第6話「母親、ママ、お母様」

 警官たちにたっぷり絞られて、小一時間。

 秋葉原駅から総武線に揺られて、アレヴィがウェルとやってきたのは、錦糸町だ。アレヴィたちが現実として暮らす西暦2098年では、すでにない駅である。半世紀ほど前の東京大震災と、その後の復興で消え去った駅だ。

 平成の世に意識を投じて没入するアレヴィは、改めて首都東京の雑然さに驚いた。

 100年前とはいえ、あまりに無計画な都市開発の結果が広がっていた。


「それで、ウェル。本当にこっちでいいのかい? 道、間違ってないよね」

「任せてください、アレヴィ! あ、ほら! あのマンションですよ!」


 夕暮れ時の錦糸町を、駅から歩く二人。

 なにやら慣れない様子で、ウェルは二つ折りタイプのクラシカルな携帯電話を操作している。両手でもって、もどかしくじれったい動作で親指を動かしていた。最新鋭のアンドロイドが、この時代にガラケーと呼ばれていた化石のような電話機に苦戦している。

 それでもウェルは、向かう先のビルと画面とを見比べて笑顔になる。

 その間にアレヴィも、自分の携帯電話で軽くニュースを検索していた。


「……さっきの事件が、報道されてない」

「え? アレヴィ、なにかおっしゃいましたか?」

「いや、妙だと思って。ウェル、この平成オンラインの概要や規約をもっと知りたい。手に入るかな?」

「おまかせください! ……部屋に行ってからでいいですか? わたし、この時代の携帯電話が苦手です。これ、難しいんですよ……わたしみたいに普段が普段だと」


 アレヴィたちの時代でも、携帯電話の機能はさほど変わらない。

 せいぜい、タッチするパネルやボタンが立体光学表示で浮き出るくらいだ。

 だが、そうした三次元インターフェイスすら使わず、普段から直接端末と繋がってるウェルにはわずらわしいかもしれない。ここでは彼女は、身体能力が高いだけの生身の少女なのだから。そもそも、平成の時代にはまだアンドロイドは存在しない。

 そうこうしていると、2人は大きなマンションの入口へとたどり着く。

 セキュリティの硬さを感じないのは、おおらかな平成時代特有のものなのだろうか? 自動ドアが左右に開けば、奥には柔らかな光に包まれたエントランスがある。どうやら、個人の部屋まで鍵の類はないらしい。


「エレベーター、ですね。わたしたちの部屋は5階の507号室です」

「了解、って……わたしたちの部屋? ちょっと待って、ウェル」

「あ、ホテル住まいの方がよかったですか? どっちにしろゲーム上の各種手続き等で、マイルーム……いわゆる拠点が必要になりますので。わたし、事前に登録しておきました」

「それは、いいんだけど」

「あ! ……とっ、とと、特に深い意味はないんです! ただ、その」

「……まあ、いいけど。少し休んで情報を整理しよう。あと、ゲームの中でもお腹がすくしね」

「はいっ!」


 窓を通して外が見えるエレベーターへと、エントランスを横切って歩く。

 夕暮れに沈む町並みは、茜色あかねいろの中で陰影を刻んでいた。

 ふと、アレヴィは自分たちの時代を思い出す。彼の生きている現実では、未曾有みぞうの大震災からの復興が終わっていた。『もやは被災後ではない』と、誰もが天災と国家存亡の危機を忘れている。震災レジームも過去のもので、斜陽ながらも日本はまだまだアジアの一大先進国だ。

 そのことが、この平成オンラインの中にいると信じられない。

 発達したネットワーク社会がもたらす閉塞感へいそくかんは、それだけアレヴィたちの世界を息苦しくしていた。なぜなら、広大な仮想現実空間バーチャルリアリティさえも、彼らの時代はごくごく小規模な娯楽や遊戯といったゲームにしか使えていなかったから。

 そんなことを考えていると、チン! とエレベーターが小さく鳴って停止する。


「つきました、アレヴィ。えっと、奥かな? ふふ、早く行きましょう!」

「なんでそんなに張り切ってるの……一応これ、仕事だからね?」

「そうです、お仕事です! わたしの仕事は、オフィサーを……アレヴィを補佐し、支えることですから。パートナーですよ? きっと、ずっと。……もっと」

「まあ、そうだけどさ」


 妙に浮かれたウェルは、不思議と緊張感がない。

 だが、先程の秋葉原の事件もあって、アレヴィは少し思考と情報を整理する時間が欲しかった。ウェルが一緒でも邪魔にはならないと思うが、そもそもなんで同室に設定してあるのかがわからない。

