六章 知覚者

 耳から接続ケーブルを引っ張り出したバースは、それをダッシュボードの端子に挿しこむ。


 すると中央の液晶ディスプレイが息を吹き返し、メニュー画面が表示された。


「まったく、オフライン仕様でなければ、こんなことには……」


 バースはぶつぶつと悪態をつく。


 車外は暗闇である。

 しかし、正面にシャッターがあることを彼は知っている。


 シャッター一つ隔てた先が、スモッグに満ちた腐の世界であることも承知している。


 そこに電子の鎧が存在せず、物理肉体へのアタックに対して、自分があまりに無力であることも。


 彼が表向き無辜の民であったなら、外界へ出るのにここまで恐怖心も警戒心も抱かなかったかもしれない。


 だがBORDERに属する者は、メアを除いたすべてが指名手配されるほどの重犯罪者だ。そもそもBORDERは〝識者システム〟の研究機関から逃亡してきたバースとアリスによって結成された。彼らは自らの素性を、決して晒してはならぬ影の者たちなのだ。


 バースはケーブルの具合を確認しながら、顔面に呼吸装置を当てる。メアの装備する金魚鉢のようなヘルメットとは異なり、仮面に近しい形状のそれは、顔を覆うと同時に、後頭部までを装甲でカバーした。汚染大気から皮膚を防護するための措置だ。


『そろそろシャッター開けるぜ。問題ないか?』


 不意に耳障りなだみ声が聞こえてきた。聞こえると言っても、耳を介して音を認識するのではない。脳へ言葉が浸潤するような感じだ。


 バースの呼吸装置は特別製で、通信インターフェースとしても役立つ。装着後は眼球とマスクの距離が接近するので、ケーブルを伸ばさなくとも眼球を直結できるのが魅力的だ。ケーブルの出し入れによって身体機能に支障をきたすことはないものの、あれは少々痛みを伴う。


『問題ない。通信も良好。ジェンからのサインも確認済み』

『了解したぜ』


 だみ声のあとを追うように、正面の暗闇が濁った光の切り傷を拡げ始めた。機械眼球がその彩度を自動調節する。眩しさは感じない。シャッターが開けば、すぐに出発可能だ。


 シャッターの傍ら、例のだみ声の影が浮かび上がる。と言っても、外気から身を守るために、その恰好は市民の量産型に過ぎない。空気濾過呼吸装置を持っているのは、だみ声のような上層工場を運営する者の中でも稀だ。通信機能まで搭載しているとなれば、バースを除いて他にいないはずだった。


 無事であり続けてくれればいいがな。


 彼も実質BORDERの一員だ。直接的に企業へアタックをかけることはないが、こうして搬入作業を装って輸送用トラックを貸し出してくれる。彼がいなければ、下層工場の仲間からの物資調達は極端に難しくなっていただろう。


 シャッターが開き切るのを待って、バースはトラックを発進させた。この車輌は、緊急時でない限り手動でアクセルやブレーキを駆動させる必要がない。生体接続器官バイオインターフェースを介したインパルスドライブを用いているからだ。


 ASオートノマス・システム搭載車があれば、脳から信号を送る必要すらないが、あれは今や化石だ。


 飛行用車輌の普及は、交通システムに多大な影響をもたらした。


 識者シキシャの移動方法がそれになってからというもの、商業区以外の地上交通の整備はなおざりに放置された。それに伴い、識者企業の多くは車輌生産部門を地上用から飛行用に遷移させたのである。


 結果、地上用シェアと飛行用シェアは分裂。識者の市場占有によって、AS搭載車の部品流通はストップした。


 社会によって淘汰され、あるいは識者によって独占され、地上交通の文明力は遡行していき――。


 スモッグが徐々に濃さを増す。紫紺の霧の中にライトが滲む。そこから、ぬうと姿を現すのは、ハンドルを握った運転手によって走行する旧時代的な手動運転車。悪路を跳ねる対向車は、のろのろとバースのトラックの脇を通り抜ける。


 今、バースが操縦するIDSインパルス・ドライブ・システム搭載車も徐々に普及してきているが、まだまだポピュラーとは言えない代物だった。生体接続器官をインプラントするためには、多大な手術費用が必要となるだけでなく、メンテナンス代もばかにならないからだ。


