ニートピア
ながやん
第1話「プロローグ」
肌を刺すような寒さに、吐き出す息が白く煙る。
男は今、雪と氷の世界をでたらめに走っていた。あてもなく、しかし目的だけははっきりしている。それは、逃亡……逃走。ただ己を守るため、保身のための疾走だった。
追われる訳も知っているし、自覚もある。
それでも男は、自分勝手な言い訳を
「クソッ、どうして連中が……みんなやってることじゃねえかよ! ああクソッ!」
オーロラの舞う夜空に、荒い
出入りする呼気で肺が焼けるようだ。
だが、立ち止まる訳にはいかない。
明日なき逃亡を選択した男は、逃げながらも右手の甲へと視線を落とす。氷原を旅する人間とは思えぬ軽装は、革鎧にマント、腰に剣をはいていた。そんな姿を裏切るように、手の甲にはデジタルな表示が光の文字列となって浮かんでいる。
先程からずっと、アクセスしても応答がない。
これでは本当に中世ファンタジーな魔法世界の、名も無きただの冒険者だ。
「クソッ、ログアウトできねえ! 他の
毒づく男の頭上を、突然影が覆った。
次の瞬間には、強烈な風圧が男を地面から引き剥がす。
吹き飛ばされて転がる男は、目撃した。
舞い降りる巨大な竜の背から……ローブ姿の人影が舞い降りるのを。
そして、ぼんやりとした
「戦士アルフォイデ、レベル80……プレイヤー登録氏名、ドーソン・サクラギ、だよな? 俺らが来たってこと、そして俺らから逃げてるってことは、わかってると思うんだが、まあ」
翼を畳んで着地した竜を背に、ゆっくりとローブの女が歩み寄る。
そう、女だ。
目深に被ったケープを脱げば、ぶっきらぼうな物言いを裏切る美貌が現れる。長い髪の美女は、へたり込む男の前で仁王立ちになって見下ろしてきた。
男は思わず、寒さと痛みを忘れて声を震えさせる。
「っきしょー、GM《ゲームマスター》様のお出ましかよ……罰金は払う、アカウントの凍結にだって……しゃーねぇな、クソッ!」
観念せざるを得ないと思いつつも、男は女を見上げる。
異様に整った顔立ちに、現実ではありえぬ色使いが彩りを添えていた。たなびく長髪は深海のような青で、真っ赤な双眸が真っ直ぐに見詰めてくる。
なにもかもができすぎた世界は、
それを断罪するような
「俺らはGMじゃない……お前さんが不正にレアアイテムを売り買いしていたことも、別にどうでもいい。むしろ、お前さんのこれから次第で、そのことを運営サイドに掛け合って揉み潰してもいいんだ」
「……へ?」
「ドーソン・サクラギ、お前さんが使っている今のアカウント……それは、不正な手段で人から譲られたものだな?」
「あ、ああ」
ドーソンは訳がわからず、凍れる寒さの中で汗を拭う。
五感の全てを再現された、全感覚再現型の仮想現実空間……そこでは、感じる恐怖すらも、架空の肉体が完全に表現してくれる。それで今、震えが止まらない。
ぼそぼそと喋る目の前の女が、例えGMではないとしても、だ。
そして、彼女の背後では不意に、長い首を巡らせた竜が喋り出す。
「オフィサー、運営サイドに勘付かれました。GMコール確認、現在転送中です。もうすぐ、こちらのサーバに現れるかと。その男へのジャミングを解除しますか?」
こちらも女の声、それも
それでローブ姿の女は、面倒くさそうに頭の青髪をかきむしりながら、溜息。
「ん、このままで。別のサーバに飛ばれても面倒だし……でも、GMがなんで?」
「オフィサーの行為は、PK……プレイヤーキラーに相当する行為と判断されています。このゲームアプリケーションでは、特定のイベント以外でのPKは禁止されてますので」
「話、通してないの?」
「オフィサーが、身軽に動けるようにって。そう言って、運営サイドに秘密でアカウントなんか作るからです。……その格好、オフィサーの趣味なんですか? わたし、ちょっと……凄く、複雑な気分です。なんで、そんなにおっぱい大きいんですか」
「ほっとけっての。んじゃまあ、急いでトンズラだねえ」
女が乗ってきた竜もまた、人格を乗せた一つのアカウント、ゲーム内でユーザーが生み出したキャラクターのようだ。そして、女をオフィサーと呼ぶ人種に、ドーソンは心当たりがある。
「……人工知能? それも、特定の業種……そ、そう、軍や警察なんかで」
「はーい、ストップ。ストップだ、ドーソン・サクラギ。簡潔に聞くから、質問に答えろ。それで話は終わりだ」
美女と竜は顔を見合わせ頷き合うと、ドーソンに向き直った。
「ドーソン・サクラギ、三ヶ月前にそのアカウントを格安の値段で……捨て値に等しい金額で買ったな?
