第7話 魔の山へ ①
明け方に騒音が響き渡ったため、近くの住民から通報があったという。とはいえ、隼人が警察官に伝えることができたのは、自分の名前と住所、倒れている遺体が自分の父であることくらいだ。魔道士がいただのハイブリッド同士が戦っていただの、口にできるわけがない。
二人の警察官に付き添われて体育館の外に出ても、隼人はそこがどこなのかわからなかった。パトカーの後部座席に乗せられて移送されている途中で、上君畑にいたことをようやく知ったのだ。
隣に座った警察官の話によれば、あの体育館は上君畑小学校の施設らしい。確かに、近くに校舎らしきコンクリートの建造物があり、運動場にしか見えない土地もあった。もっとも、上君畑小学校はすでに廃校である。
パトカーはサイレンを鳴らさずに、市街地を目指して走った。
明け方の山間部は、霧が立ち込めていた。
ロングTシャツという姿で、肌寒さを覚えた。
付き添う二人の警察官とともに足を踏み入れたのは、神津山警察署の二階にある三つの取調室のうち、階段に一番近い部屋だった。ドラマや映画での印象よりかなり狭い部屋である。マジックミラーらしき設備も見当たらない。出入り口から正面の窓に向かって左の壁際に机が一つあり、二つのパイプ椅子が向かい合わせで置かれてあった。備品といえば、それくらいだろう。
置き時計も掛け時計も見当たらなかった。自分の腕時計を見ると、午前八時二十五分を過ぎたばかりだ。
窓の外に見えるのは、雲一つない晴天だ。自分の気持ちとは裏腹のこの空模様が、たまらなく恨めしい。
四十代と思われる年かさのほうの警察官に「そっちの椅子にかけなさい」と指示され、隼人は奥の椅子に腰を下ろした。立ったままの二人の警官が、無言で隼人を睨んだ。
部屋が狭ければ机の幅も狭い。そんな机が壁にぴたりとつけられているのだから、椅子に腰を下ろした隼人の右腕も壁に当たってしまう。かなり窮屈な状態だ。
自分に殺人の容疑がかけられるのは間違いなだろう。そうと知っていても、何をどう説明すればよいのか、頭に浮かばない。今、隼人の頭にあるのは、行人が殺されたという事実と、蒼依が連れ去られたという事実だけだ。
若いほうの警察官が机の上に書類の束を置いた。
「あとはおれがやる」
年かさの警察官が言うと、若い警察官は頷き、開けたままのドアへと向かった。
その若い警察官がドアの手前で不意に足を止めた。
隼人がそちらに目を留めると、つられたように、年かさの警察官もそちらへと振り向いた。
ドアの外に立っていたのは、グレースーツの男だった。隼人には見覚えのある顔だ。名前は知らないが、上君畑の現場において、生き残った島田らの様子を水野に報告した特機隊隊員だ。
年かさの警察官がその特機隊隊員と対峙した。
「あんた、誰だ?」
問われたグレースーツの男が、スーツの内側から警察手帳らしきものを取り出し、それを広げて年かさの警察官の前に突き出した。
「特機隊の者だ」
そう告げた男――特機隊隊員は、手帳をスーツの内側に戻した。
「特機隊……まさか……」
声にしたのは若い警察官だった。特機隊員を見る彼の顔に緊張が走っている。
若い警察官には目もくれず、年かさの警察官に向かって特機隊隊員は言う。
「その青年は特機隊が保護する」
話す相手は明らかにその特機隊隊員より年上の人間だ。それでも特機隊隊員の態度にへつらう様子は微塵もない。
「と……特機隊だからって、勝手なまねは謹んでほしいな。見ればわかると思うが、今から事情聴取が始まるんだ」
年かさの警察官は背中に動揺を表すが、特機隊隊員は表情に揺るぎがない。
「たとえ警察官であろうと、特機隊の職務を妨害することは許されない。これに反した場合はどうなるか、わかるな?」
「しかし、署長の指示がなければ……」
「署長には別の者が説明している」
そう言いきり、特機隊隊員は二人の警察官を押しのけ、隼人の前に進んだ。
「おれの顔を覚えているか?」
そう問われたが、隼人は上目遣いに睨んだだけで、答えはしなかった。
特機隊隊員は「田口」と名乗った。確かに、上君畑から神宮司邸へと向かう車の中で、この男は水野からそんな名前で呼ばれていたかもしれない。
田口は隼人を見下ろした。
「警察に何か話したか?」
横柄な口調だが、今、ここで真実を訴えられる相手は、この男だけだ。
「彼はまだ何も言っていない。聞けたのは、名前と住所だけだ」
