うちのお兄ちゃんは闇にさまよう

岬士郎

第1話 迫る小僧 ①

 自分の足元が土なのか、コンクリートなのか、板張りの床なのか、どうにも判然としなかった。自分が裸足でいるのか、靴を履いているのか、それさえわからない。渺茫たる漆黒の闇の中で、彼は立ち尽くすしかなかった。

「め……めよ……ざ……はや……」

 声が聞こえた。何かを話しているようだが、その声はあまりに小さく、聞き取ることができない。闇の中で耳を澄ましてみるが、やはり、小さな声を言葉としてとらえることはできなかった。

 気配があった。何かがもぞもぞと蠢いているらしい。それは声を発している誰か、ではない。声の主とは別の存在、巨大な体を有する何かだ。彼は巨大な何かが悪臭を放っていることを悟るが、この漆黒の闇では、その姿を把握することはかなわなかった。

 蠢くものが近づいてきた。いや、彼自身がその何かに近づいているのかもしれない。もっとも、彼には歩いているという自覚はなかった。

「め……よ……めざ……やく……」

 この闇のどこかで誰かが言葉を紡ぎ続けている。諦めずに耳を傾けるが、どうしてもその言葉は聞き取れない。

 じっと耳をそばだてている間に、蠢く何かが目と鼻の先に迫っていた。姿は見極められないが、とてつもない糞尿のにおいは嗅ぎ取ることができた。

 小さな声が、ようやく言葉として聞き取れた。

「目覚めよ……目覚めよ……早く目覚めよ」

 男の声だった。

 漆黒の闇の中で、彼は目を見開いた。


 蠢く影の姿が、はっきりと見えた。

    *    *    *

 帰りが遅くなったのは数カ所の入力ミスが原因だった。明日の午前中の会議で出席者全員に配布する資料である。なんとしても今日中に完成させねばならなかったのだ。

 仕事がつまらなかった。苦痛にさえ感じている。神津山かみつやま大学商学部を卒業し、市外にオフィスを構える商社に入社したのが二年前。以来、書類の作成を主な職務としてきたが、実質的には、上司に言われるままタイピングするだけの毎日だ。今に至るまで、やりがいや喜びを感じたためしがない。

 ――何も残業時間になってからチェックすることないじゃない。

 OLは上司を呪いながら南中之郷みなみなかのごう駅の改札口を出た。最終バスが三十分前に出たことは承知している。とはいえ、田畑を貫く暗い道を一キロ強も歩く気にはなれず、急ぎ足でタクシー乗り場へと直行した。

 民家やアパートが軒を並べているが、商店は一軒もなく、駅前としては賑わいのない界隈だ。無論、日没以降の人影はまばらとなる。駅自体も神津山市内で最も小さい。北隣の神津山駅、南隣の坂萩さかはぎ駅、と両隣の駅が田舎にしては比較的大きいため、南中之郷駅のこの貧相さは、否が応でも強調されてしまう。

 待機しているタクシーは三台だけだった。駅舎から出てきたのは十人程度だが、見れば、その三台とも客を乗せて走り出したところである。

 ついていなかった。彼女にとっては痛い出費となるタクシーでさえ、いざ利用しようとするとこの始末だ。

 走り出した三台のタクシーに向かって「何よ!」と悪態をついたOLは、何げなく駅前のロータリーに視線を移した。端のほうに四台の一般車が駐車している。家族や友人を迎えに来た車らしい。

 電話をして父に迎えに来てもらう――こんな単純なことを今さら思い立ち、ショルダーバッグからスマートフォンを取り出した。しかしバッテリーが切れているのを知り、肩を落とす。これ以上の災厄は考えられない。

 災いは重なるものだ。スマートフォンをショルダーバッグに戻しながら、今日がなんの日だったのかを思い出した。

「ああ、なんてこと……」

 両親の結婚記念日だった。花束を買って帰ろうと計画していたのに、資料を作り直していた段階ですっかり忘れていたのだ。

 腕時計を見た。午後九時二十分である。

 ――こんな時間に花を売っている店なんて、この辺にあるわけないよね。手ぶらでもなんだし、コンビニでも寄っていこうかなあ。どうしよう。

 だが一番近いコンビニエンスストアは改装工事のため来週の半ばまで休業中だ。もう一つのコンビニは駅から一キロも離れており、しかも自宅の反対方向である。

「あ、そうだ」

 バスターミナルの端に電話ボックスが一つだけあることを思い出した。迎えに来てもらったその足でコンビニエンスストアに寄ってもらう、というのが最善の策だろう。

 急ぎ足でそこへ向かうと、目当ての電話ボックスがあった。しかし明かりが点いていない。そればかりか、肝心の電話機が取り払われているではないか。どれほど自分が周囲に無関心でいたのかを、改めて痛感した。

 うなだれたOLは、ストッキングの右膝が伝線していることに気づく。

「最悪……」

 観念し、自宅のある北へと向かって歩き出した。それ以外に選択肢はなかった。せめてもの救いは、愛用している靴がローヒールであることだ。これならば一キロ強の道のりも歩調を緩めずに済むだろう。

 この裏道を歩いているのは彼女だけだった。前にも後ろにも、誰もいない。気を取り直して足を進めていると、駅を中心とした街並みを一分ほどで抜けてしまった。

 JR常磐線の西側を南北に延びるこの幹線道路は、片側一車線でそれなりの道幅があるものの、歩道は北に向かって右側にしかない。街灯に至っては、三十メートルほどの間隔で立つ電柱の一本置きに粗末なものが据えてあるだけだ。そのうえ、一キロ先の新興住宅地、波ヶ丘なみがおかニュータウンに着くまで、こちらの道沿いに民家は一軒もない。日中ならば広大な田園風景に圧倒されるだろうが、今はただ、深い闇が息を潜めているだけである。

