの気配が薄くなっていく。そしてバニラの香りは完全に失せるが、ハイブリッドの気配はわずかに残った。
瑠奈が泰輝の元に歩み寄った。そして、きょとんとした表情の少年に、衣類を手早く着せ、仕上げに靴を履かせた。
「準備が整いました」
瑠奈は水野に言った。
泰輝の衣服もトレーナーとジーンズだった。まるで瑠奈とお揃いの出で立ちである。
小さく頷いた水野が、田口と恵美、隼人に目を配る。
「行くぞ」
「了解」
田口と恵美が声を揃えた。
バニラの香りは完全に消えていたが、泰輝から放たれている気は、明らかに人間のものではなかった。
隊列に瑠奈と泰輝が加わった。二人は隼人のすぐ前に入った。細い道にもかかわらず、瑠奈は泰輝の右手を引き、横に並んで歩く。もっとも、体の小さな泰輝は周囲の大人たちに比べて歩幅が狭い。ゆえに彼の歩調は早かった。
歩き出してすぐ、隼人は瑠奈の背中に向かって、神宮司邸から拉致されてからのいきさつを簡明に伝えた。瑠奈は概要をすでに把握していたようだが、泰輝の蛇女との戦いについては、特機隊から報告されるまでは何も知らなかったという。加えて、一也が事件に巻き込まれたことことは、今、初めて知ったらしい。
「一也さんが……」
かぶりを振ってうつむきつつも、瑠奈は泰輝の手を引いて歩き続けた。
感傷をあらわにした瑠奈を、泰輝は見ようともしない。
――変わった子供だ。
しかし隼人は、この少年から放たれている気を意識する。人間の血は混じっていても、蕃神の子でもあるのだ。そう、それを訊きたかったのである。
「次は瑠奈ちゃんが話す番だ」
「はい」
返事はすぐにあった。躊躇はないらしい。
むしろ隼人のほうこそ、今さら躊躇してしまう。先頭を行く水野、二番手の恵美、最後尾の田口ら特機隊の三人にも聞かれてしまうのだ。――否、おそらく特機隊の隊員ならば既知の事情なのだろう。しかも瑠奈には、打ち明ける意欲が見られたではないか。
「この子、泰輝はわたしが産んだ子です」と瑠奈は明言した。
衝撃的な事実だが、予感していたことでもあった。ハイブリッドは自分を産み落とした人間に懐くというのだから。
「つまり、瑠奈ちゃんは儀式で蕃神と……」
「そうです。この子は蕃神とわたしの間にできた子です」
瑠奈は言うと、泰輝を見下ろした。しかしやはり、泰輝は進行方向に顔を向けたままだ。
「この子は五歳くらいに見えるけど、まさか瑠奈ちゃんが小学生の頃に産んだんじゃないよね?」
「泰輝が生まれたのは、一年前です」
「一年前? でもこの子はどう見たって……」
隼人は口をつぐんだ。泰輝はハイブリッドなのである。成長過程が人間の通常のものと異なっていても驚くことではない。
それより、別の疑問が生じていた。隼人はそれを尋ねる。
「一年前なら、おれは瑠奈ちゃんと会っていたよな。吉岡たちがうちに遊びに来たとき、瑠奈ちゃんも一緒にいたじゃないか」
「はい」
「あのときの瑠奈ちゃんの様子は、ごく普通だった。出産したばかりのようには見えなかったし、まして、妊娠しているようでもなかった」
「あの一カ月後に産んだんです」
「今も言ったけど、あのときの瑠奈ちゃんは、妊娠しているようには見えなかったぞ。ハイブリッドの成長の過程は人とかけ離れていても、生まれる過程は人のそれと変わらないはずだろう」
「わたしの場合は特別だったみたいです。夜中にお父さんとお母さんに連れられて高三土山の頂上まで行き、そこで儀式を執りおこないました。その場で懐妊して、帰宅してから数時間のうちに出産したんです。取り上げてくれたのはお母さんでした。ただ、蕃神が降臨する直前から儀式の終了まで、わたしは意識を失っていました。その間の記憶はまったくありません」
「妊娠して数時間で出産するなんて考えられない。それに……」
新たな疑問が生じてしまった。なぜ神宮司夫妻は自分たちの娘を使ってそのような儀式を執りおこなったのだろうか。そもそも、ハイブリッドを産むには特殊な体質であることが条件であるはずだ。