年かさの警察官が隼人に代わって答えるが、田口はそれを無視した。
不意に、蒼依が連れ去られた状況が脳裏に浮かんだ。
机に両手を突いて、隼人は腰を上げた。
「蒼依が連れ去られ――」
言いかけたところで、いきなり右手で胸ぐらを締め上げられた。
「ここで余計なことは口にするな」
田口の顔が隼人のすぐ目の前にあった。
特機隊の言いなりにはならない――そんな矜持を貫くつもりでいたが、有無を言わさぬ勢いで迫られ、言葉を失ってしまう。
「一緒に来てもらう」
その命令口調に従うしかなさそうだ。
「なら、あの男性の遺体は?」
年かさの警察官が田口の背中に問いかけた。
「あとで専門部署の者が引き取りに来る」
田口は振り向かずに答えると、隼人の胸元から右手を離した。
取調室を出ると、五十がらみの小太りの警察官と、グレースーツの二人が歩いてくるところだった。グレースーツの一人は、田口より若い男だ。もう一人のグレースーツは、恵美である。
取調室の前で足を止めた小太りの警察官が、隼人の背後に立つ二人の警察官に顔を向けた。
「もう話は聞いているだろう。あとは特機隊に任せる」
「了解しました」
気色ばんだ声で年かさの警察官が答えた。
「隼人さん、これ」
そう言って恵美が差し出したのは、隼人のナイロンジャケットだった。
無言でそれを受け取り、袖を通した。
「行くぞ」
田口が隼人を促した。
隼人は左右を特機隊の男二人に挟まれる形で、先を歩く恵美のあとについた。
神津山警察署の第一駐車場の片隅に、黒いSUVが停めてあった。隼人はSUVの後部座席へと誘導された。その隼人を中央にして、左に若い男、右に田口が乗り込む。恵美は運転席に乗り込んだ。
「どこへ行くんだ?」
すべてのドアが閉じられたところで、ようやく隼人は自主的に口を開いた。
「神宮司邸しかないだろう」田口が答えた。「本当は東京の本部に移送して、処置を施したいくらいだ」
「田口さん、言いすぎです」
振り向かずに抑揚もなく言った恵美が、エンジンをかけた。
「会長がわがままを押し通さなければ、隼人くんはすでに処置を受けていた。おれたちがこうして手を割くことも、なかったはずだ」
しかし恵美は、田口のその弁に答えることなく車を出した。
「蒼依が山辺士郎に連れ去られた」隼人は言った。「山野辺士郎のところへ連れていってくれ。蒼依は巫女として使われてしまうんだ。急がないと」
「君の妹が拉致されたのは、われわれも予想していた。それで、山野辺士郎は、どこへ行くと言っていた?」
田口に問われ、隼人は答える。
「わからない。でも、儀式をすると言っていた」
国道6号線に出たSUVは、北に進路を取った。
通勤時間帯は過ぎていたが、車の流れは多い。
「やはりな」田口は小さく頷いた。「現場の調査に当たった隊員から連絡があったが、上君畑小学校の体育館はかなり荒れ果てているのだとか。何があった?」
「ハイブリッド同士の戦いがあった」
「ハイブリッド同士?」田口は怪訝そうな顔を隼人に向けた。「一方は、白い体毛に覆われた、竜みたいなやつか?」
「そうだ」
隼人は答えた。
警察署から二百メートルほど北上したSUVは、信号のある交差点を右折し、そのまま陸橋に差しかかった。この陸橋は左へとカーブし、国道6号線とJR常磐線を跨ぎつつ、進行方向を東から西へと転換させる。
「そういえば、自分たちが出発した時点では、まだ帰ってきていなかったようです」
隼人の左で、若い男が言った。
正面に向き直った田口が、首を傾げる。
「どういうことだ?」
SUVは陸橋を渡りきり、幹線道路を西へと向かった。このまま走れば大島団地の出入り口に差しかかる。
「どうもこうもない。おれのおやじを殺した蛇女のような化け物を、竜みたいなやつが打ち負かしたんだ。そして、山野辺士郎が門を使って蒼依を連れ去った。それだけだよ。だから早く、おれをあの体育館へ連れていってくれ」
強く訴えたが、田口は正面を向いたまま首を横に振る。
「われわれは君を連れて神宮司邸へ行く。それに、あの体育館に行っても、蒼依くんも山野辺士郎もいない」
「じゃあ、蒼依はどこへ連れていかれたんだよ? 特機隊は知っているんだろう?」
「君は訊かれたことに答えればいい。それ以外は、今後一切、この件に口を出してはならない。事件が片づくまでは、神宮司邸の別宅でおとなしくしているんだ」
妥協を許さぬ口調の田口は、正面を向いたままだ。