 波ヶ丘ニュータウンの明かりが闇の彼方に広がっていた。安楽に満ちているあの空間に早く飛び込みたい、という一心で歩く。

 右後方を見ると、街灯に照らされた踏切が沈黙していた。

 駅を背にして五分は歩いただろうか。闇はいっそう濃くなった。それなのに、波ヶ丘ニュータウンの明かりは、いくらも近くなったような気がしない。

 何個目かの街灯の下を通り過ぎようとしたそのとき、右のほうで音がした。

 心臓をつかまれた気がして、OLは足を止めた。

 草を踏みつけるような音が、小さく、ゆっくりと続いている。

 無視すればよいのだ、とわかっていながら、彼女は右に正面を向けた。

 街灯の脆弱な明かりが、田植えを終えたばかりの水田を照らしていた。黒い水面は沈黙を守っている。明かりが届いているのはせいぜい十メートルだ。それより先は、ただの闇である。

 OLの目の前にあぜ道があった。そのあぜ道で――街灯の明かりが途切れる辺りで、何かが雑草の上を這っている。いや、這いながらゆっくりとこちらに近づいてくるのだ。

 人のように見えた。かぎ爪を有する手足だが、少なくとも人間のものだ。乱れた長い黒髪も、やはり人間の頭髪にしか見えない。だが目を凝らせば、衣服と思えたもののすべてが、薄桃色の皮膚のたるみだった。それだけではない。首の長さが二メートル近くもあるではないか。

 長い首がわずかに起き上がった。ミミズのようにいくつもの節がある首だ。

 黒髪の間に顔が覗いた。

「ひっ」とOLは声を上げた。

 長い首の上についているのは、尋常ならざる様相だった。縦に大きく裂けた口が、鼻のあるべき部分までも占めている。そのうえ、口の両側に位置する双眼は蛇の目のように丸く、まぶたがない。女の風貌を感じさせるが、とても人間には見えなかった。

 逃げたかったが、体が硬直していた。目を逸らすことさえできない。

 そうしているうちにも、化け物がゆっくりと立ち上がった。ふらふらとした足取りだが、確実に近づいてくる。

 長い首は垂直に立っているのではなく、OLに向かって水平の状態を保っていた。体を前へ前へと引っ張っているようにも見える。

 薄桃色の素足がアスファルトに達し、醜貌が一メートルまで近づいた。女性器をも想起させるその口には、横向きに伸びる鋸歯がびっしりと縦に並んでいた。

 鼻が曲がるのではないか、と思われるほど臭かった。糞尿のにおいだ。その悪臭が体をさらに硬直させた。どうすれば体を動かせるのか、思い出せない。

 てらてらと濡れている口が、左右に大きく開いた。

 長い首が真上に立ち上がる。

 犬のうなり声のような声が、OLの頭上で短く響いた。

 OLが息を吞んだそのとき、波ヶ丘ニュータウンのほうから一台の軽トラックが走ってきた。ぎらつくヘッドライトがまぶしい。

 ふと目をやると、化け物の姿がなかった。悪臭も消えている。

 軽トラックが通過すると、OLは我に返り、北へと向かって駆けだした。

「これが、神津山の都市伝説なんだ」

 一目散に走りながら、つぶやいた。


 愛車の黒い軽トールワゴンを疾走させながら、空閑くが隼人はやとはため息をついた。今日の夕食当番がストレスなのではない。就業直後に受け取ったメッセージに憤慨しているのだ。

 ――帰るついでに拾って、だと?

 夕食当番の日は、これまでも可能な限り残業を避けていた。そこに付け込まれたわけだ。

 西の山並みに沈みかかった太陽が、ルームミラーにあった。この時間の太陽ならば、その光に負けることなく睨みつけられる。太陽に罪はないが、怒りの矛先を向けるにはうってつけの目立つ存在だ。

 東の市街地へと延びる片側二車線の道路は、退勤時間とあって交通量は多かった。とはいえ、信号機の少ない道である。至って流れは悪くない。田畑、雑草に覆われた空き地、太陽光発電の群れ、点在する民家、遠方を囲繞する山並み――ありきたりだがのどかでもある田舎の風景と相俟って、ストレスがたまりにくい環境であると言えるだろう。少なくとも都市部での渋滞よりはましなはずだ。

 隼人が愛車を左折させたのは、勤め先をあとにしてから五カ所目の信号機つき交差点だった。この交差点の南東側に広がっている家並みが、隼人の自宅がある大島おおしま団地だ。

 大島団地を背にしたとたん、思わずアクセルを強く踏んでしまった。感情の変動が運転に表れているのだ、と悟り、すぐに速度を抑える。

 田舎の五月の風景――田植えが済んだばかりの水田が左右に広がる中、片側一車線の道路を北へと走った。この道は、どちらの車線も車はまばらだ。

 進行方向に、雑木林に覆われた台地が立ち塞がっていた。その盛り上がりの上、木立の中に垣間見える白い建造物が、神津山かみつやま第二高等学校の校舎だ。

 母校でもあるそこへは、できれば近づきたくなかった。卒業して以来、約二年間、一度も足を向けていない。

 やがて道は家並みを抜け、雑木林に囲まれた急な傾斜の上りとなった。右、左、右と三つのカーブをクリアして、ようやく台地の上へと至る。坂を上りきったそこが、神津山第二高等学校の正門の前だ。

 しかし、依頼人の姿がどこにもなかった。というより、人っ子一人いない。

 北向きの正門は道の右に面していた。駐車場は敷地内である。

 正門の前を三十メートルほど過ぎたところで愛車をUターンさせた。そしてその愛車を正門の手前で左端に寄せ、エンジンは切らずにハザードランプを点滅させる。

 台地の上で雑木林に覆われているのは、神津山第二高等学校の位置する一帯を含む一部であり、大部分は畑地と宅地で占められていた。隼人が在学中の頃とほぼ代わり映えはない。

