第7話 魔の山へ ②

 山林に覆われた高三土山が、緩やかな傾斜の稜線を左右に広げていた。それを目にすることができたのは、片側一車線の県道で上君畑の集落に差しかかった直後である。とはいえ、一也が「あれが高三土山か」とつぶやいてくれなければ、隼人は気づかなかったはずだ。

 風光明媚な高三土山だが、その姿は、すぐに鬱蒼とした山林に遮られてしまった。移動中の車から拝めたのは、ほんの数秒である。

 惨劇の現場に向かったときや、上君畑小学校からパトカーで移送されたときも、隼人はこの高三土山の存在に気づかなかった。加えて、標高七百九十八メートルの高三土山であっても、いくつもの山に囲まれており、市街地からもその全貌を望むことはできない。神津山市に住んでいる隼人だが、高三土山を目にしたのは、今の数秒間が初めてである。

 高三土山が視界になければ、よくも悪くも代わり映えのない山里の風景――田畑の間に民家が点在する単調な風景が、延々と続くばかりだ。人の姿はほとんどなく、たまに見かけても、決まって高齢者である。走っている車など一台も見当たらない。

 軽自動車は上君畑の集落で県道を離れた。北へと延びる舗装路をひた走る。高三土神社の案内板などは見当たらないが、一也はカーナビで道を確認しているようであり、運転は円滑だった。

 右へ左へと、緩いカーブが連続した。道の両側は山林であり、民家は見当たらない。車がどうにか擦れ違える程度の舗装路だが、今のところ、車は一台も擦れ違っておらず、後方にも車はなかった。

 音楽もラジオもかけていなければ、いつの間にか会話もなくなっていた。重い空気が漂っているだけだ。

 集落から離れて五分ほど経ったころ、道の左に空き地が見えてきた。道自体はさらに先へと延びているが、一也は軽自動車をその空き地へと乗り入れた。

 雑草が多いものの、砂利が敷き詰められており、駐車場として使われていたことが窺えた。テニスコート二面ぶんはありそうだ。軽自動車はその空き地の奥でエンジンを止めた。

 隼人と一也は軽自動車から降り、ドアを閉じた。

 アウトドアジャケットにジーンズの一也は、トレッキングシューズを履いていた。この風景に馴染む出で立ちであり、意気込みを感じさせる。それだけに、隼人は危惧を抱いてしまう。

 見渡す限りの杉林だが、空き地の奥――西側の杉林は、林床が緩やかな傾斜で立ち上がっていた。どうやら高三土山の裾らしい。そして前方の杉林の外れには、五メートルほどの高さの木製とおぼしき赤い鳥居が立っていた。

「こっちだ」

 そう言って、一也は鳥居を指差した。

 隼人は決意し、口を開く。

「一也、聞いてくれ」

「帰れ、なんて言うなよ」

 一也は眉を寄せた。

「そうじゃないんだ。蒼依を連れ去ったやつは、とても危険な男なんだ」

「どういうことだよ?」

「あいつは廃工場にいたやつなんだ」

「やっぱりな……そういうことだと思っていたよ」

 呆れたように一也は肩を落とした。

 立つ瀬がないが、隼人は言う。

「おれが目撃した化け物たちを、やつは使っているんだ」

「つまり、神津山の都市伝説にそいつがかかわっている、っていうことか?」

「そうだ」

 隼人は頷いた。

「おれたちが最初に予想していたとおりだな」そして一也は、隼人を見つめる。「どうして、さっきはそれを否定したんだよ?」

「それを知ってしまうと、例の特殊部隊に拘束されて、記憶を消されてしまうんだ」

「記憶を消す?」

「記憶を消されるのなら、まだいい。ほとんどの場合、その処置は失敗して、処置を受けた側は精神障害を来すらしい」

「なんだよそれ。……じゃあ、隼人は事実を知りすぎたから、そいつらに追われていたのか?」

「てゆーか……」

 込み入った事情を口にするのがもどかしかった。しかし、概要は伝えた。これ以上は、時間を無駄にしたくない。

「わかった。詳細は蒼依ちゃんを助けてからでいいよ。急ごう」

 一也の忖度を受けて隼人はわずかに心の重荷を下ろすことができた。

「ありがとう」

 感謝の意を言葉にして、一也とともに歩き出した。

 歩きながら、隼人は前方の鳥居を振り仰いだ。神額に縦書きで記されている「高三土神社」の文字が目に留まる。

 聞こえるのは、二人ぶんの足音と鳥のさえずりだけだ。自分たち以外に人の姿はなかった。空き地に接する道には、車の往来もない。

「参道を行くより、林の中を進んだほうが目立たないような気がする」

 隼人が言うと、一也は首を横に振った。

「それでは時間がかかるし、落ち葉や枝を踏むから、足音が大きくなるよ」

「そうか……そうだな。なら、声も立てないほうがいいか」

「ああ。そうしよう」

 頷いた一也が口を閉じた。

 隼人もそれに倣う。

 鳥居をくぐった二人は、赤土の参道を進んだ。緩い上り坂であるここにも雑草が生えているが、手入れはされているらしく、背後の空き地ほどではない。両側に鬱蒼と広がる杉林が日差しを遮り、何が潜んでいてもおかしくない、という空気を醸し出している。だが、少なくとも今のところは、いくら目を凝らしても杉林の中にハイブリッドの姿はとらえられない。

 前方にもう一基の鳥居が見えた。空き地側の鳥居から五十メートルばかり離れているだろうか。すなわち、空き地側の鳥居が一の鳥居、前方に見える鳥居が二の鳥居、となるわけだ。