「だったら、おれを降ろしてくれ。自分で蒼依を助け出す」
隼人が訴えると、田口はため息を落とし、面倒そうに口を開いた。
「口出しはするな、と言ったはずだ」
「横暴じゃないか」
ちょうどそのとき、SUVは大島団地の出入り口に差しかかった。ここで降りれば、自宅まで歩いて数分だ。愛車は戻っているはずである。
「降ろしてくれ! おれは自分の車で蒼依を助けに行く!」
田口につかみかかろうとしたが、左の若い男に押さえ込まれてしまった。
「おとなしくしろ!」
強い口調で若い男は言った。
「車で行くつもりなのか?」田口が顔を向けた。「キーは持っているのか? 家の鍵だってまだ返してもらっていないんだろう?」
「あ……」と声を漏らし、隼人は全身の力が抜けていくのを感じた。
「エンジョウ、離してやれ」
田口の指示で、「エンジョウ」と呼ばれた若い男は隼人を解放した。
SUVは次の交差点で右折した。神津山第二高等学校のある丘へと至る道を北上する。
「それに、どこへ行く気だったんだ?」
陰湿に思える一言を放った田口は、横目で隼人を見ていた。
「どこ……って、あの体育館……」
言葉に力が入らなかった。門を使って消えたのだから、あの体育館の近くにいるのでは確かに不自然だ。
隼人はうなだれた。
「じゃあ、あんたらは何かしてくれるのか? 蒼依を助けてくれるのか?」
「答えることはできない」
返ってきた言葉は、それだけだった。
大島団地が後方へと遠ざかっていった。
SUVは丘の手前で左折し、さらに杉岡小学校と杉岡中学校の前を通り過ぎた。民家が密集する区間を抜け、西へと進む。右に雑木林、左には広大な田畑、といった風景だ。間もなく神宮司邸に到着するはずだ。
恵美がしきりに左右のミラーに目を配っていた。
そんな彼女の様子が、隼人は気になった。
「尾崎、どうした?」
やはり気づいたのだろう田口が、恵美に問うた。
「一羽のカラスが、右になり左になり、この車を追っているんです」
「カラスだ?」
訝りの声を漏らし、田口は振り向いた。
エンジョウも振り向いている。
「本当だ。いますね」
エンジョウが言った。
左右を挟まれている隼人は、振り向こうとしたが、首を九十度ほど回すのが関の山だった。
ふと、隼人は想起した。ハイブリッドと遭遇する前にカラスの鳴き声や大きめの羽音を耳にしたことが何度かあった、と。
「まずいな」田口は正面に向き直った。「尾崎、かまわずに急げ」
「了解」
恵美は答え、SUVの速度をわずかに上げた。
「エンジョウ、尾崎、念のため、センサーグラスをかけておけ」
そう告げた田口は、内ポケットからセンサーグラスを出し、それをかけた。
エンジョウと、ハンドルを握る恵美も、直ちにセンサーグラスをかける。
「カラスが、やばいのか?」
隼人は田口に尋ねた。
「君は知らなくて……」言いさした田口がセンサーグラスの内側の目で隼人を見た。「いや、知っておくべきだろう。カラスを見たら敵だと思え。山野辺士郎はカラスを使役しているらしい。確認はできていないが、山野辺士郎は配下のカラスの目を通して遠方の状況を把握している、という可能性がある」
「カラスが見たものを山野辺士郎も見ている、ということなのか?」
問い返した隼人に、田口は頷いた。
「おそらくな」
「あいつは……魔道士……」
隼人はつぶやいた。
化け物を何度も目の当たりにしたのだから、魔道士がいてもその使い魔がいても不思議ではない。とはいえ、それらに監視されていたおそれがあるだ。背筋に冷たいものを感じてしまう。
「カラスが遠ざかりました」
エンジョウが言った。
隼人も左のドアガラスの外にそれを見た。
一羽のカラスが南の方角に遠ざかっていく。
次の瞬間だった。
後部座席の左右のドアガラスに、腕ほどの太さがある何本ものロープ状の何かが縦方向にへばりついた。それらのどれもが灰色であり、かさついている。
同時に、SUVが急停止した。
否、エンジンは回っており、現に恵美はアクセルを踏み込んでいる。
「とらえられたのか?」
声を上げた田口が、自分のシートベルトを外し、スーツの内側から拳銃を取り出した。
エンジョウも田口に倣い、シートベルトを外して拳銃を取り出す。
田口は隼人のシートベルトも外した。
「いいか隼人くん、いつでも車外に出られるよう、準備しておけ」田口は続ける。「尾崎、エンジンを切れ。外に出て敵を攻撃しろ」