 どこか遠くでカラスが短く鳴いた。

 夕日に包まれた田舎風景に寂寞とした空気が漂う。

 我に返った隼人は、ナイロンジャケットの脇ポケットからスマートフォンを取り出し、手早く電話をかけた。依頼主が正門から出てくるのを気長に待つ、などというつもりはない。何せ、今日は夕食当番なのだ。

 呼び出しが鳴った直後に、通話状態となった。

「着いたぞ。いい加減にしろよ。どこにいるんだ?」

 相手の声を待たずに苦情を訴えたが、電話口の向こうでは黄色い歓声が上がっているではないか。何人かで談笑しているらしい。

「おい、聞いてんのか?」

 声を荒らげると、電話の相手であるその少女――隼人の妹の空閑蒼依あおいが、「ちょっと待ってね」と隼人ではない誰かに告げた。そして「ごめんね。今、教室なんだ」とようやく隼人に答える。

「人を呼び出しておいて……何を考えてんだ」

「だって、友達と盛り上がっていたんだもん」

 悪びれる口調ではなかった。そんなことより、人を待たせる理由にしては低俗すぎるだろう。

「放課後の教室でくだらないことしてんじゃねーよ」

「くだらなくても楽しければOK、っていうところじゃん」

 弁解というよりは、蒼依なりの持論らしい。

 論点をはぐらかされた気がした。これ以上続けても、時間と通話料を浪費するだ。

 ふと、隼人の脳裏に一つの懸念が浮かぶ。

「ていうか、まさか、ほかのやつらのことも送ってほしい、なんて言わねーよな?」

「みんなもね、うちの人が車で迎えに来るんだって」

 杞憂で済んだようだ。無論、これ以上の通話は必要ない。

「だったら、ほかのやつらはほっといて、さっさと出てこいよ。五分経っても来なかったら、おれは帰るぞ」

「ええっ! お兄ちゃん、ちょっと待って――」

 残りの言葉を待たずに通話を切った隼人は、スマートフォンをポケットに戻した。

 蒼依の弛緩した態度だけがいらだちの原因ではない。そんなことは、隼人自身がよく理解している。だからこそ、蒼依が来る前に気持ちを落ち着けたかった。

 大きなため息を落とし、鉄筋コンクリート造三階建ての校舎を睨んだ。

「だから落ち着けって」

 自分に言い聞かせ、いらだちのもう一つの元凶から目を逸らした。

 正面に目を向けた隼人は、息を吞む。

 正面には、上ってきたばかりの坂と、坂の周辺に広がる雑木林があった。坂の下りかけた辺りを起点として、向かって右に一本の道が延びている。その丁字路の真ん中で、二つの小さな何かが走り回っていた。

 隼人は正面を凝視した。

 二つの何かは、人の姿をしていた。もっとも、それらはどちらもクラゲのごとく、半透明である。

 気づけば、隼人はドアを開けたまま車の脇に立っていた。何度も目をしばたたくが、二つの何かは、相変わらず走り回っている。

 半透明ではあるが、二つの何か――二つの小さな人影は全裸である、と把握することができた。双方の股間に備わるものは、まさしく男性のシンボルだ。

「なんなんだよ」

 脅威を感じながらも、足を踏み出した。一歩一歩、ゆっくりと歩を進める。

 一方は、確かに男児のようだ。マシュマロカットの幼稚園児、といった姿だ。もう一方も一見すると幼稚園児のようだが、坊主頭であり、容貌は人間のものではなかった。

 正門を過ぎた辺りで隼人は足を止めた。

 坊主頭のほうは、双眼のあるべきところに双眼はなく、代わりに顔の中央に長さ十センチ程度の管状の突起物がついていた。その突起物の先端に、通常のものより一回りも大きい眼球が一つ、備わっている。

