三章 コンタクト

 午前の業務はつつがなく終わった。


 代表取締役のマルサラス・マティスにも、幹部役員にも呼び出されることはなく、ただ清掃作業に勤しんだだけだった。指導役のエンザは寡黙だが、丁寧に業務内容を教えてくれ、使用する薬品の用途についても事細かに説明してくれた。


 薬品は清掃個所によって、それぞれ異なるものを用いる。なんと。その数は五十以上にも及ぶようだ。とても一朝一夕で覚えられる量ではないな、と辟易していたところに、エンザがわざわざ自作のリストを転送してくれたのには感涙するところだった。


 閉口すべき点があるとすれば仕事量の多さだ。


 マティス・クリーン社は、他の大企業と比較すれば小規模だが、高さは六十階、一棟辺りの面積はおよそ一万平方メートルにも及ぶ。おまけに低階層は地を這う根のように無数の別棟をもっており、連絡通路も無数にある。


 それを百人の女たちですべて清掃するわけではないが、三分の一以上は女たちの手によって清掃がなされるよう割り当てられている。午後からは早速指導役なしの単独業務となるので、単純に仕事量は倍だ。


 メアはコンサートホールのようなドーム状の食堂で、誰と相席するわけでもなく、独り業務用レーションを頬張る。最低限の栄養価だけを考慮されて作られたレーションは、飢えを凌ぐのには最適だ。その代わり、舌の根が膿んで腐るほど不味い。


 半数以上の席は埋まっている。隣席に清掃員らしき女が腰を下ろす。

 誰もメアに話しかけようとはしない。


 老婆のように腰を曲げ、リノリウムテーブルに置かれた薬品リストを睨むメアに、誰もが気を遣っているようだ。


 無論、カモフラージュである。メアの目が捉えているのは薬品リストなどではない。方々に設置された監視カメラを警戒しながら、社内の様子を観察しているのだ。


 メアは意識を集中させ、視覚情報の最適化に努める。


 彼女の眼球は、〝銀眼のバース〟のような機械眼球ではないにしろ、生まれもった眼球でもなかった。メアのそれは、〝祝福のアリス〟によって移植された人工眼球であり、常人の数十倍にまで視力を拡張できる優れものだ。


 マティスや幹部役員らしき姿は見られない。識者シキシャと言えど無敵ではないので、警戒を怠っているわけではなさそうだ。超人じみた肉体の持ち主でも、その肌や筋肉で銃弾まで弾くことはできないし、脳や心臓を破壊されれば死ぬ。


 メアは疲れたフリをしながら、伸びをして天を見上げた。食堂はアーチまで窓になっており、近場の別棟を見ることができる。彼女の目は、その無数のガラスの羅列の中から、識者を見出そうとし、幾つか男の姿を捉えた。


 そのいずれもマティスのものではない。

 そもそも識者かどうかさえ判然としない。


 マティス・クリーン社は、清掃業務員こそすべて美しい女性によって占められているが、それ以外がすべて識者によって構成されているかと言えばそうではない。事務方の職員の中には、非識者も属している。識者企業において、そういった社員構成は珍しくないのだ。


 まあ、そう簡単にターゲットが見つけられれば苦労なんてないわね。


 非識者を奴隷同然に扱うクズどもも、丸腰で闊歩するようなアホではないということだ。特に近頃は〝雲渡り〟による識者狩りが横行しているため、識者たちの警戒意識は向上しているようである。


 男たちの中に混じって数体の甲冑型ロボットが窺える。おそらく中心に識者を据えて移動する護衛機だ。


 これがなかなか厄介。単に装甲が厚いだけならともかく、半径三百メートル以内に存在する火工品をピンポイントで感知して、事前に危険存在を特定してしまう。この光化学スモッグ充ち満ちる世界では、この三百メートルという数字が、意外にもネックとなる。識者を狙撃するのは、まず不可能と言っていい。


