第17話 これは、俺が先生に教えてもらうお話

 気付けば、太陽がまた昇っていた。

 ベッドに投げ捨てられた目覚まし時計を確認する。六時ちょうど。そうだ、学校に行かなければ。身支度を済ませ、家を出る。

歩いていると、取り壊し中の家が見えた。錆びたシャッターが見えた。カラスに荒らされているゴミ袋が見えた。車に引かれた猫の死骸が見えた。

そういえば、俺は一体どこを歩いているのだろう。そんなことさえわからない。ただ無心で歩き続ける。

気付くと、見覚えのある家の前まで来ていた。何故俺はこんなところに来ているのだろう。わからない。

疲れたのだろうか。無意識に、玄関を背にして座り込む。ふと見上げて、気付いた。今日は快晴だったのか。

「おい」

 と。

 突如、玄関が開き、中からある人物が出てきた。そいつは、俺に気付くと訝しげな視線を寄越してくる。

「植木、お前こんなところで何をしている」

「何、しているんだろうな……」

「そうか」

 何かを察したのか、池栗は俺の隣に腰掛ける。

「やはり失敗したか」

「……お前は何を知っているんだよ」

「まあ、話くらいなら聞いてやろう」

「…………」

 こいつなんかに話して、一体何が変わるのだろうか。何が解決されるのだろうか。話す意義など、ないのではないだろうか。

 ……いや、違うな。

 今は、藁にも縋りたい気分だ。

「……わからないんだよ」

 俺はゆっくりと口を開く。

「わからないんだ」

「何がだ」

「人の感情が、わからないんだ……」

「お前のような奴にわかる訳がないだろう」

「…………」

藁は所詮藁だった。

「……どうせ、俺は友達も出来ないコミュ障だよ」

「普段自意識過剰なお前がそういうことを言うと、この上なく気持ち悪いな」

「……帰る」

「まあ待て。人の感情なら、私にもわからんよ」

「当たり前だろ。お前みたいな奴がわかってたまるか」

「お前は馬鹿か」

「それが落ち込んでいる生徒に掛ける言葉かよ」

「人の感情など、自分自身にしか理解出来ないに決まっているだろう」

「……はあ?」

 いやいや、それはおかしいだろ。

 相手の気持ちも考えなさい。そんな台詞は、耳にタコが出来るくらいに聞いてきた。それに、それは日本人にとって美徳であるはずだ。

 それなのに、感情は自分自身にしかわからないだと? ならば、相手の感情をどうやって考えればいいのだ。どうやって推し量ればいいのだ。

 どうやって、あいつの気持ちを知ればいいんだ。

「どういうことだ」

「植木、『シュレディンガーの猫』という実験を知っているか?」

「はあ?」

 今度は何を言い出しているんだ、こいつは。

「話を変えるな」

「いいから答えろ」

「…………」

「答えろ」

「……まあ、それくらいは」

 シュレディンガーの猫。

 噛み砕いて説明すると、毒の出る箱に猫を入れて、その猫が生きているか死んでいるかを調べる実験だ。「現象は観測されるまでは確率に過ぎない」という結論が導き出される。

「それがどうかしたのかよ」

「私はな、あの実験の結論は不十分だと思うのだよ」

「…………」

 まさか、一教師(しかも国語教師)がノーベル賞受賞科学者の実験をいとも簡単に否定する日が来るとは。世も末である。

「……おい」

「そんな訝しげな目をするな。まずは私の話を聞け」

 いいか、と池栗は続けて、

「現象は観測されるまでは確率に過ぎないということは、それが事実となるためには誰かがその現象を観測してやる必要がある。つまり、確率の状態ではなく事実としてこの世に存在するものはすべからく、ある誰かに観測されていることになる」