 バースはハンドルを握ることなく、悠々とスモッグに濁った外界を工業区へ向け進んでゆく。常に視界が悪く、ろくに整備の行き届いていない悪路の所為でスピードは出せないが、急いでいるわけでもないので問題はない。慣れない外の景色に、バースのストレスが蓄積されてゆくだけだ。


 にもかかわらず、バースは視覚範囲の拡大に努めていた。進むべき道を注視するだけでなく、道端で腐りかけた浮浪者たちにまで目を配っている。そうして、自身の心を痛めつけるのだ。


 それは、バースがまだ青年と呼ばれた頃に固めた覚悟を焼き直すための儀式だった。


 彼は十二年の昔、まだ二十歳の誕生日を迎えたばかりの頃、アリスとともにある人と約束をした。


 いつかこの世界を壊してみせると。


 思えば、それがBORDER誕生の瞬間だったのだろう。


 バースは緩やかにかぶりを振り、自省的になろうとする己を諌める。


 そんなところにまで思いを馳せる必要はない。ただ己の使命を忘れぬために怒りを燃やし、無力を嘆き、やれることをやればいい。そう己に強いた。


 やがてバースは、工業区へと繋がる運搬用エレベーターポートの前で、トラックを停める。


 ジェンはすでに物資の詰めこまれた輸送用コンテナとともに待機していた。

 後部カメラでそれを確認すると、電気信号によって後部ハッチを駆動させる。


 ハッチからは金属板とアームが伸び、コンテナを器用に抱えこむ。一つ動作パターンが進行する度に重い軋みを鳴らせるが、作業はスムーズに進行し、ほんの二分ほどで完了した。


 無事コンテナが収まり固定されるのを見るや、ジェンが助手席に乗りこんでくる。一つ目モノアイヘルメットを装着した彼が傍らに腰を下ろしただけで、運転席がひどく窮屈に感じられた。


「異常はないか?」

「ないこともねぇな」


 バースはマスクの中の眉をひそめる。


「なにがあった?」

「手順に変更はねぇよ。とりあえず出発してくれて大丈夫だ」


 普段は飄々としたジェンの声に、珍しく疲れが滲んでいた。バースは訝しんだが、彼の言葉を信用し、とりあえず発進する。


 ジェンからの報告を聞くべく、視覚範囲は通常に戻しておく。意識を分散させ過ぎれば、どこかに綻びが出てくるのは必定だ。


「それで、なにがあった?」

「下層で識者に会った。とびきり強い奴だ」

「なんだと?」


 バースは耳を疑った。まさか識者が直々に下層にまでやって来るとは思ってもみなかったからだ。


「下層には治安部隊も寄りつかないはずだったろう。警備ロボットを移送するならともかく、なぜ識者が?」


「〝雲渡り〟だ」


「〝雲渡り〟?」


 バースはおうむ返しに訊ねることしかできなかった。理解が遅れていた。


「識者を狩る、あいつだよ」


 ようやく理解が追いついてきたのは、それを聞き終えた数秒後のことだった。


 バースは腕を組んでシートにもたれかかる。ハンドルは細かに動き続けている。


「交戦したんだな?」


 ジェンの姿を一瞥しても外傷らしきものを見て取ることはできない。

 しかし、それが即ち無事を意味するかどうかは不明だ。


 彼の能力〝継接パッチワーク〟があれば、ラバースーツを再生するくらい造作もないことだ。〝継接〟は単純な構造、あるいは能力者がその設計を認識してさえいれば、材料を消費することで、イメージを再現ができる。後ろに積まれているコンテナも、彼が最初から持ち運んでいたものではなく、鉄屑を材料に〝継接〟で作り出されたものだった。


「ああ、死ぬかと思ったぜ。一応無傷で済んだけどよ。あのまま戦ってたら、きっと敗けてた。あいつホントに単独で識者を狩ってやがるみてぇだ」


「余計なことはいい。〝雲渡り〟はなぜ退いた?」


 重要なのはそこだった。バースはジェンのような直情的な人間ではない。対峙した相手は、充分に精査し、吟味しなければならないと考えている。


 メアを連れて来た際にも、彼だけは強い怒りを覚えた。どこの馬の骨とも知れぬ人間を仲間に引きこむのは危険すぎるからだ。

 

