第3話 見えない真相 ②

 自室に入ってすぐに机に向かい、英語の教科書を出したが、三十分と持たなかった。それ以来ずっと、蒼依はベッドに横になってスマートフォンをいじっている。アドレスを開いて瑠奈の連絡先を表示させては、すぐに閉じる――これを幾度となく繰り返した。どうしても瑠奈の電話番号をタップできない。

 瑠奈が美羅たちとよりを戻すことはない、と知った今では、蒼依も美羅たちから離れたくなっていた。瑠奈の一声があれば美羅たちと決別できる、そんな気がした。瑠奈に頼りたかったのだ。

 しかし、それが単なる甘えであることも承知していた。だからこそ、思いきれない。

 ――臆病者。

 ――弱虫。

 幼い頃に蒼依を罵った声が、脳裏を駆け巡った。

 机の上の時計を見れば、午後三時五十分だった。隼人が三度目の外出をしてから、すでに一時間が過ぎている。まだ彼は、自宅に戻っていない。

 深いため息をつき、上半身を起こした。

 窓の外に目を向ければ、空は相変わらず曇っている。

 暗澹とした空を見ていた蒼依は、ふと、回顧した。

 蒼依が美羅たちと上君畑の怪奇スポットへ行くことを、瑠奈は執拗に押しとどめようとしていたが、美羅たちとの仲を嫉妬しているふうでもなかった。それどころか、お化け、すなわち神津山の都市伝説の妖怪が出る、とでもいうような口ぶりだったではないか。

 草木を揺らすような音が庭のほうから聞こえたのは、そのときだった。

 蒼依はスマートフォンを握ったまま立ち上がった。

 窓に歩み寄ってレースのカーテンを開けた。

 音はもう聞こえないが、庭の隅に何本もの灰色のロープのようなものが見えた。ロープの束だ。

 まばたくと、ロープの束はもう見えず、まだつぼみさえないあじさいがそよ風に葉を揺らしているだけだった。

 見えたような気がしただけなのかもしれない。気持ちが萎えているのだろう。

 隼人の帰りが待ち遠しかった。


 一也が立っているのが、フロントガラス越しに見えた。

 駐車スペースの前に車を横づけすると、一也は運転側のドアの外に立った。

「おやじの車が出ているから、そこに入れてくれ」

 駐車スペースを指差して一也は言った。

 見れば、赤い軽自動車の隣が空いている。

「さっき、おれが帰ってきた直後に夫婦揃って出かけたんだ。いわき市の小名浜おなはままで買いものに行く、って言っていたから、たぶん、帰ってくるのは暗くなってからだな」