 無論、社長室に直接アタックをかけるというのも、容易ではない。社内のシステムは厳重なセキュリティによって護られ、メインシステムへのアクセスが可能な管制室へ行くためには、百以上のカメラを欺き、厚さ二十センチ以上にもなる防爆セキュリティドアを三つも突破しなくてはならないからだ。


 いずれにせよ、メアに与えられた任務は、マティスの殺害ではない。一日目の今日は、偵察に専念することになっている。カメラ位置やネットワークへのアクセスポイントを探るのが、非識者であるメアにも可能な最低限の仕事だった。


 そもそもマティス・クリーン社という社会の腫瘍を取り除くためには、マティス一人を殺害するだけでは足りない。


 なぜなら、マルサラス・マティスはあくまで企業の顔でしかないからだ。奴は巨大な怪物の皮であって、脳ではない。皮を剥げば痛手にはなるが、殺すことはできない。蜜を吸う人間や企業の名が替わるだけだ。その実態は継承され生き続けていく。


 あくまでBORDERの攻撃目標はマティス・クリーン社である。企業の〝脳〟を破壊するためには、メインシステムをクラックし、運営力を奪い、社会的信用を失墜させる必要がある。その絶望を見せつけた上でマティスを殺すのだ。


 それが彼女の復讐。

 親友を殺された者の悲しみの行き着く果てだ。

 

中空に投影されたデジタルタイムを一瞥すると、いよいよ午後の就業開始時刻が迫ってきていた。


 ここからは独り。

 おそらく奴らが毒牙を伸ばす時間であろう。


                 ◆◆◆◆◆


 BORDERが実際に事を起こすのは、早ければ明日。


 今頃、ジェンは工業区で作業に勤しんでいるだろうし、バースの〝ハックコア〟等の設計図が完成したかどうかも微妙なところだ。アリスも計画の可否に気を揉むばかりでなく、バースの機械眼球と生体接合部の調整やペットの〝アイちゃん〟のご機嫌取りに忙しいはずである。


 メアとしてはさっさと事を済ませて引き揚げてしまいたい。潜入によって生じるストレスは多大なもので、今も胃痛が治まらない。だが実際問題として、潜入初日に動けば、真っ先に怪しまれるというリスクもある。


 無力な女を演じ、相手を油断させるという意味では、この一日も重要だ。


 それを披露するときが、今やってこようとしている。


 携帯端末に連絡があったのは、昼休憩が終わるほんの三十秒ほど前のことだった。薬品を山と積んだ台車を押し、さて仕事にとりかかるかというところで、バイブレーションが鳴ったのだ。


 メールではなく電話。


 宛先は不明。

 恐るおそる通話に出ると、相手はこう言った。


『初めまして、ミス・ハチェット。私はマルサラス、マルサラス・マティス。ご存知かな?』


 その爽やかな声音に聞き覚えはなかった。顔ならばホームページなどで誰でも確認できるが、メディアでの露出は少なく、バースの技術を用いても音声データまで特定したことはなかったからだ。


 メアは仇の声を耳に、思わずほくそ笑みそうになった。しかし、カメラにその表情を撮られるのはまずい。とりあえず、驚いたフリをしておいた。


「え、え、あ……社長の名を知らないはず、ありません。あ、えっと、お疲れ様です」


 しどろもどろに返すと、電話口の向こうでマティスが笑った。


『そう緊張することはない、ミス・ハチェット。私はただ、君と楽しくお話をしたくて連絡させてもらっただけなんだ。しかし電話口で会話をするだけでは、せっかくの楽しみも切なくなる。実は、もっと好い場所を用意している』