 結果としてジェンの判断は正解だったが、これからも正解をひきだすことができるとは限らない。イカサマのないダブルアップは、いずれ必ずハズレを引き、すべてを水泡に帰す恐れがある。


 そもそも〝雲渡り〟は、協力を申し出てきたわけではないようだ。

 

 バースは、ジェンの望むような〝雲渡り〟との共闘を考えもしていない。彼にとって〝雲渡り〟は「識者を狩る者」であること以外に、なんの情報もない未知数の存在でしかないのだ。


「退いたのは俺だ。あいつはそれを見逃してくれた。識者を狩る者同士仲良くしようってわけじゃねぇが、敵じゃないとは思ってくれたみたいだったぜ」


 バースはほっと胸を撫で下ろした。


「不幸中の幸いだな。まさか奴に余計なことを喋ったりしていないだろうな?」

「ああ、大丈夫だって。名前くらいは言ったけど」


 バースは大仰に溜め息を吐き、舌打ちをした。


「お前は指名手配されてるんだ。顔も名前も明かされている。それでも、名前くらいなら問題ないだろうと考えるのか? お前がここに存在したという情報を〝雲渡り〟は手にした。奴がもし、識者どもの手に落ちたら、その情報が私たちの首を絞めかねない。それが解らんのか?」


「あー、うん。すまん……」


 ジェンの巨大な鋼鉄の頭が、主人に叱られた犬のように情けなく項垂れた。学習能力には難ありだが、素直なのは彼の美点だ。バースはその先の言葉を、嘆息だけで省略してやることにした。


「……まあ、済んだことは仕方がない。だが万一のために、警戒はしておけ。識者の気配はないな?」


「ああ、あれからまったく」


 念のためにサイドミラーや後部カメラで状況を確認するが、追っ手らしきものの姿は見当たらない。上空を旋回するドローンの動きにも変わりはなそうだ。


 そこで会話は途切れた。ジェンは〝雲渡り〟との交戦で疲れきっていたし、バースはこの後の運搬作業のために体力を温存しておきたかった。


 その運搬作業の最中、六面体警備ロボットに遭遇しないだろうかと気を揉む。企業へのアタックをかける瞬間はもちろん、そのための準備期間にも危険は潜んでいるものだ。


 そして危険というものは、しばしば注意の外からやって来る。


 だみ声の工場へ到達するおよそ三分前のこと。


 バースたちの乗る輸送トラックは、突如、その制御能力を失った。


                ◆◆◆◆◆


 その部屋に発光するモニタの数は、百に達するほどだ。照明のない部屋にもかかわらず、四囲、あるいは部屋を埋め尽くすデスクに設けられたモニタから発せられる光が、眩くその空間を満たし、暗闇を天へと振り払っている。


 その奇妙な一室で、ある者は絶えずキーボードをタイプし、ある者は生体接続器官と端末を接続してうつろな眼差しで虚空を睨む。


 出入り口と対面する部屋の最奥の壁は、一面モニタだ。ただ一人だけが、それと向かい合う形で座っている。


 ブロンドの髪を腰にまで伸ばした美女である。


 デザイン性皆無のシンプルな作業デスクが並ぶ中、彼女のそれだけはウォールナット製の執務机だ。机上には、縁を金で彩るランチプレートに盛られたステーキが、歪にちぎられ血を滴らせていた。


 机上にナイフやフォークの類は見当たらない。ナプキンの一つさえない。

 それ故か、プレートの傍らに投げ出された陶器のように白い手は、ステーキの血と脂に汚れていた。


 女の恐ろしく虚ろな瞳には、巨大モニタに表示された途方もない数のコマンドが奔流の如く消えてゆく。遠慮も恥ずかしげもない咀嚼音が、周囲のタイプ音に融ける。その口許が微かに笑みの形に歪み、時折、謎めいた呟きを発する。


 彼女は狂っているのか?


