第13話 これは、俺が「大丈夫」に首を傾げるお話

「ごめんなさい、センパイ。迷惑かけちゃって」

「俺の100円をドブに捨てるなんて、迷惑この上ないな」

 校舎の端、自販機の前で、俺たちはカフェオレを飲む。

「ドブに捨てるって、どういうことですかぁ」

「お前に金を使うとか、ドブに捨てるのと大差ないだろ」

「そんなことないですよぉ」

「それもそうだな」

「おっ、ついにセンパイもわたしの魅力に――」

「お前に金を使うくらいなら、ドブに捨てた方がマシだな」

「ひどいなぁ」

 むぅ、と頬を膨らませる環奈。その頬を指で突いて空気を抜いてやると、環奈はにへらと笑った。何がそんなに楽しいんだ。

 だが、うん。いつもの笑顔だ。いつもの、腹立つ笑顔だ。

 なら、先程の笑顔は一体何だったのだ。あの、張り付けたような、実に白々しい笑顔は何だったのだ。

 ……もしかして、俺の杞憂か?

うん、その可能性は十二分にある。現に、今の環奈におかしな点は見受けられない(強いて言えば頭がおかしい)。ならば、先程の疑問は、筋違いな勘違いだったのだろう。

 それにしても、まったく。

一体いつから、俺はこんなことを考えるようになってしまったのだ。

環奈がどんな顔をしようとも、どうでもいいじゃあないか。知ったことではないじゃあないか。

 それなのに、こんな不毛なことを考えるようになってしまったとは……俺も堕ちたものである。

 まったく、誰のせいでこんなことになっているのやら。

「それで? あのビッチは誰なんだ」

「ああ、あの子は栖須もかちゃんです」

「名前はどうでもいいんだが」

「じゃあ何が知りたいんですかぁ。もしかして、スリーサイズ? センパイのえっち」

「数字に何の意味があるんだ」

 それに、あまり身体の話をすると奴が――あの、胸部の脂肪が餓死寸前の奴がやって来――っ!

 ……気のせいだろうか、悪寒がする。

「あいつの生態について教えろ」

「あのねぇセンパイ、もかちゃんだって一応人間なんですよ? 生態って言い方はひどいと思います」

「お前だって、一応って言っちゃってるじゃあねぇか」

「あ、バレました?」

「お前、あいつのこと嫌いなんだな」

「はい。大っ嫌いです」

「清々しいな」

 というか、何故満面の笑みなんだ。怖いわ。

「ちなみに、何で嫌いなんだ?」

「だってあの子、わたしを見下してくるんですもん。あんまりかわいくないくせに」

「見てくれで優劣つけるような奴は見下されて当然だろ」

「じゃあ、あの子とわたし、どっちがかわいいですか?」

「お前だな」

 俺は即答する。致し方ない。あいつの見てくれが微妙なのは事実なのだから。

「ほらぁ」

「お前、そんなんだからあいつに嫌われるんだよ」

「それは違いますよ。だってわたし、教室では猫被ってますから」

「そうなのか?」

「はい。そのほうがモテますし」

「殴っていいか」

「わたしに告白してくる男の子たちを? やだなぁ、センパイ。そんな嫉妬しないでくださいよ。わたしが好きなのは、センパイだけですから」

「殴って欲しいんだなそうなんだな」

 お望み通り、デコピンをお見舞いしてやる。すると環奈は、何故か「はみゅん!」という謎の言葉を生み出して額を押さえた。恨めしそうにこちらを見ている。ざまあない。

「何するんですかぁ」

「制裁だ。文句あるか」

「そういう悪気のない暴力が、いじめにつながるんですよぉ。痛い……」

「お前、もうすでにいじめられてるだろ」

「センパイ、デリカシー」

「そんなもの興味ない」

「わたし、傷つきましたよ? こころまで痛いです」

「それこそ興味ない」

「ひどいなぁ。あー、痛い痛い」

 わざとらしく胸をさする環奈。そのたびに、二つのたわわに実った果実が揺れる。止めろ、奴が来てしまう。あの、果実の実っていない枯れ木がやって来――っ!

 ……やはり悪寒がする。絶対に気のせいではない。

「というか、お前はそんなことで傷つくような奴じゃあないだろ」

「傷つきますよぉ。わたしは、繊細な乙女なんですよぉ?」

「どの口が言ってるんだ」

「この口ですよ。なんなら、キスして確かめてみます?」

「その口を今すぐ塞ぎたい」

「センパイの口で? センパイ、大胆」

「歯ぁ食いしばれ」

「キスしやすいように? しょうがないなぁ。はい、どーぞ」

「何故目を閉じた」

「ほらほら、早く」

「……わかった」

 そこで、俺は。

 刹那、間を空けて。

 そして、環奈に――。

「はみゅん!」

 デコピンをお見舞いした。

「センパイひどい! はみゅん!」

 額を押さえて「はみゅん! はみゅん!」と喚き散らす環奈は、他人から見ればどう見たって危ない。

 まあ、だが。

 残念ながら俺は、他人ではない訳で。

 いつも通りのこいつの鬱陶しい様子に、少しだけ安心したりしている。

 ……ん? 安心? 俺は何に安心しているのだろう。

「うるせぇ。迷惑だからさっさと教室に戻れ。というか失せろ」

「言われなくてもそうしますよ! センパイ嫌い!」

「願ったり叶ったりだ」

「嘘だもんねー! ほんとは好きだもんねー! 大好きだもんねー!」

「お前は今、どういう感情なんだ」

「べー、だ!」

 子供みたいにあっかんべーをして(いや、今時あっかんべーなど子供でもやらないか。なるほど、とうとうこいつの知能は子供を下回ったか)、環奈は走り去っていった。

 と、思ったら。

 すぐに、立ち止まって。

「センパイ」

 くるりと、振り返って。

 そして、にっこりと笑って――その顔は、何故か妙に大人びて見えた――言った。

「わたしは、大丈夫ですから」

 環奈の背中が見えなくなった頃、残り僅かのカフェオレを一気に飲み干す。

 恐らく、気のせいだろう。

「不味い……」

 カフェオレが、ほろ苦い。

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