 ちょうどよかったよ、と付け加える一也に頷き、隼人は愛車をバックさせ、赤い軽自動車の隣に並べた。

 車を降りた隼人は、一也の部屋に通された。

「適当に座ってくれ」

 一也の言葉に従い、隼人はローテーブルを前にしてクッションの上に腰を下ろした。

 ローテーブルの上の皿には、一口サイズのチョコレートが山になっていた。そして二つのグラスのそれぞれにコーラがそそがれる。

 腰を下ろした一也にグラスを勧められ、隼人は一口飲んだ。

「で、どうだった? 電話ではだいぶ慌てていたけど、何かあったのか?」

 問われた隼人は、二口目でコーラを飲みきり、グラスを置いた。

「うん、全部話すよ」と切り出し、雑木林での出来事を事細かく口にした。そして最後に、助手席にあった紙を渡す。

 それに目を通した一也は、眉を寄せた。

「その女は化け物を殺したんだろう?」

「ああ。おれの見たのが間違いでなければ、だけど」

 隼人が答えると、一也は紙をテーブルに置いた。

「お化けは死なないんじゃないのか?」

 そう言って首を傾げる一也に、隼人は言う。

「頭が木っ端微塵に吹っ飛んで、動かなくなったんだ」

「妖怪というよりは、なんらかの生物なんだろう。ともかく、その女は化け物と敵対している、ということらしいな。しかも、拳銃を所持している」

「ただの拳銃じゃない」隼人は言った。「小型でありながら、化け物の頭を粉砕する威力を持っている」

「そうだったな。加えて、スタンガンのようなものまで持っている。隼人、ちょっと首を見せてくれ」

 言うなり、一也は膝立ちで隼人の横に来た。

「ああ、こうか?」

 隼人は左に首を傾げて、右の首筋を見せた。

「えーと、特に変わった感じはないよ」

「小さなやけどのようなものが残るんだったよな?」

「そうらしいけど、隼人の首にはなんの跡もない」

 そう告げて、一也は元の位置に戻った。

「スタンガンではない別の何か……」

 つぶやきながら、隼人は自分の首筋を手でさすった。痛みもかゆみもなければ、なんの違和感もない。

「スタンガンに変わる新種の装備かもしれない」一也は言った。「サングラスも怪しいよ。女は不可視状態の化け物が見えていたらしいけど、サングラスに特殊な機能が備わっているのかもしれない。とにかく、その女は警察とも自衛隊隊員とも違うようだな。人に銃口を突きつけて脅すだなんて、警官や自衛官がそんな行動を取るわけがない」

「どちらかの特殊部隊の隊員ってことは?」

 隼人が尋ねると、一也は首を捻った。

「さすがにそれは……わからないよ」

「でも、ありうることだろう?」

「隼人の言うとおりだけど、まだ結論は出せない。その女が廃工場にいた男とどうかかわっているのかも、まだ謎なんだし」

「そうだな」

 静かに首肯した。展開はあったが、かえって謎が増えた、という事実を認識した。

「それより」一也は隼人を見た。「その女はおれたちに警告したわけだ。隼人のことを知っていたばかりか、おれの名前まで口にした。ということは、以前からおれたちは監視されていたということだ」

「化け物もやばいけど、その女のほうもやばそうだな」

「女もやばいけど、本当にやばいのは、その女の組織だろうな」

 声音が重々しかった。言っている意味は、十分に理解できる。

「おれたちを監視するんだったら、一人では無理だろうし」

 隼人が言うと、一也は頷いた。

「そうだな。それに、装備が充実しているのも、単独という感じではない。おそらく、ろくろ首みたいなやつの死骸も、もうないだろう」

「組織として処理した?」

「化け物の存在が明るみに出ないように行動していると思う。ネットの監視もしかりだ。徹底しているよ。だから、ろくろ首みたいなやつの死骸が本当に処理されたかどうか、おれたちがそれを確認に行くのもやばいということだ」

「そんな組織なら……女の要求を吞むべきかな?」

 それは弱音だった。これ以上の探索には犠牲が伴う、そんな気がしてならない。

「おれは諦めたくないよ」一也は悔しそうに口を引きつらせた。「でも、おれの両親や、隼人の家族に何かあったら……」

 返す言葉が思いつかなかった。同じ気持ちなのだ。しかし、ここで諦めたら、飯島や石塚、相沢の行方は、闇に葬られてしまうかもしれない。

 考えたあげく、隼人は口にする。

「情報収集は続けよう。でも、あちこちを調べて回るのは、もう終わりだ」

「ああ、そうだな」

 力なく、一也は頷いた。

 しばしの沈黙があった。お互いがうつむき、テーブルを見つめる。

「そうだ」

 沈黙を破ったのは、一也だった。

「どうした?」

 隼人は顔を上げた。

 立ち上がった一也が、机の上から『神津山の昔話と伝説』を取り、ローテーブルの前に腰を下ろす。

「ちょっとな、気になることが書いてあったんだ」

「ろくろ首の話か?」

 隼人が尋ねると、一也は首を横に振った。

「その妖怪の名前はどこにもなかった。もっと気になることだよ」

 一也は言いながら『神津山の昔話と伝説』を箱から慎重に引き出し、ローテーブルの上でページをめくった。

「これだ」

 開かれたページの一カ所に、一也の人差し指が置かれた。「神降ろし」という見出しがある。

「昔……」一也は読み始めた。「高三土山たかみどさんの頂上に神様が天から降りてきて、人間の女に子供を産ませたんだと。何人もの女に産ませたから、何人もの子供が生まれたんだと。でも子供はどれも醜くて、そのうち大きくなって化け物になってしまったんだと」