 そして、さらなる不可解な現象がアレヴィを襲う。


「見てください、アレヴィ! これ、フィジカルキーですよ! 金属の鍵です!」

「いいから早く開けなさいって」

「最初、デフォルトの持ち物にマイルームの鍵があるってチュートリアルで聞いてて。でも、それらしいカードもデバイスもなかったので、不思議だったんです。でもこれ、鍵ですよね! このデコボコがシリンダーと噛み合って、錠が開くんですよね!」

「なにを興奮してるんだか。お子様だなあ」

「いーんですっ! さ、わたしの……わたしたちの部屋です! 入りま――」


 次の瞬間、内側からドアが開いた。

 誇らしげに笑顔で鍵を掲げていたウェルが、目を点にして振り返る。

 アレヴィも流石さすがに驚いたが、危険は感じない。

 出てきたのは、40を少し過ぎた頃の女性だ。エプロン姿で背が低く、ふくよかで肉付きがいい。これといって身体的な特徴はなさそうだが、とにかく印象的で目を引くのは、笑顔だ。

 笑顔の女性は、細い目をさらに細めて二人を出迎えていた。


「まあまあ、アレヴィちゃん。ウェルちゃんも。おかえりなさい」

「え、あ、ハイ……ただいま? ええと、ウェル。この人は」

「しっ、知りませんよ! 二人っきりじゃないんですか!? ……えと、ちょっと待ってください。オンラインヘルプを呼び出してみますので」


 慌ててウェルが手の甲へ視線を落とす。

 多くの仮想現実がそうであるように、ゲーム内の世界観を問わずデータのたぐいは手の甲に表示される。多くの場合、ゲーム内ではその世界の設定や背景に沿った言動が好まれるため、あまりおおっぴらにデータを確認したり表示したりは少ないが。

 ようするに、こうして手の甲にデジタルの数字を拾うだけでも、興ざめするのだ。

 それこそが、今の五感で感じる全てが虚構、仮想現実だと無言で伝えてくるから。

 ウェルは自分で諸々の手続きをしただけあって、すぐに関連項目を呼び出した。そのウェルがアバターとして使っているキャラクターのデザインしかやっていないアレヴィは、黙って端正な横顔を見詰めるしかない。

 そして、目の前のご婦人は、ウェルの言葉を待たずに端的に自分を紹介してきた。


「やだわ、アレヴィちゃんったら。ウェルちゃんも、私はママ、あなたのママよ、アレヴィちゃん」

「……ママ? それは、つまり」

「母親よ、お母さん。もう、おかしな子ねえ。……ふふ、そうね、ウェルちゃんも将来的には……お義母かあさんって呼んでくれるのかしらね」


 上品な笑みをたたえて、ご婦人は……自称アレヴィのママはほおを崩す。

 そして、アレコレとデータを確認していたウェルが、ボンッ! と真っ赤になった。現実の躯体くたいでも、赤面したり頬が熱くなる機能はあるが……こんなにも自然かつ極端に慌てふためくウェルは、アレヴィも初めてみる。


「そそそ、それはっ! あああ、あの、えと、お義母様、じゃない、えと、おば様!」

「あらあら、照れちゃって。でも、よかったわ。アレヴィちゃんにこんなにしっかりした恋人がいてくれて。いつもありがとう、ウェルちゃん」

「いえ! お世話になってるのはむしろこちらで! でも、ええ! はい、そうです! わたしは、YEM0037Vことウェルは、アレヴィの……って、あれ? ああ、そうか」


