第1話 迫る小僧 ②

 いつものように午前六時に起床した隼人は、ナイロンジャケットとジーンズを身に着け、一階に降りた。念のため、行人の寝室である一階の和室を覗いたが、布団はすでに片づけられていた。

 和室をあとにし、リビングダイニングキッチンに入った。毎日の朝食は各自が適当にトーストなどで済ませており、今朝の隼人も、脳裏に浮かべていたのは、トーストとコーヒーだった。

 ふとテーブルに目をやると、一枚のメモがあった。それを手にし、横書きの短い文に目を通す。

    *    *    *

 今日の夕飯は酢豚にしろ。肉は素揚げにしてある。野菜もカットしておいた。サラダ用の野菜もな。全部冷蔵庫に入れてある。

 父より

    *    *    *

 夕食の下ごしらえは朝のうちに済ませておく、というのが空閑家の習慣だ。とはいえ、それはあくまでも当番がすることである。当番外の者が下ごしらえをするなど、異例中の異例だ。しかも、何かにつけて家事を避けようとする行人がそうしたのだから、隼人が憮然とするのも無理はない。

 階段を降りてくる音がした。

「おっはよ」

 入ってきた制服姿の蒼依が、陽気な声を上げた。

「おはよう。蒼依、読んでみろ」

 隼人が突き出したメモを蒼依は凝視した。

「何これ? えっと……マジ? お兄ちゃん、ラッキーじゃん!」

 そして彼女は、肩に提げていたスクールバッグをテーブルチェアにかけると、そそくさと冷蔵庫を開けた。

「本当だ。ちゃんと用意してある」

「おやじ、だいぶ早く起きたんだろうな」

 そう言って、隼人はメモをテーブルに置いた。

「うん、早かったよ」冷蔵庫のドアを閉じた蒼依が、隼人に正面を向けた。「五時前だったな、お父さんの車が出ていく音がしたのは」

「五日も留守にするから……てゆーか、昨日の夕飯で雰囲気を悪くしていたから、その埋め合わせなのかもな」

「そうかもね」

 苦笑して、蒼依は肩をすくめた。

 そこでようやく、隼人は違和感に気づいた。

「そういや、立ち直りが早いな」

「え、あたし?」

 きょとんとした表情を見て、隼人は啞然とする。

「おまえしかいないだろう」

「早い、って……もう一晩経ったんだよ。立ち直って当然じゃん」

「当然……なのか?」

 次元の違いを感じた。もっとも、それが蒼依らしいところなのだろう。

「ところでさ、今日は雨なんだよね」

 不意に話題を切り替えられ、返す言葉に戸惑う。

「えっと……そうだったっけ?」

 起床直後にスマートフォンでメッセージの有無をチェックしたが、ホーム画面の天気予報までは注意が向いていなかった。

「まだ降っていないけど、空はどんよりとしているよ」

 磨りガラスの外を気にするそぶりを見せながら、蒼依は言った。

 確かに、自分の部屋から見た今朝の窓の外には、青空はなかったような気がした。ならば――と隼人は問う。

「本当にいいのか?」

「何が?」

「車で送ってやらなくてさ。雨が降るんなら、歩いていくのはしんどいだろう」

 くどいとは思ったが、できることなら考えを変えてほしたかった。

「大丈夫だよ。みんなとも待ち合わせしているし」

 すなわち、これ以上の介入は無粋ということだ。

「ならいいんだけど」

「でも少し早めに出ようかな。できれば降り出す前に学校に着きたいもんね。みんなに連絡しておこうっと」

 蒼依は言うと、テーブルチェアにかけてあるスクールバッグからスマートフォンを取り出した。

「じゃあおれは、パンを焼こうかな」そして隼人は、蒼依に問う。「何枚食べる?」

 空閑家では食パンをブロックで購入している。無論、焼く前に切らなければならない。

「あたしのぶんも焼いてくれるの?」

 スマートフォンから顔を上げ、蒼依は目を丸くした。

「下ごしらえの手間が省けたし、それに……」

「それに?」と先を促されたが、言葉が見つからなかった。蒼依を歩かせること――それ自体に負い目を感じているのだ。そのための埋め合わせである。しかし、蒼依にとって無用の気遣いなら、この負い目はかえって蒼依の負担となるだろう。

「いや、なんでもない。それより、何枚にするんだ?」

「えっとね、厚切りで三枚!」

「食いすぎだろう」

「おなかぺこぺこ。もしかして、足りなくなっちゃう?」

 尋ねられて戸棚を開けてみれば、丸ごとの一斤がビニール袋に入った状態で置いてあった。

「まだあるよ。わかったわかった。オーダー、厚切りで三枚な」

 食欲があるのなら大丈夫だろう。確かにいつもの蒼依である。

 食パンをビニール袋ごと調理台の上に置いた隼人は、調理台下の収納からまな板を取り出した。

「お兄ちゃん」と背中に声をかけられ、隼人は振り向いた。

「ん、どうした?」

 スマートフォンを片手に持ったまま、蒼依が顔をうつむかせている。

「瑠奈のこと」

「うん」と頷いて、蒼依の言葉に耳を傾けた。

「だらだらと済ますようなことはしないよ」そして蒼依は顔を上げた。決意が窺える表情だった。「これ以上は瑠奈のことを悲しませない。お兄ちゃんをがっかりさせることもしない」