 そして一也は顔を上げた。

「それだけか?」

 啞然とし、隼人は尋ねた。

「この話はな」

 答えた一也は、真剣な表情だ。

「ほかにも、何か気になる話が載っているんだな?」

「ああ」

 頷いた一也は、その次に記されている見出しを指差す。「高三土山の天狗」とあった。

 そして一也は、再び読み始める。

「上君畑に高三土山ってありますが、そこに棲んでいる天狗は高三土山の神様と呼ばれていたんです。天の神様とは友達で、ときどき、天から遊びに来た神様たちと、高三土山の頂上で宴会を開いておったそうです」

「これを話したのは、どっちも女の人みたいだけど」記されている二人の話者の名前を見て、隼人は言った。「直に話を聞けるといいな」

 調べて回るのはもう終わりにする、と告げたばかりだ。仮に話者の二人にたどり着けたとしても、その二人を危険な目に遭わせてしまう可能性がある。

 隼人がそれを伝えると、一也は頷いた。

「だよな。ていうか、巻末の話者の一覧を見ると、それぞれの話者は、どちらも当時の年齢が八十歳前後なんだ。『神津山の昔話と伝説』が編集された時期に鑑みて、存命だったとしても、会って話をする、なんて無理だと思う」

「二人のおばあちゃんに会うのは無理だとして」隼人は言った。「この二つの話によると、高三土山に棲んでいる天狗は天の神様と仲よしで、その天の神様が人間の女に子供を産ませた。その子供が化け物になった」

「そういうことだな」

「じゃあ、化け物……つまり妖怪は、神様と人間との間にできた子供、っていうわけだよな?」

「ここに書かれている昔話のとおりならな」

「この本のどこまで信じていいんだか」

「所詮は昔話だ。でも、昔話にしか登場しないような化け物が、実際に神津山には現れている」

 そう言いきり、一也は『神津山の昔話と伝説』を閉じた。

「その話が事実だったとして、人間の女、っていうのはわかるけど、神様っていったい何ものなんだよ?」

「訊かれたって、見たこともないし」肩をすくめ、一也は続ける。「でも、人間との間にできた子供が醜いのなら、その父親である神様も、美しくはない、と思う」

「人知を超えた存在、っていうわけか」

 異形の神、神の子である化け物、その化け物と敵対する女、廃工場で遭遇した男――それらのキーワードを脳裏に浮かばせただけで、目まいがしそうだった。

 一也は言う。

「昔話はあくまでもヒントとして受け入れるべきだよ。とにかく、飯島や石塚くんらの失踪は化け物が原因かもしれないけど、廃工場にいた男、もしくは化け物を撃ち殺した女がかかわっている可能性も否めないということだ」

「言い換えれば、犯人は絞られたっていうことだろう。それなのに、黙って指をくわえているだけなんて……」

 そして唇を嚙み締めた隼人は、静かに肩を落とした。

 繫ぐ言葉が見つからないのか、一也も口を開かなかった。

 再び沈黙が訪れた。

 今度の沈黙は、長かった。


 妻と幼い娘がミニバンの後部座席に乗り込むと、男は運転席に収まった。

 ドアを閉じてエンジンをかけ、運転席側のドアガラスを開ける。

 男の母が運転席の外に立った。

「気をつけて行くんだよ」

 母の言葉を受けて、男は肩をすくめた。

「子供じゃあるまいし、心配は無用だよ」

「あんたはあたしの子供でしょっ。親の言うことは聞くものだよ」

「はいはい」

 口を尖らせる母に向かって、男は何度も頷いた。

 後部座席の右のドアガラスが開いた。

「お母さん、また近いうちに遊びに来ますね」

 妻が言った。

「おばあちゃん、ばいばい」

 男の愛娘がチャイルドシートで手を振っている。

「また遊びにおいで」

 後部座席を覗く母は、笑顔だった。

「じゃあ母さん、行くね」

 男は母に声をかけると、ミニバンを発進させた。

 山間の集落の外れだった。隣の家は木立の先であり、二百メートルも離れている。

 田畑の間を抜ける狭い砂利道を五十メートルほど進み、左折してアスファルトの市道に入った。

 右後方を見ると、遠ざかっていく実家の庭先で、母が手を振っていた。

 ようやく今になって晴れ間が広がり、夕焼けが辺りを包んでいた。

「ばいばーい!」

 三歳の娘が無邪気に手を振り返した。

「さあ、窓を閉めるぞ」

 男は言うと、運転席側と後部座席のドアガラスを閉めた。

 集落は閑散としていた。何軒かの民家が市道の両脇に見えるだけで、人の姿は皆無である。二十年前は賑わっていたが、いつの頃からか過疎化が進み、今では十戸もない。男と同年代、もしくはそれ以下の者は、皆、ここを出ており、残されたのは高齢者ばかりだ。