 その答えを断言することはできない。

 ここに残る彼女の意識は、極めて希薄だからだ。


 彼女にはのだ。

 電子の海に形をなす、もう一つの世界――形而宇宙メタバースが。


                ◆◆◆◆◆


 バースの機械眼球は、彼の特別製空気濾過呼吸装置に接続されたままだった。非常時のためにオンライン接続を継続していたのである。


 それが仇となった。


 バースは今、黒い空に蓋をされた混沌とした世界にいる。


 中空に魚が泳ぎ、反転した時計が針を滅茶苦茶に回転させ、格子模様の地面がノイズをはしらせる世界――形而宇宙。


 ネット世界の可視化された空間というのが近しい表現で、ここは誰もが認識できる世界ではない。


 物理世界から電子世界を認識する者は、そこにある情報しか取り出すことができない。だが、バースのような生体接続器官を用いる者の中には、しばしば形而宇宙に内在する自身を知覚できる者がある。


 そのような知覚者パーセプショナーは、この世界でコマンドという概念を連想せずとも、電子の攻防をとることが可能だ。腕を動かそうとすれば、腕が動き、足を踏み出そうとすれば、踏み出せる――。要は知覚者とは、電子の世界においてより早く行動を実行に移すことのできる特異体質の持ち主である。


 バースの意識は、つい先程まで物理世界にあった。


 しかし何者かの攻撃を認識したバースは、意識をスイッチし、こちら側へ潜行したのだ。


 嘴で歩くサギの傍らに佇む影をバースは見る。それは言葉通りの影めいた存在である。全身が黒く彩られ、顔には眼も鼻も口も見当たらない。華奢なシルエットだけが浮かび上がり、頭部から奇怪に揺れる長い髪のようなものが、かろうじて女性らしさを感じさせる。だが、それが女性だという確証はない。


 それは相手からしても同じことだ。バースの姿もまた影のように映っているはずである。IPアドレスはまだ暴かれていない。


「フフッ……」


 長い髪の影が笑った。


 特定のメッセージを送ってきたわけではない。これは形而宇宙における認識の一つで、錯覚のようなものだ。物理視点からログを観察すれば、メッセージが残されていないと判る。


「一撃で壊れなくてよかったわ。そうでなくちゃ遊びにならないもの」


 ところが、バースは訝しんで影を見た。


 こいつ言葉を話せるのか。


 知覚者は稀だ。

 

 そして知覚者でない者は、この世界において一切発言することができない。ここを認識できない者は、ここに形を残すことはできても意識を残すことはできない。


 ゆえに、言葉を話せるということは、この影が知覚者であることのなによりの証左だ。


 バースにとっては、会いたくない類の相手である。


「と言っても無意味でしょうね。さっさと終わらせてしまおうかしら」


 影は残念そうに肩をすくめた直後、物理法則を無視した量子的とも取れる速度で肉薄した。


 その拳が顔面を砕きにかかる。


 バースは首を僅かに傾け、紙一重で躱す。返事にボディーブローを叩きこむ。


「……ッ?」


 影の身体が一瞬硬直した直後、ピンボールのように吹っ飛んだ。


 ところが、それも束の間のこと。この世界は物理世界とは似て非なる法則で存在する。


 吹き飛んだ影は、中途でぴんと直立姿勢になって止まったのだ。


 影は小首を傾げ、小さく肩を揺らした。どうやら笑っているようだった。


「フフッ……驚いたわ。あなたも知覚者なのね。そうでなければ、ワタシの攻撃を躱せるはずがないもの」


 影はもう一度「フフッ……」と暗い笑いを残すと、瞬間移動を繰り返しながら、またも眼前に出現した。


 そこから繰り出される拳を、バースは腕で払いのけ、もう一方の腕で殴りつける。影はそれをバースと同じようにいなし、電撃じみた速度で膝蹴りを返した。


「「「おおおおぉぉぉ――」」」


 その時、物理世界からジェンの叫び声が轟いた。あちら側の一秒が、形而宇宙の中で薄くうすく平らかに引きのばされながら。


「ぐっ……!」


 バースの判断は一瞬遅れ、影の膝が腹にめり込んだ。身体ごと宙へ斜めに弾き飛ばされる。


 瞬時に頭上へ現れる影。


 それが三回転したのち、強烈なエルボードロップをみまった。バースは格子の大地へと叩きつけられる。


「がはっ!」


 地面のグリッド模様から粉塵じみた光の粒子が舞う。

 その中に再び、影の姿が浮かび上がる。


「「「おおおおおぉぉぉ――」」」


 ジェンの叫びはまだ続いていた。が、バースはそれを無視した。


 外での異変は外の者に任せるしかない。ここで一瞬でも意識を物理世界に戻せば、たちまちバースの神経はずたずたに引き裂かれ実質死を迎える。


 バースは意識を集中し、影から十メートルばかり離れた、静止した巨大なクッキーの破片の上に出現した。その背中から黒い皮膜がはらりと落ち、空気の中にじわりと融ける。そこにバースの素肌が覗く。バースは意識を集中し、再び皮膜を生成する。