 早速来たか、と思いながらも、それを表情や口に出すメアではない。


「え? 好い場所、ですか?」

『ああ。最上階まで来てくれ。あとはおのずと分かる。私はそこで君を待っているから』


 それだけ言うとマティスは通話を切ってしまった。


 わざわざ自分から電話をかけてくるとは、驕ったアホだと思いながらも、メアは端末へ向けて訝しげに目を細め、首を傾げる。台車も一瞥しておく。


 この階層に人の目はないようで、しんと静まっているが、もう少し演技が必要かもしれない。


 戸惑う素振りで辺りを見渡し、意味もなく端末のディスプレイへ目を落とす。当然、そこにマティスと交わした会話の痕跡はない。精々通話履歴が残っている程度だ。


 さて、そろそろ行くか。


 メアが重苦しい覚悟を決めることはなかった。憎い男に抱かれようとかまわない。復讐を果たせるのならば、自分の身体のことなどどうでもよかった。念頭にすらなかった。


 むしろ、奴の余裕ぶった勝者の顔を、じっくりと眺められることに愉悦すら感じていた。奴がすべてを失う瞬間、その顔がどんな風に歪み崩れてゆくかを比較できるから。


 おずおずと踏み出すと、廊下の奥で沈黙を守っていたエレベーターが、不意に欠伸でもするような緩慢とした動作で口を開けた。


 メアは焦ったようにエレベーターの中へ飛びこみ、そわそわと四囲の壁に視線を廻らせる。


 エレベーターは階数ホログラムをタッチすることも、音声認識を受けることもなく、動き出した。


 胃の腑をまさぐられるような浮遊感。見る間に階数表示が六十に近付いてゆく。


 やたらと丈の短いスカートのしわを伸ばすと、エレベーターは五十五階で止まり、口を開けた。


 四角く切り取られた外の世界は一面銀に彩られていた。


 正面を塞ぐ物々しい防爆扉だけでなく、両手に伸びた廊下まで全面機械仕掛けだ。エレベーターを出ると、廊下の端に当たるそれぞれの扉も分厚い機械式扉でがっちりと塞がれているのが判った。


 壁面や天井には階下では見られなかった、清掃巡回ロボットが吸着している。やはり「人の温もり」などというものは、実際的に存在しないのだ。


「ようこそ、ミス・ハチェット」


 どこからともなく響いた声が防爆扉のものだということはすぐに判る。


 正面の大扉がすでに動き出しているからだ。


 中央の切れ込みから白い蒸気が噴霧され、四隅に設けられた拳大の丸い突起がネジのように回転し奥へ沈んでゆく。それが底部に収まっても、周囲から響く重い駆動音は続いた。


 たっぷり三十秒も経ってから、ようやく大扉が開く。床から天井にまで続いた巨大な扉は、意外にも軽く左右に開閉する。


 奥にはもう一枚の扉がある。今度は上下に開いた。

 さらにもう一枚の扉が現れると、それは左右に開き、ようやく長く伸びた廊下の姿をさらした。やはり廊下を彩るのは無機質な銀色だった。


 メアは辺りを見渡しながら、大扉を潜る。


 通路は蟻のコロニーのようだった。無数の横道があるのだ。

 しかし進むべき道は示されていた。壁に吸着した清掃ロボットの一体が、筒状のメインフレームから赤い光を明滅させ、その四つの足をゆっくりと踏み出してゆくのである。


 メアが止まれば、清掃ロボットも止まり、メアが動き出せば、一定の距離を保ちながら進む。その様はどこか愛らしさすら感じられるが、この清掃ロボットの実際的な役割は、マティスの待つ地獄へと案内することにある。


 メアは今すぐ、このロボットのメインフレームを撃ち抜きたい衝動に駆られた。だが起こすべき撃鉄はこの手にない。今のメアは無知なる女――ミール・ハチェットであり、潜入員メア・ギャビントンではないのだ。


 仮に小銃を忍ばせていたとしても、この区画では感知される恐れがある。清掃員の装備の都合上、下界の「クリーン」な環境に、高度な金属感知器は設けられていないはずだが、ここでは薬品を積んだ台車や清掃機具はない。