 異形たちとの距離は十メートルほどだ。それでも彼らは隼人に気づいていないのか、飛び跳ねながら同じ場所を何度もぐるぐると走り続けている。

 双方とも裸足であり、ぺたんぺたん、という足音が聞こえた。とはいえ、聞こえるのは足音だけである。はしゃいでいる様子だが、声は聞こえない。

 さらに目を凝らすと、異形たちの体の中に、骨や内臓、筋肉、血管、といったものまでがうっすらと浮かんでいた。

 ふと、足音がやんだ。

 立ち止まった二つの異形が、こちらに顔を向けている。

「あの……」

 背後から声をかけられ、隼人は肩をすくめた。

 振り向くと、スクールバッグを右肩にかけた制服姿が、すぐ目の前に立っていた。黒髪ロングストレートに、つぶらな瞳――見知った少女である。

「やっぱり、隼人さんだ」

 少女が微笑んだ。

瑠奈るなちゃんか?」

 隼人が目を丸くすると、その少女、神宮司じんぐうじ瑠奈は頷いた。

「はい、お久しぶりです」

「本当に、久しぶりだね」

 と返したものの、異形たちの存在を無視できず、再度、坂のほうに顔を向けた。

 異形たちの姿はなかった。

「どうかしたんですか?」

 不審そうに尋ねられ、隼人は瑠奈に正面を向けた。

「どうもしないよ。問題ない」

 気のせいだった、と思わざるをえなかった。それよりも、この動揺を悟られたくない。

「ところで、蒼依はまだ来ないのかな?」

 瑠奈が蒼依と同じクラスであることを、隼人は知っていた。まして瑠奈は、小学生時代からの蒼依の友人である。友人同士が放課後の談笑をともにして当然のはずだ。

「蒼依?」

 つぶらな瞳に一瞬の逡巡があった。

「一緒にいたんじゃなかったの?」

「え、ええ。わたし、進路相談で、担任の先生と会っていたんです」

 瑠奈の顔から笑みが消えていた。

 この微妙な空気には思い当たる節があった。しかし、隼人はそれにはふれず、話題を変えることにする。

「そうか、二年生にもなると、さっそく先のことを考えなくちゃならないもんな」

「はい」

 うつむき加減に瑠奈は答えた。

 車で送ってやるべきだろうか――隼人は考えあぐんだ。蒼依と同乗させるのは無粋かもしれない。

 瑠奈の自宅はここから西へ二キロ弱の距離だ。隼人の記憶では、彼女は徒歩で通学しているはずである。このまま帰してしまうのも、気後れがあった。

「よかったらおれの車で――」

 隼人が言いかけた途端に、瑠奈は首を横に振った。

「いえ、いいんです。三キロ以上歩くのが、毎日の目標なんです。せっかくのご厚意なのに……すみません」

 そして深々と頭を下げる。

 だが、隼人の脳裏には先ほどの光景が残っていた。あの坂を一人で歩かせるのことに機具を抱くのは当然だろう。

「あのな瑠奈ちゃん、あの坂には……」

 言いかけて口をつぐんだ。目にした自分でさえ半信半疑なのだ。

「あの坂が、何か?」

 瑠奈は首をかしげた。

 もう一度、坂のほうに目をやる。やはり、変わった様子はない。見間違えたのだ、と再認識する。

「いや、なんでもない」

 隼人は瑠奈に顔を向けた。

 見間違いに固執する必要はない。ならば、瑠奈の言い分が真実であるにせよそうでないにせよ、笑顔で見送ってあげるのが今の隼人にできるすべてだ。

「瑠奈ちゃんの目標があるのなら、ここで見送るよ。じゃあ、気をつけて」

「ありがとうございます」

 顔を上げた瑠奈は、わずかに紅潮していた。

「またな」

「はい」

 坂のほうへと歩き出した背中を見送りつつ、隼人は目を細めた。

 初任給で手に入れて以来ずっと愛用しているアナログ電波腕時計を見ると、蒼依にタイムリミットを告げてから五分が経過しようとしていた。

 瑠奈の背中が坂の下へと消えた直後に、「ごめーん」と黄色い声が上がった。

 校舎のほうから正門に向かって駆けてくる制服姿の少女がいた。左肩に提げたスクールバッグを揺らして走るストレートボブの彼女が、蒼依である。

 妹の姿を認めた隼人は、そそくさと運転席に戻り、ドアを強めに閉めた。

「間に合ったあ」

 助手席に収まった蒼依が、ドアを閉じながら言った。

「さっさとシートベルトを締めろ」

 自分のシートベルトを装着しつつ、隼人は蒼依を横目で睨んだ。

「あれ、もしかして怒ってんの?」

 スクールバックを膝の上に載せた蒼依が、言われるままシートベルトを装着する。

「おれはな、忙しいのに呼ばれたんだぞ。それにへらへらとしたその態度はなんだ」

 加えて、この場所にいる不快感と、蒼依と瑠奈との確執に気遣わなければならない事態があった。留意はしていたものの、憤りを抑えるのはやはり困難である。

「だから、ごめんって謝ったじゃん」

 無精そうに蒼依は釈明した。

 それに答えず、隼人は再度、愛車をUターンさせた。

「え、どこへ行くの?」

 助手席から焦燥の声をかけられた。

「そこの坂道、なんだか気持ち悪い。国道を通って帰る」

 アクセルを踏みながら、隼人は答えた。

 瑠奈の安否が気になるが、「あれ」は自分の気のせい、と判断したばかりである。あの坂を忌避したのは、間違いなく瑠奈に追いついてしまうからだ。

「忙しい、だなんて言っておいて、何それ?」

 蒼依は頬を膨らませた。

 応対するつもりはない。返せばまた憤りが湧き上がるだけだ。

 無言のまま、隼人はハンドルを握り続けた。


 太平洋沿岸で関東地方の最北端に位置するここ神津山市は、山林が総面積の八割を占めている。太平洋と山間部に挟まれたわずかばかりの平野部は、南北に細長い。現在の総人口は八万人強だ。それでも、市内に点在する市街地はどこも閑散としたありさまである。

 大島団地は神津山市の平野部、下手縄しもてなわにあった。八百戸余りを擁する新興住宅地だが、大半の家屋が築三十年を超えている。隼人の自宅は築二十年ほどであり、この団地の中では新しいほうだろう。

 夕日がいくつもの外壁をオレンジ色に照らしていた。まるでパステル画のようなその色彩は、毒々しくも美しい。目がくらみそうになるのをこらえつつ、隼人は愛車をバックでカーポートに収めた。

 ――おやじ、今日は早いな。

 向きを同じくして右隣に停めてある銀色のSUVは、隼人の父、行人いくとの車だ。無論、排気量や高級感で隼人の愛車が行人の車に太刀打ちできるはずがない。だが隼人にとっては、自分の稼ぎで購入したこの黒い軽トールワゴンのほうに、何ものにも代えがたい価値があった。まして新車で手に入れたのだから、なおさらである。

「ありがと」

 隼人がエンジンを切った直後に、蒼依が小声でそう言った。会話のないまま自宅に着いてしまったが、さすがに礼の一言は口にせずにいられなかったらしい。

「ああ」

 無視するのも忍びなく、重い口調ながら答えた。

 蒼依に続いて車を降りた隼人は、スマートキーでドアをロックした。こんなありきたりの所作が、自転車通勤をしていた去年の暮れまではなかった。マイカー通勤は確かに楽だが、維持費やローンで経済的に余裕がなくなったのも事実だ。