「まあ、そうだな」

 間違ったことは言っていない。

「そして、観測者は例外なく人間だ」

「そうだな」

 というか、ただ当たり前のことを言っているだけだ。こいつは何が言いたいのだ。

「それがどうしたんだよ」

「お前はやはり馬鹿だな」

「どういう意味だ」

「言葉通りの意味だ。ここまで言って、どうしてまだわからない」

「はあ?」

 わからないも何も、池栗はただ当たり前のことを言っただけじゃあないか。そこから何かを理解しろと言われても、何を理解するのかさえわかるはずがない。

「わかる訳ねぇだろ」

「少しは頭を使え」

「そもそも、何がわかるんだよ?」

「人の感情が自分にしか理解出来ない理由だ。会話の流れからして当然だろう。お前は人の話を聞け」

「ならお前は俺の文句を聞け」

「文句を言っている暇があるのなら頭を使え」

「あのなあ――」

「異論は認めん。一〇秒だ」

「あのなあ……」

 とりあえず「はあ……」と大仰に溜め息を吐いてみるが、池栗は気にも留めずに一〇秒のカウントを開始する。というか、カウントが異常に早い。すでに残り三秒とはどういうことだ。

 さておき、とりあえず考える。事実には常に観測者がいて、それは全て人間である。うむ、やはり当たり前のことを言っているようにしか思えない。

 そうこうしているうちに、

「時間切れだ」

 一〇秒経ってしまっていた。否、絶対に一〇秒経っていない。

「それでは、答えを聞こうか」

「降参だ」

 俺は両手を軽く上げる。

「さっぱりわからん」

「馬鹿が」

「馬鹿でもいいから、さっさと答えを教えてくれ」

 これ以上考えるのは面倒臭い。

「人にものを頼むときは、それなりの誠意を見せるものだろう」

「お前から振った話題で、なんで俺が誠意を見せなくちゃあならないんだ。横暴だぞ」

「異論反論は認めん」

「なら教えなくていい」

「異論反論は認めん」

「…………」

 より面倒臭い展開になった。

「はあ……。わかったよ。何をすればいいんだ? 土下座か?」

「いや、そんなことはしなくてもいい。お前がしたいというのならしてもいいが」

「俺はサディストだ。そんな趣味はない」

「私はサディストだ。だからお前はマゾヒストだ。そんな趣味はあって然るべきだろう」

「性癖は相対的に決まるもんじゃあねぇんだよ。こんな突飛な理論展開する奴に否定されるなんて、シュレディンガー博士はさぞ悲しいだろうな」

「問題ない。むしろ喜んでいる」

「そのこころは?」

「私はサディスト。つまり彼はマゾヒスト。だから彼は悦んでいる」

「上手いこと言ってるんじゃあねぇよ」

「おい、マゾヒスト」

「名誉棄損で訴えるぞ」

「早く誠意を見せろ。女王様の命令だぞ」

「性癖を曝すのは旦那の前だけにしてくれ」

「いいから早くしろ」

「早くも何も、何をすればいいんだよ?」

「指を詰めろ」

「それはサディストじゃあなくて狂人だ」

「冗談だ」

「お前が言うと冗談に聞こえないんだよ。……本当に冗談だよな?」

「だからそう言っているだろう。それとも、本気で私がそのようなことを言うとでも思ったのか」

「ああ」

「そうか。ならば今すぐ包丁を持ってこよう。骨切り包丁でいいか?」

「ごめんなさいすみません申し訳ありません」

「そこまで謝ることはないだろう」

「誰のせいだ」

「お前のせいだ」

「なんでそんな躊躇いもなく言えるんだ」

「まあ、ラーメンでも奢ってくれ」

「はあ?」

「だから、ラーメンを奢ることで誠意を見せてくれ」

「なんで俺がそんなことしなくちゃあいけないんだよ」

「そうか。そんなに指を詰めたいか」

「奢らせてくださいお願いします」

「よろしい」

 どうやらご満悦らしい池栗は、嬉々として「では教えてやろう」とようやく話を先に進める。

「繰り返すが、事実は常に誰かに観測されていて、その観測者は人間だ」

「そうだったな」

「そして人間は、感情を持つ生き物だ」

「そりゃあそうだろ」

「すなわち、観測者が感情を持つ生き物である以上、観測される現象は感情の上に成り立っているということだ」

 つまりだな、と池栗は続けて、

「シュレディンガーの猫の結論で足りないのは、ある現象が誰かに観測されることによって確率から事実へと昇華した後も、観測者の感情によって多様に変化しかねないということだ。事実は流動的、とも言えるな」