「わかった」

 隼人がそう返して微笑むと、蒼依もにっこりと笑みを浮かべた。


 結局、家を出て五分と経たないうちに雨は降り出した。

 傘を持参していたためずぶ濡れにならずに済んだが、結果的には、車で送ってもらったほうがよかっただろう。ほかの仲間たちとは別行動になってしまったのだから。

 始業三十分前の二年一組の教室は閑散としていた。この時間、蒼依以外に来ている生徒といえば、男子ばかりが三人だ。彼らとは特に交流があるわけではない。気兼ねなく無視していられる。

 一番左の列――窓際の前から三番目の席で、蒼依は頬杖を突いていた。男子生徒たちのたわいない談笑を聞き流しつつ、二階のこの窓から校庭を横目で眺める。小雨に濡れた静かな光景が、とてつもなくうっとうしい。

 家を出る直前に美羅と交わしたメッセージを、ふと思い出した。

    *    *    *

 おはよう。

 雨が降りそうだから、早めに集まらない?

    *    *    *

 おはー。

 ごめん。

 今日はうちの近くのお店でお弁当を買っていくから、蒼依は先に行ってて。

 あとの二人も一緒にそのお店に行くからね。

    *    *    *

 わかった。

 教室で待っているよ。

    *    *    *

 小さくため息をつき、自分の心境を表しているかのような光景から目を逸らした。

 一番右の列――廊下側の列の最前席に、黒髪ロングストレートの少女が腰を下ろしたところだった。神宮司瑠奈だ。今朝の彼女は普段より十分も早い。

 隼人に誓った言葉を思い出した。

 仲間たち――美羅たち三人が教室に入ってくるまで、おそらくあと五分ほどの余裕があるはずだ。わずか五分だが、少しでも彼女と話がしたい。

 蒼依は立ち上がろうとした。

「蒼依、おはよう」

 背後から声をかけられ、上げかけた腰を落として振り向いた。

 そのポニーテールの少女は野村美羅だった。彼女の後ろには、吉岡よしおか拓海たくみ宮沢みやざわ祐佳ゆうかが立っている。

「あ……おはよう」

 動揺を隠そうとするが、声が上ずってしまった。

「どうしちゃったの?」

 問いつつ、美羅は自分の席――蒼依の右隣の席に着き、スクールバッグを机の脇にかけた。その美羅が、瑠奈のほうを一瞥する。

「なんでもないよ。思ったより美羅たちが早く着いたから、びっくりしただけ」

 蒼依は言い繕った。

「だってさあ」と口を尖らせた祐佳が、蒼依の席の前に立った。スクールバッグを所持していないところを見ると、自分の教室に寄ってきたらしい。時間に余裕があるということだ。「あの弁当屋さん、この雨にもかかわらず足を運んでやったのに、臨時休業なんだもん。そりゃあ、店で待たされないぶん、早く着いちゃうよ」

「いつものように購買部で買うことにしたんだ」

 美羅の席の前に回り込んだ吉岡が言った。彼も自分の教室に寄って荷物を置いてきたようだ。

「そうだったんだ」

 どうにか笑顔を作れたものの、蒼依は落胆していた。この状況では瑠奈に声をかけることは断念するしかない。

「例のイベント、蒼依に話しておこうよ」

 ウェーブのかかったセミロングを片手で撫でながら、祐佳が美羅を見た。

「そうだね」と首肯した美羅が吉岡を見上げる。「拓也は都合つくんでしょう?」

「ああ、おれはかまわないよ」

 吉岡は答えた。

「なんの話?」

 話が読めず、蒼依は美羅に尋ねた。

「さっき祐佳にね……」美羅は蒼依に顔を向けた。「祐佳の彼氏から電話があったの。来週の月曜日の夕方、みんなで怪奇スポットへ行かないか……って」

「怪奇スポット? てゆーか、祐佳って彼氏いたの?」

 蒼依が祐佳を見上げると、先方は思い出したように頷いた。

「蒼依には言っていなかったね。先月から付き合っているんだ。その彼氏、車を持っているから、怪奇スポットまで乗せてもらえるよ」

「運転免許があるっていうことは、大人の人なの?」

 重ねて尋ねると、美羅が笑った。

「二十代半ばのおっさんね」

「おっさんじゃねーし。つーか、ちょうどハ、タ、チ、だよ」

 ふてくされた顔で祐佳は反駁した。つけまつげがぴくぴくと震えている。

「それはいいんだけど、なあ宮沢、戸川とがわさんの車って何人乗れるんだ? 戸川さんだけじゃなくて、島田しまださんも来るんだぞ」

 マグショートをかき上げながら、吉岡は祐佳を見た。

 祐佳に代わって美羅が「ミニバンでね、七人は乗れるよ」と答えた。

「どうして美羅が知っているんだよ?」

 吉岡が美羅を睨んだ。

「あれえ……焼いてんの?」

 美羅にからかわれ、吉岡は頬を紅潮させた。

「別に焼いていねーし」

「無理しちゃってるー」

 美羅のその笑いに釣られたように、祐佳も笑う。

「この前ね、美羅があたしんちに来たとき、ちょうど昌裕まさひろも来ていたんだよ」

「なんだよ美羅。おれ、何も聞いていないぞ」

「そうだっけ?」吉岡の渋面を受けた美羅が、とぼけたように首を傾げた。「でも嬉しいな。やっぱりわたしは拓也に愛されているんだね」

 うなだれた吉岡は、言葉を失ったらしい。

「あのね」蒼依は軌道修正を試みる。「怪奇スポットの話は? てゆーか、心霊スポットではないの?」

「心霊スポット……違うなあ」祐佳が首を捻った。「出るのは幽霊じゃないからね」

 その言葉で蒼依は行人の剣幕や隼人との会話を想起する。

「まさか、妖怪とか……」

「そのまさかだよ」勘弁してくれと言いたげな表情で吉岡が答えた。「ダイダラボッチだかなんとか入道だかわかんないけど、巨大な妖怪が目撃されたところへ行くんだとさ。これも神津山の都市伝説、っていうわけ」