 こんな大仰な防爆扉まで用意しておいて、まさかそんな単純な脅威への対策を怠っているとは思えなかった。


 か弱い女を演じながら進むしかない。マティスを滅ぼす瞬間は、五分や十分あとの未来にあるのではないのだから。


 そしてこの忍耐の果てに、メアは血と憎悪に塗れた一つの終わりを見るだろう。メア自身が、血の中に沈んだ友のために識者を憎んだように。


                ◆◆◆◆◆


 事前入手した情報通だ。防爆扉はあと二枚残されていた。


 人感センサーによって床が自動浮上し、辿り着いた五十六階に一つ。無骨なエスカレーターに二階分も運ばれた五十八階に一つ。それらはやはり謎めいたパスコードによって解除され、メアはなんなく最上階へと続くスライダーの前に立った。


 それは馬鹿馬鹿しいアトラクションめいている。吹き抜けの中央に、半透明のチューブが螺旋を描いている。五十八階のスタート台は、金属板の上にマットが敷かれた簡易ベッドのような風貌である。


 ここにもライトを明滅させる清掃ロボットがおり、スライダーに向けて矢印状の明かりを描いていた。


 恐るおそるスタート台のベッドに寝そべると、人の重量を感知してか、金属板から拘束具めいた鋼鉄の輪が手足や腹部に取りついた。そこからプシュ、と短い気体噴出音が鳴ると、輪の裏側の生地が膨張した。搭乗者の痛みを緩和するための緩衝材のようだ。


 思わず嘆息を漏らすと、次の瞬間、それがたちまち悲鳴へと変わった。

 メアを拘束したベッドは、高速射出され、チューブの中をめぐり始めたのだ。


 それはアトラクションというよりも、拷問に近かった。地上から投げ出された足許を支えるのは、拘束具めいた輪っかのみだ。足裏に触れるものなどなにもない。


 視界はぐるぐると回転する。三半規管をミキサーにかけて砕かれているような感覚。絶えず吐き気が襲ってくる。目を開けているのも辛く恐ろしい。気付けばきつく瞼を閉じていた。


 メアはこれまでに五人の識者を殺し、一人の識者に殺されかけている。ふとした手違いで、潜入者であることに気付かれ、危うくその超人的な力に息の根を止められそうになったのだ。


 だがあの時はジェンが助けてくれたし、識者に命を狙われる恐怖こそあっても、実際に危害を加えられたことはなかった。


 今はどうだ。

 足許も定かでなく、気を緩めれば吐瀉物に塗れて喉を詰まらせ死ぬかもしれない状況にある。


 メアは大仰にそんなことを思った。


 だからようやく超電導リニアスライダーが六十階で静止した時には、安堵から失禁してしまいそうだった。


「お加減はいかがですか?」


 不意に降りかかった声に瞼を開くと、こちらを見下ろす一人の男が目に入った。


 ダークグレーのスーツに身を包んだその男は、一見、線が細くスマートな印象を受ける。しかしアリスにも似た切れ長の目には、常人にない凄味が感じられた。


 メアはすぐに、この男を識者だと感じ取った。


「……えっと、気分が」


 突然現れた男に当惑する様子を隠そうとはせず、それでも訊ねられたことには正直に答える。ミール・ハチェットというキャラクターは、徹底的に演じなければならない。


 男が小さく肩を揺らした。どうやら笑ったようだった。その表情に笑みらしき緩みは見られなかったが。


「では、これを。すぐに気分がよくなります」


 男はそう言って携帯吸入器のようなものを差し出してきた。


「ありがとうございます」


 おずおずと受け取ったメアは、意外にも躊躇なくそれを吸引した。


 無論、あまりの気分の悪さに判断力が鈍ってしまったわけではない。彼女は奥歯に隠された薬剤を噛み砕いた上でそれを吸引していた。相手の寄越したものがなんなのかは判然としないが、ここはアリスの中和剤を信用するしかない。