「了解」
恵美が答えると、田口はエンジョウを見た。
「急いで助手席側から外に出ろ。三型を使え」
「了解」
答えたエンジョウは拳銃をスーツの内側に戻すと、自分のシートの下に右手を入れ、別の拳銃を取り出した。デザートイーグルに酷似した大型のモデルだ。そして彼は、助手席の背もたれを前に倒し、助手席側のドアノブに手をかけた。
「尾崎、出るぞ」
エンジョウが言うと、SUVのエンジンが止まった。
左右のフロントドアが同時に開く。
恵美が運転席側から車外に飛び出し、続いてエンジョウが助手席側から飛び出した。
田口が運転席の背もたれを前に倒す。
銃声が鳴った。サプレッサーによる抑えられた音だが、高めの音と低めの音の二種類があった。低めの音はエンジョウの持つ大型拳銃の銃声らしい。
見れば、車外の前方、左右に分かれた二人が、拳銃を両手で構え、SUVの真上を狙って射撃していた。
きしむ音が車内に響いた。
左右のリアドアガラスにひびが走る。
何本もの灰色の何かが、けいれんするかのごとく震えていた。
「後部座席ごとつぶされるぞ! 急げ!」
叱咤され、隼人は助手席の背もたれを乗り越えるようにして車外に出た。
「早く来い!」
銃口をやや上に向けて射撃を続けるエンジョウが、隼人を一瞥して叫んだ。
脇目も振らずに隼人は走った。そして、エンジョウと恵美との間で足を止める。
振り向いた隼人は、啞然とした。
SUVの後ろ半分に何本もの触手が巻きついていた。それらの触手は、上空から下がっている。
隼人は視線を上げた。
SUVの真上に、虹色の球体が浮かんでいた。すべての触手はその球体の底から伸びている。球体の直径は五メートル前後だ。球体の底は地上から二十メートル以上の高さに位置しているだろう。
束なった触手の群れは、巨大な柱にも見えた。まるで触手の群れが虹色の球体を支えているようである。
この触手の主は雌である、と隼人は感じ取った。山野辺士郎が口にした「髪の毛」という言葉が脳裏をよぎる。
銃声が一つ増えた。
視線を降ろすと、いつの間にか、恵美の左斜め前に田口が立っており、SUVのルーフの上辺りを狙って拳銃を撃っていた。恵美もエンジョウも、SUVのルーフのすぐ上を狙って射撃している。三人とも、虹色の球体ではなく触手を狙っているらしい。
一本の触手が、SUVのルーフの上で弾け、そしてちぎれた。
三人の射撃は続いた。
薬莢が地面に散らばる。
二本目がちぎれ、三本目がちぎれたとき、一本の触手がSUVを離れ、大きくうねった。
「回避!」
田口が声を上げた。
うねった触手が横に走った。
恵美が隼人に飛びつき、ともに地面に倒れた。
恵美にのしかかられて仰向けに倒れた隼人は、すぐ上を触手が横切るのを見た。
隼人らの隣では、田口が中腰で敵の様子を見ている。
エンジョウに目を向けると、彼も倒れていた。もっとも、微動だにしない。さらによく見れば、彼の頭部とセンサーグラスが、彼の本体より向こうの草地に落ちていた。
隼人から離れた恵美が、自分の拳銃をほうり出してエンジョウの大型拳銃を拾った。そして片膝立ちになり、両手で射撃の姿勢を取る。
拳銃の弾倉を交換しながら、田口は立ち上がった。
「尾崎、隼人くんを連れて神宮司邸に行け!」
田口の言葉に恵美は動揺を呈した。
「しかし」
「急げ!」と田口が恵美をせかした瞬間、触手の群れがこちらへと流れてきた。
右手に拳銃を持ったまま左手で隼人の左腕を取った恵美は、自分が立ち上がるのとともに隼人を立ち上がらせた。
「走って!」
声を上げた恵美は隼人の腕から手を離し、触手の群れに向かって射撃を再開した。
隼人が走り出すと、射撃を中断した恵美も走り出した。
「田口さんも急いでください」
恵美は訴えるが、立ち上がった田口はその場で射撃を続けている。
「かまうな! さっさと行け!」
田口の声を耳にしながら、隼人は走った。すぐ後ろに恵美も続く。
抑えられた銃声が続いた。しかし、隼人にはもう、振り向く余裕がない。
「はっ」
背後で声が上がった。
走りながらなんとか振り向くと、恵美がうつぶせに倒れていた。
隼人は足を止めてしまう。
「行きなさい!」
そう声を張り上げた恵美の右足に、一本の触手が巻きついていた。
すぐに体を仰向けにした恵美は、半身を起こし、大型拳銃を両手で構えた。まずは自分の右足に巻きつく触手を飛散させ、続けて、迫り来る灰色の群れに射撃を加える。
