十二章 銃口の向かう先
恐慌にとり憑かれ、右往左往する人の群れがあった。
なんでも、エレベーターが墜落し、「化け物が現れた」らしい。
不審者が現れるのなら、カロン・シティでは別段珍しいことでもないが、「化け物」とはまったく馬鹿馬鹿しい話だ。普段ならば一笑に付していただろう。
だが、誰もが破滅の轟音を聞き、天地を裏返すような揺れを感じた今となってはどうか。
エレベータードアの向こうからは、不定期に衝突音のようなものや悲鳴が漏れ聞こえてくる。おまけにドアは大きく歪んで、隙間から血を流す始末だ。化け物かどうかはともかく、なにか得体の知れないものが侵入したことは、疑うべくもない。
コニアは、目的もなく逃げ惑う人波をかき分け、廊下の隅でほっと疲労を吐き出した。彼女は、化け物については懐疑的であったが、伝播した混乱が、著しく心身を疲弊させていた。
群れの中で根付く安堵もあれば、逆にとび出してみてようやく実感する安閑としたものもある。コニアは心底ほっと胸を撫で下ろした。
ところが、すぐに肩を叩く者があった。
倦んだような気持ちで振り返ると、業務員と思しき美女が立っている。
しかし業務員とは、細部に少しずつ違った印象を受けた。
まず、ナースコスプレのような特徴が見当たらない。その美しい痩身を覆うのは、フリル付エプロンを鋼鉄に置き換えたかのような、硬質なスーツアーマーだ。
両手いっぱいに抱えられているものなど、どう見ても清掃用具の類ではない。鋼鉄の箱である。緩衝剤の敷き詰められた中には、L字型の物体――。
だがなにより異様なのは、すべての感情を削ぎ落としたようなその相貌だ。微かな筋肉の動きも見て取れず、瞬く気配も感じられない。人形みたい、とコニアは気味悪く思った。
「現在、侵入者が徘徊している。ブラックメカニカルスーツの二人だ。見つけ次第、引き金をひけ。殺せ」
突然、そう告げられた。抑揚のない口調で、ひどく殺伐なことを言った。
次いで箱の中から、ほとんど投げつけるように手渡されたのは、その平淡な殺意を象徴するものだった。
オートマチック拳銃である。武器であることくらいは解るものの、一市民には、触れる機会などあるはずもない代物だ。それゆえ、安全装置が備わっていないことなど、コニアには判るはずもない。
辺りを見回してみると、おおむね周囲の相貌には困惑と恐怖とが同居していた。コニアも綯い交ぜとなった感情の重みを実感しながら、握らされた拳銃を見下ろす。
どこに行けばいいのか。なにをすればいいのか。
分からなかった。
「化け物」が現れ、侵入者がやって来たことは判る。侵入者を排除すればいいということも判る。そのために引き金をひけばいいことも。
けれど、なにもかも現実感に乏しい。自分の感情さえ、借り物のように感じられる。現の頑強さを具えた、たしかなものを教えて欲しかった。
誰か、持ってないの。正解を。
コニアは、いつの間にか大きく隔たった無機質な美女との距離を窺う。縋りたかったその背中に、声をかける意味はもうなさそうだった。とても届きそうにない。
拳銃を手にした人々は、流れの中に消えてゆく。あるいはコニアと同じ困惑ばかりで、答えなど持ち合わせていないように見えた。
あてなどなくとも、歩きだすしかなかった。このまま立ち止まっていたら、もう二度と歩きだせない気がしたから。
銃を握る手が汗ばむ。この中に詰まった命を、あるいは生命と直結する糸を意識する。
撃てば最後、命を滅ぼす恐怖に悶える。
けれど思いは、生じたそばから、すぐに剥がれ落ちてゆくようだ。脳裏でぐるぐる廻って、気持ちから乖離する。自分のものでなくなってしまうような感覚。だから黒い人影が現れたなら、いとも容易く引き金をひいてしまえるような気がした。
コニアは恐れ、それもまた希薄になった。
いつの間にか、人波とは反対の方向へ行っていたらしい。東棟へ続く連絡通路の中ほどで、コニアが足を止めた時、辺りにはもう誰の姿もなかった。
