第10話「二人の朝」

 重なる心音と心音。

 響き合う鼓動の、確かなぬくもり。

 覚醒かくせいの朝にまどろむアレヴィは、柔らかな匂いに包まれていた。窓ではカーテンの隙間から、新しい朝日の光が差し込んでいる。

 このまま起きるのがもったいないような、そんな一時だった。

 背後から背中を抱きしめてくれるウェルの胸が、パジャマを隔てて密着してくる。

 本来ないはずの彼女の心臓が、アレヴィの心臓と重なり合って交わる。

 ぼんやりとしながら、アレヴィは文字通りの夢見心地で愛しい体温に甘えた。


「……いや、でも起きなきゃ。何時だろう? 随分よく寝た気がする」


 肩越しに振り返れば、アレヴィに張り付くようにして、まるでしがみついてすがるようにウェルが眠っている。彼女はムニャムニャと言葉にならない声を口の中に呟き、ギュツとアレヴィに回す腕に力を込めた。

 愛らしい反面、これからの付き合い方について一考の余地がある、そう思うとアレヴィは苦笑するしかない。だが、それは悲観も楽観もない、決して悪くはない仲に思えた。


「ウェル、そろそろ起きようよ。えっと……その、そろそろ離れてくれないと、俺」

「ムニャァ……大丈夫ですー、オフィサー……待っててください、今このドラム缶を」

「……どんな夢を見てるんだ、いったい。悪夢じゃないみたいだけど、さあ」

「追手が……オフィサー、先に逃げてください。ここはわたしが……ムニャムニャ」


 耳元で甘やかにささやかれる寝言。

 無味無臭で無機質な雰囲気の普段とは違い、仮想現実バーチャルリアリティでのウェルからはいい匂いがする。現実と違って、たわわな胸の実りが柔らかい。

 自然とアレヴィは、男性として当然の生理現象に襲われた。

 実際には、そういう感覚があるのに、反応を示す肉体の一部が存在しない。

 股間に血液が集まってゆく感触だけはリアルなのに、そこに男性器がないのだ。

 そんな中で、より一層強くウェルが密着してくる。

 密接で親密な距離感が、限りなくゼロに近付き、それを越えようとしていた。


「と、とにかく、起こさなきゃ。ウェルの身体は、その身体能力だけはそのままに再現されてる。つまり……このままだと俺は絞め殺されてしまうんだからさ」


 そうやって言い訳めいた独り言で、正当性を確認する。

 どうにかウェルの腕の中で、振り返ろうとしたその時だった。

 どんどん自分の胸にアレヴィを圧縮しようとするウェルが、小さく叫ぶ。


「オフィサー、絶対に逃げ延びてくださいね! わたしは……このふさを塞いで!」

「おお? え、あ、あれ?」

「さあ、どっからでもかかってきなさい! ここから先は……通しませぇぇぇん!」


 不意にアレヴィは、拘束を解かれた。

 次の瞬間、ドスンと背中をしたたかに蹴り飛ばされる。

 突然のことで、アレヴィは無様にベッドから転げ落ちて悲鳴をあげた。

 もしフルパワーで足蹴にされたら、それだけでアレヴィは大怪我の大惨事だ。もっとも、仮想現実の肉体は怪我知らずで骨折や打ち身の心配はない。

 ただし、痛みはちゃんと再現され、アレヴィは完全にそれを知覚する。

 怪我をしない肉体だけに、不思議と酷い痛みのように感じた。


「イチチチ……おーい、ウェル? 今のは酷いんじゃないかなあ」

「オフィサー、生きて、生き残ってくださいね……オフィサーに酷いことする人、わたしが……絶対に、許さない、です……ムニャ」

「一番酷いのは君だけどねえ、ウェル」


 腰をさすりつつ、身を起こすアレヴィ。

 その時、ノックの音が返事を待たずドアを開けた。


「あらあら、アレヴィちゃん。ふふ、おはようござます。よかったわね……ママ、嬉しいわ。まだ、おばあちゃんて歳でもないんだけど……ね?」

「あ、えと、おはよう、ございます」

初孫はつまごってかわいいらしいのよ? 楽しみね」

「ど、どうも」


 入ってきた女性は、エプロン姿でゆるい笑みを浮かべている。確か、この平成オンラインの世界でアレヴィの母親役をやってる、ゲーム内のプログラムが用意したNPCだ。だが、その思考ルーチンは大昔のコンピュータとは比較にならない。