 参道にも枝葉が落ちていた。それをどうにか避けながら進む。

 いつの間にか、二人は忍び足になっていた。

 やがて二の鳥居の手前に差しかかった。この鳥居も、先ほどの一の鳥居とほぼ同じものだ。やはり神額には「高三土神社」とある。

 二の鳥居の先は、軽自動車を停めた空き地の二倍近くもある境内だった。開けた空から降りそそぐ陽光が、正面の奥に位置する幅も高さも五メートル程度の社殿を照らしている。

 手水舎や社務所といった施設は確認できなかった。社殿をよく見れば、賽銭箱や鈴もない。ここも手入れはされているらしく、やはり雑草は少なかった。

 二の鳥居をくぐってすぐに隼人が足をとめると、一也も立ち止まった。

 祖父が建立した神社だが、邪教の本拠だったのだ。隼人は自分の血に汚穢を感じ、唇を嚙み締めた。

「一也」隼人は小声で言った。「ここで待っていてくれ」

「どうするんだ?」

 一也も小声だった。

「蒼依とあの男は社の中にいるかもしれない。様子を見てくる。二人で歩いたら、気づかれやすいだろう」

「そうか。わかった」

 首肯はしてくれたが、周囲に目を配る様子は、妙に落ち着きにかけている。

 一也の挙動に不審を抱きながらも、隼人は再び忍び足で前に進んだ。

 二の鳥居と社殿の間には簡素な石畳が敷かれていた。隼人の運動靴が立てる音は、土の上より石畳の上のほうが小さかった。無論、隼人は石畳の上を歩いた。

 十メートルほどの距離がやけに長く感じられた。急ぎたいのはやまやまだが、気づかれてはならない。靴音だけでなく、息さえ抑えていた。

 社殿の前で足を止めた隼人は、振り向き、一也を見た。

 緊張の面持ちを崩さないまま、一也は二の鳥居の下で立ち続けている。

 隼人は社殿に向き直った。

 社殿の切り妻屋根は急斜面であり、銅板葺きだった。正面扉の上の神額には、二基の鳥居と同じく「高三土神社」と記されている。鳥居との位置関係やその作りからして、この社殿は拝殿のようだ。

 正面の観音開きの扉は閉じられており、そこへと続く三段の階段は木製だ。

 静かに一段目に右足を載せるが、わずかに軋んでしまい、隼人は息を吞んだ。

 一段目に完全に体重をかけ、二段目に左足を載せる。今度は音は立たなかった。

 最後に広縁に足をかけたが、軋まずに済んだ。

 左右の扉の上半分は、格子状である。向拝の下に立った隼人は、扉の正面からずれるように、向かって右に身を寄せた。

 聞き耳を立てるが何も聞こえなかった。

 そっと格子から中を覗く。

 暗い空間だが、わずかに差し込む光を頼りに目を走らせた。十畳以上はありそうだ。

 誰もいない、というより、何もない。床も壁も天井も、板で覆われている。それだけだ。

 内側の手前のほうは視界から外れている。隼人のように身を隠している可能性もあるだろう。

 振り向くと、一也は固まったように立ち尽くしていた。

 隼人は意を決した。

 取っ手が見当たらないが、格子を使えば開きそうだ。右の扉の格子に手をかけた。

 扉は手前に開いた。ゆっくりと静かに扉を開く。

 扉を半開ほどさせ、思いきって中に上半身を入れた。

 薄闇の中で左右を見るが、誰もいない。

 開けた扉をそのままに、隼人は階段を静かに下りた。

 二の鳥居の下で一也が何かを言おうとしたが、隼人は手でそれを制した。

 拝殿があるのなら本殿があるかもしれない。神社に詳しいわけではないが、それくらいの知識はある。いずれにしろ、この拝殿の裏は確認しなくてはならない。

 隼人は拝殿の向かって右側に忍び足で回り込んだ。

 決して瀟洒な社ではない。だが、側面から見ても、広縁の作りなど、至って普通の神社である。

 拝殿の裏には鬱蒼とした杉林が迫っていた。その杉林の手前、拝殿の真後ろに、小さな祠があった。

 祠は高さが二メートル前後であり、幅と奥行きはともに一メートル弱だ。おそらくこれが本殿なのだろう。拝殿と同様、上半分が格子状の観音開きの扉が、正面にしつらえてある。

 まさかと思いつつも格子から中を覗くが、ここももぬけの殻だ。神体らしきものさえ見当たらない。祠の裏にも何もなかった。

 拝殿の裏の空間を見渡した。人目を避けられる場所といえば、杉林しかないだろう。この境内を囲繞する杉林のどこかに、蒼依と山野辺士郎はいるのだろうか。

 忍び足を使わずに反時計回りで拝殿の正面、階段の下に戻った。

 開けたままの扉を一瞥し、一也を見る。

「一也、誰もいなかったぞ」

 声を抑えることもやめた。

 しかし、一也は答えない。

 事態が事態だけに焦燥を覚え、隼人は一也のほうへと急いだ。

「なあ一也」隼人は一也の手前で足を止めた。「おばさんは……瑠奈ちゃんのお母さんは、ここだ、って言ったんだよな?」

「ごめん」

 一也は頭を下げた。

 困惑のまま、隼人は言葉を見失った。

「ここに蒼依ちゃんはいない。山野辺士郎もいない」

 顔を上げた一也は、涙を浮かべていた。

「どういうことだよ。てゆーか、どうして山野辺士郎の名前を知っているんだ? 瑠奈ちゃんのお母さんから聞いたのか?」

 隼人は一也に詰め寄った。魔道士の名前を一也に告げた覚えはない。

「どうしようもなかったんだ」

 嗚咽混じりの訴えだが、要領を得なかった。

「一也、何を言っているのかわからないぞ。ちゃんと話せよ」

「おれの両親もつかまっているんだ」

「おじさんとおばさんがつかまった……って、誰に?」

「山野辺士郎だよ」一也は答えた。「化け物たちを使役している魔道士だよ」

「なんだよ……それ……」

 にわかには信じられない言葉だ。しかし、冗談や作り話であるはずがない。現に一也は、山野辺士郎を知っているのだ。

「山野辺士郎は隼人をとらえるために、化け物に特殊部隊の車を襲わせた。でもそれに失敗したから、おれを使ったんだ」

「山野辺士郎は、おれに逃げられたから一也と一也の両親をとらえたのか?」

「違う。おれたち家族は、月曜日の夜にあの化け物にとらえられたんだ。いつでも使える人質……手駒として用意されていたんだ。特殊部隊がどんな組織なのか知らないけど……記憶を消すとか、隼人から聞くまで知らなかったけど、そんなやつらより山野辺士郎のほうが……」

