第9話 これは、俺が自分に苦しめられるお話(3/5)
今度は怪獣が集うエリアだ。その中に、奴はいた。
「エトピリカ……」
奴は水面に浮かんでいた。嘴が黄色、顔が白色、胴体と翼は黒色の間抜け面。忘れもしない、エトピリカだ。
「懐かしいな……」
「ねぇセンパイ、エトピリカってなんですか?」
「チドリ目ウミスズメ科に分類される海鳥の一種で、アイヌ語で『嘴が美しい』という意味の言葉が名前の由来のエトピリカに決まってんだろ! そんなことも知らないなんて、お前は馬鹿か!?」
「なんでそんなマイナーな海鳥でそこまで興奮できるんですかぁ」
「エトピリカは正義だ」
「意味わかんないですよぉ。でも、詳しいんですね。昔飼ってたんですか?」
「海鳥なんて飼えるわけないだろ」
「じゃあ、なんでそんなに詳しいんですか?」
「いや、小学生のころにこの水族館に来たんだけどさ、そのときエトピリカを見て強烈に惹かれたんだよ」
それ以来、エトピリカについて研究することが俺の趣味の一つとなった。
まあ、なぜエトピリカに惹かれたのかは、未だに謎なのだが。
「エトピリカ、いいよなぁ。エトピリカ。エトピリカ。エトピリカ……」
「センパイ、それ、エトピリカって言いたいだけじゃないですか」
「あ、確かに」
謎はあっさり解明された。ホームズもびっくりである。
「でも、言いたくなる言葉ってありますよね」
「エトピリカ」
「どんだけ言いたいんですか」
「ちなみに、お前の言いたくなる言葉って何なんだ?」
「そんなの決まってますよ」
そこで環奈は口角を上げて、
「センパイ」
と、言った。
「センパイ。センパイ。センパイ」
にこにこ。にこにこ。
「センパイ。センパイ。センパーイ!」
にこにこ。にこにこ。
「センパ――」
「いやちょっと待て」
満面の笑みで『センパイ』を連呼する怪しい環奈を、俺は制する。
「なんで『センパイ』連呼してんだ」
「それはもちろん、私の言いたくなる言葉が『センパイ』だからですよ」
「それこそなんでだよ」
「だって、好きな人の名前は、何度だって言いたいじゃないですか」
「俺の名前は『センパイ』じゃないんだが」
「揚げ足取らないでくださいよぉ。じゃあ、光くん?」
「『センパイ』でお願いします」
「光くん!」
「お前は鬼畜か」
「光くん、その『お前』って言うのは止めてください。わたしには『清水環奈』っていう名前があるんですよ?」
「まず俺を名前で呼ぶのを止めろ」
「わたしを名前で呼んでくれたら考えてあげます」
「…………」
「光くん?」
「わかったよ! えーっと……清水さん?」
「下の名前で呼んでください」
「断る」
「光くん光くん光くん……」
「わかったわかった! えーっと、そのー……環奈、さん?」
「呼び捨てでお願いします」
「嫌だ」
「光くん光くん光くん……」
「わかってるよ! だから、そのー……」
「光くん?」
「急かすな! だから、えーっと……か、かか……環奈」
「まあ、許してあげましょう」
微笑む環奈は実に満足げだ。
それにしても、女子の名前を呼び捨てとか、すっげえ照れる。顔から火が出そうだ。というか、すでに出ている気さえする。
「それじゃあ行きましょうか。センパイ」
「わかったよ。か……環奈」
それから俺たちは、川魚が揃うエリアをのんびり眺め、その先にあった天井に吊るされた巨大なクジラに呆け、イルカショーでうっかり最前列に座ってしまいびしょ濡れになったりした。
「センパイ、お土産買っていきましょ?」
「勝手にしてくれ」
そして今、環奈たっての希望でショップを物色している。
「あ、これかわいい!」
そう言って環奈が持ち上げたのは、この水族館のマスコットであるピンクのサメのぬいぐるみだ。それも、抱えるほどの大きさのやつ。
「デカすぎるだろ」
「大きいからいいんじゃないですか。こう、ぎゅってできるし」
環奈が顔を埋めるようにして、ぬいぐるみを強く抱き締める。
「それメリットなのか?」
「もちろんです。センパイもやってみればわかりますよ」
「そんなもんかね」
「そんなもんです。ほら、どうぞ」
「どうも」
差し出されたぬいぐるみを、俺は自然な流れで受け取る。
そして、環奈がやってみせたように、顔を埋めてぬいぐるみを強く抱き締めた。
甘い香りがする。この匂いは、ぬいぐるみのものなのか、それとも……。
「確かに、いいな、これ」
「はい。というか、センパイ顔赤いですけど大丈夫ですか?」
「だっ、大丈夫だわ!」
俺は慌ててぬいぐるみを突き返す。
「そうですか。ならいいんですけど」
環奈は突き出されたぬいぐるみを受け取る。
「これ、ほしいなぁ……」
「貸せ」
「え?」
戸惑う環奈をよそに、俺はぬいぐるみを奪い返す。そして、そのままお会計。結構高いな。いや、あまり考えないでおこう。
「ほら」
「あ、ありがとうございます……」
俺からのプレゼントを、環奈は戸惑い気味に受け取る。そして、それをしばらく矯めつ眇めつしてから、袋越しにぬいぐるみを抱き締めて、
「ありがとうございます……」
と、頬を赤らめながら再び礼を言った。
「なんだ、照れてんのか?」
「……だって、センパイが急にかっこつけるんですもん」
環奈は唇を尖らせているが、それでも、まんざらではなさそうだった。
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