「なるほど……」

 なんとなく、池栗の言いたいことがわかった気がする。

 ある感情があったとして、それを観測出来るのは――もとい、事実とすることが出来るのは、その感情を抱いている人間だけだ。

 これはある意味当たり前のことだが、絶対的なことでもある。例えば、環奈を取り巻く現状を環奈が「大丈夫だ」と思う限り、それは「大丈夫」なのだ。俺が何を思おうとも、その感情は事実において蚊帳の外。

 挙句、それは実に流動的だ。そんなものを、どうやって理解出来るだろうか。

 と、そうは言うものの、

「……だったら、どうすればいいんだよ」

 納得は、出来ない。

 感情はわからない。したがって、何を望んでいるかもわからない。

 ならば俺は、一体どうすればいいんだ。

「どうすればいいんだよ」

「それは私にもわからん」

「はあ?」

 散々語っておきながら、ここに来てわからないだと?

「お前、ふざけるなよ」

「ふざけてなどいない。わからないものをわからないと言って何が悪い」

「それがふざけてるって言ってんだよ」

「だからふざけてなどいない。私は、お前が何故ここにいるのかさえ知らないのだぞ。況やお前がどうすればいいかなど、わかる訳がないだろう」

「…………」

 珍しく――いや本当に珍しく、あまりにも正論だったため何も言い返せなかった。明日が人類最後の日か。

「……なら、少し俺の話を聞け」

 致し方ない。話を前へ進めるためにも、事の顛末を話すとしよう。ああ、気分が悪い。

「えっと――」

「断る。お前の話など興味がない」

「…………」

 いや、まあわかってはいたが。こいつが人の話を聞かないのは、いつものことだ。……人の話を聞かないとは、こういったときに使う言葉だったのだろうか。

「……帰る」

 俺は立ち上がる。

「まあ待て」

「何だよ」

「確かに、私はお前がどうするべきかは知らん。だがな、どうするべきかわからないときにどうするべきかは知っている」

「ややこしいな」

「まあ聞いていけ。金は取らん」

「その悪質な商売、法律で規制してもらうべきなんじゃあねぇか」

 致し方なく、再び腰を下ろす。ああ、立ったり座ったりしているせいで膝が痛い腰が痛い。それと、こいつと話しているせいで頭が痛い。

 頭痛を癒すために、ふと視線を上げてみる。

そこは、ただひたすらに青かった。青く青く青い。白が介入することさえ許さず、果てしなく青に塗り潰されている。

ああ、なんて単純で――そして、純粋な空なのだろうか……。

「もがけ」

 と。

「わからないのなら、もがけ」

 視線を落とすと、池栗は真っ直ぐこちらを見据えていた。視線が絡む。瞬間、「もがけ」と繰り返す。

「なあ、植木」

「何だよ」

「どうして人間は、こんなにももがいているのだと思う?」

「…………」

 それは、いつか池栗が俺にした質問だった。あのときは何も言えず、今もその答えはわからない。

「現実は不条理だ。理不尽だ。非道だ。それなのに、この世界では数多の人間が生き、もがいている。それは、どうしてだと思う?」

「……知らん」

「私はな」

 池栗は――言う。

「諦め切れないからだと思うのだよ」

 ビュウッ!

