第9話「アンドロイドの涙」

 永遠にも思える、一瞬のくちづけ。

 わずか数秒の行為が、今までの数年を塗り替えていった。

 ゆっくりとくちびるを放したウェルは、薄暗がりの中でもわかるほど赤面にうつむいていた。

 だが、上目遣うわめづかいにアレヴィを見詰めつつ、彼女はパジャマのボタンに手をかける。

 動転してはいたが、それを止めようとする理性がアレヴィには残っていた。そして、ようやく気付く……目の前の少女が、自分をしたってくれていることに。彼女なりに、一生懸命なぐさめてくれようとしているのだ。

 過去の話は、あまりしたことがない。

 しかし、母と確執があって今は疎遠なことは、薄々とウェルは知っているようだった。


「あ、あのねえ、ウェル。その、ええと」

「……お嫌でしたか? アレヴィ。やっぱり、アレヴィはわたしにとっては、オフィサーであるだけが……いいですか?」

「いや、そんなことは。ただ、うん、ごちそう、さま?」

「なんで疑問形なんですか?」

「いや、だってほら、君は俺の大事なパートナーで、そういう食べるとか頂くとか、ぜん食わぬはなんとやらとか、そうした対象として見たことは」


 突然のことで、上手く思惟が言葉を象らない。

 伝えたいことをそのまま伝えることが、なんと難しいことか。

 電脳空間に仮想現実バーチャルリアリティを創造し、その中で機械の少女に完全なる生命を再現させているのに……彼女へ伝えるべき自分の気持ちが不完全な形でしか言葉にならない。

 不完全な言葉さえも、自分の中に探せない。

 そうこうしていると、ウェルは一つ、また一つとパジャマのボタンを外した。

 そして、ほおを赤らめながらじっとりとすがめてくる。


「あまり、見ないでください。そんなに見詰められると……恥ずかしい、です」

「あ、ああ! ごめんよ、ごめん。ええと、こういうことが慣れてなくてね、というか、初めてだからね。その」


 慌ててアレヴィは、目を、次いで顔を背ける。膝立ちに迫るウェルの下から抜け出て、ベッドに腰掛ける形で彼女に背を向けた。

 布団を抜け出た彼の身体が、久々の悪夢で感じた悪寒を忘れてゆく。

 突然のことで、純真に過ぎる想いを向けられているという、そんな想像力の暴走が彼を熱くしていた。

 ウェルはアンドロイド、人工知能AIだ。ひょっとしたら彼女は、単純に弱っている人間を助けようとしているのかもしれない。そんなマニュアルも規則も聞いたことがないが、アンドロイドなりの気遣いという可能性もある。

 好意だと自惚うぬぼれることができないくらいに、アレヴィには女性経験が全くなかった。


「……アレヴィ」

「は、はいい! な、なんでしょう」

「目を、そらさないでください」

「いや、だって……見ないでくださいって言うから」

「背を向けられると、ちょっと。その……じっと見ないで、そっと見てください」

「難しいことを言うなあ、でもどうして」


 肩越しにちらりと振り返れば、真っ白な肌が目に焼き付いた。

 普段のウェルの柔肌は、見たことがない。

 服を着込んで尚も露出する顔や手が、人工皮膚に覆われているのは知っている。しかし、うなじに並んだコード接続用のソケットを見る限り、全身が人間と全く一緒という訳にはいかないのもわかっていた。見えない場所ではメンテハッチがあったりして、そこは機械であることを主張する作りになっているはずだ。

 そういう知識があるからこそ余計に、下着姿になったウェルがまぶしい。

 ほんのり光っているような白い肌は、まるで淡雪あわゆきのようだ。


「アレヴィ、お願いがあります……わたしに、添い寝させてください」

「いや、そういう歳では」

「悪夢にうなされ泣いてる人間を、放ってはおけないですから。それに、わたし……アレヴィがそうだから、放っておけないんです」


 ウェルに言われて初めて、アレヴィは自分が泣いていることに気付いた。

 ほおが涙で濡れていた。

 それを手で拭っても、あとからあとから涙のしずくこぼれ出る。

 最も古い記憶は、今もって新しい傷だ。

 母とはついに、最後まで和解できぬまま大人になってしまった。挫折ざせつに負けたアレヴィに、母は寄り添ってはくれなかった。ただ、父と同じ生産性のない人間になりかけたアレヴィに対して、嘆いて悲観するだけだった。

 小さな自室に引きこもりながら、アレヴィが創作物だけで大人になった頃には……母とは、振り込まれる生活費だけのつながりしかなかったのだ。どうにか就職しての社会人生活で、国際電脳保安機構こくさいでんのうほあんきこう捜査官そうさかんとなった今も同じだ。アレヴィにとって母は、戸籍上こせきじょうの血縁者でしかない。