「あ、ああ」
「俺らはそのアカウントを……戦士アルフォイデの全データを売った人間を探している。前の持ち主について、なにか知ってることは?」
訳がわからない。
だが、女の声は有無を言わさぬ迫力があった。
やはり、特殊な職業の人間で、それを裏付ける特有の空気が感じられる。電脳空間の中でも、それが十全に伝わってくるほどに、訓練された人間の凄みがあった。
「一応、俺らでも調べたんだが……足取りが全く追えない。現在、当局ではその人物の肉体を確保しているが、ネット世界へダイブした精神と人格が行方不明でね」
「それで、俺を?」
「そう。その人物が最後に現実社会で……まあ、回線越しなんだが。最後に接触したのが、お前さんという訳だ。奴はこのゲームのアカウントを処分した後……肉体を残して
それでドーソンは、思い出す。
名も知らぬ、性別すらわからぬ人間から、このアカウントを買った。それで今、アコギなアイテムの不正売買に手を染めて
提示された値段でドーソンは、二つ返事でアカウントを買い上げた。
しかし、肝心の元の持ち主とは、思い返せば言葉らしい言葉をほとんど交わしていない。メールを数件やりとりしただけだ。
そのことを伝えると、目の前の音は「ふむ」と腕組み黙り込む。
背後では巨大な竜が顔を主に寄せて呟いた。
「オフィサー、ここでも他と同じみたいですね。あらゆる財産を処分した被害者たちは、肉体だけを残して消えてしまった……全ての事例が全く同じです」
「だな。……さて、どうしたもんか。あ、んと、そうだな……お前さん、もういいや。悪かったな、追い回したりして。怖かったでしょ?」
「ま、まあ」
「あんまつまんないことしてないで、ゲームはゲームとして楽しみなさいよ……メーカーならいざしらず、ユーザーまで商売っ気全開でゲームしてたら、それもうゲームじゃないでしょうに」
「……すんません」
それから竜とニ、三の言葉を交わして、女は立ち去ろうとする。
当たり前だが、素性を聞いてもなにも答えてもらえなかった。
そして、ドーソンの危うい綱渡りな趣味が見逃されようとした、その時だった。
不意にドーソンの脳裏に、メールでのやりとりが思い出される。
それを口に出すと、去ろうとしていた一人と一匹が振り返った。
「そ、そう言えば……妙なことをメールで。いや、俺もおかしいと思ったんだよ。こんな凄いアカウントが捨て値で売られててさ。それも、オークションとかじゃなく、
「……んで?」
「そのことを聞いたら、一行だけ簡潔に返事があった。……楽園に行くんだって」
そう、確かにそう言っていた。
手続きをやり取りする短い文面の中で、それをはっきりと思い出した。
そう、その楽園の名を奴はこう言っていた。
「ニートピアに行くって」
「ニートピア……ウェル、検索。本部のデータベースに照会しろ」
「了解、オフィサー! ……あの、その名前で、本名で呼ぶのやめてください。わたは、ここでは、銀翼の星竜ライトウェルっていう、格好いい名前があるんですから」
「……いいから、検索して。誰に似たんだろうなあ、その終わってるネーミングセンス」
「オフィサーに言われたくはないです」
――ニートピア。
その言葉をドーソンは頭の中に
次の瞬間……不意に思考にノイズが走った。
そして、世界がゆっくりと閉じてゆく。
寒さが遠のき、女と竜の声が
「あっ、オフィサー! 戦士アルフォイデが……外部干渉? 違法レベルのアクセスの可能性があります! わたしのジャマーが破られるなんて」
「逆探して、あとログを保存。おい、ドーソン。ドーソン・サクラギ、しっかりしろ」
それはまるで、ログアウト時の特有の現象に似ている。
今まで現実そのものだったゲームの世界から、ゆっくりと
だが、現実世界の肉体へと精神が接続され直すような、いつもの気だるさが、ない。
わずらわしさが戻ってくる、懐かしい安心感とないまぜになった
ドーソンはそのまま、静かに闇に全ての五感を閉ざされていった。
ニートピア。
最後に呟いた言葉が、彼から全てを奪い、彼そのものを吸い込んだ。
そうして、無数の犠牲者の中に、ドーソンは名を連ねることとなるのだった。
そして、後に世界を震撼させる事件が動き出す。
西暦2098年……全世界規模の電脳ネットワークという、内なる宇宙を支配し始めた人類の危機。それは
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