 蒼依に先立って玄関に入ると、人の声が聞こえた。行人の声ではない。若い男のものらしい。

 隼人はリビングダイニングキッチンのドアを開け、足を踏み入れた。蒼依がその隼人の隣に並ぶ。

 テレビが点いていた。ニュース番組だ。千葉県で起きた交通事故の報道をしている。声の主はニュースキャスターだった。

 ソファにふんぞり返っているトレーナー姿の行人が、テレビから自分の子供たちに視線を移した。

「おう、一緒に帰ったか」

 行人が声をかけてきた。

「ただいま」

 蒼依が言った。

 いつもの我が家の風景である。

 隼人はどうにか気分を落ち着けようとするが、気の利いた言葉が見つからない。

「ただいま」とりあえずは、決まりきった挨拶をした。そして、思ったままを口にしてみる。「こんな時間に帰っているなんて、もしかして明日は早出なの?」

「そうなんだ。五日間の予定で関西のほうを回ってくることになった」

 答えた行人はすぐにテレビに視線を戻した。

 行人は大型トラックの運転手として運送会社に勤めていた。日帰りの運送が主な職務だが、二カ月に一度程度、長距離運送の仕事が割り当てられる。

「しかも金、土、日、月、火……週末を跨いでいるじゃん。そりゃまた大変だね」

 肩をすくめつつ、隼人は言った。

「まあな。火曜日の夜には帰ってくる予定だけど、遅くなりそうだな。その日、おれはどこかで食ってくるから、おまえらは勝手にやってくれ」

「でも、今日は早く帰ってきたんだから、飯の支度くらいしてもいいんじゃないかな」

 意見した隼人は、ドアを閉じ、その場に立ったまま行人の反応を待った。

「おいおい、おれが帰ってきたのは、ほんの十分前だぞ。それに今日の当番は隼人じゃないか」

 苦笑する行人に隼人はにこりともせずに頷く。

「冗談だよ。すぐに始める」そして蒼依に顔を向けた。「風呂に入っておけ。夕飯、速攻で作るから」

「うん」

 消沈した様子で頷いた蒼依が、リビングダイニングキッチンを出ていった。

「何かあったのか?」

 すかさず行人が尋ねてきた。

「なんでもない」

 得心のいかない様子の行人を尻目に、ナイロンジャケットにジーンズという姿のまま、シンクの前に立って手を洗った。

「えーと」

 主菜は隼人の好物のタンドリーチキンだ。鶏肉は朝のうちに下ごしらえを施してある。

 材料を用意しようと冷蔵庫のドアに手を伸ばしたが、ふと、その手を下ろした。

「なあ、おやじ」

 隼人は行人に顔を向けた。

「うん、なんだ?」

 テレビから目を逸らさずに行人は口を開いた。

「超常現象って信じる?」

「超常現象か?」

 含み笑いがあった。

「例えば、幽霊とかお化け。で、信じるとか信じない以前に、そんなありえないものを見ちゃったことがある、とかさ」

「何か、見たのか?」

 テレビを見たまま、行人が固まっていた。

「あの、おやじ……」

 言葉を失ってしまった。行人の反応をどう受け取ってよいのか、わからない。

「あ……なんだっけ? 幽霊とかお化け、って言ったのか?」

 隼人に顔を向けた行人が、笑みを浮かべた。明らかに不自然な表情だった。

「そうなんだけど……やっぱりいいや。気にしないで」

 隼人は取り繕うと、冷蔵庫を開け、鶏肉の入っているボールを取り出した。

「いいのか?」

「うん」

 行人に背中を向け、頷いた。

 神津山第二高等学校の前で見たものが何か、誰かに聞いてほしかっただけなのだ。しかし現実的に考えれば、絵空事である。精神に異常を来した、と思われるかもしれない。ただでさえ、これまでも迷惑をかけてきたのだ。行人にこれ以上の心配をかけるのは心苦しい。

 行人に背中を向けたまま、作業を開始した。

 テレビはCMに入っていた。

 聞き慣れた軽やかなCMソングが流れている。

 行人は何も言わない。

 味わったことのない空気を背中に感じつつ、隼人は料理にいそしんだ。


 夕食が済み、風呂から上がった隼人は、二階の自室に引き上げた。カーテンを少しだけめくり、夜の帳に包まれた界隈を見る。街灯の明かりを背にして家屋のシルエットが連なっていた。

 部屋の照明を点けて、カーペットの上にあぐらをかいた。

 ベッドの下からブリーフケース大のクリアボックスを取り出し、ローテーブルの上でふたを開ける。

 ぎっしりと押し詰められているのは、ブルーレイディスクのケースだ。刑事ものから戦争もの、カンフー、SF、時代劇に至るまで、国内外を問わず、どれもがアクション映画である。上下ともジャージという油断しきったこの姿でアクション映画を鑑賞する――これが隼人にとって一日で一番くつろげるひとときだった。

 隣の蒼依の部屋でドアを閉じる音がした。その直後に隼人の部屋のドアがノックされる。

「お兄ちゃん、いい?」

 蒼依の声だ。

 この時間を失うのは惜しかった。しかし無下に断ることもできず、隼人は答える。

「少しなら、いいよ」

「邪魔……だった?」

 ロングTシャツにジーンズの蒼依が、ドアを開けてこそこそと入ってきた。そして、階下の様子を伺い、そっとドアを閉じる。

「おやじは風呂か?」

 隼人が問うと蒼依は頷いた。

「今、入ったところ」

「ということは……」

 うんざりとし、うなだれた。

 月に二度ほど、蒼依は行人の目を盗んで隼人に金を無心していた。蒼依の毎月の小遣いは行人が出しているが、それが足りなくなると、こうしてやってきては、隼人に両手を合わせるのだ。大概が千円程度の金額だが、「貸して」ではなく「ちょうだい」である。率先して家事をこなしてくれる妹へのせめてもの感謝として、できるだけ彼女の要求を受け入れているが、財政次第ではままならない場合もあった。