「家に着くの、何時頃になるかな?」

 後部座席の左側に座る妻が、男に尋ねた。

「神津山南インターから乗るから、車の流れにもよるけど、七時頃かな」

「お母さんには、大丈夫だから、なんて言っちゃったけど、夕ご飯、どうしよう。家に着いてからじゃ、用意するのも大変だわ」

「母さんの作った昼の残りもの、もらっておけばよかったかな?」

「嫌だ、って言ったのはあなたよ」

 妻に指摘され、男は苦笑する。

「まあ、そうなんだけどさ。じゃあ、どこかで食べていくか」

「そうね」

 妻は男のその言葉を期待していたようだ。

 高速道路の渋滞も気になったが、つくば市の市街地の混雑具合も気にかかる。もう少し早めに発ちたかったが、独り暮らしの母が孫娘をかわいがるという光景を見せられては、どうしてもその気になれなかった。

 民家が一軒も見えなくなると、やがて左右に杉林が迫った。道は緩やかな上りとなり、右へ左へとカーブを繰り返す。この坂を上りきれば、あとは市街地へと向けて下る一方であり、道なりに進めば神津山南インターにたどり着く。

 太陽は山陰に沈み、辺りは薄闇に包まれていた。自動点灯でヘッドライトが灯される。

 見通しが利く箇所に差しかかった。直線というよりは、緩やかな右カーブだ。

 前方で何かが道を塞いでいた。うつぶせに倒れた人、に見えた。

「なんだ?」

 男はミニバンを減速させた。

「どうしたの?」

 妻が身を乗り出し、前を覗いた。

「人が倒れているんだ」

 答えた男は、倒れている人の五メートルほど手前でミニバンを停止させた。

「人?」

 妻は不安げな声を漏らした。

「車に撥ねられたのかもしれない。ちょっと見てくる」

 エンジンを切り、男は車外へと出た。

 そして、ドアを閉じて歩きかけるが、すぐに足を止める。

「どういうことだよ?」

 倒れた人など見当たらなかった。何も道を塞いでいない。

 この薄闇では、ちょっとした影が人の姿に見えた可能性はある。

 スライドドアの開く音がした。

「大丈夫?」

 ミニバンから降りてきた妻が尋ねた。

「おれの気のせいだったようだ。誰もいない」

「なら、大丈夫じゃないわよ」

「え?」

「ありもしないものを見るくらいなんだし、疲れている、っていうことでしょう」

 妻にとがめられ、男はうつむいた。

「そうかもな。高速に乗ったら、一番最初のサービスエリアかパーキングエリアで、少し休もう。そこにレストランがあれば、ちょっと早いけど夕飯だな」

「そうしたほうがいいわ」

「ああ、そうしよう」

 そう返した男は、ふと、視界の隅で影が這うのを見た。匍匐前進でもするかのごとく、漆黒の塊が男の右側から妻の背後へと移動した。

「あなた?」

 それに気づかないのか、妻は男の目の動きに動揺を呈した。

 妻のすらりとした体型が白いコトンパンツによって際立っていた。加えて、この薄闇での白いコットンパンツは、それ自体が存在を誇示している。

 だからなのか、妻の背後でおもむろに立ち上がった影は存在感がなかった。それこそ、目の錯覚と思えたほどである。

 ぼろぼろの着物を纏った老人に見えた。やせこけており、毛髪はない。裸足であり、両足の爪、そして両手の爪も、ことごとく伸び放題だ。

 男の視線を追うように、妻が自分の背後に顔を向けようとした。

 それより早く、老人が左手で妻の頭を鷲づかみにした。

 妻の頭をつかんだその手が、突然、回転した。手首から先がドリルのごとく回っているのだ。無論、妻の頭部もそれに合わせて回転した。

 肉の引きちぎれる音と骨の砕ける音がした。

 ほんの一瞬で、妻の頭部はねじ切れ、首から下はアスファルトの上にうつぶせに倒れてしまった。

 妻の頭部の切り口と胴体側の切り口から、鮮血が飛び散った。