 危ないところだった。


 あのまま攻撃を受け続ければ黒い皮膜ファイアウォールを突破され、神経を焼き切られていてもおかしくなかった。


 粒子の中で影が口許に手を置き、あの暗い笑いを笑った。その手から黒い皮膜がこぼれ落ち、異様なまでに白い手が一瞬覗いたがすぐに塞がる。


「痛いわねェ……。ワタシ、手が綺麗だってよく褒められるの。それなのにひどいわ」


 バースとて一方的にいたぶられていたわけではなかった。影がエルボーを繰り出した際、バースは背中から第三の腕を生やし、そこから伸びた鋭利な爪で、影の手を切り裂いていたのだ。


 この世界では、物理世界では決してなし得ない芸当を易々と実現できる。その気になれば、人型を捨てて怪物のような姿になることも可能なのだ。


 だが相手も同じ知覚者である以上、それは特別なアドバンテージにはならない。相手にもまったく同じことができてしまうからだ。


 バースはすでに第三の腕をしまっていた。相手も余計なオプションをは付加していない。


 こうして人型で戦い続けるのも、条件が同じだからこそだ。


 形而宇宙の認識概念を構築しているのは、あくまで人間の脳である。彼らには本来、慣れ親しんだ肉体がある。人型を遥かに超越した姿は、却って形而宇宙における潤滑な動作を阻害しかねないのだ。


「自慢の手を傷つけるつもりはなかったんだ、すまない。だが、そんなに自信があるのなら、隠しておくのは勿体ないのではないかな?」


 バースは挑発し、その手を握りこんだ。指の隙間から黒い瘴気が漏れ出し、渦を巻きながら地面へと垂れてゆく。やがてそれは瘴気から鋭角的なグリッドへと形を変え、滲むように色をなしながら、ついには細剣として実体を獲得した。


 対する影は、くすくすと幼気いたいけな少女のような笑い声をこぼした。


「面白いことを言うのね、アナタ。じゃあ――」


 影の手にも得物が現れる。どこからか湧いた黒い粒子をかき集め、束とし織りなすと、それが巨大なL字のグリッドと化した。ゆっくりと着色され、実体が定まったとき、それは灰が刃と化したかのような鈍色の大鎌を形作っていた。


「ワタシの手を取ってくださる?」


 二者はその言葉とともに、雷光と化し、引かれ合い、衝突した。

 三度切り結び、離れ、またも引かれ合った。


 大鎌の横薙ぎを屈んで避け、斜めに斬りつける。影はそれを肘で打って逸らし、鎌を振るう勢いをのせて蹴りを放った。


 爪先がこめかみに触れる寸前、なんとか腕で防御姿勢を取った。バースの身体は真横に吹き飛び、五メートル地点で突如、垂直に飛び上がった。軌道はさらに空中で折れ、影の許にきりもみ回転しながら急降下した。


 影はそれを大鎌で迎え撃つ。


 互いの得物がかち合い、黒い火花を散らす。


 ここに質量という概念はないが、認識の世界である以上、物理法則は現実世界との類似点を見る。


 上空から急降下したバースの一撃には、恐るべきエネルギーが秘められていた。影の足許のグリッドが大きく歪んで光の粒子を散らした。


 だが、バースは圧倒的不利な状況にあった。大鎌と細剣が真っ向から打ち合えば当然――


「フフッ……」


 パキンッ!


 折れる。


 影は鎌を振り抜いた。


 蛇使いに応えるコブラのように、虚空より出で身体を揺らしていた電源コードが、その衝撃で二つに断たれる。


 しかし手応えはなかった。


 どこへ行った?