大きくうねった一本の触手が、田口の体を雑木林の手前の茂みに弾き飛ばした。
「早く行きなさい!」
今また声を放った恵美は、右足首に巻きついたままの触手の先端を、蹴り飛ばすように振り払った。そして立ち上がり、大型拳銃を両手で構える。
触手の一本一本が大口径対ハイブリッド用弾丸によって弾け飛んでいくが、群れ自体の進行は止まらない。着実に、執拗に迫ってくる。
自分には逃げることしかできない――諦念とも決意ともつかない思惑を抱いた隼人は、ようやく走り出そうとした。
一本の触手が隼人の腰をとらえたのはそのときだった。
「隼人さん!」
とっさに振り向いた恵美は、両手で構える大型拳銃の銃口を、隼人の腰に巻きついた触手の伸びきっている部分に向けた。
至近距離からの発砲を受け、触手が弾け飛んだ。
不意に解放された隼人は、地面に尻餅を突く。
恵美のすぐそばまで数本の触手が迫っていた。
「危ない!」
立ち上がれないまま、隼人は叫んだ。
素早く態勢を立て直した恵美だが、その顔が曇った。何度も引き金を引いているのに、銃口は火を放たない。
弾切れ――隼人がそう悟ったときには、恵美の体は数本の触手のうねりによって水田の手前のほうへと弾き飛ばされていた。
そして隼人も、そのうねりによって雑木林の手前の茂みまで飛ばされてしまう。
背中をしたたかに打ちつけたが、生い茂る背の高い草がクッションになってくれたらしい。痛みはあるが体は動いた。うつぶせになり、草の合間から道の様子を窺う。
何本もの触手が路上でうねっていた。
田口と恵美の姿は見えない。
ふと、思いつく。
神宮司邸には向かわずに逃走するべきだ、と。
あそこへ戻れば自分はまた拘束されてしまうだろう。それに、蒼依を助けなければならない。
行く当てはないが、特機隊のテリトリーに足を踏み入れる気にはなれなかった。
背中の痛みをこらえ、中腰で茂みの中を移動し、雑木林へと入った。
身を起こし、下生えを押し分けながら走る。
振り向けない。
しかし、触手の追撃はなかった。
ベッドサイドに置いた椅子でうたた寝をしていた瑠奈は、不意に目を覚ました。
夢を見ていたような気がするが、思い出せない。
見れば、泰輝は相変わらず眠り続けている。
ドアをノックする音がしていた。どうやらこの音が、瑠奈を覚醒させたようだ。
「瑠奈、いいかしら?」
ノックに混じって真紀の声がした。
ノックの音が煩わしかった。泰輝の眠りの妨げになる要因は、早々に取り除きたい。
椅子から立ち上がった瑠奈は、ドアまで急いだ。
静かにドアを開けると、血相を変えた真紀が立っていた。
「どうしたの?」
瑠奈は声を抑えた。
「ちょっと」と真紀は瑠奈を廊下に促した。
廊下に出た瑠奈は、静かにドアを閉じた。
「大変なことが起きたの。隼人くんがいなくなったそうよ」
「だから、それはゆうべ――」
「じゃなくて」真紀は瑠奈の言葉にかぶせた。「今朝、上君畑小学校の体育館で隼人くんが警察に保護されたそうなの」
「え?」
意味が把握できなかった。吉報と受け取りたかったが、真紀の表情はそれを否定している。
「それなのに、特機隊が隼人くんを車でここへと移送する途中で、その車がハイブリッドに襲われたんですって」
話が飲み込めず、瑠奈は問い返す。
「連れ去られた隼人さんが、今朝になって上君畑で警察に保護されたんでしょう?」
「そうよ」
「そして、その隼人さんを特機隊が車でここに連れてこようとした」
「ええ」
「その車が、途中でハイブリッドに襲われて、隼人さんはいなくなった」
「そう。それで、
「円城さんが……」
円城は敷地内の立哨に就くことが多く、瑠奈とはよく顔を合わせていた。会話こそなかったが、挨拶くらいは交わしていた。
また一人、特機隊隊員が命を落としたわけだ。否、昨日の上君畑での事件も含め、短時間のうちに多くの知人が殺害されたのである。十六歳の少女が平静でいられるわけがない。
だからこそ瑠奈は、無理にでも気持ちを引き締める。確認しなければならないことは、まだあるのだ。
「蒼依は……蒼依はどうなっているの?」
「上君畑小学校の体育館で隼人くんと一緒にいたらしいんだけれど、そこからまた連れ去られてしまったらしいわ」
言って、真紀はうつむいた。
「また連れ去られちゃったの?」
目まいがしそうだった。真紀の最初の慌てようが、理解できた。