 一也は声を詰まらせた。特機隊も人道的にもとるが、山野辺士郎はそれ以上に卑劣である、と訴えたかったのだろう。

「ごめんよ隼人。おまえをここに連れてこないと、おれの両親は化け物たちに食われてしまうんだ」

 そして一也は、力なくうつむいた。

 これを裏切りとは思いたくなかった。妹を救うために何を犠牲にしてもかまわない、と自分も躍起になっていたのだから。

「おれは隼人にいつも助けてもらっていた」うつむいたまま、一也は言った。「小学生のとき、いじめられっ子だったおれに味方してくれたっけな。おかげでおれは、誰からもいじめられなくなった。だからおれも、隼人が困ったときは力になりたかったんだ。できる限りのことはしてきたつもりだった。なのに、こんなんじゃ……おれみたいなのは、誰の友達にもなれない。隼人の友達でいる資格なんてない」

 一也も隼人と同じ窮地に立たされているということだろう。ならば、答えは決まったようなものだ。

「ばかなことを言うな。これからもずっと友達だ。たった二人だけど、おれたちは仲間だろう? 力を合わせて、一也の両親と蒼依を助けよう」

 強く訴えると、一也が顔を上げた。

「もう、無理だよ」

 涙を流すその目が、隼人の背後を見ていた。

 糞尿のにおいが漂っている。

 隼人は振り向いた。

 向かって左の杉林の中に、巨大な何かが二本足で立っていた。人間ではない。

「一也、逃げよう」

 隼人はそれを見つめたまま言った。半透明ではない。すなわち、一也にも見えているわけだ。

 なのに、一也は言う。

「逃げられない。無理なんだ」

 隼人は向き直り、右手で一也の左腕を引いた。

「逃げるんだ!」

 しかし、頑として一也は動かなかった。

 隼人は一也から手を離すことなく振り向いた。

 杉林の中の何かが、大きく跳躍した。

 枝葉を蹴散らして境内の空に舞い上がったそれは、音を響かせて隼人の目の前に着地した。

 土が飛び散り、隼人は顔を背ける。

 糞尿のにおいが強まった。

 隼人はそれを見上げた。

 背丈が隼人の二倍ほどもある化け物だった。筋骨隆々とした全身を黒い体毛が覆っている。巨大なゴリラ、といった印象もあるが、顔は犬に酷似していた。

 ライオンのようなうなり声を漏らすそれは、雄であると知れた。蛇女とは異なり、隼人に対する敵愾心が感じられる。

 化け物の巨大な右手が、隼人の左肩をつかんだ。

 途方もない力だった。握りつぶすつもりはないようだが、化け物の手は明らかに隼人を押さえつけている。隼人は一也から手を離さずに走り出そうとするが、体を動かすことができない。

 化け物の左手が隼人の腰をつかんだ。肩と腰をつかまれた状態で、隼人はいとも簡単に持ち上げられてしまう。

 一也の左腕から隼人の右手が離れた。

「ちくしょう! 離せ!」

 叫んだ隼人は、体を横にされうえ、頭を前にした状態で、化け物の右腋に抱えられた。

 化け物は向きを変え、向かって左の杉林へと歩き出す。

 糞尿のにおいにまみれながら隼人はもがくが、化け物の腕からは逃れられない。

「やめろおおお!」

 一也が叫んだ。

 化け物が振り向き、隼人の視界が転回した。

 二の鳥居の下で、一也が両手のこぶしを握り締めていた。

「一也、今のうちに早く逃げろ!」

 隼人は声を張り上げたが、一也は首を横に振った。

「やっぱり隼人は、おれの大切な友達だ」

 そして一也は、こちらに向かって走り出した。

「来るな! 早く逃げるんだよ!」

「嫌だあああ!」

 絶叫が境内に響いた。

 化け物の左腕が振り上げられた。

「逃げろおおお!」

 あらん限りの声だった。それが、友人としてかけることのできる最後の言葉だった。

 化け物のこぶしが一也の頭に落とされた。

 鈍い音がした。

 隼人は目を見開く。

 化け物の足元に一也がうつぶせに倒れた。地面に散っているのは、脳と二つの眼球、眼鏡の破片である。彼の頭は完全につぶされていた。

 視界がにじんだ。嗚咽が漏れるだけで、言葉にならない。悪夢であると思いたいのに、糞尿のにおいが、現実であることを明示している。

 化け物は杉林に向きを変えると、再び歩き出した。

 もがくことさえできなかった。ならばむしろ、このまま連れ去られたほうがよいのかもしれない。そうすれば、蒼依と対面することができるだろう。蒼依と生きて会えるなら、あとはどうなってもかまわない――そう思ったときだった。