「妖怪が目撃されたところ……吉岡くん、それってどこなの?」

 蒼依は尋ねた。

上君畑かみきみはただよ、って言っても空閑にわかるかなあ」

「当然わかるけど、上君畑って、かなり山奥じゃん」

「だから車で行くの」美羅が蒼依を見た。「月曜の夕方、行ける? 家の用事とか忙しいのかな?」

「えーと……」

 順番から行けば、蒼依が夕食当番である。行人が帰ってくるのはその翌日の夜だ。美羅たちに付き合うのであれば、当日の夕食の支度は隼人に任せるしかないだろう。

「たぶん、大丈夫」

 この三人の誘いは断れなかった。蒼依を思いやる口振りであっても、所詮は強制なのだから。

「じゃあ、決まりだね。昌裕に電話するよ」

 祐佳はそう言うと、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。

「時間は戸川さんと島田さんの仕事次第だけど、待ち合わせの場所はショッピングモールのイートインにしようね」

 さすがにリーダー格だけのことはあり、美羅は即座に告げた。

 ふと視線を感じ、蒼依は目を向けた。

 瑠奈がこちらを見ている。もっとも、目が合ったのは、ほんの一瞬だった。蒼依が目を逸らすより先に、瑠奈が正面に向き直る。

「あ……」

 意図せず声を漏らしてしまった。

「え、何?」

 美羅に見つめられ、蒼依は再度、言い繕う。

「あくびをしたの」

 眠そうに目をこすってその場をしのいだ。

 少なくとも今は、隼人との約束は果たせそうにない。機会を窺うより手立てはないだろう。

 ――どうしてこうなってしまったの?

 時間を戻してほしい、と願った。この神津山第二高等学校に入学したあの頃に――瑠奈と笑い合っていたあの頃に戻りたかった。


 東京の本社を中心として各事業所を日本各地に配置しているタゴシマ製作所だが、それでも製造業としては中堅規模の企業だ。そんなタゴシマ製作所の中にあって、ここ神津山工場は二百名ほどの従業員を抱える主力事業所であり、ボルトやナット、フランジ、シャフトなど、機械部品を製造している。

 その製造現場で隼人は加工機械オペレーターとしての職務に従事していた。高卒で入社し、二年が経過したばかりである。油にまみれるのが好きなわけではないが、この地で生きていくために自分にできること、を選んだだけだった。

 薬品のような刺激臭は切削油のにおいだ。顔をしかめつつ、NC旋盤のスイッチを入れた。これで五分は手が離せる。休憩時間まであと数十秒、というベストタイミングだ。

 場内のあちこちでヴァイオリンの高音域のような音が鳴り響いていた。加工機械の稼働音と金属を切削する音との二重奏である。においだけならまだしも、この音が加われば、大概の人間は気が滅入るはずだ。

 隼人はそんな悪環境に慣れ始めていた。とはいえ、鼻と耳が麻痺しているに違いなく、決して健康的な状態とは言えないだろう。

 午前十時の休憩に入るチャイムが鳴った。

 作業服に作業帽子の従業員たちが、それぞれの憩いの場へと向かってぞろぞろと移動する。うち二割ほどは女性従業員だ。

 隼人の所属する班は、この工場では最小となる四人体制だ。そのうえ男ばかりの集まりであり、色気も素っ気もない。だからこそ、活気ある職場にしようと、日々、メンバーは一丸となって善処している。しかし今日に限っては、その活気がまったくなかった。班長は会議に出向いたきりまだ戻っておらず、副班長に至っては有給休暇である。

 二歳年上の杉本すぎもととともに、隼人は自分たちの詰め所に入った。「詰め所」といっても、壁や衝立で仕切られているわけではない。加工機械に囲まれた五メートル四方ほどの空間に、事務机と回転椅子のセットが一組と、簡素なベンチが二つ、大きなステンレス製の棚が一つ置かれているだけである。