 本当に生身の人格のように、情緒豊かでキャラが立ってる。

 ママは、設定された息子が恋人と一夜を過ごしたとしか思えぬ状況でも、動じた様子もなく笑っていた。母親というものが概念がいねんでしか認識できないアレヴィでも、このいたたまれなさ、なんとも形容しがたい空気には参った。


「朝ごはん、作っておいたわ。ママは仕事にでかけるけど、ちゃんと食べるのよ?」

「は、はあ」

「それと、今日は天気もいいんだし……ウェルちゃんとおでかけしてらっしゃい。お小遣こづかいは足りてるかしら?」

「ええと、多分大丈夫かと」

「そう。楽しんでらっしゃいね? ふふふ」


 世の母親とは皆、こういうものなのだろうか?

 このママは、世間での母親という存在の最大公約数なのだろうか。

 それはアレヴィにはわからない。

 アレヴィの母親は、もっとドライなものだった。極端な言葉を使えば、調教師のようでもあったし、管理人として自分に接してるように感じたこともある。アレヴィへ注ぐ愛情の全てを、投資だと言い切る女性だったのだ。

 だから、決められたロジックで動くNPCがこそばゆい。

 なまじ洗練されて最適化された、テンプレートな母親像だと思えるから、尚更なおさらである。

 そんな気持ちがつい、ママにも伝わったのだろう。

 じっと見つめていたら、エプロンを脱ぎ始めたママは小首を傾げる。


「あらあら、どしたの? アレヴィちゃん、そんなにじっと見て」

「いえ、なんでもないんですけど……その」

「なぁに? あ、ママわかっちゃったわ。なにか欲しいものがあるんでしょう。例えば……そうね、車! あとは……新しいパソコン! とか? ほかには」

「そういう訳ではないんですけどね。ええと……ママ」


 口に出したら、なんとなく照れる。

 すでにもう、実の母親をなんて呼んでいたかをアレヴィは覚えていない。

 とりあえずママと呼んでみたら、不思議な感慨が胸中を満たした。

 この平成オンラインというゲームは、こうして過去になくしたものを追体験して補完する意味もあるのかもしれない。思い出をなつかしみ、やり残したことをやり遂げる場所。だとしたら、アレヴィが妙な気持ちになるのもうなずける話だ。


「ママ、俺はどうやら働いてないみたいだし、学生って訳でもなさそうだ。それって、どうなのかなって。母親として、少しは感じることもあるのか、気になったんだ」

「あらあら……ふふ、そんな心配はしなくていいのよ?」

「心配とかじゃなくて、さ。単純な興味というか……どうみても俺、ニートだよねえ?」


 ニート、その言葉を口にしてみたら、ママが表情を強張こわばらせた。

 それは、ずっと素顔を覆っていた笑顔の仮面が剥がれたようにも見える。

 だが、ママが真剣味を帯びたのは、意外な理由だった。


「アレヴィちゃん……確かにそう言う人はいるかもしれないわ。昼間からぶらぶらしてるとか、いい歳をして定職にもつかずとか、心無い言葉も耳にするのね、きっと」

「まあ、事実でもあると思うけど」

「でも、そんなことはいいの。誰がなんて言ったって、ママは、ママだけはアレヴィちゃんの味方よ? 親なんですもの、最後までずっとアレヴィちゃんを守るわ」

「……どう考えても、ママの方が先に死ぬよね。天寿を全うしたとしても」

「でも、財産を残せるわ」

「なるほど。……このゲームはいわば、平成という名のリゾート地での、バカンスみたいなものだ。それを当時の一番自然な存在に落とし込むと……こうなる訳だ」


 現実の時間とリンクしているので、外が夜ならばゲーム内も夜、そして仮想現実でも1日は24時間で過ぎてゆく。これは、全感覚投入型の仮想現実が24時間という接続制限を持っているためだ。ゲーム内の時間と同期しているため、現実へも戻りやすくなっている。

 しかし、もっとましな設定はなかったのかとアレヴィは思う。

 確かに、曜日や日時に関係なく、ユーザーは平成の日本で思う存分に遊ぶ。資金を心配せず買い物し、旅行して、食べ歩いて好きなだけ飲む。その間も、架空の平成の日本では、NPCたちが働き、それぞれに世界観の維持と構築に動いているのだ。