「君も見鬼だったのか」
「そうです」
頷いた瑠奈は、隼人と蒼依を調べたのと同じ方法で巫女であることが判明した、と説明したうえで、さらに続ける。
「両親はどちらも見鬼ではないのですが、神宮司家の先祖には、何人か存在していたようです。とはいえ、わたしは幼生の気配を感じることができません。見鬼としては隼人さんの足元にも及ばないんです」
謙遜しているとも受け取れるが、おそらく、事実を口にしたのだろう。
「それにしても」隼人は問う。「どうして君の両親はそんな儀式をしたんだ? どうして瑠奈ちゃんは、そんな儀式を受け入れたんだ?」
「多くのハイブリッドが神津山に潜んでいることを、わたしは小学生のときに両親から聞かされました。それに、やはり小学生の頃から、見鬼の能力のせいで不可視状態のハイブリッドを何度も目撃しているんです。……わたしは自分の大切な人たちを守りたかったんです。だから、お父さんの申し出を受け入れたんです」
「申し出……って、瑠奈ちゃんがハイブリッドを産むっていうことか?」
「そうです。神津山に潜んでいるハイブリッドたちから大切な人たちを守るために、わたしが産んだハイブリッドを、わたしの指示に従うようにわたし自身が教育し、わたし自身の手でどのハイブリッドよりも戦闘能力の高いハイブリッドに育てる、ということです」
「どのハイブリッドもそうやって育てられたんじゃなかったっけ? 教育方法の違い、ということなのか?」
「詳しいことはわかりません。ただお父さんは、愛情を持って育てればいい、としか言っていませんでした」
「山野辺士郎のほしがっている優秀な兵士って、そうやって作るのか……」
隼人は独りごちた。瑠奈の言葉に偽りはないと信じているが、優秀な兵士を作るためのさらなる重要な課程があるような気がしてならない。
「蕃神と交わるだなんて、屈辱的だし、恐ろしいに決まっています」隼人の言葉が聞こえなかったらしい瑠奈が、話を続けた。「でもわたしは、お父さんの提案に賛同しました。それが得策だと思ったんです。そしてわたしは、反対するお母さんを説得して、儀式に挑んだんです」
清一の要請は明らかに常軌を逸している。それを承諾した瑠奈には、尋常ならざる決意があったはずだ。隼人にさえ身近な人々を守りたいという思いはあるが、もし自分が女の見鬼で、瑠奈の立場だったとしたら――同じ選択をするか否か、自信は持てない。
「お父さんの期待したとおり、泰輝はわたしに従順なハイブリッドに……そしてどのハイブリッドよりも強いハイブリッドになりました。さらにこの子は、自宅の周囲に強力な結界を張って、神津山に巣くうほかのハイブリッドたちから、自宅の敷地内のすべてを守ってくれているんです」
「そんなハイブリッドなのに、どうして人間の姿になったりするんだい?」
愚問だったかもしれない。隼人はほぞを嚙んだ。
「いつも泰輝と一緒にいたい……そんな思いがあったから、平常時は人の姿でいるようにしつけたんです。それから、本来の姿でいるときは強い体臭を放っていたのですが、これをバニラのにおいに変えさせました」
瑠奈は泰輝を愛しているのだ。たとえハイブリッドだとしても、自分が産んだ自分の子供なのである。
「泰輝はわたしが指示しなくても」瑠奈は言った。「人がハイブリッドに襲われたときは、人を助けます。ほかのハイブリッドと同様、泰輝も肉食ですが、泰輝は人を捕食しません。鳥や魚など、小動物をとらえて食べています。あとは、たまに牛乳を飲んだりします。人を助け、小動物を食べる……そのように育てました」
そして瑠奈は、泰輝が人の姿でいるときは飲食をしないことを告げた。人の姿が仮の姿であることの裏づけなのかもしれない。
「泰輝はときどき」瑠奈は続けた。「ほかのハイブリッドと仲よくなることがあります。そんな友人には、自分と同じように小動物を捕食することを勧めたりしているようです。仲間には人間と共存してほしと思っているみたいなんです。そんな泰輝なのに……」