 影が怪訝に思ったその瞬間、後頭部に鈍い痛みが拡がり、地面の上を転がっていた。


 バースが片膝で着地し、深く息を吐く。その片足からじわりと黒い靄が滲み、弾けた。素足があらわになった。


 影の後頭部からも美しい金の髪が現れ地面に垂れた。


 バースは痛む足をさする。


 急降下で衝突したとき、バースはすでに自分が押し負けると解っていた。だからこそ彼は、回転の力を利用した。早々に細剣を手離し、柄を蹴って影を飛び越え、その後頭部へ空中踵落としをみまったのだ。


 ところがバースは、影の力を甘く見ていた。押し負けるのが、予想以上に早かった。


 すれ違いざま、足を斬られた。


 二人はゆっくりと立ち上がり、向かい合う。


 影はなおも「フフッ……」と不気味に笑う。

 バースが小さく肩をすくめる。


「せっかく御手を取ろうとしているのに、こんなに抵抗されては堪らないな。とんだ暴れ馬だ」


「フフッ……ワタシ、やすい女ではありませんの。まだこの手に触れた殿方は一人もおりませんのよ?」


「ならば私が最初で最後の一人になりそうだな」


「フフッ……やはりアナタ殿方なのですね?」


「どうだかな。男の心をもつ女も、女の心をもつ男も、この世にはごまんといる」


 拳を握りこみ、細剣を生成する。


 形而宇宙で自身の形はいくらでも変えられる。元の大きさの三倍程度になら、巨大化することも可能だ。


 だが独立した物体を生成するには限りがある。バースの場合は、この細剣しか生成することができない。


 対する影の生成物は大鎌に限られるようだ。


 単純な威力を以てすれば、バースが不利だ。


 それでもバースは、躊躇なく踏みんだ。


 BORDERの情報の要は私だ。こんなところで死ぬわけにはいかん。


 影もまた踏みこむ。表情なき顔が、狂気を孕んだ笑みを浮かべたような気がした。


 正面から襲いくる大鎌を、バースは半身になって躱す。

 ところが、すぐに横から叩きつけられた。


 影は片手で大鎌を操り、柄を肩にのせていた。もう一方の手を首から後ろに回し柄を引くことで、てこの原理を用いて無理やり鎌で打擲したのだ。


 それは確実にバースのダメージとなった。派手に打たれた顔面にはノイズがはしった。だが、それは悪手と言わざるを得ない。


 バースはその衝撃を利用した。自身の力とした。残像をひきながら影の横面にバースが出現する。


 影はすぐさま向き直ろうとするが間に合わない。


 バースの細剣が閃く。

 それが一に、十に、その倍に分裂。散弾銃の如く影を貫く。


「はっ……ッ!」


 影の全身にノイズがはしり、一呼吸遅れて身体が吹っ飛んだ。


 バースは地を蹴り肉薄した。


 影は僅かな染みのようなものを残すばかり。ほとんど女の裸体をさらしていた。


 バースはそこへ躊躇なく細剣を振るう。影は大鎌を掲げて盾とした。バースはここぞとばかりに、臀部から尾を生やし、弧を描いて横面から女を打った。


 尻尾の表面に一瞬、緑のグリッドが生じた。なんらかの情報を引き出したのだ。


 だがここまで追い詰めた以上は、脳を焼き切ってやるつもりだった。


 バースの猛攻は、影への過度な集中の証でもあった。

 スローモーション映像のように殴りつけてくる新たな影に、気付くのが遅れた。


 次の瞬間、バースはグリッドの無機質な地を舐めていた。頬に鈍い痛み。じわりと皮膜が融けて消えた。


 慌てて起き上がると、景色は一変していた。

 猥雑とした情景に、一定の規則性が生じていた。


 先程まではなかったはずの黒い正六面体が辺り一面に列をなし、四囲を蒼白いノイズに覆われていたのである。


 立ち上がった女性型の影の傍らには、バースを殴ったと思しき無個性な影が佇む。


 正六面体から新たなに影が滲みだし、今しがた卵から孵った雛のように、ゆっくりと背を伸ばす。


 バースはこの情景に見覚えがあった。

 そして今頃になって、女の影へ既視感を覚えた。


 私は一度、この場所へ侵入ハッキングしたことがあるな。


 以前の侵入で、バースはシステムに介入してきた闖入者を警戒し、この場を離れた。そして幾つかの情報を持ち帰ったのだ。


 だが何故、今となって自分がここにいるのか。


 途方もない電子の地平に存在していたはずの自分が、何故このタイミングでアクセスするはずもないのシステムに侵入しているのか。


 長らく電子の地平を闊歩してきたバースにも、その理由が解らなかった。

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