第9話「アンドロイドの涙」
永遠にも思える、一瞬のくちづけ。
ゆっくりと
だが、
動転してはいたが、それを止めようとする理性がアレヴィには残っていた。そして、ようやく気付く……目の前の少女が、自分を
過去の話は、あまりしたことがない。
しかし、母と確執があって今は疎遠なことは、薄々とウェルは知っているようだった。
「あ、あのねえ、ウェル。その、ええと」
「……お嫌でしたか? アレヴィ。やっぱり、アレヴィはわたしにとっては、オフィサーであるだけが……いいですか?」
「いや、そんなことは。ただ、うん、ごちそう、さま?」
「なんで疑問形なんですか?」
「いや、だってほら、君は俺の大事なパートナーで、そういう食べるとか頂くとか、
突然のことで、上手く思惟が言葉を象らない。
伝えたいことをそのまま伝えることが、なんと難しいことか。
電脳空間に
不完全な言葉さえも、自分の中に探せない。
そうこうしていると、ウェルは一つ、また一つとパジャマのボタンを外した。
そして、
「あまり、見ないでください。そんなに見詰められると……恥ずかしい、です」
「あ、ああ! ごめんよ、ごめん。ええと、こういうことが慣れてなくてね、というか、初めてだからね。その」
慌ててアレヴィは、目を、次いで顔を背ける。膝立ちに迫るウェルの下から抜け出て、ベッドに腰掛ける形で彼女に背を向けた。
布団を抜け出た彼の身体が、久々の悪夢で感じた悪寒を忘れてゆく。
突然のことで、純真に過ぎる想いを向けられているという、そんな想像力の暴走が彼を熱くしていた。
ウェルはアンドロイド、
好意だと
「……アレヴィ」
「は、はいい! な、なんでしょう」
「目を、そらさないでください」
「いや、だって……見ないでくださいって言うから」
「背を向けられると、ちょっと。その……じっと見ないで、そっと見てください」
「難しいことを言うなあ、でもどうして」
肩越しにちらりと振り返れば、真っ白な肌が目に焼き付いた。
普段のウェルの柔肌は、見たことがない。
服を着込んで尚も露出する顔や手が、人工皮膚に覆われているのは知っている。しかし、うなじに並んだコード接続用のソケットを見る限り、全身が人間と全く一緒という訳にはいかないのもわかっていた。見えない場所ではメンテハッチがあったりして、そこは機械であることを主張する作りになっている
そういう知識があるからこそ余計に、下着姿になったウェルが
ほんのり光っているような白い肌は、まるで
「アレヴィ、お願いがあります……わたしに、添い寝させてください」
「いや、そういう歳では」
「悪夢にうなされ泣いてる人間を、放ってはおけないですから。それに、わたし……アレヴィがそうだから、放っておけないんです」
ウェルに言われて初めて、アレヴィは自分が泣いていることに気付いた。
それを手で拭っても、あとからあとから涙の
最も古い記憶は、今もって新しい傷だ。
母とはついに、最後まで和解できぬまま大人になってしまった。
小さな自室に引きこもりながら、アレヴィが創作物だけで大人になった頃には……母とは、振り込まれる生活費だけの
そんなことを思いながら、ゴシゴシとアレヴィは涙を
その背を、優しくウィルが抱きしめてくれた。
耳元で
「アレヴィ、仮想現実空間が実証を経て実用化された今という時代……その恩恵を受けているのは、人間だけじゃないんですよ?」
「と、言うと……その」
「わたしたちアンドロイドもまた、仮想現実の中では肉体の制約を忘れられる。バーチャルな空間では、人間もアンドロイドもデータの集合体ですから」
「……俺は、君を必要以上にアンドロイドだと認識したことも、過度に人間であれと望んだこともないよ。それでも……いつも、ありがたいと思ってるけどね」