 はめ殺しの窓の外を見ると、相変わらずの小雨だった。この天気のためか、昨日よりわずかに涼しい。

「最近は夜勤がないな」

 ベンチに腰を下ろした杉本が口火を切った。

 隼人は「そうですね」と答え、杉本の隣りに腰を下ろした。そして上半身をよじり、後ろの棚から自分の水筒を取り出す。

「来月も夜勤はないらしいぞ。どこの班もな」

 杉本は言うと、作業服の胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出した。

「マジですか? 部長や課長の顔を見なくて済むから、夜勤のほうが気楽でいいのに」

 落胆しつつ、ふた兼用のカップに冷たい麦茶をそそいだ。

「それに夜勤は、金になるしな」

 杉本は笑い、煙草に火を点けた。

「そういや、先月辺りから残業も減りましたね」

「休日出勤も当分はないらしいぞ」

 煙草の箱とライターをポケットに戻した杉本は、思い出したように後ろの棚から金属製の灰皿を取った。そして、自分の足元に置いたそれに煙草の灰を落とす。

「暇になるなあ」

 隼人がそう言うと、杉本が大仰に肩を落とした。

「なんだよそれ。空閑は趣味とかねーのか?」

「趣味……」鉄骨が縦横に走る高い天井を、隼人は見上げた。「アクション映画を見るくらいかな」

「アクション映画ねえ」

 気抜けした声がこぼれた直後に、煙が漂ってきた。煙草のにおいを厭う隼人は、気づかれぬように煙から顔を逸らす。

 この職場で喫煙しないのは隼人だけだ。いつもならもう一つのベンチを用意し、その端に座って煙から遠ざかるのだが、二人だけという現状では気を配らざるをえない。

「新車を手に入れたんだし、ドライブでも行ったらいいじゃん」

 そう提案してもらったが、隼人は訴える。

「新車でも、軽ですよ」

「グレードは一番上だったじゃないか。十分だろう」

「そうですけど……」と返し、カップの中身を一気に飲み干した。

 愛車である軽トールワゴンを購入してほぼ半年だ。しかし隼人は、まだ一度も、その車で市外に出かけていない。

「近場で済ますなら」杉本は言った。「肝試しとか、いいかもよ」

「肝試しって、廃墟や墓場を巡る、あれですか?」

「流行っているじゃないか、神津山ではさ」

「肝試しが? おれは聞いたことないですよ。まあ、神津山の都市伝説なら、何度か耳にしていますけど――」

 言葉を切った隼人は、空のカップを持ったまま杉本を睨んだ。

「なんだよ」

 のけ反った杉本は、くわえていた煙草を床に落としてしまった。

「すみません」

 隼人は詫びるが、杉本は右手を軽く横に振る。

「いいよ、気にするな」

 煙草を拾った杉本は、足元の灰皿の中でその火を揉み消した。

「で……」と杉本は隼人を見る。「何を言おうとしたんだ?」

「はあ。杉本さんは神津山の都市伝説をどう考えているのかな……って」

「神津山の都市伝説といえば、神隠しがあったとか妖怪が出たとか、だろう?」

「はい」

 隼人が肯定すると、杉本は真顔になった。

「確かに、失踪は多いみたいだな」

「多い?」隼人は目を丸くした。「多発しているんですか?」

「ああ」杉本は頷いた。「うちのおやじの知り合い……独り暮らしのばあさんも、つい最近、行方不明になったんだよ。しかも、貴重品が自宅にそのまま残されていたらしい。神津山で失踪した人ってかなりの数らしいけど、みんなどこへ行っちゃったんだろうな」

 暗然とした双眼が宙を見つめていた。

「かなりの数なら、警察だって指をくわえているわけじゃないんでしょうけど。それにしても、神津山で失踪が多いだなんて。失踪だか神隠しがあるっていうのは最近になって耳にしましたけど、だって、新聞にさえ出ていないんですよ」

「そういや」杉本は隼人に顔を向けた。「テレビの取材班が神津山に来たっけな。多発する失踪事件を取材したんだよ」

「そんなことがあったんですか?」

 初耳だった。

「ああ。二カ月前……三月の中頃だったな。おれの友達がインタビューを受けたんだ。翌日の夕方のニュースでやる、ってそいつが言うから録画しておいたんだけど、結局、そのニュース番組では神津山の失踪事件について一言もふれなかったな」

「取材しておいて放送しないだなんて、なんだか変ですよね」

 神津山の都市伝説――妖怪や神隠しの記事がインターネット上から削除されている可能性があるのと関連があるのかもしれない。

 隼人は薄ら寒さを覚えた。考えるまでもなく、この寒さは気温のせいでなければ年のせいでもない。

「まあ、テレビ局の都合で割愛されたのかもしれないけどさ」

 そう言って杉本は苦笑した。

 もっともな意見だろう。隼人は「はい」と頷いた。さまざまな不思議は、そのような瑣末な要因が重なって生じるのかもしれない。

「それにさ」杉本は話を繫いだ。「インタビューを受けたその友達は、失踪事件には妖怪が関係しているかもしれない……なんて言っちまったそうなんだ。だから……テレビ局のスタッフが呆れちゃったのかもしれないよな。もっとも、そいつの失言した部分だけを編集すればいいんだろうけど」

「やっぱり、杉本さんも妖怪は存在しないと思いますか?」

 常識的に考えれば尋ねるほうがおかしいのだろう。

「そりゃあ、妖怪を見ただなんて、ガセだろうよ。で、ガセと承知しつつ、都市伝説だ妖怪だ……って騒いで喜んでいるわけよ。特に中学生とか高校生はな」

 それは空閑家の現状でもある。できることなら、杉本の意見を受容したかった。そして、自分が見た何かは幻だったのだ、と再認識したかった。

「まして」杉本は続けた。「ろくろ首や化け猫だぜ。幽霊を見たっていう話ならわからないでもないけど、妖怪ではリアリティに欠けるじゃん」

 リアリティに欠ける何かを見た隼人には耳の痛い言葉だ。それでも、とりあえず相槌を打っておく。

「そうですよね」

「でも、その妖怪が実は未確認生物だった、としたらリアリティはあるかもよ」

 へらへらと笑いながら杉本は付け加えた。

「未確認生物……UMAユーマですか……」

 話が超常現象の王道にふれたところで、隼人は口をつぐんだ。

 隼人にとって神津山の都市伝説など普段から意識の外にあったのだから、たとえ見えたものが幻覚だったにせよ、「妖怪」というキーワードに影響されたとは考えにくい。UMAに至っては頭の隅にもなかったくらいだ。ならばなぜ、なんの前ぶれもなくあんなものを立て続けに二度も見てしまったのだろう。やはり現実だった、ということなのだろうか。

