第8話「生産性という名の呪縛」

 結局あのあと、ウェルとは少しだけ打ち合わせをして、早々とアレヴィはベッドに入ってしまった。

 備え付けの端末で色々と調べてみたが、平成オンラインに関しては謎が多い。

 そもそも、謎を探そうとする中でわかるのは、普通のネットゲームだということだ。

 接続料は月額固定、規定通り24時間以上の連続接続は不可能。ログインしたらある程度の資金が配られるが、課金で増やすことも可能だ。そうして、所持金で100年前の平成と呼ばれる時代を体験する。文化に触れて遊び歩き、旅やグルメを満喫する。

 ただそれだけの、懐古主義者の楽園のようなゲームが、平成オンラインだ。

 自分の直感は、空振りだったかもしれないとアレヴィは思う。

 世界規模で発生した70万人以上の電脳失踪者が、この平成オンラインに集められている……そう感じたのは、データからの推論と、かんだ。あれだけの大事件で仮想現実バーチャルリアリティに大して国際世論がネガティブな中、全く接続数が変動していないゲーム……それは、他のコンテンツを見ればありえなかった。そして偶然なのか、失踪した誰一人として、平成オンラインのユーザーはいない。国も民族も別々な不特定多数の、誰一人として。


「……でも、よく考えたらそんなゲームはゴマンとある訳だ。それだけ人気がない、局所的なゲームとも言える。誰が好き好んで、100年前の日本に来たがるものかなあ」


 そうひとりごちて、ベッドの中で寝返りをうつ。

 隣の部屋にはまだ、ウェルの起きている気配があった。

 こうして考えてみると、ウェルと一つ屋根の下というのは、珍しいことではない。危険なアカウントを追いかけネカフェ巡りの日々もあったし、時には旧世紀の刑事ドラマのように、2人並んで車の中で一夜を過ごしたこともある。

 ウェルはアンドロイド、機械だ。

 その人格を尊重しているし、能力を尊敬している。

 だからアレヴィは、彼女にウェルという名を贈ったのだ。

 過不足なく、全てにおいて満足できる相棒……だから、ウェル。

 だが、彼女が時々アレヴィに大して不器用な好意をぶつけていることに、アレヴィ自身は気付かない。彼が時々思うのは、ウェルの相棒として自分が満足されているかという懸念だ。いらぬ心配だと笑えぬ視界の狭さ、視野の浅はかさが彼にはあった


「明日は、もっと地道に街での聞き込みとかをしてみるかなあ。……苦手なんだよな、人と話すの。それも、見知らぬ人に声をかけるのは……こういう、時は……ウェルの、出番、だな……」


 まぶたが重くなって、薄闇の寝室がゆっくりとぼやけてゆく。

 見るもの全てが滲んでゆく中で、アレヴィは眠りに落ちていった。





 混濁こんだくとする意識が、浅い眠りの中でヴィジョンを見る。

 徐々に色付き彩られてゆく、それは夢。

 ぼんやりとアレヴィは、過去の追憶を夢に見ていた。

 自分の過去だとすぐに知れるのは、そのことを鮮明に覚えていたから。心の一番深い場所に刻まれた、それは傷にも等しい原初の思い出。そして、母親という存在を初めて明確に定義した最初の記憶だ。

 冬の雪道を、幼いアレヴィは母に手を引かれて歩く。

 きしきしと雪を踏む音だけが、しばらく二人の間を行き交った。

 忘れもしない、確か六つか七つの頃だと思う。

 母は父と離婚し、女手一つでアレヴィを育てようと旅立ったのだ。


『いい、アレヴィ。父さんみたいになっちゃ駄目よ……生産性のない人間でいることも、そのことに疑問を感じないことも、決して許されない生き方だわ』


 前だけを向いて、母はアレヴィと歩く。

 その言葉は、自分自身に言い聞かせる呪詛のようだ。

 半分も意味がわからぬまま、当時のアレヴィはその一字一句を覚えた。

 そう、刻みつけられたのだ。

 それは古傷ではなく、今も定期的に胸の奥でんで出血している。


『世の中は経済なのよ。そうしたことわりの中で、生産性を否定することは生きることを否定すること。それは、許されることではないわ。そんな甘えた考えに、私のアレヴィを付き合わせる訳にはいかないの』