「わたしもです、アレヴィ。そして、この平成オンラインの中でなら……わたしは、気持ちを表現することができる。アレヴィが作ってくれた、この
背にたわわな胸の膨らみが当たって、たわんでゆく感触がある。
そういう豊かなバストラインを、ドット単位で調整して設定したのはアレヴィだ。しかし、職場で数値をいじっている時は、夢にも思わなかった。どうせ遊ぶならと、いつも女性キャラを作って、自分の理想に近い美女を生み出してきたアレヴィ。彼が作ったキャラをウェルが使うことも、こういう風に使ってくることも想定外だ。
そのことはアレヴィに、ある意味で残酷な現実を思い出させた。
現実世界から完全に切り離された、仮想現実だからこその現実。
だが、ウェルは気付いていないらしい。
こういう妙に抜けたところがあって、その愛らしさもアレヴィは好きだったが。
「あ、あのね、ウェル。その……添い寝してくれるっていう、君の気持ちは嬉しいんだけど。その」
「大丈夫です、アレヴィ。わたしも初めてですから!」
「いや、そりゃそうだろうけどさ。……アンドロイドに性交渉の機能は実装されていないもの。非合法な
「問題ありません。
しっとりと濡れたような声音が、
アレヴィとて聖人君子でもなく、ごくごく健康的な成人男子だ。その性癖や趣向は
だが、そんな彼を以前からウェルが、というのが素直に意外だった。
人から好かれることなど、ないと思っていた。
しかし、人を模して生まれたアンドロイドからの好意が、嬉しい。
率直に言って、混乱する中で浮かれた喜びさえ感じるのだ。
だからこそ、多少なりとも残酷な今という瞬間に向き合わねばならない。
意を決して、アレヴィは振り向いた。ベッドの上には、下着姿のウェルが頬を赤らめている。その
「あのね、ウェル。俺は、嬉しいよ。人に好かれて嫌な人間なんて、そういないからね。それはアンドロイドでも同じだと、俺は思う」
「はい……でも、わたしはまだアレヴィの気持ちを確かめてません」
「あ、いや! それは、その! ええと、うん、なんというか……」
「お仕事に不都合があるのもわかってます。アレヴィにも選択の権利がありますし……その、わたしは放り出されて配置転換っていうの、慣れてますから。平気です」
「俺は平気じゃないけどね。大事な相棒を取られたら、商売あがったりだ。君がいなきゃ、仕事をやっつけてく自信がないよ。君に、いて欲しい」
「アレヴィ……はいっ! わたし、これからもアレヴィのために頑張ります! 今夜から、頑張ります」
「それで、だよ? それで、なんというか……」
笑顔を見せてくれたウェルが
「ウェル、その……このゲームは、平成オンラインは」
「全感覚投入型のネットゲームですよね! わたしみたいなアンドロイドでも、完全に人間へと
「だから話を最後まで聞きなさいよ。気持ちは嬉しい、これは本音ね。それと、君が必要な人材で、大事なパートナーだというのも本当。だからこそ、という思いもあるけど」
「……ご迷惑だったでしょうか」
「いや、ただ……物事には順序というものがあるかなあ、と。それとね、ウェル」
意を決して、真実を伝えようとすれば妙に
ウェルは
そして、この仮想現実で彼女が手に入れた人間の肉体は、完璧なものではない。
どうして時々こうも抜けてるのかと、アレヴィはウェルを不思議に思う。
その不思議な魅力に
「ウェル、あのね……平成オンラインでは肉体がほぼ完璧に再現される。アンドロイドの君でも食事の制限はなくなるし、俺ら人間となんら変わらない状態になる」
「はいっ! だから、アレヴィとこれから……大丈夫です、優しくします! こう見えても、色々と見聞きして勉強してますので。ご満足いただけるよう、ベストを尽くします」
「それなんだけど……ウェル。言っただろう? ほぼ完璧に再現される、って。このゲームのアバターには、性交可能な身体機能はないよ? ついでに言うと、どんなアプリケーションでも、仮想現実での性行為は禁止されてるから実装されてない。……非合法なものを除いて、全てね」