「今のおれ、財布が軽いんだけど」

 現状を伝えた。車を購入してからは、そう答えることが多い。

「そんなんじゃないよ」

「じゃあ……あれか、明日の夕食当番はおやじだったけど、たぶん自分がやらされると思って、前もっておれに明日の当番を頼みに来た、とか?」

「違うってば」じれったそうに言った蒼依がすぐにタンスの上に視線を移し、「あああああっ!」と黄色い声を上げた。

「変な声、出すなよ」

「まだ開けていない」

 蒼依はそうこぼした。

「え……ああ……」

 得心がいき、隼人もタンスの上を見た。

 それは、リボンのついた白い紙袋だった。先週の火曜日に誕生日のプレゼントとして蒼依から贈られたものだ。手編みのマフラーが入っているらしい。

「五月にマフラーは使わないだろう」

「中身を手に取るくらいしてくれたっていいじゃん。感想を聞きたかったのになあ。まだ見ぬ彼氏には、ちゃんとしたものを贈りたいんだからね」

「おれは実験台かよ」

 何より、手編みのマフラーなど蒼依らしくないのだ。手に取ることはおろか、目にするのでさえ気が進まない。

「お父さんからもらったプレゼントは早々に食べたくせに」

 蒼依は頬を膨らませた。

「ケーキはプレゼントじゃねーし。それに、すぐに食べて当然だろう。蒼依だって食べたじゃないか。まったく……」目まいがしそうだった。「ところで、何か用事があったんじゃないのか? ようやく一番風呂をおれに譲る気になった、とか?」

「絶対にありえない。我が家の入浴は、若い順……って決まっているんだから」

 真顔の反駁だった。

「わかったわかった。それで、用件は?」

 促すと、蒼依は思い出したように自分の両膝をぽんと叩いた。

「あ、そうだった」蒼依は深刻そうな表情を浮かべ、背筋を伸ばした。「ちゃんと謝ったほうがいいな……って思ってさ」

「おれが迎えに行ったときのことか?」

「うん。あたしが悪かったよ。本当にごめ――」

「もう謝っただろう」

 隼人は蒼依の言葉を遮り、軽くため息をついた。

「だって、夕食の間、お兄ちゃんもお父さんも、ずっとむっつりとしていたもん。お父さんにもあたしのこと話したの?」

「蒼依のことじゃないよ」

「なら、何があったの?」

「気にするな」

「気にするに決まってんじゃん。家族なんだよ」

 語気が強まっていた。

「そりゃそうだけど」

 見たままを伝えるべきか、躊躇した。蒼依は調子に乗ることが多く、興味半分で話を聞き出そうとしている節もある。とはいえ、口は堅いほうだろう。自分の妹を信じることにし、隼人は言う。

神二高かみにこうの前でおまえを待っているときに、妙なものを見たんだ。そのことをおやじに話したんだ。まあ、詳しくは話さなかった……というか、ありえないものを見た、としか言っていない」

「ありえないもの?」

 聞き返され、隼人は頷く。

「ああ。ばかげていると思うだろうけど。ばかげた話だから、おやじも呆れてむっつりしちまったんだよ」

「言ってみてよ。ばかげているだなんて、あたしは思わないから」

 行人のあの反応があったばかりという状況では、なんとも心強い言葉だった。

「幽霊みたいなやつだった」

 言ってみたものの、適切な表現だったのか否か、自信がない。首をかしげつつ言い直そうとしたが、蒼依はすぐに反応した。

「幽霊……つまり、生きた人間ではない、ということ?」

 尋ねつつ、蒼依は隼人のベッドの端に腰を下ろした。

「よくわからないんだけど、幽霊というか、体が透き通っていたんだよ」

「透き通っていたっていうことは、海にいるクラゲみたいな?」

 隼人が受けたイメージそのものだった。

「そう、そんな感じだ。骨とか内臓まで見えたんだ」

「えー、何それ。幽霊というより、妖怪じゃん」

 蒼依は顔をしかめた。

 もっともな意見である、とは思いつつ、自分自身がまだ理解できていないことを隼人は認識する。

「ていうか、それってどんな姿をしていたの?」蒼依は問う。「幽霊みたいなやつ、って言っていたじゃん。つまり人の形?」

「うん、人だよ。子供だった。しかも二人だ。どっちも、たぶん男の子だよ」

「男の子が二人で、どちらの体も透き通っていた。そういうこと?」

「ああ、そうだ」隼人は頷いた。「それから、二人のうちの一人は一つ目だった」

 最後の部分は口にしなければよかったのかもしれない。現に蒼依はじっと隼人を見つめている。やはり疑っているのだろう。

「聞かなかったことにしてくれ」隼人は口走った。「仕事で疲れていたからなあ。きっと気のせいなんだ」

 もしくは、頭に血が上っていたための見間違いという可能性もある。

「一つ目だなんて、やっぱり妖怪じゃん。ていうか……」

 蒼依は隼人から視線を逸らした。遠くを見つめている。

「蒼依、どうした?」

「それって」蒼依の瞳が、再び隼人をとらえた。「みえん坂の一つ目小僧だよ」

「みえん坂……そういや、あの坂にはそんな呼び方があったな」

 とはいえ、在学中でさえ、あの坂をその名で呼んだことはほとんどない。

「なんでみえん坂っていう呼び方なのか、それはわからないけど、あの坂で一つ目小僧を見た、っていう噂があるんだよ」

 少なくとも、そう訴える表情に偽りは窺えない。

「おれ以外にも見た人がいる、っていうことか?」

「あくまでも噂だけど、神二高の生徒の誰か……一人だけじゃなくて、三、四人が目撃したらしいよ。でもね、複数の生徒が一緒に見たのか、それぞれが違う時間に見たのか、それはわからない。あと、車で通りかかった人が目撃した、っていう噂もあるんだ」