 炭酸飲料のプルタブを開けたときのような音が、何度か連続した。

 けたたましい咆哮が上がるとともに、隼人はほうり出された。

 大地を転がってうつぶせになった隼人は、顔を上げた。

 一也の体の向こう、二の鳥居の下に、五人の人間が立っていた。

 化け物は左の太ももを負傷しているようだった。紫色の体液が流れている。

 左足を引きずるようにして、化け物はその五人に向かって歩き出した。

 すかさず、あの音が連続する。

 化け物の頭部が粉砕され、毛むくじゃらの巨体が仰向けに倒れた。

 五人は兵士のような出で立ちだった。シールドつきのヘルメット、肘や膝などにプロテクターを装備した上下、防弾ベスト、グローブ、ブーツ、左胸のナイフ用シース、腹部の四連マガジンポーチ、拳銃を収めた右腰のホルスターで身を固めている。それら装備のすべてが、黒っぽい灰色だ。加えて五人とも、M4カービンらしきライフルを両手で構えている。

 五人は周囲を警戒しつつ前進を始めた。

 右手にライフルを提げた一人が、左手でハンドサインを出した。さっそく一人が一也の遺体に近づき、もう一人が化け物のほうに近づいた。

 さらにハンドサインが出された。残りの二人のうち、一人が拝殿の階段を上がり、もう一人が反時計回りに拝殿の裏のほうへと警戒しながら進んでいった。

 指示を出したリーダーらしき戦闘服姿が隼人のそばまで歩いてきた。そして片膝立ちとなり、隼人の顔を覗き込む。シールドの中に見える顔は、水野のものだった。

 水野はシールドを上げた。

「けがはないか?」

「おれのことはいい。それより……」

 言葉が続かなかった。かぶりを振りながら上半身を起こし、あぐらをかいた。

「倒れているのは、佐伯一也だな?」

 むごたらしい遺体を一瞥して、水野は問うた。

 頷くだけでそれに答えた隼人は、目を閉じ、一也の遺体から顔を背けた。

「佐伯一也の母親の車があったが、それに乗ってきたのか?」

 その問いにも、隼人は黙して頷いた。

「運転していたのは、佐伯一也か?」

 隼人は頷いた。

「君と佐伯一也の二人だけか?」

 隼人は頷いた。

「そうか。それにしても、君をおびき出すために使われるとはな」

 その言葉を耳にした隼人は、目を開け、水野を睨む。

「一也が山野辺士郎に連れ去られたことを、知っていたのか?」

「われわれの仲間が佐伯一也の動向を監視していた」

「じゃあ、どうして連れ去られてしまったんだよ?」

 怒りの矛先は、完全に水野に向いていた。

「気づいたときには手遅れだったそうだ。佐伯一也は自宅の玄関前で門に引きずり込まれた。家族も連れ去れたようだ。両親の拉致されるところは目撃されていないが、母親は家の中で、父親は終業後、会社の駐車場に向かう途中でさらわれたらしい」

「なんなんだよあんたら……まったく頼りにならないじゃないか」

 またしても嗚咽に襲われた。こらえようとするが、どうにもならない。

「君の言うとおりだ。しかし、われわれは諦めるわけにはいかない」

 至って沈着な物言いだった。ゆえにそれが隼人の気持ちを逆なでする。

「今さら何をするんだよ?」

「山野辺士郎の企てを阻止する。そうしなければ、君の妹は利用され、ハイブリッドを孕むことになる」

「蒼依を助けてくれるのか?」

「われわれの真の目的は、蕃神や蕃神の眷属、邪教集団らから国家の治安を守ることだ。そんな特機隊だが、責任というものがある。彼女はわれわれの管理下で拉致された。だからわれわれが彼女を救出しなければならない。無論、佐伯一也の両親もな」

「でも、山野辺士郎はここにいない。蒼依の姿もどこにもないんだ。儀式っていうやつをどこでやるのか、それがわからないんじゃどうしようも――」

 不意に、隼人の混乱した思考に分別がもたらされた。

 震える隼人の肩を、水野の左手がつかんだ。

「思い出したか? 会長から聞いたはずだったな。古代……大陸から追われてきた一族がどこで儀式を執りおこなったのかを」

 そして水野は隼人の肩から手を離し、左の杉林の梢を見上げた。

 嗚咽を沈めて隼人は言う。

「高三土山の頂上だ。そこに祭壇石がある」

「われわれは強襲班として、儀式を阻止するために来たんだ。ここから高三土山の頂上へと向かう。そして、君にも同行してもらうことになる」

 言った水野が、立ち上がった。

 思いも寄らない発言だった。恐れはない。だが、同行を許されること自体が脅威だった。

「どうしておれを連れていってくれるんだ?」

 問いつつ、隼人も立ち上がった。

「十数分後に処理班が到着する予定だが、それまで君を一人にしておくわけにはいかない。何しろ、君は無貌教に狙われているからな。だからと言って、強襲班の出発を遅らせるわけにもいかない。君の身の安全を確保することは、同時に、君をやつらに利用させないことにも繫がる」

 特機隊らしい言い分だろう。とはいえ、それに抗議するつもりは毛頭なかった。

「処理班が来るのか?」

「頂上に着くまでに、激しい戦闘があるだろう。戦闘の痕跡は早々に消さなければならない。ハイブリッドの死骸は勝手に蒸発するが、われわれの残した薬莢やその他の損壊物は回収しなければならないんだ」

 水野は言うと、一也の遺体に目をやった。

「一也の体、ちゃんと回収してくれるのか? そのあとは……一也はどうなるんだ? 解剖とかされてしまうのか? 葬儀とかは?」

 この状況では司法解剖は想定されるが、何しろ特機隊がかかわっているのだ。今後の運びは隼人には想像もつかない。いずれにせよ、一也の遺体を無造作に扱うことだけは許すつもりはなかった。