 突如、強風が吹き、暖かな風が俺の頬を撫でる。

「植木、この世界に人間が存在することを証明してみろ」

「はあ? 何でだよ」

「いいから」

「わかったよ……。そんなの簡単だろ。俺がここにいることが、何よりの証明だ」

「スマートフォンがこの世界に存在することを証明してみろ」

「実際にスマートフォンを持ってくればいい。生憎、俺はガラケーユーザーだから、今は証明出来ないけどな」

「愛がこの世界に存在することを証明してみろ」

「お前の旦那を連れてきて、『愛してる』とでも言わせればいい。というか、存在を証明するなら、何でも実物を持ってくれば済む話だろ。それを観測出来れば、事実として存在し得るんだから。ソースは『シュレディンガーの猫』」

「では」

「だから、何だって実物持ってくれば済む話――」

「この世界に、神が存在しないことを証明してみろ」

「はあ?」

「わからないのか?」

「わからないも何も、神なんて存在する訳ないだろ。俺はリアリストだ」

「では魔法は?」

「そんなものも存在しない」

「ではツチノコは?」

「だから存在しないに決まってるだろ」

「どうしてそう決めつける?」

「決めつけてなんかない。事実を言っているだけだ」

「私たちが知らないだけで、本当はどこかにいるかもしれないだろう」

「それは屁理屈だ」

「屁理屈でも、理屈であることは間違いない」

「…………」

「現象を観測することが出来ない限り、それは確率の状態にある。すなわち、それが存在しないとは言い切れない。ソースは『シュレディンガーの猫』」

「……まあ、そうだな」

「つまり、存在しないことを証明するのは酷く難しいのだ。それを踏まえて私は問おう」

「何だよ」

「どうして、この世界に『理想』が存在しないと言い切れるのだ?」

「そんなの――」

「当たり前だからか」

「……ああ」

「確かに当たり前だ。理想を吹聴出来る程、現実というものは甘くない。だがな、もしかしたらどこかにあるかもしれないではないか。私たちが気付いていないだけで、確実にそこにあるかもしれないではないか」

「…………」

「人は皆、頭のどこかでそれをわかっているのだよ。だから、理想を求めることを諦め切れない。理想を求めて、どうしようもなくもがいてしまうのだ」

 池栗は立ち上がる。ぱんぱんと尻についた塵を払う。

「わかったら、お前ももがけ。もがいて理想を見つけろ。答えを見つけろ」

「見つからなかったらどうするんだよ?」

「見つかるまでもがけ」

「きついな……」

「もう弱音を吐くのか、餓鬼のくせに。理想を追い求めることを諦めるのには早すぎるぞ」

 はっはっはっ、と池栗は笑って、

「植木、子供が何をしようとも、大人が必ずその責任を取ってくれる。だからやりたいようにやれ。もがきたいだけもがけ。わかったか?」

「……ああ」

「声が小さい」

「ああ!」

 投げ遣りにそう返事をすると、池栗は「よろしい」と言って大きく一つ頷いた。

 そして。

「では」

と、足早に去ろうとする。

「おい待て!」

 慌てて呼び止める。言い逃げは許さない。

池栗は立ち止まった。だが、こちらを振り向きはしない。

構わず俺は言う。

「どこ行くんだよ」

「学校に決まっているだろう。お前もサボるなよ」

 それと、と池栗は続けて、

「お前は私の生徒だ。生徒の責任くらいなら取ってやる」

「…………」

「では。学校で待っている」

 一方的にそう言って去っていく池栗の背中を見つめながら俺は、

「ありがとうございます、先生」

 その言葉はすぐさま空に吸い込まれて、池栗に届くことはなかった。

「ああ、そういえば」

「終わらねぇのかよ」

 池栗は再度立ち止まり、挙句思い切りこちらを振り向きながら、こんなことを言った。

「もがく上で喧嘩をすることもあるかもしれないが、蹴りはいいぞ。威力は高いしリーチも長い。コツとしては、対象を粉々に打ち砕くイメージで蹴るといい。威力が増すぞ」

「……ふふっ」

 不覚だ。

 思わず――笑ってしまった。

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