瑠奈は言い淀んだ。
先を促したかったが、無理強いはできない。彼女が話せる範囲だけで十分だろう。話はこれで終わったのだと判断したときだった。
「あのとき」瑠奈は話を再開した。「上君畑の怪奇スポットで鬼のようなハイブリッドに襲われたみんなを、泰輝は助けてくれませんでした」
確かにあの現場では、泰輝の活躍はなかった。しかし、今の隼人なら理解できる。
「襲われたのがあいつらだったからだよ」
隼人がそう言うと、瑠奈がわずかに顔を向けた。表情は窺えない。
「吉岡たちの日頃のおこないを知っていたからじゃないかな」
「そうかもしれません。私が登校した日は、ほぼ、泰輝は不可視状態で学校の近くに潜んでいます。わたしのことを見守ってくれているんです。それで吉岡くんたちのことを覚えていたんです。事件のあとで泰輝本人から聞いたんですけれど、吉岡くんたちのことはもとより、吉岡くんたちの仲間の戸川さんと島田さんのことも嫌っていました」
「じゃあ、蒼依のことも嫌っているんじゃないのか?」
それが事実なら、残念なことだ。最愛の妹を許してほしい、と願うばかりである。
瑠奈は首を横に振った。
「それはありません。泰輝はわたしが好きな人や好きなものを、ともに好きでいてくれます。わたしが蒼依を大好きでいることを、ちゃんと知っているんです。だから泰輝も、蒼依のことが好きなんです」
「ぼくね、蒼依ちゃんが好きだよ」
不意に泰輝が声を上げた。もっとも、前を向いたままである。
「あとね、隼人お兄ちゃんも好きだよ」泰輝は続けた。「瑠奈お姉ちゃんは隼人お兄ちゃんのことも大好きなんだ。結婚したいんだって」
「ちょっと泰輝!」
瑠奈は泰輝の手をぐいと引くが、やはり泰輝は進行方向から顔をずらさない。
隼人の背後で田口が失笑した。
おそらく瑠奈は顔を赤くしているだろう。隼人も顔から火が出る思いだったが、悪い気はしなかった。むしろ嬉しい、という自分に気づき、言葉を見失う。そして悟る……上君畑小学校の体育館で泰輝が助けてくれた理由を。
それでも、瑠奈のためにこの場を取り繕うべく、隼人は口を開いた。
「やっぱり、瑠奈お姉ちゃん、なんだね」
「え、ええ」取り乱したふうではあるが、瑠奈は頷いた。「ほかの人には親戚の子ということにしてありますから。それに、お母さん、と人前で呼ばれると支障が……」
そして瑠奈は、右のこぶしを握り締めてうつむいた。
「瑠奈ちゃん?」
「わたし、蕃神と関係を持ってしまったんです。本当はそんなこと、隼人さんに知られたくなかった」
瑠奈はしゃくり上げると、うつむいた顔をその右のこぶしでこすった。涙を拭いているらしい。
取り繕うとした善意が、あだとなってしまった。
「ごめん」
何に対しての謝罪なのか、口にした自分がわかっていなかった。取り繕いにしくじったことなのか、そもそも最初に疑問をぶつけたことなのか。
冷静に考えてみれば、特機隊の三人の前で恥をかかせてしまったのだ。まずはそれに対しての謝罪をきちんと言葉にするべきなのだろう。とはいえ、この場でのその謝罪は、瑠奈の体面をさらにつぶしてしまいそうだ。
「そんなわたしだから」瑠奈は話をやめていなかった。「蕃神の子を産んだわたしだから、蕃神の加護を受けているんです。山野辺士郎のように門が使えるのは、そのためです。ハイブリッドである泰輝も門を使えます。ここへは泰輝と一緒に門を通って来ました。目立たないよう、できるだけ小さな門を使いたかったので、泰輝はこの姿で来ました」
涙は止まったのだろうか。少なくとも声は落ち着きを取り戻している。
「口を挟んでいいかな?」
水野だった。
「どうぞ」と瑠奈は促した。
「君は蒼依くんを助けるために来たのか?」
「そうです」
「会長に黙ってきたのか?」
「いいえ。ちゃんと断ってきました」
「あの会長が許してくれたのか?」