 ふと、疑念を抱いた。

 本当になんの前ぶれもなかったのか、と。


 定時で仕事を終えた隼人は、愛車でまっすぐに帰宅した。行人の車のない一台きりの広々とした駐車スペースでエンジンを切る。もっとも、定位置は外さない。

 腕時計で時刻を確認すると、午後五時二十八分だった。帰宅時間としてはこれまでで一番早いだろう。

 玄関をくぐってすぐに、リビングダイニングキッチンを覗いた。すでに夕食の支度が整っている。無論、行人の食器は用意されていない。

 制服にエプロンの蒼依が、シンクで調理器具を洗っていた。

 半開きにしたドアから上半身だけを入れ、蒼依の背中に「ただいま」と声をかける。

「あ……お帰りなさい」

 蒼依は蛇口の水を止めて振り向いた。

「今日はおれが作るはずだったろう」

 隼人が感嘆すると、蒼依はタオルで手を拭きながら苦笑した。

「下ごしらえはしてあったし、あたしが帰ってきたのが早かったから」

「そうなのか。じゃあ、すぐに手を洗ってくるよ」

「お兄ちゃん」

 立ち去ろうとした隼人を、蒼依は呼び止めた。

「うん?」

「あたしね、来週の月曜の夕方はちょっと遅くなるの。だから、その日の夕食当番をお願いしてもいいかな? お兄ちゃんが早く帰れたら、でいいんだけど」

 恐縮した様子だった。

「今日の夕飯の準備をしているのは、それもあってか?」

「まあね」

 蒼依の苦笑を受けて、隼人は言う。

「いいよ。月曜もたぶん定時だし。でも蒼依の帰りは、かなり遅くなるのか?」

「うーん、わかんない。友達と買い物に行くんだけど、なるべく早く帰ってくる」

「なら時間なんて気にしないで行ってこいよ」

 その言葉に蒼依は「うん」と頷く。

 ふと、隼人は蒼依の浮かない表情に気づいた。

「どうした?」

「あのね、瑠奈のことだけど、まだ何も進展していないんだ。今日は話す機会が見つけられなくて」

「慌てることないよ。それに学校じゃ、あいつらもいることだし、話しづらいだろう。電話で話すとか、休みの日に会うとかさ」

「そうか……それもそうだね」

 あえかな笑みを浮かべた蒼依は、タオルをハンガーにかけると、背中を向けて再び調理器具を洗い始めた。

 すっきりしない気持ちのまま、隼人は上半身を引っ込めてドアを閉じた。


 夕食の席に着いた蒼依は、浮かない表情だった。さすがに、そんな彼女に声をかけるのはためらわれてしまう。

 そしてほとんど会話のないまま、夕食は済んだ。

 二人で進めた片づけが済むと、隼人はリビングのソファーに腰を下ろした。そして、キッチンの壁に据えてあるスイッチで風呂の湯沸かしを作動させた蒼依に、声をかける。

「ちょっと話してもいいか?」

「うん」

 答えた蒼依は、エプロンをダイニングチェアにかけ、隼人の向かいのソファに腰を下ろした。

「話って、瑠奈のこと?」

 顔色を窺うような視線で蒼依は尋ねた。

「違うよ。神津山の都市伝説について」

 隼人が答えると、蒼依は得心したように頷いた。

「そういえば、あの話、まだ終わっていなかったもんね」

「今日は神津山の都市伝説の話題を取り上げても大丈夫か? さっきの夕飯も辛気くさい雰囲気だったけど」

「なんとなく憂鬱、っていうのは事実だけど、都市伝説の話題は平気だよ」

 特に陽気な表情ではないが、沈んでいるようにも見えない。

 隼人は安堵し、口を開く。

「ネットで神津山の都市伝説について検索してみたら、ろくろ首や化け猫といった妖怪が出たとか、神隠しがあったとか、ネットにアップした神津山の都市伝説が削除されているとか、そんな話題を見つけたんだ。でも、関連した記事の件数は四件しかないし、たいした情報は得られなかった。ただ、今日、会社で先輩から聞いたんだけど、神津山で多くの人が失踪しているのは事実らしいな」

 自分が提供できる情報はその程度だった。もっとも、蒼依から有用な情報を得るための余興ではある。

 隼人の言葉に関心を持ったのか、蒼依は小刻みに頷いた。

「お兄ちゃんの言うとおり、神津山市内で不意に人がいなくなるっていうのは、多いみたいだね。月に十人以上が行方不明になっているんだってさ。その行方不明者には、神津山に住んでいる人だけじゃなくて、市外から神津山の職場や学校に通っている人や、買い物や遊びで神津山に来た人なんかも含まれているらしいの」

「でも、神津山で行方不明者が多い、っていうニュースは見たことも聞いたこともないんだ。会社の先輩には申し訳ないけど、その話もただの噂じゃないのか?」

 だが蒼依は、首を横に振る。

「この大島団地でも、東の外れのほうで、一家全員が失踪した事件があったじゃん」

「あ……」隼人はうなった。「老夫婦と息子夫婦、生まれたばかりの赤ん坊……一家五人が、今年の正月早々、近所の誰にも気づかれずにいなくなった、っていうやつだったな」

 この近隣の噂では、その失踪事件は夜逃げということになっていた。しかし、車や家財道具、貯金通帳、貴金属類が、そのまま残されていたらしい。いずれにしても隼人の知る限りでは、その事件も報道されていない。