 何重にもひねられた手首が、妻の頭部ごと逆回転し、元に戻った。その勢いで、さらに鮮血が飛び散る。

 妻のセミロングヘアが乱れていた。両目は見開かれたままであり、口は叫ぶ手前の半開きの状態だ。

 何が起きたのか、男にはまだ把握できなかった。声も上げられず、ただ立ち尽くす。

 妻の頭部を左手に提げたまま、老人が右腕を水平に上げた。その右腕が、まるで骨など有していないかのごとく大きく複雑にしなり、元の長さの何倍にも伸びた。

 開けたままの左リアドアから、伸びた腕がミニバンの車内に飛び込んだ。

 そして再び、あの忌まわしき音が男の耳に届く。

 腕はすぐに元の長さに戻るが、その手には娘の頭部が鷲づかみにされていた。

 老人が左右の腕を男に向けて突き出した。

 男の目の前に、妻と娘、二人の顔が並んでいた。娘も妻と同様、双眼を開いている。

 男は家族と見つめ合った。

 まだ、声が出せない。

 血を滴らせる二つの頭部が、老人の足元に落とされた。

 老人は右足を高く上げると、瞬時にその足を下ろし、娘の頭部を踏みつぶした。脳や眼球がアスファルトに飛び散る。娘の頭部だったものは、今やただの肉片だ。

 続けて左足が上がり、妻の頭部にも同様の加工を施した。

 どうだと言わんばかりに、老人が自分の顔を男に突き出した。

 落ちくぼんだ眼窩に眼球は存在していなかった。漆黒の穴だ。妻か娘の眼球を入れてあげれば、それらしく仕上がるかもしれない。

 ぼろぼろの衣服だと思っていたものは、老人の皮膚だった。薄黒く乾燥した肌が、体中のいたる箇所で垂れ下がっている。

 への字に閉ざされていた口が、大きく開かれた。顎が外れたのか、下顎がどんどん降下し、腰の辺りまで下がってしまった。

 いびつで巨大な口から糞尿のにおいが吐き出された。

 悪臭が脳を刺激したのだろうか、男はようやく事態を吞み込んだ。

「おれの家族になんてことを……」

 老人に向かって両手を伸ばした。胸元を締め上げようとしたのだが、つかめるとすれば、干からびてたるんだ皮膚だけだ。

 たるんだ皮膚に両手が届くより先に、老人の片手によって男は弾き飛ばされた。

 アスファルトに背中を打ちつけ、男は苦悶した。

「おれの家族に……」

 なんとか痛みに耐え、上半身を起こした。

 目の前に巨大な口が迫っていた。

 鋸歯が並んでいた。絵に描いたような、三角形の歯だ。

 巨大な口の奥から笑い声のようなものが聞こえた。人間の声ではない。しかし、歓喜に満ちていることは窺い知れた。

 悲しみと絶望、恐怖、怒りが、ない交ぜになって男を襲った。

 そして男は、頭から巨大な口に飲み込まれた。


 隼人は食材を買ってから帰宅した。

 買い物袋を持ってリビングダイニングキッチンに入ると、二階から蒼依が下りてきた。

「今から作るよ」

 そう告げた蒼依だが、まだ元気を取り戻していないらしい。

「昨日は買ってきたもので済ませたし、その前は蒼依に作ってもらったんだ。今日はおれがやる」

「でも、明日はお兄ちゃんに任せたんだよ。それなのに……」

 申し訳なさそうな蒼依に向かって、隼人は微笑む。

「なら、一緒に作ろうか。蒼依の得意なオムライスだ」

「やった」蒼依の頬に、わずかながら赤みが差した。「ちょうどね、ご飯が炊ける頃なんだ。手分けしようね」

 その反応は隼人が無理にでも笑顔を作ったおかげかもしれない。

 蒼依の明るさがそのまま家に中の雰囲気をよくする。それは事実だ。


 相変わらず、調理中も夕食の席でも、互いに言葉数は少なかった。とはいえ、隼人が深刻な話題を避けたおかげか、雰囲気は悪くなかった。沈黙が訪れるたびに隼人が意図的に振ったのは、芸能界の話題と新作アクション映画の話題だった。