 ――生産性。

 それが母の口癖で、母とアレヴィを繋ぐくさりだ。

 アレヴィの父は優しい男で、よく一緒に遊んでくれた。裕福な家庭ではなかったが、父はよく本を読んでくれたのを覚えている。

 その父が、商業作家だったと知るのは、大きくなってからだ。

 いつも家にいた父は、小説家……売れない小説家だった。

 それでも彼は自分の書きたい作品を求めて、自分だけの物語にじゅんじた。

 原稿料は少なく、母は率先して外で働く中で、市場原理主義の荒波に揉まれて思想をこじらせていったのだ。そんな二人の破局は、必然だったのかもしれない。

 母は、一家の大黒柱を引き受けてから、変わってしまったのだ。


『いい? アレヴィ。好きなことをするにも、それを支える生活基盤が必要なのよ。毎日の寝床と朝昼晩のごはん、わかるわね? そういうものを得るためのお金が必要なの』


 小さいアレヴィにとって、それはいつも与えられるもので、不自由はなかった。

 しかし、父がそれをなかば放棄していたことも、母だけがそのために働いていたことも、知らなかった。小さい頃のアレヴィには、まだわからなかったのだ。

 ただ、時折真夜中に父と母が口論しているのを見たことがある。

 口論と呼ぶには一方的な、母による説教、罵倒ばとう叱責しっせき

 ただただ苦笑して謝る父が、そんな母の攻撃的ならしを加速させた。

 母は多くの場合、酒を飲んでいたことも原因だと思う。

 その母が、夢見るアレヴィの目の前で、幼少期のアレヴィを連れて歩く。

 寒い寒い夜だったのは、今もはっきりと覚えている。


『私はアレヴィをちゃんと育ててみせるわ、だからアレヴィ、あなたも頑張るのよ。これは投資、未来への投資なの。あなたが立派な大人になれば、あなた自身を幸せにするわ』


 返事すらできなくて、小さくうなずくしかできないアレヴィ。

 半分も理解できない話だったが、不思議とよく覚えている。

 生産性は母にとって、一種の信仰だった。

 信じるものは救われる、そう説いた宗教にも似て、母は妄信的とさえ言えた。幸せのために労働から対価を得るという手段が、次第に目的化してゆくのに時間はかからなかった。

 働くために働き、稼ぐために稼ぐ……そういう女性になっていったんだと思う。

 そうして得られた全てが、アレヴィに注がれた。

 勉強は勿論もちろん、無数の習い事でアレヴィは、文字通り組み立てられていった。


『幸せにならなきゃ、アレヴィ。私たち、幸せにならなきゃいけないわ。だってそうでしょう? 誰にも求められない中で書き続けるのは、生産性の否定よ。なんの意味もない……それで生きていけるほど、世界は優しくないわ。だから、アレヴィ』


 立ち止まった母が、不意に身を屈めて目線をアレヴィに並べる。

 じっと見詰めてくる母のひとみは、澄んで透き通っているのに、なんの色もなかった。

 ただ、彼女は幼いアレヴィの目を見て、はっきりと断言したのだ。


『誰かにとってメリットのある人間でなければ、誰からも求められはしないわ。生産性ってね、アレヴィ。お金だけの話じゃないの。そして、お金がなければそもそもなにも健全に成立しないのよ。だから、好きなことをするためにも、しっかり勉強しなきゃね』


 そして、夢が次第に悪夢へと変貌へんぼうしてゆく。

 アレヴィが母の信じる生産性に捧げた、初めての祈り……それは、自分自身を生贄とする終わらない儀式の始まりだった。

 知識と教養を詰め込んだ、ただそれだけの人間を突き詰める日々。

 その中で知らず知らずに疲弊ひへいしたアレヴィは、喜ぶ母の顔すら気付けぬままに閉塞へいそくしてゆく。そして、中学校の受験に失敗したのを契機に、完璧な優等生は自室から出られなくなった。

 そのことも今、はっきりと思い出せる。

 悲観にくれてドアの向こう側で泣き叫ぶ母は、生涯忘れないだろう。

 アレヴィの生産性を磨くために母は資金を投資し、アレヴィ自身も時間を惜しみなく投じた。そこに、挫折ざせつと失敗に対する備えも、敗北に対する許容の精神もありはしなかったのである。


『アレヴィ……それでは父さんと、あの人と同じになってしまうわ。部屋から出てきて……もっと、ちゃんとして。しっかりして頂戴ちょうだい、アレヴィ。それではなにも得られない、勝利者になんかなれないのよ』


 呪いの言葉となって、今もアレヴィを苛む過去の夢。

 それからのことを知っていても、過去のあの日は今に直結していた。

 何度でも悪夢となって蘇る記憶が、絶えず今のアレヴィをむしばんでいるのだ。

 気付けば絶叫と共に、アレヴィはベッドに身を起こす。





 寝汗ねあせに濡れた顔を両手に埋めて、アレヴィは身を震わせる。

 今が西暦2098年の日本で、電脳科学文明の最先端である仮想現実バーチャルリアリティに入っての一夜だということも、今は上手く認識できない。それだけ、平成オンラインと呼ばれるゲームの中はリアルで、そこに等身大の自分を再現されれば、記憶からは逃れられない。