「はい」
「珍しいこともあるものだな……で、泰輝くんがその姿でいるわけは? 本来の姿でいるほうが、敵に襲われたとき、すぐに対処できると思うが」
本当に訊きたかったのはそれかもしれない。隼人にはなんとなくあざとく思えた。
「さっき気づいたんですけれど、泰輝がハイブリッドの姿でいると、その気配をほかのハイブリッドに感知されやすいみたいなんです。門を出たときは何もいなかったんですが、しばらくして、念のために泰輝に姿を変えてもらいました。そのとたんに、多くのハイブリッドに囲まれてしまったんです。……大丈夫です。いざというときは、泰輝は戦いますから」
「多くのハイブリッドって、どれくらいの?」
問うたのは隼人だった。
「おそらく二十体以上はいたと思います」
「それを全部、この子が一人で斃したのか?」
隼人は重ねて尋ねた。
「はい。もちろん巨獣の姿で戦いましたが」
士郎が儀式に固執するわけである。隼人は得心がいった。
「それにしても、瑠奈ちゃんが無事でよかった。怖くなかったか?」
「泰輝を信じていました。……でも本当は、ちょっと怖かったんですけれど」
小さく肩をすくめるのが見えた。
「なあ、泰輝」
なれなれしいとは思ったが、呼び捨てで声をかけた。
「なあに?」
歩きながら、泰輝が顔を半分だけ向けてくれた。
「今朝は、蒼依ちゃんとおれを守ってくれてありがとう」
「うん」
理解してくれたのか否か隼人には把握できないが、頷いた泰輝は、再び正面に顔を向けた。
「蒼依ちゃんのこと、また守ってくれるか?」
それだけは確認したかった。自分の行く末などどうでもよい。
「うん」
元気な声が返ってきた。
「よろしく頼むよ」
泰輝なら強襲班より当てになるだろう。無論、この作戦を決行してくれた特機隊には感謝している。殉職した二名も含めてだ。そのうえで確実性は高めたかった。士郎が常軌を逸する力を持つ魔道士ならば、その配下のハイブリッドは強靱な肉体を持つ死をも恐れぬ兵士である。
泰輝という仲間を心強く思う一方で、一抹の不安はあった。瑠奈が使おうとした出口の門が強制的に閉ざされたのである。すなわち、士郎が泰輝の参戦を把握している可能性がある、ということだ。しかも士郎は、今もってあのカラスを使役しているに違いない。
隼人が黙り込むと、瑠奈もそれ以上は何も言葉にしなかった。
杉林の中の上り坂を、六人は歩き続けた。
瑠奈と泰輝を加えた一行が歩き出して、十分ほどが経過した。
新たなる気配を察知し、隼人は「何か来るぞ」と警告した。
行進が停止した。
泰輝も感じたらしく、瑠奈の手を握ったまま頭上を振り仰いだ。
肩をすぼめた瑠奈が、周囲を見渡している。
水野と恵美も周囲を見渡した。
振り向けば、田口も全周囲に目を走らせていた。
悪臭が強まった。肌寒さまで感じる。吐く息が白い。
隼人の感覚より泰輝の感覚が強いのは当然だ。無視できず、泰輝に倣い、隼人も頭上を仰ぐ。
隼人の真上、五メートルほどの高さに、虹色の球体があった。直径十メートル前後のこの球体も、やはり、表面に鮮やかな七色のマーブル模様が蠢いている。
「上……」
大声で訴えるのがはばかれ、隼人は声を抑えた。
全員が頭上に視線を向けた。
瑠奈と泰輝を隊列の先のほうへと引き寄せた恵美が、続いて隼人の左腕を引いた。隼人は水野の近くまで移動を余儀なくされる。
やや後方に位置していた田口は、登山道を数歩あとずさり、虹色の球体との間合いを取った。
「迂回して、そっちへ行きます」
田口が言った。
「わかった」頷いた水野は、恵美を横目で見た。「おれが田口を援護する。尾崎は進行方向とその周辺を警戒してくれ」
「了解」と答えた恵美は隼人から手を離すと、隊列の先頭へと移動し、ライフルを構え、進行方向に対して警戒態勢を取った。
進行方向に向かって左の下生えに足を踏み入れた田口が、虹色の球体を迂回し、時計回りに弧を描いてこちらへと近づいてくる。