 怪しまれるのが一番危険だ。


 メアは小銃一丁すら忍ばせてはいないのだし、今回の任務にはジェンも同行していない。地上六十階から脱出する術もない。おまけに眼前には識者だ。


「どうです?」


 吸入器から口を離したメアは、小さく息を吐いて微笑む。


「少し、よくなった気がします。こんなに早く効くなんてすごい」


 実際はとても気分が悪かった。今すぐこの男のスーツを汚してしまいそうなほどに。


 だが痛みにも苦しみにも、メアは慣れている。ジェンから受けた訓練は、決して生易しいものではなかった。何度もジェンのことを殺してやろうと思った。その経験が今に活きている。


 男の目に映るのは、茫洋として自分を見上げる無力な女に過ぎないはずだ。


「ところで、あなたは……?」


 訊ねると男は小さく肩をすくめた。


「憶えていらっしゃいませんか」


 実のところ、この男には見覚えがあった。メアはすでにこの男と会っているからだ。採用面接の場で。


 このご時世にあっても、採用試験項目の中には、面接制度が組み込まれたままだ。下手にデジタルな接触を試みれば、クラッキングの恐れのある時代だからだ。バースの他にも優秀なクラッカーというのは潜んでいるもので、またBORDERに似た反社会的組織も少なからず存在する。


 マティス・クリーン社の場合は、採用基準が「美しさ」にあるので、いくらでもレタッチ可能な写真だけで採用を決めるというわけにもいかなかったのだろう。


「あ、思い出しました! す、すみません、あの、あの、人事部の――」

「ネイスです。ネイス・アンダーソン」

「失礼しました!」

「いえいえ、お気になさらず」


 あくまで物腰は柔らかい。だが腹の底では、どんな欲望や怒りが渦巻いているだろうか。


 メアは恐れるどころか、昂揚を感じていた。


 この男もまた、最期にはどんな顔で死んでゆくだろうと思うと、堪らなかったのだ。


「それよりも、社長がお呼びだそうで」

「え、ええ」

「ご案内しましょう」

「え、人事部の方が?」

「肩書きなど大した意味を持ちません」


 たしかにこの会社ではそうだろう。


 メアは心の中でネイスをなじりながらも、ベッドから起き上がって、素直に男のあとに続いた。


 マティスの待つ社長室までは、長くかからなかった。


 一直線の廊下。両手に無数のドアを設けたその突き当りに、社長室の巨大なドアがひかえている。スライダーからほんの二十メートルの地点にそれはあった。


「では、私はこれで」


 ネイスは恭しく頭を下げると、やはりその表情に笑み一つのせることなく去っていった。


 メアはその背中にたっぷり五秒も腰を折った後、社長室のドアへと向き直った。


 丁寧に三度ノックすると「どうぞ」と爽やかな声が返ってくる。


「失礼します」


 ドアを開け、その景色を目の当たりにした瞬間、メアは目を細めていた。そこは社長室という響きには似つかわしくない煌びやかな部屋だったからだ。


 天井から下がっているのは、半径十メートルもありそうな巨大なシャンデリアだ。壁紙はその明かりで橙に濡れている。部屋の最奥には、アンティーク調のテーブルとソファ。いずれも螺鈿細工に彩られている。掛け布やカーテンはどれも濃緑を基調とし、金銀の財宝を流しこんだような高級感あふれる刺繍を施してあった。


 それらを見下ろすように壁から張り出すのはブリーフィングモニタだろうか。アンティークソファに寝そべった金髪の青年が、茫洋とした眼差しでそれを見上げている様は、まるで絵画のような静謐と威厳を持っているように見えた。


 メアは燻る怒りを押し殺しながら、ドアを閉める。

 瞬間、重い施錠音が鳴った。


 その音に初めて気付いたとでもいように、はっと青年がこちらを向いた。


 全身を包むスーツの色は、下界の壁紙のような神経質な白だった。襟首には金の刺繍がとぐろを巻いた蛇のように絡みついている。


「やあ、待っていたよ。ミス・ハチェット」


 マルサラス・マティスは、二十代半ばほどの瑞々しい相貌に妖しい微笑をのせた。この社会の闇そのものである識者でなければ、あるいはこんな相貌の男と愛し合う未来があったかもしれない。