 平成時代を自由に満喫できるプレイヤーの立場が、ニート。

 妥当といえば妥当だし、奇妙と言えば奇妙だ。

 いぶかしげな視線に困ったのか、ママは身体をくねらせおろおろとしだした。


「アレヴィちゃん、なんの心配もしなくていいのよ? 保険や年金もあるんだし、パパもママもまだまだ若いし。ね?」

「あ、いえ……はい、心配は別に。というか、むしろこのゲームにのめり込む人間のほうが心配というか。でも、それもわかるような気がして。ああ、そうだ」


 アレヴィは立ち上がると、早速仕事を始めた。

 そう、仕事だ。

 この世界、平成オンラインには仕事をしに来たのだ。謎の大量失踪事件を追う中で、捜査線上に浮かんだネットゲーム。今は潜入捜査の真っ最中だ。


「ママ、昨日言ってた保護者会っていうのは、なにかな? 昨日も軽く聞いたけど……具体的にどんな組織なんだろうか」

「あらあら……組織って言うほどのものじゃないわ。ただ、似たような境遇の父親や母親が集まって、みんなで励まし合いつつ情報共有をして……そうね、時々みんな親子で温泉に行ったり山や海へ行楽に……そういう集まりよ」

「それだけ?」

「ええ。そうそう、今度は保護者会の日帰り旅行にアレヴィちゃんも参加するといいわ。勿論、ウェルちゃんと一緒にね」


 ちらりとママが、ベッドの方へと視線を走らせる。

 なかなかに酷い寝相で、派手におっぴろげたウェルがまだ眠りこけていた。

 普段から理知的な才媛才女のイメージがあるウェルだが、こうして見るとただの普通の少女だ。アレヴィが作ったアバターだが、やはりどこか幼くあどけない印象がある。そして、下着姿の今の彼女は、全身を象る優美な曲線が中身を裏切っていた。

 まだ眠そうに口元をもごつかせながら、ウェルは寝返りをうった。

 その光景にママは、また穏やかな笑みで表情を覆う。

 そんな中で、アレヴィは核心へと踏み込んだ。


「昨日、秋葉原で事件があってね……ママ、その中心人物は、保護者会のことを口にしてた。まるで、

「親の愛が素直に受け取れない子だっているわよ。ママ、わかるわ……世間は冷たいから、仕事も学業もしないで遊んでる人間を、甘えだと厳しく糾弾するの。でも、それって私は好きじゃないわ。誰だって、ある日突然無職になることがあるし、誰でも仕事をせずにのほほんと暮らしたいんですもの」

「……ママ、ニートピアって言葉を知らないかな?」


 ママの表情は変わらなかった。

 ただ「そうねぇ」と頬に手を当て考え込む。

 NPCを相手に動揺を読み取るのは難しい。

 高度な人工知能を搭載したウェルとは違って、こうしたゲームのNPCは予め定められたロジックのパターンを反芻はんすうするだけだから。膨大な量の模範解答を、その都度決められた通りに繰り返すだけの存在だから。

 ウェルなら同じ状況で、動揺を見せるだろうし、それを隠そうとする。

 それが、NPCと人工知能を持つアンドロイドの決定的な差だ。

 そして、アレヴィは思う。

 もし、ニートピアなる謎の単語が、この平成オンラインと何らかの関わりがあるとすれば……NPCたちにはあらかじめ、そのことに無反応か否定をするプログラムが組み込まれているはずだ。

 ママの答は味気ないものだった。


「わからないわ……アレヴィちゃん、新しいゲームの話かしら。それとも、アニメ?」

「いや、いいんだ。今日はウェルと少し街に出てみるよ」

「そうね、それがいいわ。ニートピア……ニートピア、ねえ。ユートピアじゃなくて?」

「楽園の代名詞だけどね、ユートピア。いいんだ、ママ。いつもありがとう」


 微笑ほほえみを残して、ママは行ってしまった。

 そして、アレヴィは一日を始めようと思い、ウェルを起こしにかかる。やはり、この平成オンラインは例の事件と無関係なのだろうか? それにしては、昨日の秋葉原でのことが妙に引っかかる。あの時、少女はなにと戦っていたのか? 煙幕の中で彼女を救って逃げた者達の正体は?

 その謎を解明するためにも、アレヴィは相棒へと目覚めを促す。

 ウェルが寝ぼけながらも起きると……照れくささが急に襲って、アレヴィはぎこちなく笑ってしまうのだった。

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