二章 裏切りのジェン
ジェンは、そこで識者としての生を受けたのだ。
いや、その言葉には多少の語弊がある。
この世に生まれ落ちる人間は皆、例外なく非力な裸の赤ん坊として誕生するのだ。今現在、識者として社会を支配する者も、産声を上げた頃は、普通の人間だったのである。
しかし識者の家系に生まれた子どもは、〝識者システム〟移植手術に耐えられる年齢になれば、識者へと生まれ変わる。この社会を支配するための超人的な肉体と破壊的な力を与えられるのだ。
「今回もあの子は上手くやってくれるかしら?」
黄ばんだ壁紙に囲まれた四畳二間の安アパートの一室で、ジェンはアリスと向かい合って座っていた。二人の間に鎮座するローテーブルには、二人分の歪んだマグカップが置かれている。
ジェンは短い瞑想から醒め、固いスツールに居心地の悪さを感じた。小さく身動ぎし、口許でマグを傾ける。中のコーヒーはやたらと苦い。だから、俯いたアリスへ向け、努めて浮かべた笑みは、ひどく引きつって苦笑じみていた。
「やってくれるだろうさ。あいつを育てたのは俺なんだからな」
先程から「あの子」とか「あいつ」と呼ばれているのはメア・ギャビントンのことだ。五年前、不幸にも識者に親友を消され、BORDERへと加入した、気も腕っぷしも強い女。
彼女がBORDERへ加入した当初は、潜入の心得や体術の基礎を刻み込ませるため、何度も反吐を撒かせ泣かせた。薬物を使用したことも、骨を折ったこともある。自分の吐瀉物の中で、小一時間放置してやったこともざらだった。
それでも彼女は、決して投げ出さなかった。強い芯があった。むしろ彼女の瞳は、傷つく度に烈しく燃え上がってゆくようにすら見えた。識者であるジェンが、つい畏怖の念を抱いてしまうのも無理からぬほどに。
そんな彼女の初単独任務へ挑む背中を見送ったのは、ほんの数時間ばかり前のことである。
「それにバースもいつもより慎重にやってくれてるじゃねぇか」
ジェンは背後のベニヤ板めいた仕切戸を一瞥して言った。その向こうでは、今もバースがお得意の〝設計〟に勤しんでいる。
「そうだけど……」
どうやらアリスは、ジェンの下手くそなフォローでは納得がいかないらしい。組んだ腕を解こうともせず、不安げに俯いたままだった。
口調や仕種は女性のようだが、男である。髪を腰の辺りまで伸ばして、薄らと化粧までして、少しでも女性らしく見せようと努力する甲斐も虚しく、その角ばった顎やファンデーションの下からも判る髭のあとは、どう見ても女性のものではない。肩幅など〝
「なにがそんなに不安なんだ?」
今回は単独潜入任務だが、メアはすでに五人の識者を屠ってきた実績がある。まだ初心者の域は出ていないが、素人と呼べる段階はとうに過ぎていた。
「結果的に作戦は成功するかもしれないわ。でもあの子は綺麗な子だし、マティスはあんな場所でしょ? 彼女の心が心配なのよ」
マティス・クリーン社は、表向きは清掃業務員の派遣企業だが、その実態はデリバリーヘルスとさして変わりない。それを裏付けるかのように、企業の末端社員の多くは見目麗しい女性によって占められている。
中でもメアの潜入した本社などは、ほとんどマティス専用の奴隷小屋と言っても過言ではなかった。派遣が行われること自体滅多になく、マティスの「お気に入り」ばかりが集められ、なんらかの形で「消費」されてゆく。
「要するに、マティスの野郎を暗殺できても、あいつの処女が奪われかねないってことが言いたいのか?」
そう言うとアリスは大仰に顔をしかめた。
「下品なことを言わないでちょうだいよ。……まあ、そういうことなんだけど」
それはジェンとて思うところがないわけではなかった。だが、綺麗事を並べ立てて識者を殺すことができるのなら苦労はない。
今回に関しては、メアが潜入役に適任だったのだ。バースのクラッキング技術を用いてカメラ映像や身分を偽ることはできても、人の目まで誤魔化すことはできない。それはアリスを見ていればよく解ることで、彼がどれだけ女らしく振る舞おうとしても、彼は結局男なのだ。男がマティスの末端業務員として潜入することなどできるはずがなかった。
「心配するなよ。あいつは上手くやる。いざって時は俺だってサポートするしさ」
「サポートって? あなたがマティスに乗り込むとでも? そんなことしたら、あなたもあの子もおしまいよ」
「それは、あれだよ、あれ……」
ジェンがばつ悪く顔をしかめ言葉を探っていると、アリスはますます険しい表情で嘆息した。姿は男でも、心は女だから、こういう時なんと言葉をかけてやればいいのか解らない。