連絡通路は左右がガラス張りで、外の情景が窺えた。と言っても、スモッグ雲に閉ざされた世界を眺望したところで、如何なる感銘も湧き上がってはこない。
ただし、見晴らしがよいということは、なにかを見つけてしまう機会の中にあるということでもある。
コニアは見つけた。
連絡通路の終わり、左右に分かれた道の一方。そこに連続する窓の中に、見覚えのある女が歩いているのを。
「ミール・ハチェット……」
気付けば小走りに追いかけていた。
その輪郭が薄ぼんやりと光を放っているように思えて。知りたかった答えを、彼女が持っているような気がして。追いかけ続けていた。
ミールの歩幅は大きい。恐ろしく脚が長い。コニアも美しい肢体に恵まれているはずなのに、なんだか自分のすべてが恥ずかしく思えてくるほどに。
それは以前、彼女を見た時の畏怖めいた感情に似ていた。
恐ろしいのに、目を離せないのだ。そして、追いつけないと思うのに、追いつきたいと縋ってしまう。
ミールの身体が滑り込むように、左へ折れた。
そこは通路ではなく部屋だった。円状に広がり、角をもたない広大な会議室。
なんのために彼女がそこへ行くのか。理由は解らなかった。理解する必要もなかった。誘蛾灯へ引き寄せられる羽虫のごとく、彼女を追ってきた。ただそれだけだったからだ。
息を切らして部屋の中へ飛びこむと、中にはたった一人だけだった。
ミールが円卓を迂回して、中央棟のビルのそびえたつ窓へ歩み寄っているところだった。
その背中に、酸素吸入用ボンベが負われていると初めて気付く。身体をラバースーツで覆っていることにも。
手中にコニアのものと同じオートマチック拳銃が握られていることにも。
「なにをしてるの」
その声音に驚いたのは、意外にもコニアのほうだった。
そこに糾弾するような響きがあったからだ。
コニアはただ、追ってきただけのはずだった。答えを求めて、光を求めて。
それなのに、腕はもちあがり、指は引き金にかかっていた。
脳の中を炙るような熱は、きっと怒りだ。
ミールがこちらに一瞥を寄越すこともなく、ボンベを下ろした。
「答えて」
次第に、怒りの意味が解ってきた。握られた拳銃の重さに、ようやく自分の意識が重なる。手足が微かに震え出す。それが戦慄なのか、激昂なのかまでは、判らなかった。
ミールは振り返らない。
「……殺人の準備、かしら」
その声音は恐ろしく冷淡だった。激情を何度も折り重ね、薄くひきのばして鍛え上げた鋼のようだった。
息が詰まるような恐怖を感じながら、コニアは照準を合わせる。銃口を相手の肩甲骨のあたりに定め、震えを必死で押し殺す。
「誰を、殺すの?」
「マルサラス・マティス」
「やめて!」
コニアは断固として叫んだ。引き金に触れた指を固くしながら。
「やめて……。ここはたしかにろくでもない場所。だけど、あたしたちが生きるためには……必要な場所なの」
満たされるためには、もっと別の生き方が必要だった。ここに来ると来ないとに関わらず。
だが生き方を選べるのは、平然と明日を信じられる者の強欲だ。生活の基盤があり、明日が来ることを知る者でなければ、新たな望みを抱くことなどできない。
コニアにとってマティス・クリーン社は、その基盤だ。失えば、欲さえ奪われることになる。明日を生きられるかどうか、それだけで胸がいっぱいになる。そして胃の腑は飢えて涸れてゆくだろう。
声を聞いていたのかいなかったのか、ミールがボンベの解体を始めた。
「ねぇ、聞いてるの! 止まらないなら撃つわよ!」
「撃てばいいわ」
即答された声に、心臓を鷲掴まれるような思いがした。
「私が邪魔なら、抵抗すればいい。それが人としてあるための、正しい判断だもの」
コニアは一瞬、なにを言われているか解らず、茫然とした。ボンベから抜き出された三本の筒状金属を意味もなく見つめた。
「私も抵抗してきた。今回はその相手がマティスだった。あなたにもそれがあるんでしょう。そして、その相手が私なのだとしたら、私は抵抗しない。あなたは私の敵ではないもの」
「なに、を……」
言ってるの?