突然、隼人の横を道の下り方面へと向かって小さな姿が走り抜けた。泰輝だった。
進行方向を見れば、瑠奈が決然とした面持ちで泰輝の背中を見つめていた。水野はライフルを虹色の球体に向けて構えている。こちらに顔を向けた恵美は、事情を把握したらしく、すぐに進行方向に向き直った。
隼人は泰輝の後ろ姿に視線を戻した。
雄の気配が沸き立った。その気配が泰輝から放たれていることを、隼人はすぐに察知する。
田口とは反対側の下生えに入った泰輝が、足を止めるなり振り向き、虹色の球体を見上げた。
田口が下生えの中で足を止め、ライフルの銃口を虹色の球体に定める。
これで全員の態勢が整った――隼人はそう感じた。
泰輝の双眼が真っ赤に輝くと、その体は膨れ上がり、衣服が弾け飛んだ。一瞬で全裸になった彼を、白い体毛が覆い始める。筋肉が成長し、尾が生え、首が伸び出し、左右の肩甲骨の辺りからそれぞれ翼が形成され、両耳の先端が鞭のように伸び、全身が巨大化したところで、彼の変幻は完了した。
バニラの香りが広がった。
隼人が雌の気配を感じたのは、その直後だった。
黒い球体の底部から無数の触手が伸び出し、白い巨獣――泰輝に襲いかかった。次から次へと襲いかかる触手を、泰輝は何度も飛び退いて躱す。無数の杉の落ち葉が蹴散らされた。
水野のライフルが火を噴いた。しかし、放たれた弾丸が襲ったのは、田口の顔面である。
隼人は我が目を疑った。
田口のヘルメットのシールドが粉々に砕け、顔面から血しぶきが迸った。そして彼はライフルを落とし、仰向けに倒れてしまう。
「水野さん!」
瑠奈の声が上がった。
こちらを向いた恵美が、水野のライフルの銃床によってヘルメットの側部を殴られ、登山道の真ん中に倒れ込んだ。水野のライフルはそのまま泰輝の近くにほうられる。
「きゃっ」
小さな叫びを上げた瑠奈が、進行方向に対して右の下生えの中に倒れ込んだ。彼女が水野に突き飛ばされる光景が、一瞬だけ隼人の目に入った。
瑠奈と恵美に気を取られていた隼人は、背後から首に腕を回されてしまう。
水野の左腕だった。両手で外そうと試みるが、力に差があり、びくともしない。
「おとなしくしろよ」
低い声で恫喝した水野は、もう一方の手で隼人の右のこめかみに冷たい何かを押し当てた。どうやら拳銃の銃口らしい。
「おれが引き金を引けば、君は一瞬にしてあの世行きだ。しかも嬉しいことに、君は一瞬にして死ねるどころか、首から上を粉砕されるのさ。そしておれは、君の血肉を浴びる」
嬉々として水野は言った。
半身を起こした恵美は、隼人が水野にとらえられている、という状況に気づいていないらしい。軽くかぶりを振り、落としてしまった自分のライフルに手を伸ばしかけた。
「動くな」
水野の一声で恵美の手が止まった。
「え?」
声を漏らした恵美は、こちらに顔を向けるなり、シールドの内側で目を見開いた。
下生えの中で半身を起こした瑠奈も、状況を察したらしく、こちらを凝視したまま固まっていた。
雄叫びが上がった。泰輝の声である。
隼人は横目で見た。
何本かの触手が泰輝の胴に巻きついていた。それでも泰輝は息巻き、長い両耳でとらえた一本の触手を、鋭い歯で嚙み切る。
「水野さん……」隼人は水野に意識を戻した。「いったいなんのつもりだ?」
「ようやくお迎えが来たんでね。予定どおりに行動したまでさ」
水野の答えを隼人は理解できなかった。それは瑠奈と恵美、眉を寄せる二人にとっても同じらしい。
「隊長……言っている意味が、わかりません」
訴えつつ、恵美が立ち上がろうとした。
「動くなと言ったはずだ。隼人くんの頭が挽肉になるぞ」
水野に威嚇され、恵美は再度、動きを止める。
「今、田口さんを撃ちましたよね?」
下生えの中に倒れている田口を一顧した恵美は、半身を起こした姿勢のまま問うた。
「ああ、撃ったさ」
堂々と首肯した水野を、恵美は睨む。
「隊長は山野辺士郎と手を組んでいたんですか?」