メアに傷ついて欲しくないのは、ジェンも――あるいはバースとて同じだろう。彼女はすでに深い傷を負い、それゆえに復讐者となってしまったのだから。
だが五年前のあの日、メアはバースの手を取り、修羅の道を往くことを選んだ。
そしてマティス・クリーン社への潜入を提案した時、彼女は躊躇なく頷いてみせたのだ。
その奥にどんな覚悟があったのか、ジェンには判らない。女性の心をもつアリスも、高度なクラッキング技術をもつバースとて、人の心を盗み見ることはできないはずだ。彼女の心を知るのは、あくまで彼女ただ一人――。
それでも傷ついた若い女に寄り添おうとするこの心は、彼女の選択の重さを再現しようとする。それが真実であるかのように。
「ああ……ちくしょう」
メアが傷つくと解っていながら、それでも黙って見送らなければならない現状を苦しんでいるのだとしたら――それはジェンも同じだったからだ。
「せめて
ジェンはそう言ってマグを傾けると、おもむろに立ち上がった。
「どこ行くの、ジェン?」
訝しげに見上げられた目に、ジェンは頼りなげな笑みを返す。
「そろそろ俺も準備しなくちゃいけねぇだろ、色々と」
「……ああ、そうね」
ジェンはアリスの中に恐れのようなものを見たような気がした。
あるいは、それは己の孤独がもたらした思い込みでしかなかったのかもしれない。
だが、たとえそうだったとしても、事実が変わることはない。
俺は識者だ。〝裏切りのジェン〟だ。
自分の生まれた世界の醜さを忘れないため、ジェンはあえて〝裏切り〟の名で己を強いてきた。
それがこういうとき好い助けとなる。
自分を人間でない化け物だと思えば、冷静に仕事ができたし、メアの苦しみから目を背けても、さほどばつの悪い思いはせずに済むからだ。
◆◆◆◆◆
ジェンは防護ラバースーツに身を包み、空のボンベを背負って、
識者にとっては、汚染された外気など吸引してもなんの害にもならないが、共和国から亡命して身分を隠している以上、素顔をさらすわけにはいかなかった。そもそも素肌をさらしていたら、識者であることは一目瞭然だ。地上を闊歩する識者など滅多にいるものではない。ドローンに特定され、治安部隊に包囲されるのは目に見えている。
ジェンは貧相な低階層アパート群の隙間を、肩を縮めながら歩く。その爪先は摩天楼そびえる商業区とは反対の方向へ向いていた。
彼の目的地は下層工場の林立する、スモッグの濃霧に覆われた世界――工業区にある。
そこは下層と呼ばれるように、住宅区より遥か低地に位置し、断崖の底に噴き溜まったスモッグの海から無数の煙突が伸びる魔境の地だ。さながら巨人のために用意された落とし穴のようで、煙突群は針めいて尖っている。
商業区に位置する工場群とは違い、工業区で作られる製品には粗悪なものが多い。この時代にあってオートメーション化されてもいないので、生産効率も非常に悪く、賃金など雀の涙だ。
それでも工業区が生き残っていられるのは、皮肉なことに貧困の蔓延にある。
商業区で生産される製品は質がよい分当然値段も高く、貧困層の人間ではとても手の届かない代物なのだ。
一方、工業区の製品は品質こそ最悪と言っていいレベルだが、貧困層の一市民でも手の届くお手頃価格である。携帯端末などはバックドアが設けられ、情報を抜き取られる恐れのある危険極まりないものだが、「商業区企業への就職」という一発逆転を夢見る者たちにとってインターネットは不可欠で、末端市場を通してでも手に入れようとする者が少なからずいるのが実状なのだった。
一方で工業区は、スクラップ場としても機能している。ジェンの目的は、そのクズのいくらかを回収することにあった。
小一時間ばかり歩くと、スモッグはいよいよ濃霧の様相を呈してきた。二十メートル先も見通すことはできない、ひどい有様だ。そこここでライトが朧に滲んでいなければ、自分がどこに立っているのかも判らなくなるに違いない。
ジェンは微妙な景色の変化を窺いながら、ようやく下層工場群へと続くエレベーターポートへと辿り着く。人間用のエレベーターはおよそ二十基あり、運搬用の十基の前では間断なく地上輸送トラックが行き来していた。
人間用の一基だけが、エレベーターの到着を予告する青いランプを明滅させている。
そこに並ぶ十人ばかりの列の中に加わった時だった。
ガキン、ガキン。
耳障りな音をたてた正六面体警備ロボットの接近が感じられたのだ。
スモッグの中ではその音だけが遠く谺し、姿を見ることはできないが、識者の鋭い五感は、たしかにその音を捉えていた。