 食事が済むと、隼人はソファの背もたれにかけておいたジャケットを取った。

「蒼依、風呂に入ってこい。片づけはおれがやる」

「一緒に片づけようよ」

 そう返した蒼依が、ダイニングチェアから立ち上がった。

「気を遣うなよ。おれは大丈夫だから」

「うん……わかった」

 得心のいかない様子で頷いた蒼依は、ドアのところまで進むと、不意に立ち止まり、振り向いた。笑顔は消えている。

「お兄ちゃん」

「どうした?」

 自ずと、心の中で身構えてしまった。

「今日、何かあった?」

 蒼依は隼人を見つめたまま、目を逸らさない。

「何もないよ」

 泳ぎそうになる目を無理にでも固定した。

「出かけたり帰ってきたりを繰り返していたじゃん」

「そうだったな。ちょっと野暮用があったんだ」

「野暮用……って、どんな?」

「野暮用は野暮用だよ。たいしたことじゃないさ」

 ほんのわずかだが、いらだちを感じた。理性を保たなければ、蒼依の気持ちをまた落としてしまいかねないし、悟られてしまうかもしれない。

 蒼依の表情が、少しだけ柔らかくなった。

「お兄ちゃん、うそがへただね」

 隼人が言葉を詰まらせていると、蒼依は背中を向け、ドアを開けて出ていった。

 一也には「隼人はうそをつけない」と言われたが、うそをつけないわけではない。蒼依の言うとおり、うそがへたなだけなのだ。


 風呂を済ませた隼人は、自室に入った。

 先に風呂を済ませた蒼依も、彼女の部屋でくつろいでいるらしい。

 何か話したかったが、声をかけるのも不自然に思えた。明日の朝は学校へ送っていくのだから、そのときに適当な言葉をかければよいだろう。

 アクション映画は見る気がしなかった。とはいえ、テレビをつける気にもなれない。

 ベッドの端に腰を下ろし、枕元のスマートフォンに手を伸ばした。

 メッセージアプリに新着があることを知った。

 家族用のグループトークに行人からのメッセージが入っていた。

 普段の行人は、メッセージアプリを利用しなければ、メールさえ使わない。今回のように、何日か家を空けたときのみに、連絡を入れてくれるのだ。

 行人と蒼依のやり取りが、すでに済んでいた。

    *    *    *

 変わったことはないか?

    *    *    *

 お疲れ様!

 こっちは大丈夫だよん。

 お父さんはどう?

 変わりない?

 あたしに会えなくて寂しくない?

    *    *    *

 おれも元気だ。

 異常なし。

 まったく寂しくない。

 予定どおり、あさってには帰るよ。

 じゃあな。

 おやすみ。

    *    *    *

 早っ。

 もう終わり?

 わーったよ。

 お土産よろしくね。

 何か関西のおいしいやつ。

 じゃあ、おやすみなさい。

    *    *    *

 文面を見る限りでは、いつもの蒼依だ。行人に心配をかけまいとしているのは手に取るようにわかった。

 とりあえず、隼人も簡単に入れておく。

    *    *    *

 おやじ、お疲れさん。

 おれも変わりないよ。

 気をつけてな。

 おやすみなさい。

    *    *    *

 そして、一分ほどして、行人からメッセージが入った。

    *    *    *

 どうもな。

 隼人も無理するなよ。

 おやすみ。

 それから蒼依、食い意地が張っていると太るぞ。

    *    *    *

 肩の荷が少しだけ下りたような気がした。

 自分には父がついている。どうしようもないときは、本当に追い詰められてしまったら、父の力を借りよう――それは最後の手段だが、そんな逃げ道があると思えばこそ、まだ折れないでいられるのだ。

 隼人はスマートフォンを両手でそっと握りしめた。


 神津山第二高等学校の正門前を過ぎたところでUターンした軽トールワゴンは、すぐに道の左に寄り、停止した。

「ありがとう」

 助手席の蒼依は隼人に礼を述べると、シートベルトを外した。

「帰りは気をつけろよ。みえん坂を歩くんなら、絶対にみんなと一緒だぞ」

 隼人のそのくどさに、蒼依は閉口した。瑠奈の言葉を伝えれば――いや、瑠奈のあの言葉が事実であると公に証明されたなら、これほど執拗な注意喚起はしないだろうし、送り迎えさえしなくなるはずだ。