「訊くまでもないだろう」
水野は笑った。
このヤニ臭さはハイブリッドの放つ悪臭よりひどいかもしれない。隼人の心を疲弊させるに足りる忌まわしき臭気だった。
泰輝が遠吠えをした。見れば、彼の白い巨体が宙に吊り上げられている。四肢をじたばたとさせているが、首や尾、長い両耳も、灰色の触手によって締め上げられ、隼人と同様に身動きを封じられていた。体力が尽きたのか、稲妻のような光も今回ばかりは放てないらしい。
「隊長……」恵美の声は愁えていた。「特機隊が設立されてから今日まで、あなたはたくさんのハイブリッドを葬ってきたじゃないですか」
「われわれにとってハイブリッドは道具にすぎない。必要とあれば、殺しもする」
「われわれ? 無貌教のことですか?」
恵美はなおも問い質した。
「いい加減に認めろよ。おれはな、特機隊も上層部も神宮司家も、周りの人間のすべてを欺いてきたんだ。そう、誰にも気づかれなかった。どうだ、おれの演技も捨てたものじゃないだろう」
「水野さん」身動きを封じられたまま、隼人は言った。「こんなことをしでかしたあんたは、特機隊によって制裁を受けるはずだ」
「隼人さんの言うとおりです」恵美は隼人に追従した。「隊長のこの罪は公にされないでしょうけど、上層部は黙っていません」
「神宮司邸の分駐所に生きて戻るのはおれだけだ。隼人くんと蒼依くん、それから予定外だが神宮司家のお嬢さんも、儀式が済めば無貌教によって連れ去られるだろう。おれが回し者だったなど、会長も、残った隊員たちも、上層部も、誰一人として気づかないのさ。もっとも、作戦の失敗によって、おれは特機隊第一小隊隊長の職務を解任されるはずだ。そして間もなく、世界は無貌教によって改革され、おれは新世界管理体制の一員となる」
自信に満ちた宣言だった。そして瑠奈に目をやり、付け加える。
「よかったなお嬢さん。これからは、大好きな隼人くんといつも一緒だ」
これを受けた瑠奈は、さげすみの表情を返すだけだった。
「シナリオはできていたんですね」恵美は渋面を呈した。「無貌教信者の神宮司邸への侵入を手引きしたり、蒼依さんを救出するふりをして高三土山に来たり、何もかもがそのシナリオの一部」
「そうだ。もっとも、最初の予定では、おれの役目は強襲班の任務にかこつけて尾崎を儀式の場に連れていくだけだった。隼人くんは一足先に儀式の場へと運ばれるはずだったが、それが三度に渡って失敗したんでな、急遽、隼人くんをわれわれに同行させたわけだ」
「三度目のときって」隼人は口を開いた。「高三土神社でおれがハイブリッドにとらえられたときだよな? 失敗も何もないだろう。あのハイブリッドを攻撃するよう指示したのは、あんたじゃないか」
「微妙なタイミングだったのさ。本来なら、おれたちが到着する直前にあのハイブリッドは君をとらえたまま立ち去っているはずだった。ところが境内に足を踏み入れてみれば、杉林に身を隠しているはずの佐伯一也は倒れているし、立ち去っているはずのハイブリッドはまだいるし。だが、何があったかは想像がついたよ。作戦は変更となったが、想定はしていた事態だからな、特に慌てることもなかったさ」
「あくまでも隼人さんを山野辺士郎に引き渡すつもりなんですね。そしてわたしのことも儀式の場に……つまり……」
何かを悟ったらしく、恵美は左右のこぶしを握り締めた。
「わかったようだな」
満足げに言いながら、水野は銃口をぐりぐりと隼人のこめかみに押しつけた。
いつ自分の頭が吹き飛ばされてもおかしくない、と隼人は死を覚悟する。
再度、雄叫びが上がった。横目で見れば、泰輝が虹色の球体に飲み込まれたところだった。
「泰輝!」
叫んだ瑠奈が、立ち上がろうとした。
「動くな!」
水野に一喝され、瑠奈は動きを止めた。
「尾崎、サイドアームを林の中へ投げ捨てろ」
水野が指図すると、恵美は唇を嚙み締め、ホルスターから拳銃を抜き取った。動作は緩慢としている。彼女は躊躇しているらしい。