 そう思えるほどにマティスの顔立ちは整っており、若い気迫に溢れていた。


 だがこの男の実年齢は、おそらく容姿からは想像もつかないほど老いているだろう。人間を識者という超人に変える技術がある以上、その姿を若々しく、美しく保つ技術もまた存在する。


 マティスはその恩恵の上で胡坐をかく、識者社会の一側面そのものだった。


「お、お会いできて光栄です。マイ・プレジデント」

「マイ・プレジデントッ! 実にいい! ハッハ!」


 突然、マティスは手を叩いて哄笑した。メアは肩をすくめ、失言を恐れたようにそわそわと辺りを見渡す。


「ハッハ! そう緊張することはない。いつまでもそんなところに立っていないで、私と楽しいティータイムを過ごそうじゃないか」


 テーブルの周りには三脚のソファが囲うように置かれている。メアは手前のソファに歩み寄ると、意を決したように目を伏せ「失礼します!」と腰を下ろした。


 マティスはその様を、意外にも茫洋とした眼差しで見つめた。中に、ざらついた感情が蠢いているようだった。つい先程、哄笑に目許のしわを深めた青年と同じには思えない。メアは得体の知れない恐怖を感じた。


 それをすぐに塗り潰したのは、やはり怒りだった。


 戸口に立っている時には、右手にそそり立った壁で見えなかったが、部屋の右奥にはキングサイズのベッドが堂々と置かれていたのである。


 ブリーフィングモニタさえなければ、さながら高級ホテルのスイートルームにしか見えなかっただろう。


 まったく馬鹿げている。


 地上では非識者たちが醜い蝿のような身なりをしながら汚染大気に怯えて生活しているというのに。この男は己の欲望のためだけに、社内にこんな煌びやかな部屋を作って、それでもまだ飢えているのだ。


 今すぐ、奴の喉を掻っ切ってやれたらどれだけいいだろう。


 メアはじれったい気持ちに、身を焼かれる思いがした。


 それでも立ち上がるわけにはいかない。


 マティスの肉体は一見すれば華奢だが、人間のもつ能力を遥かに超えた識者のものだ。苦しい鍛錬の中体術を磨いたメアであっても、正面切って戦えば確実に殺される。


 メアは太腿の上で握った拳に鋭く爪をたて、衝動に抗うしかなかった。


「どうやら、まだ緊張しているようだね? なに、肩の力を抜いてくれて構わない。君のような人間らしい女性は、もっと堂々としているべきだよ」

「は、はい」

「紅茶は好きかい?」


 マティスがテーブルの上のポッドを撫でる。


「い、いえ、その……飲んだことがありませんので」

「ハッハ! こいつはナンセンスだった、失礼。だがね、きっと気に入ると思うよ。原産は……まあ、忘れたけどね。ハッハ!」


 なにが可笑しいのかこの男はよく笑う。


 メアはそれを特に気に留めることはしなかった。識者の中には変人が多いからだ。識者だからそうなのか、満たされているからそうなったのかは解らないが、とにかく識者には変わり者が多い。


 それよりも気になるのは、この男の周りに給仕や護衛ロボットらしきものの姿がないことだ。怪しい笑みを浮かべながら紅茶を淹れるのはマティス本人であり、彼はメアの前に置かれたカップにまで慣れた仕種で紅茶を注いでいる。


 これから事を起こす上で、機械の目すら立ち入らせたくはないということだろうか。


 そうだとしても、用が済めば退室させてしまえばいいのではないか。


 当惑しながらメアは紅茶の礼を言った。


「ありがとうございます。私のような身分の者に、こんな素敵なものを、マイ・プレジデント」

「ハッハ! またそれか! マティス、マルサラス、あるいはマールでもいい。畏まる必要なんかない。君は選ばれた、私にね。そう、他でもない私に。それは私と対等な立場にあることに近しい。うーん、まあ、多少の無礼は許そうというわけだ」