「それだけじゃないの」うつむいたまま、真紀は肩を震わせた。「行人さんが、殺されてしまった」
「そんな……」
瑠奈は言葉に詰まった。
起きてはならないことが、ついに起きてしまった。大切な友人である蒼依本人はもちろん、彼女の家族である隼人や行人にも不測の事態があってはならない。そうならないように、自分は泰輝の力を借りてでも彼らを守らなければならない――そう自分自身に誓ったのに、こんな悲しい知らせを受けてしまった。
絶望という文字が脳裏に浮かんだ。しかし、諦めるわけにはいかない。瑠奈はこうべを振り、真紀に詰め寄った。
「お母さん、蒼依を連れ去ったのは、無貌教なんでしょう?」
真紀は顔を上げた。
「そうらしいわ。……というより、山野辺士郎本人が、蒼依ちゃんを連れ去ったそうよ」
「でも」瑠奈は首を傾げる。「どうして、祭壇石のある場所じゃなくて、上君畑小学校の体育館にいたんだろう?」
「たぶん、信者たちが儀式の準備をしていたのよ。そして、儀式の場の守りを固めていた。時間調整だったのだと思うわ」
「ということは、今夜こそ儀式は決行される」
真紀を見つめて言った瑠奈は、急がねばならないことを悟った。泰輝にゆっくりと休んでもらうのは、すべてが済んでからだ。
「そうね」
真紀の首肯を受けて、瑠奈は告げる。
「ねえ、お母さん。大事な話があるの」
そして瑠奈は、泰輝の部屋のドアを開けた。
「大事な話?」
不審そうに眉を寄せた真紀が、ドアの内側を覗いた。
瑠奈が振り向いてベッドのほうに目を馳せると、上半身を起こした泰輝が、きょとんとした表情でこちらを見ていた。裸の胸元が、軽く上下している。
「ぼく、起きたよ」
泰輝の声を聞いて、瑠奈は微笑んだ。
「よかった。泰輝、おはよう」
雑木林を抜け出た隼人は、神宮邸の北側を東西に横切っている、と思われる狭い舗装路をためらわずに横断した。そのまま道の反対側の雑木林へと入る。
下生えを踏みしめながら、この雑木林のどこかで虹色の球体に飲み込まれたのだ、と思い起こした。もう少し西へ行けばあの開けた場所があるはずだ。そこだけは避けたく、隼人は北へと向かって緩い斜面を上った。
やがて地面は平坦となり、木立が途切れた。
雑草が生い茂る中、小道が東西に走っている。
東を見ると、小道が雑木林の中へと続いていた。西は遠くに山並みが見えるだけだ。北は、少し先に雑木林が立ち塞がっている。
東へ行けば神津山第二高等学校の近くに出てしまうだろう。もっとも、西には上手縄工業団地が広がっている。東西のどちらを取っても特機隊に見つけられてしまうおそれがあるわけだ。北の雑木林を進んでも、いずれは、開けた場所に出てしまうに違いない。
どうしても上君畑が脳裏から離れず、隼人は西に進むことを選んだ。
背中の痛みが治まっていた。
足の運びが自ずと早くなる。
小走りに進み続けると、小道はすぐに藪に飲まれてしまった。
それでも、藪をかき分けて突き進んだ。
灌木の枝が何度も顔に当たった。
周囲の様子は窺えない。
西に向かっているのかどうかさえ確信が持てなくなっていた。
不意に、隼人は藪から出た。
足を止めたその場所は、歩道のようだ。
目の前には片側一車線の舗装路が通っている。
雑草の生い茂った土地が広がっているが、左右の遠くには工場が点在していた。
まさしく上手縄工業団地だ。
左の先には、遠ざかっていく車が見えた。今なら車の往来はない。人の姿も皆無だ。
隼人は急いで車道を横断した。そしてそちら側の歩道からガードレールを乗り越え、再び藪に足を踏み入れる。
何がなんでも蒼依を救い出す――その一心で、隼人は雑草をかき分けた。
工業団地の中は可能な限り、雑草だらけの空き地を通った。
道路を移動せねばならないときは短距離で済ませ、その際は下を向いて歩いた。車や人を見かけたら、極力近づかないようにした。
そして数十分後には、特機隊に見つかることなく、上君畑へと続く県道に入ることができた。山間部へのアプローチと言える地区だった。民家は点在している程度である。
進行方向を見れば、木々に覆われた峻険な山々が左右に立ち並んでいた。この山林の中を進むという行為は現実的でないだろう。県道に並行する川縁を歩くことも頭に浮かんだが、それでは地元住民からすれば不審者である。
午前十一時になろうとしているのを腕時計で確認した。特機隊に見つかる可能性はあるが、日中に上君畑へとたどり着くには、この道を進むしかない。
歩道はなく、右の路側帯をうつむいて歩く。車なら数秒で走り抜けられそうなカーブが、やけに長く感じられた。
歩きながらふと見ると、ナイロンジャケットのあちこちに擦り傷があった。その一方、剝き出しの手は無事なようだ。顔をさすってみるが、やはりけがはしていないらしい。
少なくとも、腕や胴はナイロンジャケットによって守られた。これを持ってきてくれた恵美に感謝するとともに、彼女を見捨ててしまった自分を厭わしく思った。
それでも、何を犠牲にしてでも、非道な手段を用いてでも、たった一人となってしまた肉親を救わなければならない。
人の姿はなかったが、車の往来は少なからずあった。顔を上げるわけにはいかず、アスファルトの路面を見下ろしながら歩を進める。
緩い傾斜の上りだった。左カーブを抜け、百メートルほどの直線に入る。先のほう、左側に民家らしき建造物が見えた。
後ろから来た車が、三十メートルほど先で左によって停止した。
上目遣いに見ると、ハザードランプが点滅していた。
隼人は思わず足を止めた。
赤い軽自動車だった。SUVではないが、特機隊の車両でないとは言いきれない。
運転席のサイドガラスが下りた。
「隼人」
顔を出したのは一也だった。
隼人は声も出せず、その場に立ちすくんだ。
「何を突っ立っているんだよ。早く来い」
せかされた隼人は、車道を横切り、軽自動車に駆け寄った。
「後ろに乗れ」運転席の横で立ち止まった隼人に、一也は言った。「助手席だと目立つ」
「あ、ああ」
状況が把握できないが、一也に言われるまま、右リアドアを開けて後部座席に乗り込んだ。そして隼人がドアを閉めると同時に、軽自動車は発進する。
「どこへ行こうとしていたんだ? この車、おふくろさんのだろう?」
シートベルトを装着しながら、隼人は尋ねた。
「おふくろの車だよ。借りてきた。行き先は、高三土神社だ」
「なんでそんなところへ?」
「なんで……って、蒼依ちゃんを助けに行くんだろう?」
そう問い返され、ますます混乱してしまう。
「なあ一也、何を言っているんだ?」
「蒼依ちゃんは男にさらわれた。違うか?」
「違わないけど……いや、てゆーか、一也がどうしてそんなことを知っているんだ?」
連絡が取れなかったのだ。一也に事情が伝わるはずがない。
「神宮司さんから……瑠奈ちゃんのお母さんから電話があったんだ」
それこそ考えにくい流れだ。第三者に漏らしてはならない、と釘を打ったのは真紀本人である。
「おばさんから? 本当なのか?」
「本当だよ。一時限目の講義が終わってすぐにスマホを見たら、神宮司さんから留守電が入っていた。おれの自宅にかけて、おふくろからおれのスマホの番号を聞いたらしい。それで、急いでいるらしいから、すぐに電話したんだ」
上りの傾斜がきつくなった。周囲は山林に囲まれており、民家は一軒も見えない。
流れていく緑の景色を横目で追いながら、隼人は問う。
「おばさんは、なんて言っていたんだ?」
「警察の特殊部隊に追われている若い男が蒼依ちゃんを連れ去った。特殊部隊を率いているのはおばさんの知り合いだけど、その特殊部隊がまったく当てにできない。それどころか、その特殊部隊は隼人を拘束しようとしている。だから、隼人と合流して、蒼依ちゃんを助けてほしい。急がないと、蒼依ちゃんの命にかかわる……ってな」
「おばさんは、その男のことをどんなふうに言っていたんだ?」
「若い男、としか言っていない」
「警察の特殊部隊のことは?」
「それも、詳しいことは何も」
肝心な情報は伝えられていないようだ。ならば、真紀の意向をくむべきだろう。
「そうか」
装うしかなかった。自分も何も知らない――そう演じるのだ。
「それにしても、蒼依ちゃんがさらわれたこととか、若い男が特殊部隊に追われているとか、隼人が拘束されそうになっているとか、本当なのか?」
一也に問われ、隼人は首肯する。
「ああ」
「おれたちが調べている件とかかわりがあるのか?」
「いや……関係ないと思う」
だましたくはないが、これ以上は巻き込むわけにはいかない。無論、高三土神社に着いたら、一也を帰すつもりである。
「蒼依ちゃんが連れ去られたのだって、神隠しに関係しているんじゃないかな」
納得していないのか、一也は食らいついて離れない。
