十七章 虚しき運命

 撃てなかった。

 引き金にかけた指が、凍ったように動かなかった。


 銃口はぴたりと、その美女を覗いているのに、指先だけがどうしても動いてくれなかった。


 こめかみを汗が伝った。

 つかつかと歩み寄った美女が、人間離れした力で、円卓を蹴り壊した。


「ちょっと! あいつ来るよ!」


 耳もとでがなったコニアの声で、メアははっとして我に返る。


 カンと地を蹴る音が、鼓膜を打った。

 喜怒哀楽でできていた親友の顔が、表情なく迫る。


 風が唸るような圧。

 不意に弧を描いた脚線が、彼我の距離を刈り取る。


 咄嗟に、コニアを引き倒した。頭上すれすれのところを、鎌のような脚が薙いだ。コニアが喉を引きつらせた。


 銃口は再び美女ミチェスを捉える。


 クソッ!


 内心毒づいた。引き金はやはりひけない。


 コニアを促し、屈んで駆け出した。


 その背中に、白い指が絡みついた。ラバー生地に滑りながらも、二本の指が肉を抉るほど食いこんだ。メアの肢体が宙に跳ね上がった。


 美しい顔立ちが痛みに歪んだ。

 天地が裏返った。


 咄嗟に銃を放り出す。


 そして勢いそのままに、ミチェスの側頭部へエルボーを打ちこんだ。ミチェスはそれを、掌を打って相殺した。


 その間にも、メアの身体は空中を舞っている。鍛え抜かれた体幹が、そこにさらなる捻りを加える。


 メアの身体は、打ち合いの次の瞬間には、ミチェスの背後にあった。そのまま両足を腰に絡め、迫る地面に両手をついて、クロコダイルのデスロールよろしく回転した。


 恐るべき早業。識者シキシャの許で鍛え上げられた、精巧なる格闘術。


 ミチェスの身体はその場でぐるりと反転し、頭から床へ叩きつられた。


 と同時に飛び離れ、三度のバック転をうって距離をとる。


 その時、コニアはすでに戸口だ。悪戯のバレた犬のように、半分だけ顔を出して二人の動向を窺う。ミチェスの虚ろな目は、すでにコニアの許を離れ、真っ直ぐにメアだけを向いていた。


 好都合だ。コニアを守りながら戦うのは分が悪い。いっそ一対一のほうが、身軽に立ち回ることができる。


 だが、まだ迷いがある。


 ミチェスは明らかにおかしくなっている。識者の力を受けたのか、人体改造を受けたのか。いずれにしても、自我が残されているようには思われない。


 そうと解っていても、親友を手にかけることができなかった。先の攻撃の際にも、引き金をひくチャンスはあった。しかし、できなかった。


 もしかしたら、助けられるかもしれない。自我を取り戻させ、また幸せなあの頃へ戻ることができるかもしれない。


 望みを捨てられない。


 ミチェスが立ち上がる。歪に曲がった首をゴキゴキと鳴らしながら。


 その様はおよそ人間とは思えない。殺戮のためだけに生み出された人形のようにしか見えない。


 それなのに、その相貌だけはミチェスなのだ。


 沢山の希望と幸せをくれた親友なのだった。


「……お願い、来ないで、ミチェス」


 吐き出された悲痛をなじるように、ミチェスは地を蹴った。輪郭が急速に膨れ上がった。拳が腹部に迫っていた。


 メアは咄嗟にその腕を払った。しかし力及ばず、微かに脇腹をかすめた。痛みが電流のように背まで突き抜けた。


 そこへもう一方の拳が来る。狙いは顔面。容赦など微塵もない。

 身を屈め、なんとか躱す。


「……!」


 ところが、すでに目の前には膝が迫っていた。間隙に無理矢理腕を挿しこみ、首を傾げた。


「……きぃッ!」


 喉からおかしな音がもれ、メアは床の上へ投げだされた。顔面は守れたが、喉が裂かれるように痛み、息が詰まった。腕にも嫌な軋みが感じられた。骨までやられたかどうかは微妙なところだった。


 それをたしかめる猶予など与えてくれなかった。


 虚空を穿ち、弾頭のごとく跳び来る。


 重い拳を、メアは転がって躱した。

 顔のすぐ横で、床が砕けた。破片が小さく頬を切った。


 さらに床を転がり、勢いをのせて起き上がった。脇腹の鈍痛が足許をぐらつかせた。僅かに体勢が崩れた。


 その無防備な胸もとへ、白い塊が衝突した。


「がッ……!」


 肩から相手を突き上げる、シロサイのような重い体当たり。


 メアは弾き飛ばされ、円卓の残骸へ叩きつけられた。全身がバラバラに砕け散ったように錯覚した。強烈な一撃だった。


 頭を振り、辺りに散った星を払う。

 ミチェスの動きには淀みがなく、躊躇もない。華奢な肉体の貧弱さもない。


 すかさずストンピングが襲いくる。

 それを転がって躱そうとする。


 しかし身体が軋んで言うことを聞かない。思うように動いてくれない。


 クソったれ……!