「葬儀に関しては会長に委ねるが、回収作業において遺体を乱暴に扱うことはない。司法解剖はないが、専門部署が検死をおこなう。場合によっては解剖もあるが、必要なことだ。君の父親の遺体も、しかりだ」

「おやじも……あんたらが引き取ったのか?」

「そうだ。おれは昔、君の父親には世話になった。残念だ」

 水野は静かに言った。

 行人に関しては頷くだけで、隼人は何も言わなかった。

 隼人の反応を見た水野が、口を開く。

「とにかく、二人の遺体の今後に関しては、われわれに任せてほしい」

「わかった、頼むよ」頷きかけて、隼人は気づく。「でも、処理班が来るまでの間に、誰かが来たら」

「特機隊の極秘捜査のためとして、神津山警察署にこの一帯の交通規制をさせた。無論、一般市民に余計な説明はしない。いずれにしても、以後は車も人も高三土山に立ち入れないことになる」

「すでに山に入っている人がいるかもしれないし、交通規制の対象にならないような小道だってあるじゃないか」

「佐伯一也の遺体に限らず、われわれの作戦を仮に誰かに目撃されたら……言わなくてもわかるだろう」

「処置かよ」

 隼人は眉を寄せ、口を閉ざした。

 拝殿を調べていた隊員が戻ってきた。

「異常なしです」

 報告を受け、水野は頷いた。

 拝殿の向かって左からからは、裏に回っていた隊員も戻ってくる。

「境内と周囲の杉林に敵は確認できませんでした」

「よし」と答えた水野が、二つの亡骸を検分している隊員たちのほうを見た。「そっちはどうだ?」

 声をかけられた二人は同時に立ち上がり、ともに水野の前に駆け寄った。

「ターゲットは崩壊しているところです」

 聞き覚えのある声だった。見れば、神津山警察署に隼人を迎えに来た田口である。触手に弾かれたはずだが、どうやら負傷せずに済んだらしい。

 隼人はハイブリッドの体に目を向けた。

 毛むくじゃらの巨軀からうっすらと湯気が立っていた。悪臭はさらに強まっている。

 頷いた水野が、一也の体を調べていた隊員に顔をむける。

「彼は佐伯一也だそうだ」

「そのようです」答えた隊員は恵美だった。「運転免許証を所持していました」

 彼女は革製のパスケースを水野に渡した。

 確認した水野は、それを恵美に渡す。

「保管しておけ」

「了解」

 恵美は答えると、一也のパスケースを自分の防弾ベストのポケットに入れた。

「隼人くん」水野は言った。「田口と尾崎のことはわかるだろうが」

 そして彼は、拝殿の状況を報告した男を土井と紹介した。副隊長らしい。さらに、土井の横に立つ若い男を須藤と紹介する。

「空閑隼人くんが一行に加わる」水野は隊員たちに目を走らせた。「各自、空閑隼人くんの安全確保を優先せよ」

「了解」

 四人が声を揃えた。

「田口」水野は田口を見た。「登山口の周辺を警戒しろ」

「了解」

 答えた田口が、社殿の向かって左、杉林のほうへと小走りで移動した。

「隼人くん」水野は隼人に顔を向けた。「われわれはヘルメットについているシールドによって不可視状態のハイブリッドの存在を知ることができる。だが、センサーグラスと同じくサーモグラフィ画像のため、対象物と周囲との温度差が小さい場合などは視認性が下がってしまうことがある。ハイブリッドは概ね、人間よりも体温が低いからな。もし君がハイブリッドに気づいたら、すぐに教えてくれ」

「もちろんそうする。でも可視化したやつが暗がりにいたら、かえって気づけないかもしれない」

 可視化した鬼の状態を想起しつつ訴えた。

「逆に言えば、不可視状態なら暗がりでもはっきり見えるわけだな」水野は言った。「それに、見鬼の能力が完全に覚醒していれば、ハイブリッドの気配をも感じることができるそうだ」

「そうらしいけど、見鬼として完全に覚醒しているかどうかなんて、まだ自覚できていないよ」

「君に責任を押しつけるつもりはないから、安心してくれ。ハイブリッドの接近を許したときは、全員がやられるだけだ」

 本音だったに違いない。返す言葉がなかった。

「もたもたしていられない。行くぞ」

 号令を出した水野が、杉林の奥を窺っている田口のほうへと歩き出した。

 そのあとに続く恵美が隼人を見る。

「隼人さんはわたしと一緒に。ライフルの排莢の危険があるから、左に並んで」

 指示された隼人は、恵美の左についた。

 土井と須藤は最後尾につく。

 後ろ髪を引かれる思いで、隼人は振り向いた。

 二度と動くことのない一也が、変わり果てた姿でそこに倒れていた。この先も友人として付き合っていくはずだった青年が、今はもう、存在しない。

 一方のハイブリッドは、すでに骨と皮だけになっていた。湯気を立てるそれは、何ゆえに邪教の手先となってしまったのか。この化け物はそれが本望だったのだろうか。

 さまざまな思いが錯綜するが、それらを振り払い、隼人は前を向いた。

「異常はありません」

 水野に向かって田口は報告した。

 下生えの中に一本支柱の案内板が倒れていた。見れば、手書きで「高三土山登山口」と記されている。

「前進するぞ」

 足を止めずに言った水野の右に、田口が並んだ。

 杉林の中に延びる道へと、一行は足を踏み入れた。

 わずかな木漏れ日が落ちる薄暗い空間だった。先ほどまで耳に届いていた鳥のさえずりが今はなく、異界という趣はなおのこと増大する。

 登山道は参道と異なり黒土だった。踏み固められた黒土の道は、二人が横に並んで歩けるだけの幅がある。上り坂だが傾斜は緩く、今のところ歩行に支障はない。とはいえ、安物の運動靴がどこまで持ちこたえてくれるのか、隼人は心細さを覚えた。