 不意にウェルは、アレヴィへと身を寄せ小声で囁いてくる。

 笑顔で二人を見守るご婦人の前で、耳元にアレヴィは事情の一端を聞いた。


「アレヴィ、この方……人工知能AIです。多分、ゲームのNPCですね。役割は、その名の通りアレヴィのお母さんです」

「……そういうの、初期設定で登録できるっての?」

「わたしは特に……ただ、この平成オンラインは100年前の日本の生活を満喫するゲームです。過度に干渉しない家族がデフォルトで設定されてるのかもしれません」

「確かに、この反応は……中の人がいるように見えないな。定型句を繰り返すレベルじゃなく、高度に洗練された人工知能だろうけど」

「はい……アレヴィの好きなレトロゲームで言えば、村人Aとか、そういうのです」


 改めてアレヴィは、目の前のご婦人を見やる。

 ニコニコと笑顔で見詰めてくる女性に、悪意や敵意はなさそうだ。それ以前に、この平成オンラインはそうした戦闘行為や明確な勝敗が存在しないアプリケーションである。

 このゲームは、いうなれば水族館や博物館、美術館のバーチャル体験に似ている。

 精巧に作られた平成という時代への、言ってみれば小旅行だ。

 さしずめ、自称ママはそうした体験を補佐する存在なのだろう。


「えっと、じゃあ……ママ?」

「ふふ、なぁに? アレヴィちゃんたら変に緊張して。なにを改まってるのかしら」

「いえ、別に……でも、ママ。えっと」


 現実ではもう、母を呼ぶ言葉を使わなくなって随分経つ。

 アレヴィの中で母親とは、遠い昔に決別した遺伝子提供者の片方でしかなかった。そういう風に定義して、法的な必要最低限の繋がり以外を自ら断ってきたのだ。

 今はもう、母親の顔も思い出せない。

 連絡がなにもないので、まだ現実世界で生きているとは思う。

 しかし、互いに興味を失って久しいし、金銭や資産のやりとりも全くない。

 だからだろうか? ママと発音した時、不思議な感慨が胸の奥にこみ上げた。

 そんなアレヴィを、隣のウェルが不思議そうに覗き込んでくる。

 既に、自他共にママとなったゲーム内のNPCは、穏やかな優しい声を紡いだ。


「アレヴィちゃん、いつも通り夕ご飯、用意しておいたからね? ウェルちゃんと食べて頂戴。それと……お小遣こづかいは足りてるの? ママ、心配だわ……」

「ええと、多分大丈夫、です、けど」


 頬に手を当て、そのひじをもう片方の手で抱き寄せる。そうしてママは、もう既にママとしか呼べない女性は困り顔を見せた。

 だが、すぐにアレヴィは自分の錯覚を錯覚と断ずる。

 一瞬で、自分を本当に包んでいる現実を思い出した。

 思い出さねば実感できないくらいに、仮想現実で用意された母親は甘美だった。


「お金のことは心配しなくていいのよ、アレヴィちゃん。パパもママもちゃんと働いてるから、なにも心配いらないの。いい? 欲しい物はなんでも買ってあげるんだから」

「……ありがとうございます……ママ」

「やだわ、いいのよ。アレヴィちゃんはウェルちゃんと楽しく過ごしてくれれば、今はいいの。ちょっと休憩なのよ、人生の休憩。誰だって心が風邪を引くことがあるんだから。だから、休憩、休養なの」


 やはり、この人物は母親ではない。

 母親役として、この平成オンラインの世界が準備した人工知能、プログラムとロジックのかたまりだ。

 アレヴィの母親は、こんな感情的な優しいことを言ったりはしない。

 だからこそ、危うくアレヴィは目の前の女性に一瞬だけでも心を奪われたのだった。

 だが、次第に状況が飲み込めてくると、アレヴィは娯楽虚構対策課ごらくきょこうたいさくかの捜査官、アレヴィ・ハートン三査さんさの顔を取り戻す。

 横で見ていたウェルが、何故なぜか嬉しげににやけているのも気付かずに。


「ええと、それで……ママ。今日、秋葉原に行ってきたんだけど、ちょっと事件が。もう、ニュースとかでやってるかな?」

「そういえば、さっき保護者会ほごしゃかいでママ友から聞いたわ。酷いわね、白昼堂々と往来で刃物を振り回すなんて」

「その、保護者会っていうのは」

「あら、保護者会は保護者会じゃない。アレヴィちゃんみたいな子供たちが、日本には、世界にはいっぱいいるんですもの。そういう子供たちの親は、協力しあわなきゃ。だから、アレヴィちゃんにはなに一つ不自由はさせないわ。ね?」


 保護者会。

 そういえば、秋葉原でナイフを振り回していた少女も、そんな言葉を口走っていたような気がする。そして、なんら緊張感を持たぬその名前が、アレヴィには酷く不穏に聴こえた。言葉の持つ意味とは裏腹に、現状と想像力がおぞましさを訴えてくる。

 しかし、そのことを問う前に、ママはエプロンを脱ぐと横を通り過ぎる。


「じゃあ、ママは家に帰るわね? たまには実家に顔を出してちょうだい、アレヴィちゃん。勿論、ウェルちゃんを連れて。そうすれば、パパも喜ぶわ。パパもあれこれ言うけど、本当はアレヴィちゃんがかわいいのよ。だから、仕送りもちゃんと入れてるし、ね?」

「あ、ああ……ええと、俺らは、つまり」

「今はゆっくりしてればいいの。少し疲れちゃったんだから、アレヴィちゃんは。少し落ち着いたら、資格を取るとか色々考えましょう? 今はいいの……仕事だって、不況だ不況だっていうけど、アレヴィちゃんの才能を活かせる職場がある筈よ」


 それだけ言うと、ママは最後にアレヴィを引き寄せ、抱き締めてくれた。

 体温も甘い匂いも、柔らかな触感も全て完璧に再現される。

 しかし、それを感じても母親と結びつかないのは、アレヴィに本物の原体験がないから。母親にハグされたことなど、覚えていないし一度もなかったはずだ。

 呆然ぼうぜんと立ち尽くすアレヴィは、訝しげなウェルの視線にさらされたまま……夕闇迫る中を去ってゆくママの背を見詰めていたのだった。

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