「あたしが知っている実際にあった神津山市内での失踪事件は、それだけじゃないんだ。神二高の生徒も、去年から今年にかけて、二人も失踪しているんだよ」

「おれは初めて聞くぞ」

「どっちの事件も、校内では有名だよ」蒼依は続ける。「一人は男子生徒で、あたしの二つ上の先輩。半年前……去年のことだけど、この先輩は交際中の彼女とのデート中、バス停でバスを待っている間に姿が見えなくなったらしいの。一緒にいた彼女が気づいたときには、どこにもいなかったとか。もう一人は三カ月前で、あたしの一つ上の女子生徒。この先輩は家族で近場の店に買い物に出かけたときに、店の駐車場でいなくなっちゃったの。しかも、先輩の妹も一緒にいなくなっちゃったんだよ。近くにいた両親が気づいたときには、先輩と妹の姿はどこにもなかったんだってさ。どっちの事件も、いなくなった人はまだ帰ってきていない」

「その二つの事件も新聞に載らなかったんだろう? まあ、ただの家出なら事件っていうほどでもないんだろうけど」

「家出なら報道されなくたっておかしくはないかもね。でも……」

「うん」と隼人は話を繫ぐ。「その二つの事件とも、失踪したときの状況が蒼依の話したとおりなら、ただの家出とは思えないな」

「つまり、報道規制があるのかもしれない、っていうことでしょう? 原発問題が絡んでいたりしてね」

「なんだよ、それ」

 蒼依の意図が読みきれず、隼人は訝りの声を漏らした。

「神津山の都市伝説……神隠しも妖怪も、それらの噂が広まったのは半年くらい前からだけど、実際に神津山で失踪する人が増え始めたのは、平成二十三年の四月頃なんだとか」

「平成二十三年の四月……っていうと、震災の直後だな」

 自分が小学六年生だったあの日――卒業式を一週間後に控えたあの日を、隼人は思い出した。激しく揺れる教室、床に落ちて割れる花瓶、泣き叫ぶ女子児童たち――。

「あのときの原発事故が関係しているのかもしれないよ」蒼依は表情を険しくした。「この辺にだって放射性セシウムが飛んできたじゃない」

「それを憂慮して失踪したとか? 失踪事件のすべてが家族ぐるみの夜逃げならわからなくはないけど、その家族の一人か二人だけが行方不明の場合だってあるんだろう? 家族を置いて逃げ出すなんて考えられないよ」

「そうじゃなくて……放射能の影響で体に異常が生じて、秘密裏に隔離されたとか。だから、報道規制があったのかも」

 蒼依のその言葉を受け、隼人は危惧する。

「放射能の影響……って、友達の間で話題になっているのか?」

「ううん。今、思いついたの」

「一応、言っておくけど……そういう話が流言飛語の元になるんだぜ。いらぬデマのせいで重大な損害を受けた人たちだっているじゃん。だから……な、それはここだけの話にしておけよ」

 やんわりと警告した。

「そうだね……気をつける」

 蒼依は肩をすぼめてうつむいた。

 もっとも隼人は、その殊勝な様子を見て安堵する。

「まあ、それはいいとして……震災の直後から失踪者が増えているんなら、原発事故と何かしらの関連はあるのかもな」

 隼人が仕切り直すと、蒼依は顔を上げた。少しは気が紛れたらしく、表情は落ち着いている。

「失踪事件……てゆーか神隠しには、関連していそうなことが、ほかにもあるよ」

「ほかにも?」

「蒸し返すようだけど、妖怪を見たっていう噂、だよ」

「神隠しと妖怪……この二つの都市伝説は相互関係にある、っていうことか?」

 神津山の二つの都市伝説は、どちらも不気味な趣を持っている。だが、おのおのが関連し合っているなど、隼人には思いも寄らなかった。

 蒼依は暗色の表情で答える。

「神津山市内で妖怪を見た……なんて掲示板やSNSに投稿している人の多くが、その直後に行方不明になっているんだよ」

「昨日の夜に聞いたやつだな」

 未だに妖怪は信じられないが、蒼依の話にわずかながら信憑性を感じてしまう。

「しかも」蒼依は続けた。「そういった文章がさ、しばらくすると削除されているんだって。文章だけじゃなくて、投稿した人のアカウントまで消えていることもあるらしいよ。掲示板ならスレッドごと消えている、とか」

「それじゃ証拠がないじゃん。真相は闇っていうやつか?」

「でもね、神津山の都市伝説の記事を載せたブログなら、あたしだって見たことがあるんだよ」

「蒼依が見たのか?」

 隼人は目を見開いた。

「うん。先週の土曜日の朝、神津山に面白い話題はないかなあ、と思ってスマホで検索していたら、その記事に気づいたの」

「どんな内容だった?」

「記事を書いたのは、市内に住んでいるサラリーマンの男の人だよ。近くのコンビニに行こうとして夜道を一人で歩いていたら妖怪に遭遇した、って書いてあった。その妖怪、化け猫なのかなあ……人間のような姿なんだけど、顔が猫みたいだったらしいの」

「神津山で猫の化け物を見たっていう話は、SNSにもあったな」

 そして隼人は、自分が見た異形を想起した。

「でもね、そのブログに画像はなかった。記事を書いた男の人は、怖くて写真なんて撮るどころじゃなかったんだって。内容的にはそんなところなんだけど……」

「けど?」

「コメントをカキコしようと思って、一時間くらい経ってからもう一度アクセスしてみたんだ。でも、その記事だけが削除されていたんだよ。それに、その記事にはコメントが何件かあったはずなんだけど、コメント欄ごと消えていたから、どんなコメントがあったのかもわからなくなっちゃってさ。そしてそのブログ、以後は更新されていないんだ」