 しかし、たとえ目撃例が多くても噂なのだ。それら目撃例のすべてがでたらめである可能性もある。

「神二高の生徒の誰が見たのか、まったくわからないのか?」

「あたしと同じ二年生に該当者はいないと思う。たぶん、一年生か三年生だよ。ある意味ばかばかしすぎてうかつに訊けない、っていうのもあるけど、見たことを言い広めようとすると神隠しに遭うんだってさ。だから見た本人は誰にも言えないんだとか。言えないから、誰が見たのかわからないんだよ」

 もっともらしい口調だが、隼人は首をひねった。

「だったら、みえん坂で一つ目小僧を見た人がいる……なんていう噂が立つわけないじゃん」

「そうか」

 蒼依は頷いた。

「それに神隠しの話が事実なら、蒼依やおやじに話したおれも、神隠しに遭うんじゃないのか?」

「そ……そうだよ、お兄ちゃん。言っちゃだめじゃない」

 焦燥が表れていた。

「あのな……言ってみてよ、って催促したのは蒼依のほうだぞ」

「だって、一つ目小僧を見ただなんて、想像もしなかったんだもん」

「まあ、いいよ。神隠しなんて、あるわけないし」

「じゃあ、自分が見た一つ目小僧も、信じないの?」

「気のせいだと思っている。でも、ほかにも見た人がいるかもしれないんではなあ」

 気づけば、あの異形を肯定しようとしている自分がいた。もっとも、まだ受け入れられる段階ではない。

「そうだよね。あたしがお兄ちゃんの立場だったら、やっぱり、すぐには信じられないと思う」

「だよな」と区切りをつけたところで、隼人は問う。「でさ、噂の中での一つ目小僧って、おれが見たのと同じ感じなのか? 体は透き通っていたのかな?」

「あ……そういえば、灰色の肌だったそうだよ。服は着ていないみたい」

「服を着ていないのは、同じだな。でも、透き通っていないのか」

「それにね、一つ目小僧は一人だったって。お兄ちゃんはもう一人の子供がいたって言っていたけど、そっちは一つ目小僧じゃないの?」

 半透明なうえ全裸だったが、普通の子供のように見えたはずだ。しかし今は、確信が持てない。

「たぶん……一つ目小僧じゃない」

「はっきりとはわからないんだね?」

「ああ」

 素直に首肯した。記憶がおぼろであること自体が、はっきりとした事実である。

「姿形はどうなんだ?」隼人は尋ねた。「一つ目小僧の目玉が突き出ている、とかさ」

「そう、それ。それは同じだよ。大きな目玉がね、短い管のようなものの先についているんだって」

 蒼依の言葉を受けて、隼人は気が遠くなりかけた。

「なら」我を保ちつつ、隼人は言う。「透き通っていようといまいと、噂の一つ目小僧とおれが見た二体のうちの一体は、おそらく同じものだな」

「つまり」

 蒼依は隼人を促した。

「普通でない何かをおれが見たのは、間違いない」

 日常が反転してしまったような気がした。言葉にしたことで、それを実感する。

「なんだか怖いな」蒼依はうつむいた。「本当にいたんだね、一つ目小僧」

「一つ目小僧というか、おれたちがテレビや本で見知った姿じゃないけど、一つ目の小柄な何かであるには違いない」

「そういえば、噂では、目玉が突き出ているだけじゃなくて、軟体動物みたいにぐにゃぐにゃしているんだって」

 うつむいたまま、蒼依は横目で隼人を見た。

「タコとかイカみたいな?」

「そんな感じ。手だか足だかわかんないけど、ぐにゃぐにゃとしていたんだって」

 蒼依はさらにこうべを垂れた。小刻みに震えているのが見て取れる。

「おれは、そこまでは見えなかったな」

 気休めにもならなかったに違いない。蒼依はまだ震えている。へたな取り繕いはしないのが無難だ。

「とにかく、みえん坂に何かがいる可能性はあるということだ」そして隼人は、付け加える。「しばらくはあの坂を歩くのはやめておけ」

「じゃあ、どうやって学校まで行くの? 正門の前のバス停に止まるバスは、南中之郷駅から来るやつだよ。あたしはあの坂を登下校に歩かないとならないもん」

「おれが送り迎えしてやるよ」

 躊躇せずに申し出た。

 しかし、蒼依はうつむいたまま首を横に振る。

「お兄ちゃんが大変じゃん。今日は図に乗ってお願いしちゃったけど、ほかのみんなだって普段はあそこを歩いているんだし、送り迎えしてもらわなくても大丈夫だよ」

 面倒なのは事実だ。しかも、朝ならまだしも、帰りは時間が合わなくなることが多いはずである。

「でもな蒼依、あんなのがいるんじゃ」

「朝も帰りも、美羅みらたちと一緒だから大丈夫だって。それに、噂されるようになったのは去年の春からなんだよ。でも、これまでの間、目撃した人は何人かいたにしても、襲われたとか、そういった被害に遭った人がいるなんて、聞いていないし」