 そんなことを思いながら、ゴシゴシとアレヴィは涙をぬぐう。

 その背を、優しくウィルが抱きしめてくれた。

 耳元でささやかれる言葉が、浸透しんとうしてくる体温と一緒にアレヴィを温める。


「アレヴィ、仮想現実空間が実証を経て実用化された今という時代……その恩恵を受けているのは、人間だけじゃないんですよ?」

「と、言うと……その」

「わたしたちアンドロイドもまた、仮想現実の中では肉体の制約を忘れられる。バーチャルな空間では、人間もアンドロイドもデータの集合体ですから」

「……俺は、君を必要以上にアンドロイドだと認識したことも、過度に人間であれと望んだこともないよ。それでも……いつも、ありがたいと思ってるけどね」

「わたしもです、アレヴィ。そして、この平成オンラインの中でなら……わたしは、気持ちを表現することができる。アレヴィが作ってくれた、この仮初かりそめの肉体で」


 背にたわわな胸の膨らみが当たって、たわんでゆく感触がある。

 そういう豊かなバストラインを、ドット単位で調整して設定したのはアレヴィだ。しかし、職場で数値をいじっている時は、夢にも思わなかった。どうせ遊ぶならと、いつも女性キャラを作って、自分の理想に近い美女を生み出してきたアレヴィ。彼が作ったキャラをウェルが使うことも、こういう風に使ってくることも想定外だ。

 そのことはアレヴィに、ある意味で残酷な現実を思い出させた。

 現実世界から完全に切り離された、仮想現実だからこその現実。

 だが、ウェルは気付いていないらしい。

 こういう妙に抜けたところがあって、その愛らしさもアレヴィは好きだったが。


「あ、あのね、ウェル。その……添い寝してくれるっていう、君の気持ちは嬉しいんだけど。その」

「大丈夫です、アレヴィ。わたしも初めてですから!」

「いや、そりゃそうだろうけどさ。……アンドロイドに性交渉の機能は実装されていないもの。非合法な躯体くたいならまだしも、公的機関に近い国際電脳保安機構で運用される君は」

「問題ありません。すでに必要なデータを以前から収集し取り込んで、シミュレーションも完璧です。そして、条件もこうして整いました。お願いです、アレヴィ」


 しっとりと濡れたような声音が、鼓膜こまくを優しく撫でる。

 アレヴィとて聖人君子でもなく、ごくごく健康的な成人男子だ。その性癖や趣向はいびつかたよっているが、それだけで童貞どうていかたくなに守ってきた訳ではない。そうした機会に恵まれず、自分から機会をもうけようともしなかったからだ。

 だが、そんな彼を以前からウェルが、というのが素直に意外だった。

 人から好かれることなど、ないと思っていた。

 しかし、人を模して生まれたアンドロイドからの好意が、嬉しい。

 率直に言って、混乱する中で浮かれた喜びさえ感じるのだ。

 だからこそ、多少なりとも残酷な今という瞬間に向き合わねばならない。

 意を決して、アレヴィは振り向いた。ベッドの上には、下着姿のウェルが頬を赤らめている。その華奢きゃしゃな肩に両手を置いて、落ち着いてアレヴィは言葉を選んだ。


「あのね、ウェル。俺は、嬉しいよ。人に好かれて嫌な人間なんて、そういないからね。それはアンドロイドでも同じだと、俺は思う」

「はい……でも、わたしはまだアレヴィの気持ちを確かめてません」

「あ、いや! それは、その! ええと、うん、なんというか……」

「お仕事に不都合があるのもわかってます。アレヴィにも選択の権利がありますし……その、わたしは放り出されて配置転換っていうの、慣れてますから。平気です」

「俺は平気じゃないけどね。大事な相棒を取られたら、商売あがったりだ。君がいなきゃ、仕事をやっつけてく自信がないよ。君に、いて欲しい」

「アレヴィ……はいっ! わたし、これからもアレヴィのために頑張ります! 今夜から、頑張ります」

「それで、だよ? それで、なんというか……」


 笑顔を見せてくれたウェルがまぶしくて、直視できなくて。思わず目をそらしつつ、アレヴィはポリポリと頬を指で引っかきながら話を続けた。


「ウェル、その……このゲームは、平成オンラインは」

「全感覚投入型のネットゲームですよね! わたしみたいなアンドロイドでも、完全に人間へと置換ちかんされて再現されてます。つまり……アレヴィ、! わたし、以前からずっとアレヴィのことが」

「だから話を最後まで聞きなさいよ。気持ちは嬉しい、これは本音ね。それと、君が必要な人材で、大事なパートナーだというのも本当。だからこそ、という思いもあるけど」

「……ご迷惑だったでしょうか」

「いや、ただ……物事には順序というものがあるかなあ、と。それとね、ウェル」


 意を決して、真実を伝えようとすれば妙にあせる。

 ウェルは辣腕らつわんとも言えるほどに仕事の処理能力が高くて、アレヴィの足りない全てを補ってくれる。いつも、いつでも。だが、そんな彼女が情緒的には、まだ十代半ばくらいの少女でしかないのが現実だ。