 特機隊の五人はしきりに周囲を警戒していた。無論、隼人も索敵を怠らない。

 二分ほど歩いて上りの傾斜がきつくなったのを機に、隼人は腕時計を見た。午後一時を過ぎたばかりである。

 蒼依の無事を祈りつつ、黒土を踏み締めた。


 歩を進めながら、隼人は恵美を見た。

「神宮司のおばさんの話だと、古代中国で編み出された秘儀では、召喚球、ハイブリッドを産むべき巫女、一定以上の標高に設置された祭壇石……それらを用意したうえで、天空に星々の光が見えることが必要とされるらしいけど、本当に星に力なんてあるのか? 山野辺士郎もそんなことを言っていたし」

 だが恵美は、隼人を一顧し、水野の背中に顔を向ける。

「隊長」

 答えを口にしてよいものか、水野に確認したらしい。

「今さら隠すことでもないだろう。尾崎が知っている範囲で、説明してやれ」

 水野は背中で言った。

「はい」と答えた恵美が、隼人を横目で見る。「同一の蕃神を召喚するにしても、アラブの狂える詩人が著したとされる魔道書を紐解けば、古代中国で編み出されたものとは異なる儀式であることがわかるわ。魔道書に記された儀式でも、星辰の位置は重要視されているの。星々と蕃神との物理的な関係は謎のままだけどね」

 ならば、光明はあるはずだ。隼人は言う。

「たとえ召喚球がやつの手にあるとしても、夜までには時間がある。今からなら十分に間に合うはずだ。暗くなる前なら、蒼依は無事なんだ」

 楽観的になっているわけではない。希望だけは持っていたいのだ。

 しかし恵美は、思案顔を呈する。

「決して甘くはないわ。障害は間違いなく待ち受けている」

「そのとおりだ」水野が言葉を繫いだ。「ハイブリッドが待ち受けている、と思われる。勝手な行動は慎み、絶対に尾崎から離れるな」

 高三土山の頂上に至るまでの障害、すなわちハイブリッドは、はたしてどれほどの脅威なのだろうか。戦闘に陥った際、六人の中で唯一戦うすべのない隼人は、傍観するしかないはずだ。自分の身を自分で守るなど不可能、というわけである。

 ――生きては帰れないかもしれない。

 むしろ、蒼依を救い出せなければ一人で帰っても意味はないだろう。

「あの、水野さん」

 名前で呼ぶことに抵抗を感じた。妙にむずがゆいが、この際、割り切るしかないだろう。

「どうした?」

 水野は前を向いたままだ。

「今さらなんだけど、山野辺士郎は、優秀なハイブリッドを作ろうとしているんだ。ただのハイブリッドでは物足りないらしい」

「そうか」

 予想に反して、反応は淡泊だった。

「特機隊は知っていたのか?」

 隼人は水野に問うた。

「まあな。その線は濃厚だろう」

「意味がわからない」

 隼人がぼやくと、水野は肩をすくめた。

「わからなくて結構。たとえその情報が正しくても、われわれの作戦に変更はない」

「余計なお世話だったわけか」

 ここでふてくされても仕方がない。隼人はこらえた。

「それから」水野は言った。「この先、道はますます険しくなる。弱音を吐かずについてきてくれ。しかも、ハイブリッドが待ち受けているからな。戦闘に突入したときは、ライフルの排莢に気をつけろ。通常のものよりは下に向かって排莢するようにできているが、その薬莢が素肌に当たれば火傷は免れない。射撃直後の銃身も加熱しているから、それも注意してくれ」

「ああ、わかった」

 銃器に関する知識は多少なりとも有していたつもりだが、アクション映画で得たレベルである。熱に対する備えなど考えたこともなかった。


 登山道を歩き始めて三十分も経つと、道幅が狭くなり、一行は一列での行進を余儀なくされた。水野を先頭に、田口、恵美、隼人、須藤、土井という順で、右へ左へと蛇行する道をたどり、少しずつ標高を上げていく。

 一行の足枷になることだけは避けなければならない、と留意していたものの、すでに隼人の息は荒くなっていた。

「隼人くん、音を上げるには早すぎるぞ」

 水野が振り向きもせずに言った。背中で後方の状況を認識できる余裕が憎々しい。

「ふざけろ。どうってことない」

 虚勢である。だが、ペースを落としたわけではない。

「隼人さん、頑張って。もう三分の一は来ているはずよ」

 前を行く恵美が声をかけてくれた。

「つまり……」

 あと三分の二もある、ということだ。わめきたくなるのをぐっとこらえる。

 相変わらず、見渡す限りの深い杉林だった。風の渡る音が遠くから届くが、それ以外に聞こえるのは、自分たちの足音と、隼人自身の息遣いだけだ。

 ふと進行方向を見ると、道がY字に分岐していた。案内板らしきものは見えない。

「一本道じゃないのかよ。間違えたら時間のロスだぞ」

 隼人は歩きつつ、誰にぶつけるとなく苛立ちを言葉にした。

「右だ」

 あっさりと一言で返した水野は、右の道へと進んだ。後続の五人がそれに続く。

「だいぶ自信があるようだけど、水野さんは高三土山に来たことがあるのか? それとも、GPSで位置情報を調べながら歩いているとか?」

 隼人は恵美の背中越しに水野に尋ねた。

「この程度でGPSなんて使っていられるか。調査のために何度も来ていたんだ」

 水野はそこで口をつぐんでしまった。隼人もあえて追及しない、というより、息が上がるのを恐れたのだ。言葉を出すよりも、呼吸を整えるべきだろう。ましてハンドサインを用いるくらいなのだから、余計な声は立てないほうが無難に違いない。