 どこまでいっても逃げ切れない記憶が、絶えず定期的に追いかけてくるのだ。


「夢、か……また、この夢を見たのか。俺は……」


 鼓動と呼吸とが、アレヴィを裏切るように乱れて荒れる。

 それでも、大きく息を吸って、長く吐いて。そうして自分を落ち着けようとしていた時だった。不意に寝室のドアがノックされる。

 返事を絞り出すこともできぬまま、アレヴィは震えていた。

 寒くもないのに、全身が痙攣けいれんするようにわななく中……その少女はおずおずとドアを開く。ようやく顔をあげたアレヴィの前に、パジャマ姿のウェルが立っていた。


「あの、アレヴィ……大丈夫、ですか? 凄い声が聴こえました」


 ウェルは、水色のパジャマを上下に着ている。

 かなりサイズが大きいのか、袖も裾もダブダブに余っていた。

 そして、どうしてなのかすぐにアレヴィは察した。

 ウェルのパジャマは、自分が今着てるものと全く同じだ。つまり、この部屋に用意されたアレヴィのパジャマを彼女は着ているのだ。

 小柄ながらスタイルよく優雅な起伏を持つ少女は、なめらかな曲線で構成された身体をおずおずと近づけてくる。彼女がベッドに両手をつくと、わずかに木のきしむ音が響いた。


「アレヴィ、酷い汗です。……また、悪い夢を見たんですか?」

「また、というのは」

「夜は時々うなされてます。稀にですけど……仕事で一緒の時間、長いですから」

「ああ、そうだね……前から?」

「はい。でも、触れられてほしくなさそうでしたので。……でも、今は違います」


 そう言ってウェルは、ベッドの上に身を乗り出してきた。

 上体を起こしたままで震えるアレヴィの、その頬にそっと触れてくる。

 暖かく柔らかい手は、現実のウェルとはまるで別物だ。

 複合素材の人工皮膚特有の肌触りも、アンドロイドとして規制を受けた機械のような低体温もない。仮想現実の世界で、ウェルは今まで以上に人間だった。

 彼女はとうとう、ベッドの上に上がり込んでしまった。

 そうして、アレヴィをまたぐようにして身を寄せてくる。


「アレヴィ、あの……人には、人間には触れられたくない過去があると聞きました」

「うん、まあ。そうだねえ。これは人間に限ったことじゃなく、アンドロイドにだってそのうちできるよ。ウェルは稼働年数は確か」

「アレヴィのところで働かせてもらって、もう3年になります。その前は、ずっとアチコチをたらい回しでしたから……そんなに長くはないはずなんですが」

「その時のことを、触れられたくないと思わない?」

「……わかりません。ただ、毎日の中で思い出さなくて、それがありがたいと思ってます。そんな日々が訪れた理由も、はっきりと理解してる……つもり、です」


 見上げてくるウィルの胸元が、アレヴィのキャラクリエイトに忠実な起伏を盛り上がらせている。その谷間が、襟元に魅惑の肌色を広げていた。

 そして、言葉を続けるウェルの顔が近づいてくる。

 互いの呼気が肌をでる感触すら拾えそうな、間近の距離。そこに、うるんだ瞳へ星空を閉じ込めたウェルが迫っていた。


「アレヴィがどうして欲しいのか、わかりません。けど……わたしがどうしたいのか、わかります。アレヴィはわたしの上司で、相棒で、でもそれは仕事のパートナーという意味でしかなくて。今はまだ、それだけで」

「ま、待ってウェル。その、ちょっと……俺は大丈夫だから」

「わたしは平気ではいられません」


 それだけ言うと、ウェルのくちびるは言の葉をつむぐのをやめた。

 ただ、あせって言葉を選ぶ中で、何度も半端に開いたアレヴィの唇を塞いでくる。

 本来のアンドロイドなら、冷たいビニールのような感触だった筈だ。見た目にも美しい女性型アンドロイドは、人間性を感じ取れるような要素の多くを規制され、意図的に外されている。

 しかし、ウェルの唇はしっとりと暖かく、行き交う吐息は熱かった。

 突然のくちづけに戸惑どまどいつつ、アレヴィは先程とは別種の混乱で動悸が早まるのを感じる。呼吸は既に、ウェルに奪われたまま彼女の呼吸で満たされていた。

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