貌の無い仏を読んだキロール

 再三にわたって書くが、此方は作品に対する感想ではない。

 

 貌の無い仏を読んで、キロールの胸の去来したのは今まで読んできた和風クトゥルフ物の数々だ。

 それらの思い出を胸に、こいつは張り切って感想を書かねばと、モニターの前に座り数時間。

 キロールは泥沼にはまっていた……そう、オタクと言う名の沼だ。


 文字数も五〇〇〇文字位だし、クトゥルフものならすらっと感想も書けるだろうと思っていた時期が私にもありました……。

 そう、なまじ知っている分野について書くとなると大変なのだ。

 余計な事を書きすぎる。

 この作品の感想に、その情報居る? と言う感じで纏まりなくなっていくのである。

 なぜか?

 それは、キロールがオタクだからだ。


 オタクは、知っている知識を語りたがるのだと言う。

 そして、その言葉は余人には分からないが私にはぴたりと当て嵌まる。

 そうだ、クトゥルフについて語りたいのだ。

 私は基本的にラヴクラフティアンではないが(原理主義的なと言う意味で)、クトゥルフ神話群の大ファンである。

 その中でもクラーク・アシュトン・スミスを特に好んでいるが、他の作家ロバート・E・ハワードやブライアン・ラムレイ、日本人作家で言えば朝松健を好んでいる。

 だから、今作『貌の無い仏』の感想も、それらの作家の作品を引き合いに出して、この辺が凄いとか、凄くないとか言い出しかねない勢いがあった。

 

 そして、ふと気づくのだ。

 この書き連ねた文章は、果たして感想なのだろうかと。

 単なる知識自慢に終始してないか? 感想を書くべきはこの作品についてであり、他の作家の作品では無いのだ。そいつを忘れてやしないか? と。

 そう考えると書いては消して繰り返して、漸く先程書き上げた。

 書き上げた物すらも余計な知識を書いて居そうで不安になる。

 

 高校生の時分に、帝都物語の荒俣宏が編集したと言う『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』を手にした時から始まったクトゥルフ神話への傾倒は今も続いている。

 もう結構な年月が経ったが、未だにクトゥルフ神話への傾倒がやまないのは何故だろう、そんな事を考えながら、書き上げた感想である。

 好きなのは結構だが、それが暴走していたら嫌だなとしみじみと思う。

 そして、作品の感想を書くと言う行為は本当に大変なものだなぁとつくづく身に染みた。


 尚、昨日の内に投稿する予定だったが、息子を寝かしつけてたら一緒に寝てしまったので、本日の投稿となった。

 21時くらいに寝てしまって気付いたら朝だった……。

 健康的だなぁ(棒)

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