 そして、この仮想現実で彼女が手に入れた人間の肉体は、完璧なものではない。

 どうして時々こうも抜けてるのかと、アレヴィはウェルを不思議に思う。

 その不思議な魅力にかれるが、ちゃんとした話が必要だった。


「ウェル、あのね……平成オンラインでは肉体がほぼ完璧に再現される。アンドロイドの君でも食事の制限はなくなるし、俺ら人間となんら変わらない状態になる」

「はいっ! だから、アレヴィとこれから……大丈夫です、優しくします! こう見えても、色々と見聞きして勉強してますので。ご満足いただけるよう、ベストを尽くします」

「それなんだけど……ウェル。言っただろう? ほぼ完璧に再現される、って。このゲームのアバターには、性交可能な身体機能はないよ? ついでに言うと、どんなアプリケーションでも、仮想現実での性行為は禁止されてるから実装されてない。……非合法なものを除いて、全てね」


 え、とウェルが目を点にした。

 そのまま彼女は、慌てて下着の中に股間を見下ろす。

 そして、そのまま真っ青になって固まった。

 かろうじて絞り出した声が、震えている。


「……ない。なにも、ない。つるつる、です……いつものわたしの躯体と、ほとんど一緒」

「うん。因みに俺にも、なにもぶら下がってないからね。仮想現実では食事で味覚と食欲を満たすことはできても、実際にカロリー摂取してる訳じゃない。そもそも、仮想現実で排泄はいせつする必要がないからねえ。ごくごく一部の性的趣向を持つ人以外は」

「つまり、じゃあ……アレヴィ! ちょ、ちょっと失礼します!」

「あ、ちょっと! はしたないでしょう、ウェル!」


 ウェルは涙目で、アレヴィのパジャマのズボンに手を突っ込む。

 勿論もちろん、握れるべきなにものもない。

 それを確認したら、ウェルは表情を失ったまま泣き出した。大きな瞳から、ボロボロと涙が零れる。


「あうう……そんなぁ。わたし、てっきり、てっきり……ううっ」

「規約、読まなかった? アカウントの作成手続き、ウェルがしたんでしょうに」

「特になにも……というか、その、ちょっと浮かれてて。それに、規約や説明書はわからなくなったら読めばいいって、いつもアレヴィが」

「あー、それは……すんません」

「ふええ……現実と違って涙も出るのに。胸だって、アレヴィがいじくって膨らませたからこんなに。でも、でもっ! 肝心なモノがお互いないなんて! これじゃわたし、馬鹿みたいです。馬鹿そのものです」


 アンドロイドは泣かない、泣けない。

 現実の世界で彼女たちは、無数の制約に縛られている。人間以上に美しくなることも、人間と同等である権利も持たないのだ。涙さえ流せぬウェルが今、仮想現実で得た人間の身体で泣いている。アンドロイドと同様に、仮想現実でのあらゆるコンテンツが厳しい法で規制されていた。

 人間は常に、新しいものに対する恐怖感と警戒心を持っている。

 それが必要以上に、新しさを攻撃的に支配するのだ。

 アレヴィはそんなことを考えながらも、手を伸べウェルの頭を撫でてやる。


「その、ウェル。泣かないでよ、俺も困る……それと。それとね、ええと……添い寝、してくれるんだよね?」

「えっ? アレヴィ、それは」

「全く、女の子が大胆なのはいいけど、大胆過ぎるのはいけないよ? 多くの創作物のヒロインがおおむねそうであるように、貞淑ていしゅく清楚せいそでなきゃ。勿論、俺だってそういうヒロインの方が安心するし。あ、でも……でもね、ウェル。率直に言って、その……嬉しいよ」


 泣いたままのウェルが、ぱぁぁ! と笑顔になる。

 そのまま彼女は、向き合ったアレヴィに抱きついてきた。


「わたしも嬉しいです、アレヴィ! わたしにとって、オフィサーである以上に、アレヴィは……だから、悪い夢にも泣かないように、わたしが添い寝してあげます!」

「じゃ、じゃあ、お願いしようかな。ええと……あくまで、添い寝だよ? いいね?」

「添い寝の定義について、もっとお互いに議論する余地がありますね。ほら……アレヴィが自分好みにデザインした胸とか、どうですか?」

「どう、って言われても……その、とりあえず寝よう。明日は聞き込みやなんかをして、一度現実にログアウトしなきゃ」


 これは大変なことになったと、アレヴィは内心困り顔で苦笑する。そして、それが不快でも嫌でもない。ただ、これから公私に渡りウェルとの接し方を考えなければいけない。それは、長らく母以外の異性と触れ合ったことがない青年には、酷く難しく思える。

 そしてふと、脳裏に母の言葉が過る。


 ――生産性のない行為や人間に、価値なんてない。


 それは、男女の仲でどのような意味をもつのか、今は考えないようにする。そうしてアレヴィは柔らかなぬくもりを抱いてまた横になる。胸の上で見上げてくるウェルが、いつもは見せない表情ではにかんでいるのが印象的だった。

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