 不意に時間間隔が泥のように鈍った。肌にゆっくりと剃刀を押し当てるような風圧が感じられた。肉体の挙動が、もどかしいほどに重かった。


 死ぬの?


 メアは自問した。


 死にたくない。


 メアは自答した。


 識者を滅ぼすために、生きてきた。この世界を壊すために戦ってきた。ジェンのハードな訓練に耐え、胃を捻り上げられるような緊張に耐え、親友を喪った悲痛に耐えてきた。


 その結果がこれか。


 誰よりもメアの理想郷を待ち望んでいたはずの親友によって、最期を迎えるのか。守りたかった人によって、この命を奪われるのか。


 怒りがごおと渦を巻いた。理不尽な社会、世界、神ですらも、すべてが許せなかった。こんな理不尽のまかり通るすべてが、憎くて堪らなかった。


 その思いが熱く喉を焼いた。


「ちくしょおおおおおッ!」

「ああああああァ!」


 そこに応える声があった。


 続いてなにかがパンと弾けた。

 眼前に、血の華が咲いた。冷たい血が頬を濡らした。


 ミチェスの足があらぬ方向を踏んだ。木端が砕け、宙を舞った。


 空気の弾ける音が続いた。

 ミチェスの腕に、赤い華が咲いた。


 憤怒を忘れ、茫然とした。

 音の出所を探ると、戸口に立ったコニアが、震える手で銃を握っているのが見えた。


 メアは自分が生き残ったのだと知った。心中で呪った神が、束の間の憐れみをくれたのだと悟った。


 ミチェスを蹴り飛ばし、立ち上がった。


 コニアを一瞥すると、彼女はすでに腰を抜かしてへたり込んでいた。銃は床に転がっていて、手はまだ震えていた。あれでよく二発も当てたものだと感心する。


 メアは痛みを引きずりながら、その場を離れる。

 放り出した銃を拾い上げ、がくがくと震えながら立ち上がろうとするミチェスへ向けて、照準を合わせる。


 その手がまた拒絶を始める。引き金が錆びついたように固く感じられた。


 しかしメアは、数瞬の逡巡の後、今度こそ一発撃ちこんだ。


 それはミチェスの真っ白な脚を射抜いた。バランスを保ちかけていた身体が、血のぬめりに滑ったように倒れる。それでもなお、立ち上がろうとする。両脚が引きつれたように動かずとも、懸命に。


 メアはそれが自身に向けられた殺意であることを知りながら、コニアへと振り返った。


「この子を拘束するわ」


 言うとコニアは目を剥いた。


「嘘でしょ……? この女、どう見てもあんたを殺そうとしてたじゃない」

「解ってる。でも、お願い。この子を殺したくないの」


 コニアの目が怯えたように見上げた。


「……どうして? あんたおかしいわよ」

「そうね、どうかしてるわ」


 本当にどうかしていると思う。


 ミチェスは、もうミチェスではない。そもそも人間ですらないのかもしれない。友達のために笑い、泣いていたあの頃のミチェスは、メアの絶望とともに死んだのだ。


 容赦のない連撃が、それを物語っていた。身体のいたるところに残る、この痛み。ズキンズキンと疼いてやまない、この痛みが、なにを意味するかくらい馬鹿でも解る。命の終わりさえ予感させられ、胸の中は痛みに切り刻まれていた。


 ……それでもできない。


 確信的に思った。


 これまで、敵は容赦なく打ち倒してきた。初めて引き金をひいたときですら、躊躇なんてなかった。


 それなのに、こんな姿になったミチェスを、失いたくないと心が泣いている。親友ともう一度別れるなんて耐えられない。そうやって悲鳴を上げている。


 メアは静かに目を伏せてから、這いずってでも敵を排除しようとする親友へ視線を滑らせた。


 つかつかと歩み寄り、振り払われるその爪牙を避けながら、背へと跨る。ミチェスは無表情のまま、獣のように暴れるが、体重をのせてなんとか押さえ付ける。


 メアのベルトにはホルスターの他に、手錠も備わっている。爬虫類の瞳孔のような形をした手錠だ。


 それを抜き取り、スイッチを押す。たちまちスライドして、輪となった。


「くぅっ……! よしっ!」


 片腕の負傷が幸いし、なんとか両腕を繋ぎとめることに成功する。


 背から離れると、ミチェスはガチャガチャと音を鳴らしながら暴れたが、手錠はびくともしなかった。先の銃創や、早速傷つき始めている手首を見るのは痛ましかった。だが今は、こうするしかないのだ。


