第19話 これは、俺が彼女に「バカ」にされるお話
那珂奏高校に着いた。
靴を脱ぎ捨てる。廊下を走る。階段を駆け上がる。一年三組に辿り着く。
バタン!
乱暴にドアを開けると、訝しげな視線がいくつも俺に刺さった。だが、そんなものは気にせず突き進む。空気は読まないのが俺の哲学。
教卓の前まで行き、立ち止まる。静まり返った教室を見回すと、いた。環奈は、俺のことを気にも留めずに、汚い雑巾で自分の机を拭いていた。消えかかった「死ね」の文字には、何度も擦られた跡がある。
「おい、環奈」
「……ああ、センパイ」
俺が声を掛けてようやく、環奈は手を止めこちらを向いた。そして笑う。気持ち悪い。
「おはようございます。なにか用ですか?」
「ああ」
「ごめんなさい。今、時間がなくて」
「そんなものは知らん」
環奈の私情など知ったことではない。俺はただ、俺がしたいようにしているだけだ。
「ちょっと、なんなのよあんたは!」
と。
流石はクラスを牛耳っているだけではある。この突拍子もない状況の中で、もかは一番初めに怒気を孕んだ声で話に割って入ってきた。
「いきなり入ってきて、何言ってるの? キモイんですけど!」
「うるせぇ!」
俺が教卓を蹴飛ばすと――教え通り、粉々に壊すイメージを持って蹴ってみた――不協和音が響く。
「センパイ、なにしてるんですか!?」
「イライラしたから蹴った」
「…………」
呆然とする環奈。久しぶりに、笑っていない環奈を見た。
「……センパイ、帰ってください」
「断る」
「わたしは大丈夫ですから」
「はあ?」
「センパイ優しいから、わたしのこと助けようとしてくれてるんでしょうけど、大丈夫ですから。だから、もう帰ってください。みんなに迷惑かかっちゃうんで」
「何を言っているんだお前は」
「だから、センパイはわたしを助けるために――」
「俺は別に、お前を助けるために来た訳じゃあない」
「え?」
「俺はそんなに優しくないし、ただ助けられようとしているお前は図々しい。過大評価も自意識過剰も甚だしいな」
「……じゃあ」
「ん?」
「じゃあ、なんで来たんですか!?」
「…………」
こんな環奈を見るのも久しぶりだな――否、こんな環奈を見るのは初めてか。
顔を真っ赤に染めて。
目をカッと見開いて。
こんなにも怒りを顕わにした環奈を見るのは、間違いなく初めてだ。
「大丈夫だって言ってるじゃないですか!」
「ああ、言ってたな」
「ならなんでほっといてくれないんですか!? いいんですよ、わたしは! 別にいじめくらい平気ですし、それでクラスが平和になってるなら満足なんですよ!」
「そうなのか」
「わかったら、早く出てってください! これ以上わたしたちを乱さないでください!」
「断る」
「なんでですか!?」
「生憎、俺は空気は読まない主義なんでな」
「ふざけないでください!」
「ふざけていない。俺は至って真面目だ」
「センパイは何がしたいんですか!?」
「それは俺の台詞だ」
「……え?」
虚を突かれた環奈は、怒気を何処かに閉まって言葉に詰まっている。
ここが潮時か。
このまま言われっぱなしじゃあ終われない。
ここからは、俺のターンだ。
「お前は、何がしたいんだ?」
俺は問うた。
「お前が大丈夫なのは聞いた。お前が俺にして欲しいことも聞いた。だが俺はまだ、お前が何をしたいか聞いていない。俺は今日、それを聞きに来た」
「なにがしたいって……」
「答えろ」
「だから、わたしは大丈夫なんですって。別にしたいことなんてないです」
「却下だ」
俺が聞きたいのは、そんな聞き飽きた言葉ではない。
「却下って……センパイは勝手すぎます」
「勝手で何が悪い? 自分がしたいようにして何が悪い?」
「周りの人が迷惑します」
「俺は、他人のために生きているんじゃあない」
「…………」
「俺は、自分のために生きているんだ」
確かに、人は一人では生きられない。
『人』という字は人と人とが支えあって出来ている、なんてのは陳腐な文言だけれど、そんなものは幻想だ。仮に本当に支えあっているのだとしたら、あんな歪な形にはならない。
人という字は、人と人とが依存しあって出来ているのだ。
だから、そこに歪が生じる。優劣が生じる。理不尽が生じる。
その歪に無理矢理に身体を押し込めてまで、俺は生きたくない。
もちろん、こんなものは理想論だ。自分のためだけに生きられる程、社会は寛容に出来てはいないことは知っている。俺はそこまで盲目的ではない。
だがな。
どこかの教師が、柄にもなく語っていたじゃあないか。
「理想を追い求めることを諦めるのには、まだ早すぎるんだよ」
だから、大人ぶって何もかも諦めたような態度を取る環奈が、腹立たしくて仕方ない。
「ガキのくせに、調子に乗ってるんじゃあねぇぞ」
「……そんな簡単に言わないでくださいよ」
「簡単だろ。我儘を言うなんて、幼稚園生でも出来る」
「……ワガママ言って誰かに嫌われたら、誰がどう責任取ってくれるんですか」
「大丈夫だ」
少なくとも、今回の場合に限っては池栗に全ての責任を転嫁すればいい。
それに。
「俺は空気は読まない主義だ。だから、他の奴らがどれだけ嫌っても、俺はお前のことを嫌わない」
悔しいかな、そう思っている自分を、どうしたって否定できない。
「わかったらさっさと答えろ」
「…………」
刹那、間があって。
「……バカじゃないですか」
「はあ?」
「バカじゃないですかって言ってるんですよ」
「お前程じゃあねぇよ」
「バーカ」
「調子に乗るな」
「バーカ、バーカ、バーカ」
「おい、いい加減に――」
「バカぁ……っ!」
「…………」
ボタリ。ボタリ。ボタリ。
環奈の瞳から、大粒の涙が止めどなく溢れてくる。
「わたしのしたいことなんて、決まってるじゃないですか」
「なら聞かせてくれ」
「わたしは……っ!」
環奈は叫ぶ。
「わたしはまた、センパイと一緒に笑いたいよぉ!」
うわぁぁぁぁぁあああああん!
人目を憚らず泣く環奈は、どう見たって子供だ。
「わかった」
お前の願い、しかと聞き遂げた。
聞いたからには、多少はその願いの成就のために協力してやろう。
だからここから先は、『慈善活動』の時間だ。
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