「そうなのか」

「神津山市内の失踪事件についても、妖怪の目撃譚と一緒で、ネットにアップするとすぐに消えちゃう場合がほとんどなんだとか」

「なんだか、きな臭いな」

 事態を見極められないだけに、不安は募る一方だ。

「うん。ネットも報道関係も、気味が悪いね」と告げた蒼依は、自分のスマートフォンの画面に視線を移した。「そのブログはブクマしておいたの。削除された記事は無理だけど、そのブログのほかの記事ならすぐに見られるよ。ちょっと待っていてね」

「ああ、頼む。もしかしたら更新されているかもしれないしな」

 しかし、スマートフォンを操作していた蒼依が、不意に表情を固くした。

「どうした?」

 そう尋ねた隼人に、蒼依はスマートフォンの画面を提示した。「404」のステータスコードが表示されている。指定したウェブページが見つからないのだ。

「ブログそのものが消えている」

 青ざめた顔で蒼依は訴えた。

「もうやめておこう。おれたちがあたふたしたってしょうがない」

 気が滅入るのは隼人も同じだが、できる限りの笑顔を作った。

「うん……」と頷いた蒼依は、スマートフォンをテーブルの上に置いた。

「蒼依、ごめんな。おれが都市伝説の話なんて持ち出したのが悪かったんだ」

 隼人は詫びるが、蒼依は首を横に振る。

「ううん、大丈夫だよ。全然平気」

 無理に作った笑顔であるのは、見て取れた。もっとも、無理な笑顔はお互い様である。

 話題を変えようと隼人が思案していると、蒼依が先に口を開いた。

「お風呂の用意、してこようかな」

「そうだな。それより、一人で入るの、怖くないか?」

「え?」

「なんだったら、一緒に入ってやるぞ」

 無論、本気ではない。しかし、蒼依の顔はたちまち赤く染まってしまった。

「いくらあたしがかわいいからって、実の妹に手ぇ出すなっつうの!」

「冗談に決まってんだろう。それに、かわいいとは一言も――」

「うっさい!」

 蒼依はスマートフォンを持って立ち上がり、大股でリビングダイニングキッチンを出ていった。

 日常が戻った、と隼人は感じた。

 そう信じたかった。


 休日の土曜日にもかかわらず夜明け前に目覚めてしまった。枕元の置き時計を見て、午前四時十二分であるのを知る。

 悪夢でも見たのか、妙に目覚めが悪かった。どんな夢を見たのか、覚えていない。

 ベッドの上で上半身を起こした。徐々に頭が冴えてくるとともに、現実に引き戻されていく。

 もう一度、あの場所で確認したい――そんな衝動に突き動かされ、ベッドから起き上がった。

 ライダースの革ジャンとジーンズに着替え、静かに部屋を出た。蒼依の部屋からは物音一つ聞こえてこない。詮索するまでもなく、寝ているはずだ。

 一階に下りて歯磨きと洗顔、トイレを済ませ、食事は取らずに玄関を出た。そして、エンジンをかけた愛車を、すぐに走らせる。

 蒼依に気づかれたかもしれないが、あとで説明すればよいだろう。

 団地内はどの家もまだ動きが感じられない。新聞配達とおぼしき一大のバイクとすれ違っただけだ。

 幹線道路に出てすぐ、交差点を北へと折れた。神津山第二高等学校のある台地へと向かう直線道路だ。道路沿いには外灯がなく、左右の水田は闇に吞まれている。さらなる周囲に点在する街灯の光さえ、その暗黒を打ち消すには至っていない。

 星空だった。昨日の天気がうそのようだ。東の空が、明るみ始めている。

 みえん坂に差しかかった。ヘッドライトの届かない林の奥は左右ともどす黒い闇だ。何が待ち構えていようとも、その存在を窺い知ることはかなわない。

 ゆっくりとみえん坂を上った。周囲に目を凝らすが、特に変わった様子はない。

 みえん坂を上りきり、台地の上に達した。

 神津山第二高等学校の正門前を通り過ぎたところで愛車をUターンさせた。そして再度正門前を過ぎて、ブレーキをかける。

 みえん坂の下り口はすぐ目の前だ。二体の異形が走り回っていた位置から五メートルほどの距離である。

 エンジンを切った。自動点灯のヘッドライトも同時に切られるが、東の空の明るみのおかげか、情景はなんとか認識できる。少なくとも、あの二体の異形は見当たらない。

 ――何かの見間違いだったんだ。あんなのが実在するわけがない。

 落胆とも安堵ともつかない気分だった。いずれにせよ、見間違いなら見間違いで、これ以上の詮索は無用ということだろう。

 母校の静まりかえった敷地に目を移した。

 白々とした朝日が、校舎のシルエットをわずかに浮かび上がらせている。

 在学中の隼人は、いわゆる問題児だった。理不尽な扱いを受けていると判断すれば、たとえ相手が教師であろうと一歩も譲らなかった。悪態をついたことなど数えきれない。

 もっとも、弱い者いじめだけはしなかった。不良ぶって周囲を威圧する者に対しては、断固とした態度で糾弾したほどだ。それでも相手が暴力で訴えるなら、こちらも暴力で返した。隼人のそれは徹底していた。相手が負けを認めるまで、何度も殴り、蹴った。実力行使で負けたことは、一度もなかった。近隣の他校の不良に名が知れるほど、隼人は強く、そして狂気じみていた。