 しかし、隼人に責任がないことは、蒼依だけが知っていた。一つ目小僧はもうみえん坂に出ない――そう瑠奈に言われたが、蒼依はそれを隼人にまだ伝えていない。瑠奈と電話で話した、ということさえ伝えていなかった。

「大丈夫だって。みんなと一緒に買いものに行くんだから、単独になりっこないよ」

 そう言って、蒼依は車から降りた。

 雲一つない青空だった。

「なら、いいんだ。じゃあ、行くからな」

「うん、いってらっしゃい」

 蒼依がドアを閉じると、隼人の愛車は走り出し、みえん坂を下っていった。

 とたんに、重い空気に蒼依は包まれてしまう。まるで審判の日が来てしまったかのようだ。今日の夕方のイベントも煩わしいが、それ以上に、瑠奈の揺るがない決意が悩ましかった。その決意とはすなわち、美羅たちに直接的な警告を与えることである。

 いつもの登校時間より一時間も早い。それでもちらほらと生徒たちの姿はあった。

 蒼依はスクールバッグを左肩にかけ、正門をくぐった。

 思うように足が前に進まない。いつもより確実にペースは低かった。

 教室に入ってみると、まだ誰も来ていなかった。

 淀んだ空気が満ちている、そんな気がした。

 自分の机にスクールバッグをかけた蒼依は、外に面したすべての窓を開けた。

 それでも、淀んだ空気はまだ流れていない。その淀みの中に、悪意さえ感じてしまう。

 校庭の先、正門のほうを見た。

 何人かの生徒たちの姿があった。

 その後方に、一人で歩いてくる女子がいた。

「瑠奈」

 口走った蒼依は、数歩、あとずさった。

 体が震えていた。

 もしかすると、早朝の教室で瑠奈と二人きりになってしまうかもしれない。

 むしろそれはチャンスである、ということはわかっていた。瑠奈の無謀な決意を思いとどまらせる絶好の機会である。

 これは偶然ではない。こうなることは予測していたし、心奥では期待していたはずだ。

 しかし、蒼依の体は、現に震えている。

 何分ほどそうして立ち尽くしていただろう。

 蒼依は振り向いた。

 教室の右端の列、その一番前の席に目をやる。

 瑠奈がスクールバックを右肩にかけたまま、彼女の席の前に立っていた。

「あの……瑠奈、えっと……」

 口ごもる蒼依を、瑠奈は立ったまま見つめている。

 やがて瑠奈は蒼依から目を逸らすと、スクールバッグを机にかけ、席に着いた。

 蒼依は意を決し、瑠奈の席に近づいた。

「瑠奈、おはよう」

 平静を装って声をかけた。

 机の上を覗くと、現代国語の教科書とノートが出してあった。一時限目の授業の準備が、すでに整っている。

 瑠奈が振り向いた。

「おはよう。蒼依、考え直してくれた?」

 表情は険しい。

「怪奇スポットへ行くこと?」

 聞き直すのはマイナスファクターであろう。言葉にしてから後悔した。

「やっぱり行くつもりなんだね」

 失望した様子の瑠奈は、正面に向き直り、視線を落とした。

「そう……なんだけど」蒼依は口ごもり、そして言葉を繫ぐ。「それよりさ、美羅たちに直接言うの、やめようよ。瑠奈が美羅たちの標的にされちゃうんだよ」

「それがどうしたっていうの?」

 視線を落としたまま、瑠奈は返した。

「どうしたもこうしたもないよ。ひどい目に遭わされるんだって。お願いだから、そんなことやめてよ」

 気づけば必死に嘆願していた。

 あの頃の出来事が、走馬灯のように浮かぶ。


 神津山第二高等学校に入学したばかりの頃の蒼依は、充実した高校生活を瑠奈とともに送るのだ、と信じて疑わなかった。これまでと変わらず、楽しい毎日が続くはずだったのである。

 一学年――高校生活のスタートで、蒼依は瑠奈と別のクラスになってしまった。残念ではあったが、授業以外の時間であればいつでも会えるのだ。特に障害があるとは感じなかった。

