第16話「そして再び、扉は開かれる」
アレヴィが目覚めたのは、昨夜遅くの病室とはまるで違った。客間と思しき和室の布団で、随分ぐっすりと眠っていたらしい。窓にはカーテンがかかっていたが、漏れ出る光はまだ太陽が昇っていることを告げてくる。
すっきりと頭が冴えたようで、睡眠時間は十分だ。
身体の疲労と、
身を起こして着替えたアレヴィは、すぐに部屋を出る。
ドアを出てすぐ、見張りと思しきアジア系の大男と目があった。こんな身分だ、監視くらいいて当然だと思う。そして、アレヴィを見てニカリと白い歯を見せた男は、監視の
「よう、よく眠れたかい? 腹は減ってないか」
「あ、どうも。おはようございます。ここは……聞かないほうがいいですよね、場所なんか」
「そうだな。セーフハウスが別件で全部塞がってるから、まあ……
「はあ」
なるほど、とりあえずは安全な場所のようだ。
イットーが秘密裏に関係を続けているだけあって、女将と呼ばれる女性には一定の信用がおける。
そんなことを考えていたら、急にアレヴィの腹の虫が鳴った。
こんな時でも腹は減るのかと、思わず苦笑が浮かぶ。
男は笑顔をさらにクシャクシャにして、豪快に身体を揺すって笑った。
「ハッハッハ! 下のキッチンに行けば飯があるぞ。俺ぁ、なにがあったかもお前が誰かも聞かねえ。だが、女将が客人として迎えてるんだ、もう監視の心配もないだろうさ」
「……俺が逃げるかもしれないってことは」
「そういう奴は、もうとっくに行動を起こしてる。そして、俺のこの手で頭蓋骨を砕かれてるだろうさ」
男はでかい拳を握って見せると、そのまま背を向けて行ってしまった。
その後を追いかけると、階段が見えてくる。内装の作りは随分と豪奢な感じもするが、豪華過ぎず気取った印象もない。ブルジョア階級ならちょっと背伸びすれば買えそうな、恐らく二階建ての一軒家だ。
そう思いつつ、無意識にアレヴィはポケットをまさぐる。
「あれ、携帯が……ああ、そうか。昨日の病院の時点で。……まあ、今は必要ないし、持ってないほうがいいか。……ん?」
ふと、階段を降りようとして人の気配に気付く。
階段の脇をそのまま二階の奥へ続く廊下に……女将がいた。
昨日の
アレヴィの視線に気付いた女将は、ドアの前から振り返った。
その手には、料理が並んだトレイを持っている。
なんだろうと思った時には、ポンとアレヴィの肩を叩いて監視の男は行ってしまった。彼が驚きもせず言及もしない、そしてそれをアレヴィにも求めたのは、きっとデリケートな事情があるのだろう。
女将は弱々しく
やはり、夜と昼とで全然印象が違う。
「お、おはようございます」
「おはよう、よく眠れたかしら? 車の中でぐっすりだったから、勝手に運ばせてもらったわ。あんまり熟睡してるから、目隠しもマスクも必要なくて助かったくらいよ」
「はあ。あの、その食事は」
「ん、ちょっとね……ボウヤもなにか食べるでしょう? すぐ用意するわ」
そう言って女将は、階段の方へと歩いてくる。
だが、その姿がアレヴィには、既視感を持って網膜に浸透してきた。彼女が食事を運んできた部屋のドアは、硬く閉ざされている。その中には、もしかして。
意を決して、アレヴィは聞いてみた。
普段なら、決して他者のプライベートになって立ち入らない。
面倒事は嫌いだし、そもそも他者とのコミュニケーション能力に自信がない。それでも、おずおずと失礼を承知で聞いてみる。
「あの……お子さん、ですか?」
「あら。私が子供のいるような女に……見える訳ね。嫌なものね、自分の家って。ここでは母親をやらなければいけないから、そういう仮面は私自身のイメージを損なうわ」
「お子さんは10代半ば、後半くらいで17、18くらいでしょうか。食事は頻繁に食べないみたいですね。そして……あの部屋にずっと引きこもってる。多分、男の子」
「お見事。でも、
簡単な話で、プロファイリングなどという大層なものでもない。
まず、食事のメニュー内容から、幼児ではないことは明らかだ。どのメニューも、
最後のは、勘だ。
アレヴィには、過去の自分が重なって見えたから、見えるままに言っただけである。
女将は脚を止めると、深い深い
申し訳なく思って、アレヴィも包み隠さず自分の心境と過去を吐露する。普段なら、絶対に他者には過去を話さない。ウェルにだって話したことがない。それなのに、この非常時で事態が全く好転していない中……名も知らぬ親子のことが気になったのだ。
「俺は、ずっと前……小さい頃から、不登校児で部屋に引きこもってました。成人してからも、少し」
「そう。今時珍しくないわ。あの子もだから、特別じゃない。小さい子供特有のあてこすり、かしら? それもかわいいと思える時もあったんだけど」
「お子さんの年齢は」
「17よ。もう、5年も出てきてないわ」
「10代の多感な少年時代は、子供扱いされれば不快に思い、大人扱いには反発を覚えるものです。俺が、そうだったから。そして、こうした子供たちにはモデルケースや前例がなく、どの子もそれぞれに複雑で特殊な事情を抱えています。彼らは、一般的な、とか、ごく普通の、というカテゴライズを嫌う」
「あら、ボウヤはカウンセラーだったの」
「ただの人生の先輩、ベテランの引きこもりなだけですよ」
そう言って、アレヴィは例のドアの前へと歩き出す。
アレヴィは開かずの扉の前に立つと、ノックをしてから語りかけた。
「ええと、こんにちは。俺はアレヴィ・ハートン。……