 足音がした。

 隼人は我に返った。

 いつの間にか、周囲の景色が鮮明さを増していた。

 足音のリズムは早い。歩いているのではなく、走っているのだ。その足音が、徐々に大きくなってくる。

 走り回る二体の異形を思い出しながら、足音の主の姿を求め、周囲を見渡した。

 右のサイドミラーに、何やら動くものが小さく映っていた。それがどんどん近づいてくる。

 隼人は息を吞んだ。

 ミラーの中のそれが、朝日を背後に受けていた。その姿が認識できるまでになった。

 ジャージの上下で身を固めた初老の男だった。どうやらランニングの最中らしい。

 安堵の息を漏らした隼人は、正面に視線を戻した。

 愛車の正面、一メートルと離れていない位置に、半透明の小柄な姿が一体、立っていた。

「わっ」

 思わずのけ反ってしまった。もっと後方に上体をずらしたかったが、背もたれに阻止され、それ以上はかなわない。

 単眼の化け物だった。管のような部位の先端についた眼球が、隼人をじっと見つめている。口は耳まで裂けていた。両耳は通常の人間のものと比較して二倍ほどの大きさだ。脳や頭蓋骨、その他の内臓器官が見えた。もっともそれらすべての器官も透けているため、形状の詳細はつかめない。加えて、外皮やすべての内臓器官が、半透明であるにしろ、朝日をまったく反射していなかった。絵に描いた姿、のようだった。

 初老の男が隼人の愛車の右横に差しかかった。

 ほんの一瞬、眼球のついた管が初老の男のほうへと折れ曲がった。そちらに視線を移したらしいが、化け物の眼球の向きはすぐに隼人へと戻される。

 いずれにしても、これで一つ目小僧の目撃者は隼人以外にも存在することになる――はずだった。

 初老の男は半透明の異形に目もくれなかった。そのままみえん坂を下りていくが、逃げ去るというふうでもない。ペースを乱すことなく、淡々と走っている。

 目の前に見えている化け物は隼人の妄想なのか、もしくは、隼人には見えているが初老の男には見えなかった、ということになるだろう。

 異形ではあるが、背丈は小学生並みだ。力でこちらが負けることはなさそうだった。

 つかまえてやろう――そう思った。捕獲できれば、他人に見えなくてもその存在を証明することができる。妄想でないことが前提であるが。

 隼人はそっとドアを開け、おもむろに車外に出た。

 化け物の姿がなかった。

 慌ててドアを閉じ、車の前に移動した。

 しゃがんで隠れた可能性が考えられたが、そこにも化け物の姿はなかった。

 助手席側にも回り込んでみるが、やはりいない。

 そのまま車の周りを一周してしまった。

 子供の大きさなら可能かも、と思い、身を伏せて車の下を覗いたが、そこにも半透明の姿は認められない。

 車の前に立ち、みえん坂に正面を向けた。

「どこへ行っちまったんだ」

 妄想だとすれば、重傷である。「絶望」という文字が隼人の脳裏に浮かんだ。

 ひた、と音がした。アスファルトを裸足で踏みしめたような音だ。

 隼人は振り向いた。

 運転席側のドアの横に、半透明の姿が立っていた。見失ったばかりの、あの異形だ。

 ごくりとつばを飲み込み、隼人は身構えた。一瞬のうちに姿を見せなくするほどだ。油断をすればまた見失ってしまうかもしれない。

 その異変が何か、隼人が認識するまで五秒ほどかかった。

 化け物の胃と思われる臓器に色がつき始めたのだ。

 隼人は一歩、あとずさった。

 イリュージョンのような現象は胃だけにとどまらず、範囲を広げていった。腸などの臓器、骨、筋肉に至るまで、体を構成する部位に次々と色がついていく。半透明の状態よりも、このほうが個々のありさまを容易に認識できた。

 色のついた部分を注視する隼人は、それらの器官が人間のものとは色や形が異なるような気がした。人体について詳しいわけではない。それぞれの色合いが紫を基調としていたり、腸の容量に対して胃がやたらと大きかったり、骨の一本一本がこよりのごとくねじれていたり――そんな具合に見えたのだ。

 しかし、隼人に推量する時間はなかった。十秒ほどで、化け物は体表の全面にも色をつけてしまったのである。もはや体内の様子は窺えない。

 灰色の肌をした少年、といった感じだった。小さな生殖器が備わっている。だが、人間でないのは明らかだ。

 右の手先はまるで蛙のもののようだった。爪は存在せず、代わりにおのおのの指先が吸盤状になっている。左手に至っては、手首から先が地面にまで届くほどの長さの触手だ。

 極めつけは、その容貌だ。左右の耳介は巨大であり、外耳からは木の枝のようなものが数センチほど飛び出していた。節の並んだ管の先端についた眼球にはまぶたがなく、ソフトボール並みの大きさがあった。耳まで裂けた口からは、ずらりと並んだ鋸歯が垣間見える。

 色のついた体は、半透明の状態とは違い、日光を反射していた。光を受けている部分と影の部分が明確に分かれている。実在する物体である、と感じられた。

「あああ……がががががが……」

 うなるような声が、化け物の口から漏れた。

 左手の触手がくねくねとのたくっている。

 これをとらえよう、などという気は失せてしまった。

 車外に出たことを、隼人は後悔していた。

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