ガキン、ガキン。
音がこちらへ近づいてきていることも、最早明白だった。
ジェンは湧き上がる焦燥を奥歯で噛み殺しながら、エレベーターの点滅表示を睨んだ。
一つ目ヘルメットのおかげで、ジェンの顔が空撮ドローンによって識別されることはない。
ところが、正六面体警備ロボットが相手では、顔を隠すことなどなんの意味も持たない。ドローンが映像から個人を特定するのに対し、これは対象の生体反応を視ることで個人を特定する。ナノセコンド単位で光を連続照射し、その際読み取られたニューロン活性反応の差異から個人を特定する、工学技術の化け物である。
無論、密入国者であるジェンは、オルニの戸籍情報を持たない。即刻「排除対象」だ。
識者の超人的な肉体とジェンの能力〝
スモッグ濃霧のおかげでドローンによる通報は警戒せずに済むとはいえ、抗戦場所は確実に警備ロボットによって識者の許へと届けられてしまう。
治安維持局の殲滅部隊がやって来て個人を抹消しようとするだけなら、迷いなくこんなガラクタくらい壊してやる。
だが頭のイカれた奴らのことだ、工業区全域を火の海へと変えるくらいのことはやってのけるかもしれない。いずれここも埋立地となって、どこかの企業の支社が建てられるという話もある。〝クズ〟どもを殺すのに良心の呵責を感じるような奴らではない。むしろ、早いうちから邪魔者を排除できて一石二鳥だと考えるかもしれない。
ガキン、ガキン。
いよいよ正六面体警備ロボットが、濃霧の奥からぬうと姿を現すのが見えた。
ジェンは距離を取ろうとするが、露骨に避けるような仕種を取れば、それだけでも粛清対象になりかねない。この世の法や規律と言った網は、それを行使する人間の都合の良いように作られ、脱しようとする者を躊躇なく苛むのだ。
「……っ」
ジェンは動かなかった。
エレベーターの到着を待つ選択をした。
ビイィィィィィッ!
するとその時、下層から湧き上がる機械駆動音を裂くようにして、甲高い警報音が鳴り響いた。
「ナンバー未登録者を確認。本機はこれより、アサルトモードへ移行します」
続いて、正六面体のつるりとしたボディーから無慈悲な宣告があった。
ジェンは動き出さなければならなかった。警備ロボットを工業区から引き離しながら、どうにかして姿をくらませなくてはならなかった。
一瞥した先では、正六面体が軋みながら変形を始めていた。
横四面の中央部がおよそ三十センチ四方陥没したかと思うのも束の間、底部から四本の柱が飛びだした。その内部が伸長して関節を形作ると、あっという間に多脚機動体が完成する。残された筐は咲き誇る花のごとく四囲にめくれ上がり、内部に隠されていた人の上半身に似た部位を露出させる。その腕もまた四本であり、それぞれに、面であったものが折り合わされて複雑に形を変え、ブレード、ランス、バーナー、ガトリングの物々しい姿へと変貌した。
それでもまだジェンは動き出さなかった。
「うあああああっ!」
何故なら警備ロボットの照準が、ジェンではなく、不意に居住区へ踵を返した男の背中へと向けられていたからだ。
識者であるジェンになら、その男を救うことができた。警備ロボットもやわではないが、〝継接〟は物にこそ本領を発揮する力だった。
チン!
ところが、エレベーターが到着するや否や、ジェンは正面へ向き直っていた。
粛清の光景を見ようともしなかった。さびれた箱に吸い込まれてゆく人の流れへと加わり、唇をきつく噛んだだけだ。
「……助けてくれぇっ!」
遠く救いを求める声が鼓膜を打った。
やはりジェンは動き出さず、揺れ動く心に蓋をした。
エレベーターの扉が、重い軋みを唸らせて閉まってゆくのを眺めた。
俺はやっぱり裏切り者だな……。
言い訳する気にもなれなかった。自分を責めても贖罪にはならなかった。あの男の命が助かるわけでもなかった。
救えたはずの命を見捨てた。
その事実が深く胸の奥に食いこんで消えてくれなかった。
「変形シークエンス異状なし。執行します」
無機質な合成音声が発せられた後、警備ロボットのガトリングから幾度もマズルフラッシュが迸った。
その瞬間、心の蓋が音をたてて砕け、鋼鉄の床板がミシと音をたてた。
ジェンは今度こそ動き出そうとしたのだ。
だが、遅すぎた。
エレベーターはすでに闇に包まれたあとだった。
ぞわぞわと胃の腑を撫でるような浮遊感が、降下の始まりを教えていた。
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