 分岐点からさらに十分近く歩いた。

 突然、水野が左手でハンドサインを出した。一行の足が止まる。

 悪臭が漂っていた。

 武装した五人が周囲を警戒した。しかし、シールドを介しても敵が見つからないのか、どのライフルも照準が定まらない。

 隼人も杉林の中に視線を走らせた。そしてすぐに、敵の位置を知る。

「前だ! 進行方向、木の上のほうにいる!」

 叫びつつ、隼人はそれを指差した。

 二十メートルばかり先に、ひときわ大きな杉が立っていた。その十メートルくらいの高さ――太い枝の上に、頭頂部が棘のごとく尖った半透明の何かがいる。

 進行方向に向かってライフルを構えた水野を基準として、その右斜め前に田口が、左斜め後ろに恵美がついた。後方では土井と須藤が、引き続き周囲を警戒する。

「見つけたぞ」

 手短に告げた水野がライフルを撃った。やはり炭酸飲料のプルタブを開けたような銃声だったが、一度に何発かが連射された。田口のかかと付近に落ちた薬莢は三個だ。このライフルが通常のM4カービンと変わらず三点バーストであることを、隼人は知った。おそらくこれらの薬莢も、処理班が一つ残らず回収するのだろう。

 被弾したらしい標的が地面に落下した。当然のごとく、それが地面に激突した瞬間に、はっきりと音が聞こえた。田口と恵美が、これでその位置を把握できないはずがない。

 杉の根元に倒れた半透明のそれが、可視化しつつむくりと立ち上がった。その姿は、人間大の巨大なキノコのように見えた。

 この化け物は雄である、と隼人は感じ取った。加えて、強い敵愾心をも感じ取る。

 水野と田口、恵美が、一斉にライフルを撃った。ほんの二秒程度の射撃だったが、全部で十発以上の弾が放たれたはずだ。

 標的が再び倒れた。

 一行は再度、一列に並んで前進する。

 倒れている化け物に近づくほど、悪臭が強くなった。

 化け物の前で足を止めた水野が、左手でハンドサインを出した。

 五つの銃口が周囲の暗がりを探る。

 恵美の横で足を止めた隼人は、薄い湯気の中に倒れているそれを見下ろした。

 褐色の化け物だった。キノコ、というよりは傘に近いかもしれない。たたまれた状態の傘を見れば、何本かの骨らしきものの間に皮膜が張られていた。傘の下部から、太くて長い柄がはみ出ている。柄の下端には五本の短い触手が放射状についており、これらを足としているらしい。また、柄とは別の細長い器官が二本、やはり傘の下部から伸び出ており、一本の先端には口らしきものを、もう一本の先端にはまぶたを有さない剝き出しの単眼を備えていた。いずれの器官も、太い柄と同様、ぐったりと地面に伏している。それどころか、傘の皮膜も太い柄もぼろぼろであり、存在していたはずの傘の先端――棘状の頭頂部などは、吹き飛ばされて欠けていた。

 醜怪な姿が見るに堪えないだけでなく、悪臭がひどすぎる。隼人は顔を背けた。

「行くぞ」

 告げるなり、水野は歩き出した。

「こいつもこのままにしておくんだな」

 隼人は独りごちながら恵美に続いて歩き出した。

「ハイブリッドの死骸は数分でただの染みとなるわ」恵美は歩きながら言った。「たとえ崩壊の過程を目撃されたとしても、崩壊自体は止まらないから、残った染みだけではなんの証拠にもならない。とはいえ、生体だろうと死骸だろうとハイブリッドの姿を撮影されたり、騒ぎが大きくなるのは問題よ。そうなれば、隠蔽工作が必要となるわ」

「隠蔽工作って、インターネットの記事を削除したり、報道関係に根回しをしたり、人の脳に処置を施すことだろう?」

 悪臭が遠ざかっていくのを感じながら、隼人は食い下がった。

「隼人さんが特機隊のやり方に共感できないのは、よくわかるわ。その考えまで無理に変える必要はないと思う。でも今は、蒼依さんを救出することだけに専念しましょう」

 ぐうの音も出なかった。なんのための行進なのかを忘れたわけではないが、頭に血が上っていたのは事実だ。素人考えの甘さを痛感する。

「尾崎は諭すのがうまいな」先頭を行く水野が歩きながら言った。「おまえのほうが隊長に向いているかもしれない」

 真面目な口振りだった。

「冗談が通じる状況ではないと思います」

 即座に諫言を呈した恵美は、揶揄と解釈したらしい。

「本気で言ったつもりなんだが、まあ、好きに受け取ってくれ」

 そう返した水野に、悪びれた様子はなかった。

 隼人の耳に恵美の小さなため息が届いた。ほかの三人は黙している。

 ――見られている!

 不意に感じた気配だった。気のせいではない。

 歩きながら周囲を見回す隼人に、すぐ後ろの須藤が尋ねる。

「どうした?」

 悪臭が再び強くなったのは、その直後だった。

 右の杉林の奥に半透明の異形を確認した。先ほどの化け物と同じ姿であり、サイズも同程度だ。閉じた状態の傘をやや前傾させ、柄の下端についている五本の触手をせわしなく動かし、隼人に向かって一直線に走ってくる。堆積した杉の落ち葉が蹴散らされていた。

「右に敵!」

 叫びつつ、向かってくる化け物は雌である、と悟った。

 一行が立ち止まる。

 真っ先に須藤がライフルを撃つが、連射された弾丸のすべてが外れたらしい。

 次いで、可視化した化け物が十メートルほどの高さまで跳躍した。そして傘を広げたそれは、パラシュートのごとくゆっくりと降下してくる。――否、降下速度はパラシュートより遅いかもしれない。