部屋の中で一瞬、物音がした。突然の驚きで動いた身体が、定位置にあったあらゆるものを崩す音。多分、アレヴィが想像するように、過去の自分と似たような生活環境がドアの向こうにある。座ったままで時々寝る、めったに動かぬ自分を中心に並べられた本やゲーム、おかしや飲み物……少し思い出して気恥ずかしい。
背後では女将も、意外そうに目を
「ボウヤ……警察だったの?」
「厳密には警察じゃないですよ。国際電脳保安機構は、その名の通り全世界規模の巨大な治安維持組織です。仮想空間とそれに関わる全てに対して、強い捜査権があります」
「……うちの子を逮捕するの?」
「警察じゃないんですから。それに……俺は自分がいた組織から今、追われています。ただ、少し話したいだけで。なにもできない今に
そんなことを喋ってると、小さな声が響いた。
すぐドアの向こうに密着している、少し背の低いところから声がする。
「……僕は、なにもしてない。あれくらい、みんなやってる」
やはり男の子だ。そして、予想通り10代の少年のようだ。
アレヴィは慎重に言葉を選びながら、できるだけ落ち着いてゆっくり話す。
「俺は君を外に連れ出したい訳じゃないし、まして捜査に来た訳でもない。この話を聞かずに、自分の居場所に戻ってくれてもいいんだ」
「なに、それ。新手の宗教?」
「かもしれない。まあ、変な宗教に
そうしてアレヴィは、鮮明に自分の過去を思い出す。こうして自発的に向き合うのは、初めてかもしれない。
「あるところに、凄く、凄く凄く子供思いの母親がいたんだ。一人息子に熱心に、習い事をさせて、勉強も助けて支えて……事情があって母子家庭だったけど、とにかく熱心だったんだ。そんな彼女は、信仰にも呪いにも思える、とあるものを信じてた」
返事は、ない。
しかし、聞き入る気配があると信じてアレヴィは言葉を続ける。
「彼女は、生産性というものが全てにおいて勝る価値観だと信じていた。簡単に言うと、社会での貢献度とか、他者との人間的な繋がりとか。そしてなにより、社会で働き金を稼ぐということとか。そうした生産性に優れてる人間が幸せになれると、信じていた」
「……それで? なんとなくオチがわかった、もういいよ」
「そう、君の考えてる通りだと思う。彼女の一人息子は、中学受験に失敗した。そのことで彼女は、失望と絶望を感じたんだ。その子にじゃなくて、自分にね。そして……さらなる生産性の追求と、合理と論理だけで完全武装することを息子に求めた」
そこから先は、もう彼女の……アレヴィの母親の出番はない。
アレヴィの母親は、部屋に食事を運んで往復する、ドアの向こうの人間になった。そして、それもやがて疲れて、フェードアウトしていったのだ。
「俺はね、生産性という言葉の定義があやふやだと思う。それに、正直そんなものがなくても死にはしない。この国では保障もしっかりしてるし、年金だって一時より随分と健全化した。働かざるもの食うべからず、なんて言うけど、あれは嘘さ」
「どうして?」
「金を稼ぎ、社会に貢献して、他者にとって精神的に有益な人間でいること……そのどれもが、本人自身の幸福を担保しないからだ。幸福でない人間は、誰も幸福にできない」
我ながらなんて説教をと思う。だが、事実だとも信じている。それは、この数日で自分の生きる状況が激変してしまったアレヴィが、考えるまでもなく感じることの一つだった。
「俺は実は、とある事件を追ってる。そして今、かなりまずい状況だ。大切な相棒を人質に取られたし、君のお母さんに助けてもらって身を隠してる。もうすぐここを出て、最後の戦いに行かなきゃいけない。だから」
「だから……?」
「一つ、君に頼みがあるんだ。約束して欲しい。俺がもし無事に戻ったら……なにか、最近のオススメを教えてくれないかな? 俺はゲームやアニメが好きでね」
「……引きこもりが端末にかじりついて、ゲームやアニメにばかりのめり込んでると思ってる? バカにして……それに、死亡フラグ。なにそれ、笑えない」
「俺にとってはゲームやアニメだって話で、なんでもいい。君が今、のめり込んでることを知りたいんだ。生産性なんか関係ない、俺は君がやってることの意味と価値とを、君と一緒に……お母さんに伝えられると思う」
女将に、言える
自分の母にさえ、言えるような気がする。
今、この逆境でそんな気がしたが、それを不思議には思えなかった。
その時、慌ただしく階段を上がってくる音が響く。
「おう、女将! すまん、ちと当局の動きが早い。使えそうなコンピューターを全部抑えれちまった。このままじゃ……なにか手を考えねえとな!」
振り向くと、そこにイットーがいた。珍しく
状況はかなり悪い。
イットーは、仮想現実へ再び入り込むための端末や機器を手配していたと語る。しかし、彼のあらゆる人脈に警察が先回りしていたのだ。その背後には恐らく、エクソダス計画の
全感覚を仮想現実に投入して、人格と精神を肉体から切り離すには、それなりの設備が必要だ。そのことを話していると、女将は矢継ぎ早に見張りだった男に指示を出す。この瞬間にも今、この家に警察が押しかけてきそうな緊張感が満ちる。
「クソッ、おいアレヴィ! 他に手はねぇか? ラッキョの方で持ってる機材は」
「駄目でしょう。俺らは窓際の
このままでは、ウェルを助けに行けない。平成オンラインの抱える闇も、より深く濃く沈んで消える。何事もなかったように、世界の秩序は非人道的なシステムを前提に維持される。不稼働市民のネット棄民政策など、言語道断だ。
その時……アレヴィの背後で部屋のドアが開いた。
「……接続環境、あるけど……その、僕の、部屋に……あるけど」
振り返るとそこには、色白の
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