「それはそうだろうけど」

 確かに、神津山第二高等学校の付近で誰かが襲われた、などという情報はない。おそらく、瑠奈も無事に帰宅しただろう。

 そこで隼人は、たまらず尋ねてしまう。

「なあ、美羅って、前にうちに来たことのある野村のむらっていうやつだろう? あの野村も含めたグループに、瑠奈ちゃんも入ってたよな?」

「え……」

 蒼依は顔を上げ、隼人を見た。蒼白な顔色である。

「やっぱりな。おまえら、瑠奈ちゃんを省いているのか? そうなんだろう?」

 声を荒らげそうになったが、無理に抑え込んだ。

「なんでそんなことを聞くの?」

「今日、正門の前で蒼依を待っているとき、瑠奈ちゃんに会った。一人で正門から出てきたんだ。最近のおまえ、瑠奈ちゃんの話を避けている感じだったもんな」

「お兄ちゃんには関係ない」

 素っ気ない言い草だった。反感があるらしい。

「関係なくはない。おれだって小学生の頃から瑠奈ちゃんと顔見知りだ。幼稚園児の頃の瑠奈ちゃんと遊んだことだってあるんだぞ」

「これは瑠奈とあたしの問題なの」

 抑えた隼人に対して蒼依は口調を強めた。

 しかし隼人は、あえて静かに言う。

「違うな。二人だけの問題じゃない。おまえらのグループが、瑠奈ちゃんを省いたんだ。複数対単独だ。これって、いじめだぞ」

「そんなつもりじゃ……」

 口を濁した蒼依が、再びうつむいた。

「おれはぐれていた時期があったから大きなことは言えないけど、いじめだけはだめだ。集団で一人をいじめるなんて卑劣だ。蒼依、昔のこと、忘れていないよな?」

 絶対に忘れてほしくないからこそ、口にせずにいられなかった。

 うつむいたまま、蒼依は無言でこくりと頷いた。

「野村が主犯格なんじゃないのか?」

 この問いには反応がなかった。つまり、否定できないのだ。

「蒼依、弱くなったな。また昔とおんなじだ」

「え……」

 虚を突かれたように、蒼依は顔を上げて隼人を見た。

「自分まで省かれるのが、怖かった。だから、野村たちに合わせた。だよな?」

 蒼依は両目に涙を浮かべていた。そして、小さく頷く。

「おれは蒼依の味方だ。だから、蒼依が大きな脱線を起こしそうになったら、なんとしても軌道修正してやる。蒼依一人でどうにかできないときは、おれが手を貸す」

 胸の内をさらけ出し、隼人は口を閉ざした。これ以上の説教は口はばったいような気がする。

 蒼依は壁の一点に視線を定めた。そしてしばし無言で過ごしたのち、隼人に視線を戻す。

「お兄ちゃんの言うとおり、あたしは弱い。でも……自分でなんとかやってみる」

 自信はなさそうだった。とはいえ、そう告げられたのだから、任せるのが道理だろう。

「わかった」

 この話題に区切りをつける意味で、隼人はそう答えた。そして、最初の話題に戻ろうと考えるが、この空気では困難であることに気づく。

「化け物のことは、しばらく忘れたい。とにかく、みえん坂は気をつけて通ってくれよ。できれば、瑠奈ちゃんもあそこを一人で歩かせたくないんだ。それも蒼依に任せていいよな?」

「なんとかしてみる。で、あの――」

 頷いた蒼依が、何かを言おうとして、言葉を切った。

「どうした? 言ってみろよ」

 促された蒼依が、おもむろに口を開く。

「実はね、放課後の教室で、美羅たちと神津山の都市伝説について話していたの」

「神津山の都市伝説……なんだそれ?」

 初耳のトピックだった。

「神津山のあちこちで妖怪が目撃されたとか、神津山で神隠しがあったとか」

 蒼依はぽつりぽつりと話した。

「みえん坂の一つ目小僧も、そのうちの一つなのか?」

「うん」と返事はくれたが、疲労の色が窺えた。

「そうか、わかった。この続きはまたにしよう」

「でも……」

「疲れてんだろう? 明日も学校だし。もう自分の部屋に戻って休めよ」

「そうだね……そうしようかな」蒼依はベッドから腰を上げた。「えっと、明日はあたしが晩ご飯を作るから」

「いいよ。明日もおれがやる」

「だって今日はお兄ちゃんが作ってくれたじゃん」

「ちょっと言いすぎちまったからな。お詫びだ。それに明日も仕事は忙しくないから、たぶん定時で帰れるし」

「じゃあ、甘えちゃうよ」

 わずかながら蒼依の顔に笑みが戻った。

「そうしろ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 蒼依が出ていくと、隼人はクリアボックスをベッドの下に戻した。映画など見る気分ではなくなっていた。

「神津山の都市伝説」

 つぶやいた隼人は、あぐらをかいたままベッドの枕元からスマートフォンを取った。それなりに広まった噂なら、SNSやブログにアップしている輩がいるかもしれない。キーワードを絞って検索すれば、なんらかの情報が得られる可能性がある。

 さっそくインターネットブラウザを立ち上げ、「神津山の都市伝説」というキーワードで検索してみた。

 検索結果を示すページは三ページだけだった。しかも有用な結果は、上位の四つだけらしい。どれもがSNSでの投稿記事だ。

 検索結果を一つ一つ、つぶさに窺ってみる。

    *    *    *

 神津山のろくろ首って知ってる?

    *    *    *

 神隠しがあったと兄貴が騒いでいた。これって神津山の都市伝説?

    *    *    *

 神津山市内で幼稚園児が猫の化け物に食われたんだと。

    *    *    *

 神津山の都市伝説っていうのを聞いた。神津山の都市伝説をネットに載せてもすぐに削除されるらしいwww

    *    *    *

 それぞれの投稿には二、三のコメントがついているが、どれもが懐疑的な意見だ。無論、どの記事も隼人にとっては聞いたことのない話である。四番目の記事に至っては受けを狙った嫌いがあった。神津山の都市伝説をインターネットに載せてもすぐに削除されるのなら、これら四つの記事も削除されているはずではないか。とはいえ、蒼依が仲間と騒いでいたほどなのだから、関連する記事がもっとあってもよさそうである。みえん坂の一つ目小僧に関する記事さえないのだ。だとするなら、これら以外の記事はすでに削除されているのかもしれない。

「でもな……投稿した記事が消えるなんて」

 隼人はつぶやいた。現実的に考えるのならば、検索システムの問題であるとするべきなのだろう。 

 考えがまとまらないまま、ブラウザを閉じ、スマートフォンを枕元に戻した。

 所在なくローテーブルの上からリモコンを取り、テレビを点けた。ニュース番組がちょうど終わるところだった。続いて画面に映ったのは洗剤のCMだ。隼人はその映像に焦点を合わせながらも、自分が見た二つの異形を脳裏に浮かべていた。

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