「さっさと投げ捨てろ。ばかな真似はするなよ」
たたみかけられ、恵美は自分自身の右方向へと拳銃をほうり投げた。
「ヘルメットもだ」
水野がそう付け加えて間もなく、白い霧が辺りに広がり始めた。
「ほら、士郎がせかしているぞ」水野の声は潑剌としていた。「今から門を使って儀式の場に行く。生きたまま門を通り抜けるためにも、この秘薬を思いきり吸っておくんだな」
隼人はあえて浅い呼吸をした。それでもアルコール臭が鼻腔に入り込んでくる。
脱いだヘルメットを両手で持つ恵美も、浅い呼吸を維持しているらしい。そして彼女は、水野に問う。
「ヘルメットも、投げ捨てるんですか?」
「センサーなどという厄介な装置がついているからな。そうしてくれ」
答えた水野は、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。白い霧を大量に取り込もうとしているらしい。
下生えの中で半身を起こしている瑠奈が、激しくむせっていた。白い霧を吸い込んでしまったようだ。
水野の左腕から力が抜けた――ような気がした。隼人は賭に出る。すかさず、口の動きだけで「やるぞ」と恵美に訴えてみた。
ヘルメットを自分の右横にほうり出した恵美は、隼人の意図を理解したのか、それとも隼人に促されるまでもなく最初からそのつもりだったのか、こくりと頷いた。
水野が「なんだ?」と声を漏らした。恵美の挙動を不審に思ったのだろう。
この時機を逃してはならない。
隼人は両手で水野の右手を握り、銃口を上に向けさせた。間違いなく、水野の体は麻痺し始めている。
だが水野は、左手で隼人のジャケットの襟をつかみ、激しく揺さぶった。
「貴様、無駄なあがきを……」
「蒼依を助けるためなら、いくらでもあがいてやる」
必死に踏ん張る隼人の目の前に、恵美の顔があった。彼女も両手で水野の右手をつかんでいる。
「隼人さん、離れて」
落ち着いた声だった。
隼人は水野の右手から両手を離し、急いで左に飛びのいた。
拳銃を握った水野の右手を、恵美は強引に下ろした。おまけにひねりも入れている。
「尾崎……」
朦朧とした目つきでうめいた水野は、左手で恵美のショートヘアをつかんだ。
「残念です、本当に」
失望の色を浮かべた恵美は、左手で水野の右手を押さえたまま、自分の右手を水野の左胸へと伸ばした。
対する水野は、すぐに左手を恵美のショートヘアから離す。
水野の左胸のシースからナイフが引き抜かれた。抜いたのは、恵美である。
間を置かず、水野は左手で恵美の右手をつかんだ。
しかしナイフの刃は、すでに水野の喉笛に押し当てられている。
「やっぱり、次期第一小隊隊長は、尾崎……おまえだな」
「あなたにそんなことを言う資格はありません。おとなしく投降してください」
「拒否する。おれが尾崎に殺されるか、尾崎が神の生け贄にされるか、そのどちらかだ」
「わかりました」
ナイフを横に振った恵美は、瞬時に間合いを取ると、右足の回し蹴りを水野の腹部に食らわせた。
喉笛から鮮血を噴き上げながら、水野の体が仰向けに倒れる。
登山道に落ちた拳銃が、持ち主の敗北を物語っていた。
むせながらも、瑠奈はこの光景に目を見張っていた。
隼人は恵美に言う。
「何もそこまでしなくたって」
シールドの奥の両目を剝いて全身を震わせている水野が、哀れに思えた。
「そうね……これじゃ、苦しいわね」
ぼそりと答えた恵美は、血に濡れたナイフを自分の足元に捨てた。そして彼女は、自分のライフルを拾い、その銃口を水野に向ける。
「おい、まさか」
止めようとしたが、恵美は引き金を引いてしまう。
水野の胸が弾け、血と肉が飛び散った。特機隊の防弾ベストであっても、この弾丸の破壊力には太刀打ちできないらしい。
正視できずに顔を背けた隼人は、恵美の行為が水野の苦しみを慮ってのことなのか否か、判断できなかった。