 マティスはそう言うと、不意に表情を失くし紅茶を一口含んだ。


「ん、やはり美味いね」


 無感動な声音だった。

 まったく美味そうではなかった。


 メアも香りを嗅いでみるが、まずい汁を啜って生きてきた人間の口に合うとは思えなかった。仮に美味いのだとしても、不用意に液体を口にしたくはない。アリスから貰った中和剤は一錠だけで、どれほどの効果があるのかも知れない。


「ところで、私の用意したアトラクションは気に入ってもらえたかな?」


 マティスの口調から徐々に波が失われているような気がした。


 質問の答えになどまったく期待していないように、その目は虚空を見つめている。まるで湧き上がってきた苛立ちを抑えるために、とりあえず口にしておいたというような、おざなりな言葉だった。


「ええ、少し激しかったですけど……」

「激しかったかぁ。まあ、たしかに。うん、そうだろうな。ハハ」


 明らかに上の空だ。

 乾いた笑い声には喜びの欠片も感じられず、マティスの中の苛立ちは膨れ上がっていくようだった。


 メアにはその苛立ちの意味が解らなかった。早く女を犯したくて仕方がないのなら、もうすでに手が伸びていておかしくないはずだ。


 だがマティスは、こちらに触れるどころか目を合わそうとすらしなかった。


 テーブルの表面をとんとんと指で二回叩くと、不意に立ち上がり、背を向けた。


 そして肩越しにこちらへ一瞥を寄越した。


「残念ながら、今日のティータイムは中止だ。楽しみにしていたんだが」


 そこでマティスは何故か犬歯を剥き出しにして、獰猛な笑みを浮かべた。


「ハッハ!」


 一瞬、時間が静止したような気がした。


 殺される。


 そう思ったのだ。

 なにか手違いがあって、こちらの正体に気付かれてしまったのだと。


 それを裏付けるかのように、天井が裏返り、マティスの周囲へ六体の警護ロボットが下りてきた。まるで西洋甲冑を身にまとった戦士のような無骨なシルエットに、メアは胃の腑を捻り上げられるような恐怖を感じた。


 しかしマティスの視線は、再びカーテンへと縫い付けられてしまったようだ。

 最早、一瞥が返ってくることもない。


「ミス・ハチェット。申し訳ないが、すぐにここから出て行ってくれたまえ。案内してやれ、ミス――」


 最後にマティスが名前を呼んだ。ハチェットではない名前だった。


 すると不意に部屋のドアが開き、白く細い影がするりと流れ込んで、メアの腕を取った。


 それは華奢なシルエットからは想像もつかない強い力でメアを部屋の外へと引っ張り出そうとした。


 メアは抗えなかった。覚束ない足取りで走るしかなかった。


 社長室のドアが閉まる寸前、鼓膜を引き裂くような破砕音があった。咄嗟に振り返ると、社長室のカーテンがズタズタの襤褸と化した。厚いガラスが散乱した。


 その上に誰かが立っていた。真紅の瞳を燃え上がらせた男が。


 メアが見たのはそこまでだった。ドアはひとりでに閉まり、メアはいつの間にかスライダーの前にまで来てしまっていた。


 荒い息をついて、ようやくメアは自分の腕を取った人物を見た。


「……っ!」


 そして我が目を疑った。あるいは意識か。


 だが、肺の伸縮は苦しかったし、改造眼球はズームアップもズームアウトも難なくこなせた。


 じゃあ、なんで……。


 栗色の髪。鼻の付け根に浮いたそばかす。愛らしい大きな瞳。丸い輪郭の顎――。


 なんで、あなたがここにいるの……?


 部屋を出る間際、マティスの呼んだ名前が思い出された。

 彼は言ったのだ。たしかにこう言ったのだ。


『案内してやれ、ミス・


 と。

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