 一方、美羅をリーダー格とする三人は、まとまって蒼依と一緒のクラスになった。蒼依と瑠奈が杉岡すぎおか中学校出身であるのに対し、美羅たち三人は坂萩さかはぎ中学校出身だった。一見すると三人とも人当たりがよく、蒼依はすぐに彼らと親しくなった。瑠奈も最初のうちは蒼依とともに三人と付き合っていた。五人は皆、今と同様に部活には所属していなかったため、放課後は一緒に下校した。その当時の美羅と祐佳は瑠奈を仲間として認めていたらしく、彼女を「瑠奈」と下の名前で呼んでいたほどである。もっとも、瑠奈は一歩引いた感じであり、吉岡を含む三人の名前を現在と同様に姓で呼んでいた。

 そして間もなく、瑠奈は美羅たち三人を避けるようになった。同学年の比較的おとなしい生徒たちに対して威圧的な言動を繰り返すこの三人に愛想が尽きたらしい。これを契機に、瑠奈と三人との間に軋轢が生じたのである。

 二学年に進級すると事態はさらに悪化した。吉岡と祐佳はともに二組になったが、蒼依と瑠奈、美羅の三人が、揃って一組になってしまった。美羅がいるのでは、近くにいる瑠奈を無視しなければならない。しかもあろうことか、くじ引きで決めた席であるはずなのに、蒼依と美羅は隣同士になってしまったのだ。そのくじ引きには美羅の裏工作があったらしいが、蒼依には暴く勇気などなかった。暴いたところで事態は何も改善されなかっただろう。

 他校の不良グループとの繫がりを持つ三人は、神津山第二高等学校の同学年の間で幅を利かせていた。それでも瑠奈に対してあからさまないじめをしなかったのは、瑠奈の母が土地の顔役だったからである。とはいえこの三人は、蒼依を仲間として手放さず、瑠奈に近づこうとする生徒たちには睨みを利かせ、結果的に瑠奈を孤立させてしまった。

 蒼依はあらがえなかった。この三人に刃向かえば学校での生活が苦しくなるだろう。そう、瑠奈と同じように――。

 瑠奈との電話やメッセージでのやり取りも、今ではなくなってしまった。昨日の電話は、実に二カ月ぶりである。


 だが――。

 今日が転機になるかもしれない。

 再び、瑠奈が蒼依に顔を向けた。

「蒼依、野村さんが怖い?」

「美羅は……」

 言葉が紡げず、小さく頷き、思いを伝えた。

 瑠奈も頷く。

「だったら、蒼依は何もしなくていいよ。いつもと同じにしていて」

 表情は和らいでいるが、それでも深刻そうな趣だ。

「どういうこと?」

 わけがわからず、蒼依は尋ねた。

「蒼依の気持ち、よくわかったから、あとはわたしがやる」

「あたしは、よくわからない」

 正直に伝えた。重要なことである。わかるように伝えてほしかった。

「いつもと同じように、蒼依は野村さんたちと付き合うの」瑠奈は言った。「そして放課後、上君畑に行く段階になったところで、わたしが野村さんに言うよ。そこに行ってはいけないことや、いじめをやめてもらうことも。蒼依は黙っていてね。わたしがなんとかするから」

「だから、そんなことをしたら、瑠奈が大変な目に遭うんだって」

 話が巻き戻ってしまった。どうしてわかってくれないのか――蒼依はやけになっていた。

「わたしは蒼依を守るの」

 瑠奈の瞳がまっすぐに蒼依に向けられていた。

 その瞳が、蒼依を射すくめる。

「蒼依にとって野村さんが怖い存在なら、わたしがなんとかする」

「どうしてそこまでするの? 瑠奈は、どうしてそこまで……」

「わたしは蒼依の友達だから。何があっても、わたしは蒼依の味方なんだよ」

 蒼依は息を吞んだ。そして隼人の言葉を思い出す。

 ――おれは蒼依の味方だ。

 隼人のその言葉と瑠奈の言葉とが、束になって蒼依の胸に突き刺さった。

「さあ、早く自分の席に戻って。一緒にいるところ、見られちゃうじゃん」

 瑠奈は言うと、机に顔を向け、教科書とノートを開いた。

 黙して頷き、蒼依は瑠奈に背中を向けた。

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