問いかけが言葉になることはなかった。
その時、初めて向けられたミールの眼差しに、喉を潰される思いがした。
「私の相手はあなたじゃない。世界よ」
今度こそコニアは茫然自失した。
途轍もなく巨大な存在が、突如眼前に出現したような、驚愕と畏怖が膨れ上がった。
「……そ、そんなの、できるわけないじゃない」
「そうかもしれない」
ミールは悄然とする素振りも見せず、ただ真っ直ぐにコニアを見つめ続ける。その手だけが、筒状金属を一つの武器に組み上げてゆくのをやめなかった。
「でも、やるのよ。この社会の中、救われなかった命のために。辛酸を舐めてきた人たちの魂のために」
不意にミールの一方の腕が霞み、火を噴いた。
パァンと乾いた音が鳴るのと同時に、耳もとでシュッとマッチを擦るような音がした。
次いで、液体の弾ける音。鈍い衝突の気配。
振り向くと、ダークスーツの男が、ガラス玉のような目を剥いて倒れていた。
額に銃創。後頭部から、ゆっくりと拡がってゆくのは、鮮血だった。
はっとして視線を戻すと、ミールの瞳の中で、炎が燃えていた。それはあの激情の炎だった。コニアの心さえ薪としてくべてしまうような、あの炎に違いなかった。
「このクソったれな世界に、私たちの怒りをぶつけるの」
コニアの手の中から、銃が滑り落ちた。その行方を追うようにして俯く。
「……それであなたはどうするの? 怒りをぶつけた世界の果てで、なにを目指すの?」
武器を組み上げるクリック音のあと、微かに笑うような気配があった。それは遠い日を懐かしむような、哀傷に濡れた吐息だったかもしれない。
「この世界は今、笑う者だけが笑い、泣く者だけが泣いているわ」
コニアはベッドの上に淀んだ欲望と、銃を掲げた自身の姿を思い浮かべながら、視線を上げた。
「だけど私はいつか、人が人のために笑い、人のために泣く世界を作りたいの」
「人の、ために……?」
「ええ」
「それなら……」
コニアは落とした拳銃を拾い上げた。こんなに重かっただろうか、と思いながら、ゆっくりと踏み出す。ミールの許へ。
「やっぱりあなたは、抵抗しなくちゃいけないじゃない。あたしが相手でも」
「なんのために?」
「素敵な夢を守るためによ」
ミールの後頭部に銃口を突き付ける。
「あなたなら、あたしを殺すのなんて簡単でしょ? 抵抗して。そして、あたしを殺してよ」
ミールは臆することなく、おもむろに背を伸ばした。
その手には銃が握られたままだ。けれど、その銃口は地に向けて下ろされたままだった。
「私が撃つのは敵だけよ。弱い者をいたぶって笑う者を、私は許さない。ミス・ジルトン。あなたは違うわ」
立ち上がったミールが、銃口になど目も暮れず、真っ直ぐにこちらを見た。
それが辛かった。
コニアは、彼女の命を脅かそうとしている。だから危険視されている。そのために見られている。
誰もコニアという人間を見ているわけではない。孤独が癒えるわけではない。満たされることなど、永遠にあり得ない。
そのはずなのに――。
「……どうしてよ」
燃え盛る瞳の炎に、呑まれてしまいそうになる。その目に自分など映っていないはずなのに、じんじんと熱が伝わってくる。膿んだ傷が、溶けて癒えてゆくような気がしてしまう。
ミールの手が軽く肩に触れた。
そして不意に、その視線が戸口に注がれ、震える銃口が持ち上がった。
コニアはその悲愴な横顔を見つめた。強く激しい心が、一瞬にして悲しみに塗り潰されたようなその表情から、数瞬、目を離せずにいた。
やがて戸口に無機質な気配がわだかまるのを感じる。
見ると、そこに無表情の美女が立っていた。柔い丸みを帯びた輪郭、そばかすの散った相貌には見覚えがあった。いつか、ふとマティス・クリーン社から姿を消した業務員の女の子に違いなかった。
ミールが悲痛な笑いを笑った。
「会いたかったわ、ミチェス」
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