「田口さんの最期……わたしはその瞬間を見ていなかったけど、少なくとも隊長の死に様のほうがまともよね。本人であることが判別できる死に顔だもの」
冷徹な言葉を口にした恵美は、所作は毅然としているが、表情に覇気がない。この状況を思えば致し方ないところだが、精神的な衝撃のためだけではないらしい。
「尾崎さん。もしかして、秘薬が効いているんじゃないのか?」
「そうらしいわね」
恵美は頷くが、隼人にも軽い脱力感があった。しかし、白い霧はもう見えず、アルコール臭もない。
ふと、隼人は頭上を仰いだ。杉の枝葉が重なる合間に、青い空が見える。
「門が消えている」
「今のうちに先を急ぎましょう。蒼依さんを助けなきゃ」
仕切り直すように言った恵美は、ライフルを右手に提げ、水野の拳銃を拾って自分のホルスターに収めると、下生えの中で動けないでいる瑠奈に歩み寄った。
「瑠奈さん。わたしの取った行動が許せないのはわかるわ。でも事件が解決するまでは、わたしに協力してほしい。なんとしても蒼依さんと泰輝くんを救いたいの」
恵美が言うと、即座に瑠奈は右手を差し出した。
恵美の左手が瑠奈の右手を取った。
引き起こされた瑠奈が、恵美の手を離し、口を開く。
「許すも許さないも、尾崎さんは間違っていない、と思います。それにわたしだって、蒼依と泰輝を救いたい」
「なら、門を使ってすぐに家に戻りなさい」
毅然とした態度で恵美は告げた。
「わたしが足手まといなら、そうします」
瑠奈が答えると、恵美は黙して頷いた。
そして瑠奈は、悲しそうな瞳で隼人を見る。
「秘薬がないから、隼人さんを連れていくことはできません」
「おれは最初から頂上へ行くつもりでいた。おれは尾崎さんを手伝う。君の自宅で待っていてくれ。泰輝と蒼依を連れて帰るさ」
自信はなかった。しかし、すでに覚悟はできている。
「瑠奈さん、急いで。あなたが無事にここを立ち去るまで、私たちは動けない」
恵美にそう諭された瑠奈は、頷き、目を閉じて息を落ち着けた。そして目を見開き、杉の枝葉に覆われた頭上に顔を向け、細い両腕を大きく広げる。
「イアイ・ングガー……ヨグ=ソトース……フエエ=ルゲブ……フアイ・トロドク……ウアアアー」
澄んだ声が杉林の中に響いた。なんらかの呪文のようだが、もちろん、隼人にその意味はわからない。
瑠奈の背後で、ほんの束の間、杉林の薄暗い風景がゆがんだ。
急に膨らんだそれは、虹色の球体だった。瑠奈の背後に現れたそれは、直径二メートル強であり、地上すれすれに浮かんでいる。ぶれることなくそこに浮かぶ球体だが、表面には七色のマーブル模様が生きているかのごとく蠢いていた。
冷気が漂った。
しかし、それを背にしたままの瑠奈が、表情を青ざめさせる。
「瑠奈さん?」
不審そうに首を傾げた恵美が、瑠奈に近づこうとした。
瑠奈は首を横に振ってそれを制する。
「これ、わたしの門ではありません」
「え?」
足を止めた恵美が、瑠奈の背後に視線を飛ばした。
そこに浮かぶ門が瑠奈のものであるか否か、隼人には見分けがつかない。だが、瑠奈はそれを見ることなく、自分の呼び出したものではないと断言したのだ。
青ざめた表情のまま、瑠奈がゆっくりと振り向いた。
「同じにしか見えないけど、違うんです」
それを目の前にして、瑠奈は震えながら訴えた。
糞尿のにおいが漂った。
雌の気配を隼人は感じ取る。
「雌のハイブリッドが来ます!」
隼人の叫びを受けて、瑠奈があとずさり始めた。
とっさに、恵美が左手で瑠奈の右腕を引いた。
悪臭と冷気を伴って、虹色の球体から無数の触手が躍り出た。
真っ先に瑠奈がその群れにとらえられてしまう。
「こいつら!」と悪態をついた隼人も、全身を触手に巻きつかれた。
恵美も動きを封じられていた。ライフルが彼女の足元に落ちている。
黒い球体から白い霧が噴き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます