第4話 血の咆哮 ①
美羅たちが登校してからは、蒼依はいつにも増して気を揉んでいた。瑠奈は普段と変わらぬ調子であり、彼女が美羅たちと接触する気配はない。問題なのは放課後である。
いたたまれなかった。下校時間までがこれほど長く感じられたのは久しぶりである。
放課後のチャイムが鳴ると、間もなく吉岡と祐佳が二年一組の教室にやってきた。どちらも帰り支度は済んだらしく、スクールバッグを肩にかけている。
そのときはすでに、瑠奈の姿は教室になかった。蒼依の気づかぬうちに席を立ったらしい。
「天気予報では、夕方から晴れ、ってなっていたけど」
昇降口を出るなり、曇天の空を見上げながら祐佳が言った。
「あたしたちって日頃のおこないがいいから、きっと晴れるよ」
肩にかけたスクールバッグを揺らして美羅が笑った。
「笑えないよ」と出かかった言葉を吞み込んだ蒼依は、周囲に目を走らせた。昇降口の周辺にも校庭にも、瑠奈の姿はない。
正門を出てショッピングモールまでの十分ほどの間も、蒼依は三人の談笑に入れなかった。
無論、みえん坂で怪異に遭遇することはなかった。
西側の出入り口からショッピングモールの敷地に入った四人は、大駐車場の中の歩道をイートインコーナーのある東寄りへと進んだ。
車道を挟み、イートインコーナーの近くに六台の車が停まっていた。うち、ミニバンは一台だけである。祐佳は先頭になり、店舗出入り口付近のスペースに停まっているその白いミニバンに向かって足を進めた。
美羅や吉岡に倣って祐佳に続いた蒼依は、思わず息を吞んだ。
店舗出入り口の手前に、スクールバッグを右肩にかけた瑠奈が立っている。
やはり気づいたのだろう祐佳が、現状を否定するかのごとく首を横に振った。
「まったく……みんな、無視して。無視だよ」
と囁く祐佳が足を速める。――が、駐車場を斜めに横切っている最中の一行の前に、車道を素早く横断した瑠奈が立ちはだかった。
「待って」
「あれえ……もしかして今、待って、って言った?」
行く手を遮られた美羅が、瑠奈に向かって首を傾げた。
「こんなうぜーやつ、相手にすることないよ。さっさと行こう」
嫌悪の表情で祐佳が吐き捨てた。
「待ってあげようよ」
美羅の眉がわずかに動いた。
にやけ顔を呈した吉岡が、小声で美羅に問う。
「神宮司に付き合って、暇つぶしするのか?」
「まさか。話を聞くだけだよ」
学年で三本の指に入ると囁かれている美貌に狡猾な笑みが浮かんだ。
その美羅に勝るとも劣らぬ容姿端麗な瑠奈は、表情をまったく変えない。
「誰に用事があるのかな?」美羅は瑠奈に尋ねた。「あたし? それとも、蒼依?」
不穏な空気が漂っていた。
何か言わなければ、と蒼依は憂慮するが、言葉が見つからない。
「あなたたち全員に話があるの」
臆する様子もなく、瑠奈は答えた。
「なら、どうぞ」と促した美羅が、蒼依を一瞥した。
蒼依はスクールバッグのベルトを左手で握り締めた。手の震えがベルトまでをも揺らしてしまう。
「行ってはいけない」
凜とした声で瑠奈はそう告げた。
美羅も吉岡も祐佳も、困惑の色を浮かべている。
「はあ? 何それ?」
祐佳がすぐに毒突いた。
「先週の金曜日の朝、話していたでしょう。月曜日の夕方に上君畑の怪奇スポットへ行く、って」
長い黒髪が、柔らかな風に揺れた。
「聞き耳を立てていたんだあ。性格悪いよ」
容赦ない反撃が美羅の口から放たれた。
「とにかく、上君畑の怪奇スポットなんて、行ってはいけない」
瑠奈は再度、警告した。
「なんでだよ」
声を尖らせたのは吉岡だった。
「危険だから」
きっぱりとした答えが返ってきた。
「危険って……妖怪がいるからか?」
嘲笑を浮かべ、吉岡は問うた。
「そうよ」
瑠奈は頷いた。その瞳に憂いが浮かぶ。
「ふふっ」美羅が失笑した。「神宮司さん、本気で言っているの? いるわけないじゃん、妖怪なんて」
「そこにいるのが妖怪でも妖怪でなくても、危険なのよ」
落ち着いた口調だが、一歩も譲らないという決意が窺えた。
「妖怪でなければ何がいるのかな? あたしたちはただの肝試しに行くわけ。レジャーなの。それに、神宮司さんには関係ないよね」
美羅の口調も落ち着いているが、明らかに反感が込められていた。
できることなら今すぐにでもこの場から逃げ出したい、と蒼依は思った。
「怪奇スポットなんて、行ってはいけない」
強い口調で瑠奈は訴えた。
「いい加減にしろよ、このストーカーが!」
祐佳がすごみを利かせた。
「神宮司さん、駐車場の真ん中だよ」
美羅はそう言うと、ミニバンの横に移動した。瑠奈を含む四人がそれに続く。改めて、四人と一人は対峙した。
「あたしね」美羅は蔑みの目を瑠奈に向けた。「神宮司さんはもっと賢いのかと思っていたの。ちょっとがっかりだな」
「わたしを評価している場合じゃないの。何かあってからでは、自分の軽率さを悔いたって遅いのよ」
「ふうっ」とため息をついた美羅が、瑠奈を睨む。「お母さんが貿易会社の会長で、しかも亡くなったお父さんが警察庁長官官房長だったからって、あんまり調子に乗らないほうがいいんじゃないかな。そういうのを笠に着せて……最低だと思うわけ」
中小企業に勤める父を持つ美羅は、瑠奈に対して劣等感を抱いている――蒼依は日頃からそう感じていたが、どうやら思い過ごしではなかったらしい。
「親なんて関係ない。わたしは、あなたたちに無事でいてほしいから言っているの」
瑠奈の強い口調は変わらなかった。
「参ったね」吉岡が苦笑した。「空閑、黙っていないで、神宮司に何か言ってやれよ」
振られた蒼依は肩をすぼめる。
「あたしは……」
「ねえ神宮司さん」蒼依の言葉を待たずに美羅が口を開いた。「本当に、あたしたちに無事でいてほしい、だなんて思っているの?」
「本当だから、こして説得してるの」
そして一歩、瑠奈は前に出た。
「ふーん、ならどうして先生たちにチクったのかなあ?」
美羅のその一言に動揺を呈したのは、蒼依だけではなかった。
「神宮司が、何をチクったんだよ?」
尋ねたのは吉岡だった。
祐佳も意外そうな表情である。
「あたしたちがいじめをしているんだってさ」
肩をすくめた美羅が、瑠奈から吉岡に視線を移した。
「神宮司をいじめているって?」そして吉岡は、瑠奈を睨んだ。「おれらがいつおまえをいじめたんだよ?」
「あなたたちがいじめているのは、二組の女の子。
「ちょっとからかっただけじゃん」
祐佳が呆れたように言った。
「全然自覚していないのね」祐佳よりも瑠奈のほうが呆れた様子だった。「わたしはあなたたちに、それについても話そうと思っていたの。あなたたちのしていることは――」
「なあ美羅」吉岡が瑠奈の言葉を遮った。「こいつが先生らにチクった……って、誰から聞いたんだ?」
「担任の
「注意されたのなら、改心すべきよ」
すかさず瑠奈は口を挟んだ。
「何様だよ」
吉岡が吐き捨てた。
「なんだ、来ていたのか」と声が上がったのは、そのときだった。イートインコーナーの出入り口から出てきた二人の若い男が、肩で風を切るような歩みで車道を横切り、制服姿の集団の前で立ち止まる。
「昌裕こそ、だいぶ前に来ていたの?」
声をかけてきた男に祐佳が尋ねた。
やせぎすの男だった。派手なプリントの入ったロングTシャツとクラッシュジーンズの組み合わせはワルのイメージだが、いかんせん顔つきが地味である。
「それより、一人多くねーか?」
そんな懐疑の声を漏らしたのは、やせぎすの男に並んだもう一人の男だった。出で立ちはやせぎすの男と似たり寄ったりだが、人を嘲るような冷たい目つきと金髪のツーブロックアシメショートは蒼依を畏縮させるに十分だった。
「女の子が増えたんなら、いいんじゃね?」
やせぎすの男はにやけた。
「ざけんなよ昌裕! こいつは関係ねーの!」
顔を引きつらせた祐佳が瑠奈を指差した。
「じゃあ、そういうことで」
美羅が瑠奈に背中を向けた。
「野村さん、わたしの話を聞いて」
「蒼依、紹介するよ」美羅は瑠奈の言葉を無視して言った。「戸川さんと島田さん。二人とも、あたしたちの遊び仲間だよ」
「蒼依ちゃん、よろしくな」
三白眼に下卑た笑みを浮かべた男――島田が、蒼依に向かって片手を挙げた。
「はい」とだけ答えて、蒼依は目を逸らす。
「照れてんの? かわいいじゃん」
そう言って笑う島田を、やせぎすの男――戸川が、横目で見た。
「
「かわいいから、かわいい、って言っただけじゃねーか」
片眉を吊り上げつつ、島田は反駁した。
「戸川さん、とにかく早く行こうよ。よろしくね」
美羅に急かされ、戸川は顔をしかめる。
「なんだか、いいように使われているよなあ」
そして、ミニバンのドアロックが解除された。
「野村さん」瑠奈が言った。「だったら、もう止めない。でも蒼依は連れていかないで」
そして美羅に近づこうとした彼女は、突然転倒し、アスファルトに両手を突いた。
祐佳が足をかけたのだ。蒼依はそれを見逃さなかった。
「瑠奈――」
瑠奈に駆け寄ろうとした蒼依だが、美羅に右腕をつかまれて立ち止まる。
「それ以上はだめ」美羅が耳元で囁いた。「怖いお兄さんが二人もいるじゃん。神宮司さんがどうなっても知らないよ」
あらがえなかった。相手はいつもの三人だけではない。
よろよろと立ち上がった瑠奈を、島田が見ている。
「その子、どうしちゃったんだ?」
「病気で、すぐ転ぶの。病気を移されると嫌だから、さっさと行こう」
言いつつ、美羅は蒼依の腕を引いた。
「へえ、そっちもかわいいのに、もったいない」
さも残念そうに返した島田は、瑠奈から目を逸らした。
皆がぞろぞろと動き始めた中、蒼依は瑠奈に見つめられたまま美羅に腕を引かれてミニバンへと近づいた。
「蒼依」
弱々しい声が蒼依の背中に届いた。
午後五時二十五分。帰宅時間の早さはさらに更新された。
手洗いを済ませてジャケットを自室に置いた隼人は、キッチンに赴き、ロングTシャツの上にエプロンを着けた。
今日は一日中、豚肉の生姜焼きが頭の中にあったのだが、いざ冷蔵庫を開けてみると、あるとばかり思っていた豚肉はなく、代わりに、消費期限の迫ったあじの開きが目に留まった。下ごしらえを怠った代償である。
玄関のチャイムが鳴った。
あじの開きのパックを調理台に置き、インターホンの受話器を取る。
「はいはい、どちらさん?」
相手を確認もせず、粗野な言葉遣いで応対してしまった。豚肉への執念がそうさせたのかもしれない。
隼人のその言葉遣いのせいか、来客は「あの……」とためらっていた。声からすると、若い女らしい。
「だから、誰さんなの?」
「神宮司です」
「神宮司……って、瑠奈ちゃんか?」
「はい。えっと、隼人さん?」
「そうだよ。待ってな。今、出るから」
受話器を戻してから、ため息をついた。蒼依は美羅たちと買いものに出かけたのだ。妹の不在をどう伝えるべきか、思いつかない。
外したエプロンをダイニングチェアにかけ、玄関へと急いだ。
サンダルを突っかけて玄関ドアを開けると、制服姿の瑠奈が右肩にスクールバッグをかけて立っていた。
「隼人さん、蒼依を助けてください」
今にも泣き出しそうな瞳で瑠奈は訴えた。
「薄暗くなったね。雰囲気あるかも」
助手席の祐佳が声を弾ませた。
「ていうか、真っ暗になったらヤバいんじゃね」
助手席の後ろで吉岡が漏らした。
戸川の運転するミニバンは山間部を快走していた。緩いカーブを繰り返す片側一車線の舗装路は、車の往来がほとんどない。厚い雲は散り散りに消え始めているが、日はすでに山陰に落ちていた。
「いいじゃん。大きめの懐中電灯を三組ぶん用意したんだし」
吉岡の右隣で美羅がそう返した。二列目の席は三人掛けだが、美羅はその真ん中に座り、吉岡にべったりと寄り添っている。
「三組ぶんって?」
三列目の右の席で蒼依は尋ねた。
「二人一組で怪奇スポットを歩くんだよ」
答えたのは、蒼依の隣りに座る島田だった。
三列目はただでさえ二人掛けなのに、島田は蒼依のほうに体を傾けている。蒼依はスクールバッグを抱き締めたまま、少しでも島田から離れようと右のドアに肩を押しつけていた。
「二人一組? つまり……」
考えるまでもない。恋人同士の組がすでに二つあるのだから、残る一組は蒼依と島田ということになる。
「あれ、迷惑だった?」
島田が蒼依に顔を近づけた。
「いえ、そんなことないですよ」
慌ててへつらいの笑みを浮かべた。
「なら、いいんだけど。……おれたちが最初に回るグループなんだとさ。せいぜい頑張ろうな」
男物の香水のにおいがした。固さが際立つ野性味あふれる香り――否、今の蒼依には悪臭にも匹敵するにおいである。
島田が姿勢を戻したのを契機に、蒼依はドアガラスに顔を向けた。集落は後方に遠ざかっていた。見えるのは山林ばかりである。木々の奥に淀んでいる闇が、今にもこのミニバンに襲いかかってきそうだった。
「そういや」戸川が言った。「昨日の夜、ちょうどこの辺で、無人の車が車道の真ん中に停まっているのが見つかったらしいぞ」
「えー、何それ? もしかすると神隠しだったりするじゃん」
楽しげに反応したのは美羅だった。
「職場の先輩が話していたんだけど、どこまで本当なのかは、わからない。そんな事件、新聞にも載っていなかったし」
戸川がそう返すと、とたんに島田が笑い出した。
「おまえ、新聞なんて読むのかよ?」
「新聞くらい読むだろうが」
どうやら感情的になりかけているらしい。
「まあまあ、楽しく行きましょう」
美羅が取り成した。戸川や島田を加えても、やはり彼女が実質上のリーダー格である。
やがてミニバンは集落に差しかかった。十字路を左折し、道は急勾配の上りとなる。幅員は先ほどまでと変わらず、片側一車線の広さを保っている。
「もう少しだぞ」戸川は言う。「この坂を上りきったら、そこから一キロくらいだ」
しかし、緩いカーブを繰り返す坂道は、蒼依が予想していたより長かった。行けども行けども勾配はなかなか緩まない。
この坂道が別世界への入り口だとすれば、二度と元の世界には戻れない――そんな気がしてならなかった。
田園地帯を貫く片側二車線の幹線道路は、夕ラッシュの時間とあって、どの車線も交通量が多かった。もっとも、信号機が少ないおかげで流れは悪くない。かえって速いくらいだ。スピードメーターの表示は制限速度を十キロほどオーバーしている。正面には、入り日を背にした山々が、黒々とした姿を茫漠と広げていた。
「蒼依のやつ、最初から上君畑へ行くつもりだったのか……」
愛車のハンドルを握りつつ、隼人はぼやいた。
隼人と美羅たち三人とは面識があった。昨年の四月、蒼依が三人を自宅に招いたが、遠慮なく騒いだ三人を、隼人は「ただのばか」として記憶していた。
あのときは瑠奈も一緒に来ていた。無論、彼女は美羅たち三人とは違い、終始、おこないに節度があった。
怪奇スポットとやらに到着すれば、美羅たち三人と一年ぶりの再会を果たすことになるはずだ。もっとも、あの三人の顔など見たくもないのだが。
「それにしても……瑠奈ちゃん、うちに歩いてくるより電話をくれたらよかったのに。おれが車でショッピングモールまで君を迎えに行ったほうが早かった、と思うけど」
言いつつ助手席に目を投じ、息を吞んだ。間近で見た瑠奈の横顔が、これまで以上に大人っぽく見えたのである。――なぜか暑さを覚え、ジャケットのフロントファスナーを少しだけ下げた。
「だめなんです」助手席の瑠奈が悄然と答えた。「スマホは……だめなんです」
「だめ……って、どういうこと?」
「とにかくスマホはだめなんです。メールやメッセージだってそうだし。公衆電話からなら大丈夫だと思うんですけれど、その公衆電話がどこにもなかったんです」
スクールバッグを抱える両腕が小刻みに震えている。得心はいかないが、これ以上の追及は哀れに思えた。
「まあ、いいか。それより、柄の悪い二人組の男、っていうのが気になるな」
「はい、とても心配です。蒼依、大丈夫かな……」
語尾がかすれていた。
「その二人、ヤクザとか、そんな感じなのか?」
たとえ相手がヤクザだろうと、蒼依を連れて帰るという意志に変わりはない。
「えっと……」瑠奈は首を傾げた。「ヤクザかどうか、わからないんですけれど、年は隼人さんと同じくらいだったと思います」
「おれと同じくらい……」胸がざわついた。「そいつらの名前とか、聞いていないか?」
隼人が問うと、瑠奈はしばし考え込み、二人の男の名前を挙げた。戸川と島田――案の定、知らぬ名前ではなかった。
「ああ……」と肩を落とした隼人は、胃の辺りに痛みを感じた。
「知っているんですか?」
「まあね」
口にするのがはばかれる関係だ。だからこそ、いっそう蒼依の身を案じてしまう。
「怖そうな人たちでしたが、まさか前科があるとか?」
「前科ってほどのことじゃないけど」
とはいえ、あの二人に補導歴があるのは事実だ。小耳に挟んだ噂では、二人とも未だに粗暴であるらしい。慎重に対処しなければならないだろう。早速、譲歩を試みる。
「えーと、瑠奈ちゃんの家って、杉岡中学校の近くだったよな?」
質問の意図が読めなかったらしく、瑠奈は心細そうに「はい」と答えた。
「瑠奈ちゃんは帰ってくれ。今から家まで送っていく」
「どうしてですか?」
とたんに瑠奈の声が尖った。
「じきに暗くなる。帰りが遅くなったら、瑠奈ちゃんのお母さんが心配するだろう」
瑠奈の母は、幼くして母を亡くした隼人たち兄妹に何かと親切にしてくれた。そんな彼女に心配をかけたくないことが理由の一つであるのは、事実だ。
もっとも、すでに神津山南インターの手前まで来ており、瑠奈を送り届けるとなると引き返さなければならない。
「うちには門限なんてないし、お母さんはわたしを信じてくれています。たまに帰りが遅くなったからって、問題はありません。だから連れていってください」
瑠奈は引かなかった。
「でもさ……」
説得するすべがわからず、言葉を見失ってしまう。
「わたしが行かないと、大変なことになるんです」
「大変って?」
横目で見ると、瑠奈は真剣な面持ちをこちらに向けていた。
「蒼依を止められなかったわたしには、責任があります。それに、カーナビで見てもわかりづらいと思います。隼人さんだけではその場所を探し回ることになりますよ。ネットで検索しても、その場所の情報はもう見つからないんですから」
「まあ、確かにおれは、上君畑とか山間部のほうって、よくわからないからな」
隼人は苦笑した。
上君畑といえば高三土山と高三土神社が知られている。だが隼人は、それらの正確な位置がわからなかった。父の実家があったという
「隼人さん、お願いします」
瑠奈の両目に浮かぶ涙が隼人の背中を押した。
「参ったな。……わかったから、もう泣くなよ」
「はい……ありがとうございます」
瑠奈は礼を述べてうつむいた。
やがて道は片側一車線となり、交通量は激減した。景色が田園から山林へと変わる。民家はまばらだ。
闇の色が濃くなってきた。自動点灯でヘッドライトが路面を照らす。
「お母さんに連絡くらい入れておけよ」
制服姿の少女を乗せているだけで気詰まりがある。そのうえ彼女を遅く帰したのでは、隼人の面目は丸つぶれだ。
「大丈夫です。隼人さんに迷惑はかけません。うちのお母さんは理解してくれます」
「瑠奈ちゃん」
心境を見透かされた気がした。
「それに、わたしのスマホは使えないんです」
瑠奈は言った。
「バッテリー上がり? 公衆電話もなくて、それでおれのところへ直接来たわけか」
「いいえ。通話もメールもメッセージもしてはいけない、ということです」
瑠奈の言葉の意味を隼人は理解できなかった。
「よくわからないけど……なんだったら、おれのスマホを使えよ」
「わたしのうちに電話をかけること自体に、問題があります」
答えた瑠奈が、ふと、後ろに顔を向けた。
「なんだか、瑠奈ちゃんは誰かに狙われているみたいだな」
率直な意見を述べつつ、隼人もルームミラーで後方の様子を窺った。ついてくる車など一台もない。そればかりか、擦れ違う車さえなかった。
「隼人さん」瑠奈は正面に向き直った。「急いだほうがいいと思います。もう少し飛ばせませんか?」
「そうだな。少しペースを上げるよ」
気圧された隼人は、アクセルを踏み込んだ。
「揺れるかもしれないから、気をつけて」
瑠奈は「はい」と首肯してくれたが、事故を起こすわけにはいかない。無造作に上がろうとする速度を、わずかに働いている理性によって可能な限り抑えた。それでも、メーターの数字は制限速度を二十キロ以上も上回っていた。
隼人の軽トールワゴンは、杉林に囲まれた片側一車線の舗装路を走っていた。神津山市では最も僻地である上君畑でも、さらなる奥、集落から離れた土地である。
後方へと流れていく杉林の暗がりを見つめながら、「今は誰も住んでいない一軒の家が、山あいにあるんです」と瑠奈は語った。その空き家で巨大な妖怪が目撃されたらしい。
瑠奈の指示どおりに「山火事注意」の立て看の手前で右折し、野原を突っ切る砂利道に進入した。
路面の凹凸に揺られながら、「こんなところに家なんてあるのか?」と隼人は問う。
「ネットの地図で確認しておいたんですけれど、建物が二つありました。大きいのと小さいのが、それぞれ一つずつです。民家が一軒だけ、ってSNSのつぶやきにあったから、小さい建物は小屋か物置だと思います」
ネットの地図で確認できるのなら、瑠奈に頼らなくても自分一人で来ることができたかもしれない――などという突っ込みはやめておく。
「そのつぶやきっていうのも、今はないんだろう?」
「アカウントごと削除されています」
さもありなんである。隼人は黙して頷いた。
隘路を百メートルばかり進むと、車を十台は停められそうな空き地があった。その奥に一台の白いミニバンがリアをこちらに向けて停車している。
ミニバンから前方へ十メートルほどの位置に四つの人影があった。懐中電灯と思われる明かりが二つ、威嚇するかのごとくこちらに放たれる。
四つの人影から五メートルほど先には、五十坪はあるだろう一戸の家屋があった。木造平屋の瓦屋根だ。
向かってその左に隣接するもう一つの建物は、瑠奈の言うとおり物置のようだ。とはいえこちらも木造の瓦屋根であり、乗用車を三台ほど入れられそうな大きさである。
鬱蒼とした杉林が雑草まみれの敷地に迫っていた。どうやら、開かれているのは空き地に繫がる南向きのこの一角だけらしい。
隼人は軽トールワゴンをミニバンの左斜め後ろに停めてヘッドライトを消灯し、エンジンを切った。
「瑠奈ちゃんは車の中にいろ」
運転席のドアを開けつつ注意を促すが、「大丈夫です」と答えた瑠奈は、スクールバッグを助手席に残して隼人より先に車外に出るなり、ドアを閉じた。
慌てて車を降りた隼人は、すぐにドアをロックし、瑠奈に並んで四人へと近づいた。四人のうちの三人は、服装からして明らかに神津山第二高等学校の生徒だ。
ミニバンは左後ろのスライド式ドアが開いていた。何気なく覗けば、二列目と三列目のシートにはいくつかのスクールバッグが放置されている。
「また神宮司かよ!」
ののしったのは宮崎祐佳だ。その隣に立つ吉岡拓海と野村美羅の顔も、隼人は覚えている。
「常軌を逸しているというか」
呆れた様子で美羅がかぶりを振った。
「あれ……もしかして、空閑の兄ちゃん?」
吉岡が隼人に懐中電灯の明かりを向けたまま目を丸くしていた。
至近距離で明かりを浴びせられたのではたまらない。隼人は吉岡の前で立ち止まり、懐中電灯を持つ彼の右手をつかむ。懐中電灯は護身用の棒形のモデルだった。
「こらこら、まぶしいよ」
静かに言いながら、吉岡の右手を強引に下げた。しかし、もう一つの明かりがまだ隼人に向けられている。
「空閑……って、おまえ、空閑か?」
懐中電灯の明かりを向け続けている戸川の元へと、隼人は歩み寄った。その明かりが小刻みに揺れる。
「だったら、どうするんだよ?」
問うと同時に戸川の右手から懐中電灯を奪い取った。この懐中電灯も吉岡が手にしているものと同じ型である。
「どうもしねーけどよ……なんで空閑がここに来たのかな、って思ってさ」
媚びる笑みが気の毒なほど震えている。彼の足元を見下ろすと、落としたばかりらしい一本の煙草が、ゆらゆらと煙を立てていた。
「昌裕、蒼依のお兄ちゃんを知ってんの? てゆーか、なんでそんなにビビってんの?」
祐佳が訝しげな眼差しを戸川に向けた。
「蒼依ちゃんの兄ちゃん? いや、あの、別にビビってねーし。つーか、なんで蒼依ちゃんが空閑の妹っていうことを教えてくれなかったんだよ」
戸川は切り返すが、佑佳の顔には妥協する様子が微塵も浮かんでいなかった。
「昌裕と蒼依のお兄ちゃんが顔見知りだなんて、あたしが知るわけないっしょ!」
「そりゃそうだけど」
「蒼依はどこにいる?」
無理な笑みの戸川に詰め寄った隼人は、足元から立ち上る紫煙に顔をゆがめた。たまらず、その煙草の火を踏み消す。
「今は肝試しの最中なんだ」
のけ反りつつ戸川は答えた。
「そこか?」と隼人は空き地の奥に懐中電灯の明かりを向けた。雑草がはびこっている中にひっそりと佇む母屋が、懐中電灯の明かりに浮かぶ。
「うん」
小声で答えた戸川が、ばつが悪そうに祐佳から顔を背けた。
母屋の壁は無数の葛の蔓に覆われ、至る部分が腐食していた。屋根瓦は三分の一ほどがなくなっている。玄関の引き戸は二枚とも外れて倒れており、開口部が漆黒の闇をたたえていた。
物置を照らすと、こちらはわずかに傾斜していた。まるで葛の蔓によって引き倒される寸前、といった様相だ。
黴のにおいがきつかった。この臭気にさらされてはしゃぐなど、隼人には理解できない。
母屋の玄関の奥から物音が聞こえてきた。床を踏みならすような音だ。
隼人は瑠奈に告げる。
「瑠奈ちゃん、今度こそ来るなよ」
「でも……」と瑠奈は渋った。
隼人は戸川に顔を向ける。
「おい戸川、この子に指一本でもふれてみろ。どうなるか、わかっているよな?」
「ああ、もちろんだとも」
そう答える戸川を、祐佳が横目で蔑視した。
「隼人さん」
呼び止める瑠奈に、隼人は余裕の表情を見せる。
「すぐに済む。任せておけ」
そして、懐中電灯で玄関の開口部を照らした、そのとき――。
「嫌だって言っているんです!」
叫びながら、蒼依が玄関から飛び出してきた。
懐中電灯の明かりを揺らしてその彼女を追ってきたのは、紛れもなく島田である。
「ちくしょう。このアマ、嚙みやがった」
島田は懐中電灯を持つ側の左手首を右手でおさえていた。その懐中電灯も護身用の棒形である。
「まったく」と吐き捨てた隼人の正面で、蒼依は立ち止まった。つぶらな瞳が大きく見開かれる。
「お兄ちゃん?」
制服の胸元が乱れているが、けがはないようだ。
蒼依の背後で立ち止まった島田が、顔をしかめる。
「お兄ちゃん、って誰が? そこにいるのは、うそだろ……」
焦燥する島田を無視し、隼人は蒼依に尋ねる。
「何されたんだ?」
「何って……」戸惑いを浮かべた顔が、わずかにうつむいた。「抱きつかれて、服を脱がされそうになった」
「それ以上はされていないのか?」
「うん」と頷いた蒼依は、ようやく緊張から解かれたようだった。大粒の涙が左右の頬を伝う。
「もう大丈夫だ」
蒼依の左肩を軽く叩き、島田の前に立つ。
「島田……おまえ、相変わらずのゲス野郎だな」
声を荒らげずに謗った。
「空閑が蒼依ちゃんの兄貴? じゃあ、蒼依ちゃんのフルネームって、空閑蒼依?」
狼狽の色を呈した島田だったが、一同の視線に気づいたのか、不意に隼人を睨んだ。
「さすがの島田もプライドが傷ついたか?」
嘲笑をその三白眼に向けてやった。
「テメーはいつも」右手に持ち替えた懐中電灯を、島田は振り上げた。「そうやって付け上がるんだ」
振り下ろされた懐中電灯――それを握る島田の右手を左前腕で受け止めた隼人は、自分の右手に持つ懐中電灯で島田の顔面を思いきり突いた。
「ぐはっ」と声を上げた島田は、頭部をのけ反らせて懐中電灯を足元に落とした。そしてすぐに前屈みになるが、そのみぞおちに隼人の右膝がめり込む。
「あぐっ」
呆気なかった。島田は両膝を地面に突き、背中を丸めてしまう。彼の足元の懐中電灯が雑草をむなしく照らした。
見ると、隼人が右手に持つ懐中電灯は、レンズが割れ、明かりが消えていた。本来なら電池ケースの側面で殴るのだろう。使い方を間違えたのだ。
「やっちまった」
島田を打ちのめしたことではなく、懐中電灯を壊したことに罪悪感があった。
「この懐中電灯、誰のだ?」
隼人は尋ねつつ振り向いた。
六人ぶんの色を失った視線が隼人に集中している。
「おれのだけど」
答えたのは戸川だった。
「悪い、壊しちまった」
「ああ、別にかまわないよ。安物だし」
戸川は不自然な笑みを薄闇の中に浮かべていた。
「いてーよ」
うめきながら島田が顔を上げた。眉間が大きく裂けており、鮮血がぼたぼたと地面にしたたり落ちる。
――いつもこうなるんだよな。
これ以上の厄介にはかかわりたくなかった。蒼依が無事ならばそれでよい。
「蒼依……買いものだなんてうそをついてまでこんなところに来た理由は、あとできちんと聞かせてもらう。飯が遅くなっちまうから、とにかく帰るぞ」
声をかけると、蒼依は涙をぬぐいながら頷いた。
「ごめんなさい」
しょぼくれた鼻声だった。
隼人は瑠奈を見る。
「瑠奈ちゃん、行こう」
「はい」即答した瑠奈が蒼依に駆け寄った。「蒼依、大丈夫?」
瑠奈を前にした蒼依が、再度、目を見開く。
「どうして瑠奈がここに? あたし、瑠奈の言うことを聞かなかったんだよ。それなのに、こんなところまで来てくれて」
「いいの。気にしないで」
穏やかに告げた瑠奈は、蒼依の胸元を正してやった。
「ありがと」
小さな声で伝えた蒼依は、瑠奈に肩を抱かれて軽トールワゴンへと向かう。
「じゃあ、このまま返すぞ」隼人は言いながら、壊れた懐中電灯を戸川に渡した。「それから、島田のこと、頼むわ」
「わかった」
戸川は力なく答えた。
腹の虫が治まったわけではないが、隼人も自分の愛車へと足を向ける。
瑠奈に支えられて歩く蒼依が、通り過ぎざまに美羅に向かって「最低」と言い捨てた。
「蒼依……あたし、こうなるなんて思わなかったの」
そう訴えられても、蒼依は足を止めなかった。
だが隼人は、美羅たち三人の前で立ち止まる。
「またこんなことがあれば、今度はおまえらもただじゃおかないぞ」
警告すると、三人は静かにこうべを垂れた。
「鞄……」とつぶやいた蒼依が、瑠奈から離れて戸川のミニバンへと向かった。
立ち止まって蒼依の様子を見ている瑠奈に、隼人は追いつく。
「戸川と島田は名の知れた悪党だから、十分に気をつけないとな」
「さっきの隼人さんは、昔の暴れん坊だった頃と同じじゃないですか。たとえ相手が先に仕掛けてきたとしても、あれではやりすぎです」
彼女の瞳にわずかな憤りが表れた。
「そういや、自分が行かないと大変なことになる、って瑠奈ちゃんは言っていたけど、もしかして、羽目を外したおれをきつく叱るため、だったのか?」
「ふざけないでちゃんと聞いてください」呆れたように瑠奈は言った。「ただでさえ蒼依は怖い目に遭ったんですよ。なのに隼人さんが警察につかまったりすれば、蒼依は立ち直れなくなってしまいます」
冷静に考えてみれば、器物損壊より傷害のほうが重罪である。瑠奈の容赦ない指摘は、素直に受け入れるべきだろう。
「あいつらも自分たちのしたことを理解しているはずだから、警察沙汰にはしないと思うけど……瑠奈ちゃんの言うことは正しいよな」警察沙汰にならなければよいという問題ではない、と理解したうえで、隼人は付け加える。「よくわかった。今後は気をつけるよ」
「はい。……それにしても、蒼依が無事でよかったです」
瑠奈の顔に安堵の色が浮かんだ。
「ああ」と頷き、隼人は戸川のミニバンに目を向けた。
三列目の席から自分のスクールバッグを取り出した蒼依が、ドアを閉めずにこちらに歩き出したところだった。
「んっ」
瑠奈が片手で自分の鼻と口を覆った。
隼人も気づいた。糞尿のにおいが漂っているのだ。黴のにおいなど比較にならないほどの悪臭である。
「何、このにおい……」
スクールバッグを小脇に抱えた蒼依が、辺りの様子を窺いながら駆けてきた。
美羅たち三人や戸川もこのにおいを嗅ぎ取ったらしく、皆、不快そうな顔で周囲に視線を走らせていた。島田だけがうめきながらうずくまっている。
「隼人さん、早く帰りましょう」
憂慮に堪えない表情で瑠奈は訴えた。
「そうしよう。さあ、二人とも車に乗るんだ」ただならぬ気配を感じは隼人は、蒼依と瑠奈の肩を押し、振り向く。「戸川、おまえらも早く帰れ。なんだか様子がおかしい」
「そうだな。わかった」
答えた戸川が島田に歩み寄り、落ちている点けっぱなしの懐中電灯を拾った。
木の枝を折るような音がした。
軽トールワゴンの前で、蒼依が「何?」と声をうわずらせた。
美羅と吉岡、祐佳、戸川らが、動きを止めて耳を澄ましている。
再び音がした。先の音とは明らかに異なっている。固い何かがゆっくりと裂けるような、そんな音だ。
「早く乗れ」
ドアロックを解除した隼人は蒼依と瑠奈を促した。
「杉の木が折れ曲がっている」
驚愕の声を発したのは祐佳だった。
隼人は彼女の視線をたどる。
廃屋の向かって右に立つ樹高二十メートルほどの一本の杉が、幹の五メートル前後の高さでくの字に折れ、倒れていくところだった。いや、半透明の巨大な何か――人間の姿に酷似した何かが、廃屋に正面を向け、左手でそれを押しのけているのである。
「本当だ。あの木、倒れちゃう」
蒼依が目を凝らして言った。
そしてついに、半透明の巨人に押しのけられた杉は、轟音を立てて横倒しになってしまった。
「いったい何が起きているのよ!」
固まったままの美羅が金切り声を上げるが、答える者は誰もいなかった。
身長が十メートルはありそうな半透明の巨人が、ついに歩き出した。ゆっくりと、確実に、廃屋へと近づいている。
隼人以外の誰にも、その巨軀は見えないはずだ。だが、漂う悪臭と、杉が不意に倒れた事態、雑草と地面とを踏み締める重い響きなどが、彼らを動転させているのだ。
戸川の右腕にすがって立ち上がった島田が、血染めの顔をこちらに向けた。
「こんなことはもう二度としねーから、勘弁してくれよう!」
島田の醜態を自業自得と思っている場合ではなかった。
「そんなこと、どうだっていい! 島田もみんなも早く逃げるんだ! 何か来るぞ!」
隼人は叫んだ。
「音しか聞こえないんですよ! どこへ逃げればいいんですか!」
嘆いた吉岡はそれでも、折れた杉のほうに懐中電灯の明かりを向けていた。杉が倒れた事態を重視しているらしい。
踏み倒されていく雑草に気づいた隼人は、すぐに声を張り上げる。
「草が倒されているのが見えないのか! それと逆方向に走れ! 車に乗るんだよ!」
しかし五人は、誰一人としてその場から逃げ出そうとしなかった。巨大な足音は四方八方で反響している。踏み倒されていく雑草に気づけないばかりか、全周囲に殺気を感じているに違いない。
吉岡の飛ばしている照明が何度か半透明の巨軀を撫でるが、吉岡はもとより、誰もその存在に気づく様子がなかった。よく見れば、照明は巨人の肉体を素通りしている。
「光を当てても意味がないんだ」と口走った隼人の顔を、蒼依が覗き込む。
「お兄ちゃん?」
「いいから、早く車に乗れよ」
指図しておきながら、隼人は動けなかった。異様な存在からどうしても目が離せない。
半透明の巨軀は、筋骨隆々とした男のものだった。しかしその前頭部には二本の細長い突起物が左右に並んで生えている。さらに目を凝らせば、やはりこの化け物も、臓器やこより状にねじれた骨が、半透明の状態で体内に収まっていた。
それだけではない。化け物の下半身はまるで虫なのだ。蜘蛛の腹のような部分に、左右に張り出した四本の間接肢がついている。
巨軀は確実に廃屋へと近づいていた。各節が折れ曲がった四本の足を使って、ゆっくりと迫ってくる。
ふと、悪臭とは別のにおいが隼人の鼻をくすぐった。甘いにおいが悪臭を押しのけ、次第に強くなってくる。
「これは、バニラのにおいだ」
蒼依は言いつつスクールバッグを抱き締めた。
「このにおい。まさか……」
そうつぶやいた瑠奈が、視線を一帯の薄闇に走らせた。
まだ何かいるのか、と周囲を見渡した隼人は、それに気づいて固唾を吞んだ。
向かって左の杉林の中で、何かが廃屋の前の様子を窺っていた。その何かも半透明であるが、四つ足で首と尾が長く、背中には蝙蝠のもののような翼を有している。さしずめ、西洋のドラゴンといった姿だ。やはり巨大であり、胴の長さだけでも三メートルはあるだろう。顔は犬と猫を掛け合わせたかのような作りだ。触手状の長い両耳が、緩やかな弧を描いて地面に垂れている。ご多分に漏れず、この化け物も体内の器官が透けて見えた。
隼人は、杉林の暗闇に潜んでいるそれの輪郭が見える、という不可解な事実に今さら気づいた。巨人にしても薄闇の中でくっきり浮かんで見えるなど不合理である。そもそも、皆に見えないものを見てしまうこと自体がありえないのだが。
ふと、隣に立つ瑠奈に視線を移し、隼人は固まった。
瑠奈が杉林を凝視していた。まるで、それの姿が見えているかのごとくだ。
気づけば、巨人のような半透明の化け物も杉林のほうに顔を向けていた。もっとも、その前進は止まることなく、顔の向きもすぐに廃屋へと向き直る。
隼人は我に返った。
蒼依と瑠奈を連れて早々にここから立ち去らねばならない。無論、あの五人を見捨てるつもりもなかった。
「戸川! 早く車に乗れ! 島田やみんなと――」
言葉がつかえてしまった。
立ち止まった半透明の巨人が、太い右腕を前に伸ばしたのだ。その先には、周囲の様子を窺いながら立ちすくむ三人の高校生がいる。
「ひっ!」と声を上げたのは美羅だった。
吉岡と祐佳が肩をすぼめて美羅を凝視する。
廃屋から離れようとしていた戸川と島田も目を剝き、足を止めた。
見えないロープで縛り上げられたかのように、美羅は左右の腕を両脇にぴたりとつけたままもがいている――皆にはそう見えているに違いない。巨人の右手が美羅の体を鷲づかみにしているなどとは、隼人以外の誰もが――美羅本人でさえ、夢にも思わないだろう。
「美羅、何やってんだよ」
吉岡が美羅に近づこうとした。
と同時に美羅が叫ぶ。
「いやあああ!」
美羅の体が宙に浮いた。――否、巨人が美羅の体を持ち上げたのだ。
吉岡と祐佳が事態を吞み込めない様子で美羅を見上げた。戸川と島田も呆然としている。
「どうなっているの……」蒼依が瑠奈に寄り添った。「美羅が浮かんでいる」
だが瑠奈は、驚愕の表情で美羅を見据えたまま、何も答えなかった。ともすると、瑠奈にはこの巨人も見えているのかもしれない。
隼人にもそれを伝えられるほどの余裕はなかった。逃げ出すことさえ忘れているのだから。
突如として、耳をつんざくような図太い咆哮が轟いた。戦利品かのごとく美羅の体を高々と掲げた半透明の巨人が、雄叫びを上げたのである。
たまらず、隼人は両耳を塞いだ。とらえられている美羅を除き、ほかの全員も両耳を塞いでいる。とっさに両耳を塞いだためなのだろう――蒼依は抱えていたスクールバッグを足元に落とし、戸川に至っては二つの懐中電灯をほうり出してしまったらしい。加えて吉岡は、懐中電灯を落としただけでなく、両耳を塞いだまま尻餅を突いていた。
地面や草木、大気までが振動していた。両耳を塞ぎつつ、隼人は奥歯を嚙み締める。
やがて大音響は鎮まり、全員がそろそろと両耳から手を下ろした。静けさの中、美羅の泣き叫ぶ声だけが聞こえる。
半透明の巨人の体に変化があった。胃と思われる巨大な臓器に色がつき始めたのだ。
尻餅を突いたままの吉岡が懐中電灯を拾い、薄紫色の巨大な臓器を照らした。
「なんか見える」落としたスクールバッグを拾おうともせずに蒼依は言った。「何かが美羅の近くに浮かんでいる」
「うん……」
答えた瑠奈は、眉を寄せ、わずかに目を細めていた。驚愕の表情ではなく、諦念の表情だった。
胃から始まった可視化は、臓器や骨格にも広がっていった。そしてその現象は体表へと移行する。
「鬼だ」と口にした吉岡だけでなく、祐佳も戸川も島田も見上げていた。美羅に至っては化け物の顔が間近にあるためか、泣き叫ぶのを忘れてしまったらしい。すなわち、誰の目にもこの化け物の姿が映っている、ということである。
それはまさしく鬼だった。筋肉の盛り上がった肌は全体的に赤黒く、ぼさぼさに乱れた長髪は灰色だ。手の指は五本ずつで、それぞれに鋭いかぎ爪が生えている。
独特の形態を醸し出すその下半身は、節足動物そのものだった。足は四本だが、上半身の両腕と合わせれば昆虫のごとく六本である。もしくは、足を外側に広げたケンタウルスに見えなくもない。
最も醜悪なのは容貌だった。まぶたを有さないドーム状に飛び出した水色の二つの眼球が、顔の中央から左右に離れて存在しており、縦長の楕円形の瞳が金色に輝いている。低い鼻は類人猿といった趣だ。唇のない大きな口が半開きであり、無数の鋸歯が覗く。
頭部における最大の特徴である二本の角は、持ち主の頭頂部から顎までの距離とほぼ同じ長さだ。骨と同様、こより状にねじれている。
可視化した姿は、照明が当たっているからこそ隼人にも見えているらしい。照らされていない部分はこの薄闇に半ば埋もれていた。
「嫌あああ! 下ろしてえええ!」
状況を悟ったらしい美羅が叫んだ。その彼女の体が、突然、水平になる。
誰もがこのあとの展開は予見できただろう。美羅の頭のすぐ先では鬼が巨大な口を開いているのだから。
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