え、とウェルが目を点にした。
そのまま彼女は、慌てて下着の中に股間を見下ろす。
そして、そのまま真っ青になって固まった。
かろうじて絞り出した声が、震えている。
「……ない。なにも、ない。つるつる、です……いつものわたしの躯体と、ほとんど一緒」
「うん。因みに俺にも、なにもぶら下がってないからね。仮想現実では食事で味覚と食欲を満たすことはできても、実際にカロリー摂取してる訳じゃない。そもそも、仮想現実で
「つまり、じゃあ……アレヴィ! ちょ、ちょっと失礼します!」
「あ、ちょっと! はしたないでしょう、ウェル!」
ウェルは涙目で、アレヴィのパジャマのズボンに手を突っ込む。
それを確認したら、ウェルは表情を失ったまま泣き出した。大きな瞳から、ボロボロと涙が零れる。
「あうう……そんなぁ。わたし、てっきり、てっきり……ううっ」
「規約、読まなかった? アカウントの作成手続き、ウェルがしたんでしょうに」
「特になにも……というか、その、ちょっと浮かれてて。それに、規約や説明書はわからなくなったら読めばいいって、いつもアレヴィが」
「あー、それは……すんません」
「ふええ……現実と違って涙も出るのに。胸だって、アレヴィがいじくって膨らませたからこんなに。でも、でもっ! 肝心なモノがお互いないなんて! これじゃわたし、馬鹿みたいです。馬鹿そのものです」
アンドロイドは泣かない、泣けない。
現実の世界で彼女たちは、無数の制約に縛られている。人間以上に美しくなることも、人間と同等である権利も持たないのだ。涙さえ流せぬウェルが今、仮想現実で得た人間の身体で泣いている。アンドロイドと同様に、仮想現実でのあらゆるコンテンツが厳しい法で規制されていた。
人間は常に、新しいものに対する恐怖感と警戒心を持っている。
それが必要以上に、新しさを攻撃的に支配するのだ。
アレヴィはそんなことを考えながらも、手を伸べウェルの頭を撫でてやる。
「その、ウェル。泣かないでよ、俺も困る……それと。それとね、ええと……添い寝、してくれるんだよね?」
「えっ? アレヴィ、それは」
「全く、女の子が大胆なのはいいけど、大胆過ぎるのはいけないよ? 多くの創作物のヒロインが
泣いたままのウェルが、ぱぁぁ! と笑顔になる。
そのまま彼女は、向き合ったアレヴィに抱きついてきた。
「わたしも嬉しいです、アレヴィ! わたしにとって、オフィサーである以上に、アレヴィは……だから、悪い夢にも泣かないように、わたしが添い寝してあげます!」
「じゃ、じゃあ、お願いしようかな。ええと……あくまで、添い寝だよ? いいね?」
「添い寝の定義について、もっとお互いに議論する余地がありますね。ほら……アレヴィが自分好みにデザインした胸とか、どうですか?」
「どう、って言われても……その、とりあえず寝よう。明日は聞き込みやなんかをして、一度現実にログアウトしなきゃ」
これは大変なことになったと、アレヴィは内心困り顔で苦笑する。そして、それが不快でも嫌でもない。ただ、これから公私に渡りウェルとの接し方を考えなければいけない。それは、長らく母以外の異性と触れ合ったことがない青年には、酷く難しく思える。
そしてふと、脳裏に母の言葉が過る。
――生産性のない行為や人間に、価値なんてない。
それは、男女の仲でどのような意味をもつのか、今は考えないようにする。そうしてアレヴィは柔らかなぬくもりを抱いてまた横になる。胸の上で見上げてくるウェルが、いつもは見せない表情ではにかんでいるのが印象的だった。
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