 メアは振り返った。


「ねぇ、この子を見張っててくれない?」


 脇腹の痛みに指を這わせながら言うと、コニアは憮然としたように目を伏せた。


「……あんたの仲間になったつもりないけど」

「そう? 分かったわ。さっきは助けてくれてありがとう」


 メアはさらりと言い返すと、筒状物体の連結作業を再開した。


 先の戦闘で、破壊されなかったのは僥倖だった。


 これはマティスに引導を渡すためのスナイパーライフルだ。ボルトアクションの旧式である。〝継接パッチワーク〟によって合成される「理論上、製作可能なデバイス」と違って、これは時代に捨て置かれたガラクタと言ってもいい。優れた性能を持っているとは、とても言えない代物だった。


 ボルトアクション式など化石にも等しい。国境線戦に立つ者でさえも、知らない者は多いだろう。世はオートマチックの時代なのだ。かつては、狙撃性能に多少の難を見たオートマチック式も、今では呆れるほど手に馴染む。


 それでも旧式ライフルを用いるのは、単に、BORDERメンバーに武器に優れた知識をもつ者がいなかったからに他ならない。バースの知識はひどく偏っており、それゆえに〝継接〟で作成される「完成品」にも偏りがあるのだった。


 妨害する者がなければ、ライフルはすぐに完成した。素材を入手できなかったために、スコープに十字線はないが、特殊な眼球をもつメアにとって、それはなんの障害にもならない。


 BORDERメンバーには、それぞれ二つ名がある。


 故国を、識者を見限ったジェンは〝裏切り〟。

 愛する者から、その想いと機械の眼を託されたバースは〝銀眼〟。

 傷ついた者を癒し、命に新たな可能性を与えるアリスは〝祝福〟。


 そして、厳しい鍛錬に耐え抜き、誰よりも銃の才覚に恵まれたメアは〝必中〟を冠する。


 メアはボンベの中から、細長いメタルスティックを取り出す。中央にボタンが備わっており、プッシュした途端に、二倍近い長さへと伸長する。さらに頂点で二分され、二脚となる。頂点部には、やや歪んだU字の物体が取り付けられる。


 そこにスナイパーライフルの銃身を斜めに置けば、ぴったりと収まった。メアはそれを抱きかかえるようにして、両脚を投げ出す姿勢を取る。


 薄らと翳った世界へ、銃口を向ける。照準は感覚が知っている。滅ぼすべき敵は頂にある。


 中央棟の最上階。


 ジェンは無事、あそこへ辿りつけただろうか。辿りつけたとして、マティスを誘導するだけの体力が残されているだろうか。


 ただ仲間を信じて、銃口を定めるしかない。先の戦闘で受けた痛みを、ミチェスを前にした迷いを一切断ち切り、今は、自分のなすべきことへ向けて引き金に指を這わせる。


 ここからは緊張との勝負。一時も気を抜いてはならない。いずれ来る好機を逃してはならない。仲間に守られるばかりの時期は過ぎた。これからは、自分も仲間を守っていかなくてはならない。


 浅く息を吐き出し、微かな震えも殺す。


 そのときである。


 不意に薄暗い靄が断たれ、虚空に白刃が煌めいたのは。


 僅かに血濡れたその刃は、たちまち血を噴き出し、収斂し、影をなした。それすらもまた一閃と化し、のっぺりとした壁にしか見えないガラスを、真っ二つに切り裂いた。


 メアはたまらず息を呑んだ。

 昨夜の言葉が思い出された。〝雲渡り〟が発した最後の一言を。


『……明日、もう一度マティスへ襲撃する』


 本当に来た。彼はあの言葉を違えなかった。


 割れたガラスの向こう、その影は朧である。体躯にまとった襤褸だけが、黒き翼のように時折、虚空へ跳ね上がるのが見えるばかりだった。


 メアはじっと好機を待った。

 その身体がマティスと入れ替わるのを待った。


 しかし〝雲渡り〟の襤褸は、不意に室内へと消える。

 中でなにが起きているのか。この角度からでは判らない。


 もどかしかった。


 果たして、マティスは現れるだろうか。


 焦燥があった。


 ここに来て、自身の心に、醜い願望が芽生えているのを感じ取った。


 メアは復讐したかったのだ。

 誰の手でもなく、この手で、この指先が撃ち出す凶弾で、マティスの頭を爆散させたかった。


 ミチェスを不幸にしたクズを、ミチェスをこんな姿にした化け物を、誰にも奪われたくなかった。


 メアは私怨に塗れていた。


 ところが、復讐の果たされる望みは、彼女の与り知らぬところで遠ざかっていった。


 マティスたちは中央棟の内部へ向かい、五十八階で打ち合い始める。

 その後、二人の識者は居住区の路地裏に出現する。


 メアは知らず構え続ける。

 決して現れることない怨敵を待ちながら。

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