「関連づけたい気持ちはわかるけど、本当に関係ないと思う。それより」さらに関連づけさせてしまう、というおそれはあるが、確認したいことがあった。「蒼依が連れ去られた先って、高三土神社で間違いないのか?」
「神宮司さんは、そう言っていた。その男は絶対に高三土神社にいる、って」
現在の高三土神社は神宮司家が管理しており、無貌教は立ち入っていないはずだ。だからこその盲点なのだろうか。
「とにかく」一也は言った「どうやって蒼依ちゃんを助け出すかだ。その男には仲間がいるかもしれない。正面から乗り込んだのでは、返り討ちに遭う可能性がある」
高三土山の天狗を引き合いに出されることはなかったが、一也の「やる気」のほうが隼人にとっては煩わしかった。
「おれを高三土神社の近くで降ろしたら、一也はうちに帰れ」
「なんだよそれ」ルームミラーの中で、正面を見る一也が眉を寄せた「隼人を残して帰れるわけがないだろう」
「その男が蒼依を連れ去った目的や蒼依が連れ去られた状況、その男が警察の特殊部隊に追われている理由も、一也はわからないんだよな?」
「わからないよ。だからなんだっていうんだ?」
「何もわからないのに、その男のいるところへ乗り込むつもりなのか? どれだけ危険なのかわかっているのか?」
「わかってからでは遅いんだろう? 神宮司さんは慌てていたんだ。特殊部隊も所轄の警察も当てにならない。何より、蒼依ちゃんの命がかかわっているんだぞ」
「一也は気持ちが高ぶっているんだ。だから、勢いで来てしまった」
「そんなにおれは頼りないか?」
声のトーンが下がっていた。ルームミラーの中の一也は、哀傷の色を浮かべている。
「そうじゃない。違うんだ」
事実を告げられないもどかしさで、隼人はこぶしを握り締めた。
沈黙が舞い降りた。
上りの傾斜が緩くなった。
いくつかのカーブを過ぎて、小さな集落に差しかかる。
上君畑の高三土神社は、まだ先である。
不意に疑念を抱き、隼人は問う。
「おれがあそこを歩いているの、知っていたのか?」
「神宮司さんが言っていた」一也は答えた。「たぶん、隼人は上君畑へと向かっているだろう、って。徒歩だろうから、特殊部隊に先を越されていなければ、行く途中で見つかるだろう、とも言っていた」
隼人本でさえどこに向かえばよいのか迷っていたが、真紀はそこまで見越したらしい。
「隼人、頼むから一人でどうにかしようだなんて、思わないでくれ」
声は落ち着いていた。少なくとも、勢いで言っているのではなさそうだ。
しかし、ともに乗り込むのなら、山野辺士郎やハイブリッドについて、あらかじめ話しておかなくてはならない。
隼人は考えあぐんだ。
それでも車は、先へと進み続けた。
蒼依の意識は朦朧としていた。朦朧としたまま、二本の足で立っていた。
ここが屋外なのか屋内なのか、昼なのか夜なのかさえわからない。
明るいが、日の光ではなく照明なのかもしれない。
ときどき弱い風を感じるが、扇風機か空調機かもしれない。
草木の香りを感じるが、観葉植物かもしれない。
女の声が聞こえた。二人以上はいるらしい。何を話しているのか、わからない。日本語のようだが、今の蒼依の頭では言葉として認識できない。
その女たちによって、蒼依は靴を脱がされた。そしてパジャマをも脱がされる。そればかりか、下着までも脱がされてしまった。
羞恥はなかった。もとより、あらがう気持ちさえ生じない。
冷たく濡れたタオルのようなもので全身を拭かれた。そのうえで、素肌の上に着物のようなものを着せられた。
今は裸足だ。裸足なのはわかるが、畳の上なのか土の上なのか、認識できない。少なくとも、板やコンクリート、岩など、固いものの上ではないらしい。
目は開けているつもりだが、視界は白濁していた。もっとも、ほんの束の間ではあるが、
女たちが蒼依をその場に座らせた。
両手を突いて初めて、そこが草地であることを知った。
女たちの声が遠のいた。押し黙ったのか、この場から離れたのか、蒼依にはわからない。
気だるかった。できることなら横になりたいが、体が自由にならないのだ。まるで魔法でもかけられたかのように、手も足も、この横座りという姿勢を維持している。
悲しい出来事があったような気がした。なのに、それがどんな出来事なのか、思い出せない。
朦朧としたまま、蒼依はその場に座り続けた。
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