 傘の内側がはっきりと見て取れた。口を先端に有する細長い器官と、単眼を先端に有する細長い器官――それらとともに柄の上端についているものは、巨大な女陰である。雌の証しであるその器官は、どう見てもびしょ濡れだった。剝き出しの単眼が、いとおしげに隼人を見下ろしている。

 逃げ出したかったが、足が動かない。このままでは化け物に押し倒され、犯されてしまうだろう。

 巨大な女陰が砕け散った。化け物が跳躍して五秒と経っていない。

 褐色の化け物が隼人の足元に落ちた。内側から撃たれたのだが、傘の頭頂部を喪失しており、動きは完全に停止している。

 撃ったのは田口らしい。彼は化け物の死骸を確認し、水野に顔を向ける。

「死んでいます」

「そうか」水野は頷き、周囲に目を走らせた。「隼人くん、敵はまだいるか?」

 問われた隼人は、ほかにも気配があることに気づく。

「目視できないけど、間違いなく囲まれている」

 自分は見鬼として覚醒している、と隼人は悟った。だが、それを歓迎する気にはなれない。むしろ、この感覚が役立っているのか否か、懸念を抱いてしまう。

「気配を感じたわけか」水野は頷くと、ハンドサインではなく、言葉で命令を下す。「全員、その位置で警戒」

 強襲班の五人が、それぞれライフルを構えた体勢で、前後左右と頭上に目を配った。

 隼人は悪臭に耐えきれず、湯気の立ち始めた化け物に背中を向けると、反対側の下生えに一歩、足を踏み入れた。そのまま杉林の奥に目を向け、息を吞む。半透明の何かが、二メートルほどの高さを飛んでくるところだった。

「来た!」

 隼人が声を上げた直後に、それは可視化した。

 背筋を伸ばしたザリガニ、といった姿の化け物だった。節の並んだ胴体は薄紫色であり、くちばしを備えた頭部には長い黒髪が生えている。前足の先端は左右とも甲殻類特有の巨大なはさみだ。とはいえ、前足以外の付属肢はない。イルカが水中を進むかのごとく、体を上下にくねらせながら、こちらに向かってくる。それは明らかに雄だった。

「尾崎と須藤は射撃しろ! 田口は反対側、土井は後方を警戒!」

 そう叫んだ水野は前方に、恵美と須藤は左に、田口は右に、土井は後方に、とおのおのがライフルを向けた。同時に、恵美と須藤のライフルが火を噴く。

 頭部を吹き飛ばされた化け物が、地面に落下した。

「後方から一体!」

 最後尾の土井が声を上げた。

 登山道を走ってくる不可視状態の人間もどきが可視化したところだった。老婆のような見かけのそれは、ぼろぼろの白っぽい着物をまとっており、両手に一本ずつ巨大な鎌を持っている。そのうえ長い白髪を振り乱しているのだから、まるで変質者だ。外見にたがわずこの老婆もどきは雌の気配を放っていた。

 躊躇せず、土井がライフルを撃つ。

 老婆の腹部が爆裂した。その上半身が前方に落ちて転がると同時に、下半身がうつぶせに倒れた。転がった上半身は、仰向けの状態で登山道の上に止まった。臓器らしき紫色の細長いものが、上半身と下半身との間に散らばっている。

 老婆は全裸だった。ぼろぼろの着物に見えていたのは、全身に生えた無数の干からびた乳房である。

「副隊長!」

 恵美が叫ぶと同時に、老婆の上半身が跳ね起きた。そして、両手の鎌で地面をかきながら這ってくる。あまりに速い彼女の匍匐前進を見て、隼人は思わずのけ反った。

 両腕をバネにして飛び上がった老婆の上半身が、土井の正面で右手の鎌を横に振った。

 二本の鎌は老婆が持っているのではなかった。老婆の両手首の先、それ自体が鎌だったのである。

 老婆の上半身とともに登山道に落ちたのは、土井の頭部が収まっているヘルメットだった。首の切断面から鮮血を噴き上げつつ、土井の体が仰向けに倒れる。

「うわあああ!」

 悲鳴を上げた須藤が、老婆の上半身を狙ってライフルを連射した。しかし老婆の上半身は、前後左右に素早く這い回り、弾丸を躱してしまう。

 須藤の横に並んだ恵美が射撃に加勢した。それでもなお、老婆の上半身は距離を開けつつ弾丸を躱している。

 残弾が尽きたのか、須藤のライフルが沈黙した。

 不意に、老婆の上半身が飛び上がる。

「須藤さん、伏せて!」

 声を上げた恵美が射撃を中断し、弾倉を交換しようとしていた須藤に、肩から体当たりした。

 隼人は正面に老婆の笑顔を見た。その血走った両眼に浮かぶのは隼人に対する愛欲に違いないが、彼女の左手の鎌は振り上げられていた。

 逃げることもできずに呆然としていると、老婆の顔が吹き飛んだ。首から上を失ったその上半身が地面に落ちる。飛び散った肉片や体液は、かろうじて誰にもかからなかった。

 振り向くと、水野がライフルを構えていた。

「早く起きろ」

 下生えに倒れている恵美と須藤を見下ろし、水野は𠮟責した。

「了解」

 答えて恵美が立ち上がると、須藤もすぐに立ち上がった。

「隼人くん、敵はまだいるか?」

 水野が尋ねてきた。

「何体かいるみたいだけど、位置がわからない」

 感じたままを報告した。

 田口がライフルを構えたまま、土井の遺体を避けて進行方向に対して左の下生えの中に立った。ライフルの弾倉を交換した須藤は、後方を警戒する。水野は前方、恵美は右に銃口を向けた。

 敵の発見に遅れがあってはならない。犠牲者が出るたびに、蒼依の救出に必要な戦力が低下していくのだ。

 隼人は息を殺して周囲に目を配った。

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