七章 イゾルデは遊ぶ

「おい、おいっ!」


 助手席から身を乗り出したジェンが、バースの肩を揺する。


 しかし、その身体は首のすわっていない赤ん坊のよう。前後に首を揺らすばかりで、反応が返ってくることはない。


 だみ声の工場まで残り僅かで到着かと思われていた頃、不意にバースが気を失ったのだった。


 普通の人間であれば、気付くのはもっとあとのことだったろうが、識者シキシャであるジェンにはそれが判った。


 識者の感覚は鋭い。五感に限らず、俗に第六感と呼ばれる感覚も鋭敏だ。

 バースがあちらの世界に潜行した瞬間、肌が粟立ったのである。

 識者の気配に感覚を研ぎ澄ませていたのが功を奏したのかもしれない。


 とはいえ、バースの意識は電子の海原へ深く潜り込んでしまったあとだ。意識の戻ってくる兆候もない。


「クソがっ」


 ジェンは悪態をついて正面へ向き直った。


 交差点が近づいてくる。

 改札ゲートのようなホログラム映像が正面を塞ぎ始める。信号が赤になった。


 つい数秒前まで細かに動いていたハンドルは、今やぴくりとも動いていない。アクセルが踏まれ加速することもないが、トラックは運動を続けている。このままでは交差点に突入してあわや大惨事となってもおかしくはない。


 ジェンはバースの足許へ、自分の足をねじ込んだ。足裏がブレーキペダルの感触を捉える。焦らずゆっくりと踏み込んでゆく。


 バースと席を替われればいいが、金魚鉢の所為で可動域が極端に狭くなっている。とても移動できない。識者の身体能力があれば、一度車外に出て入れ替わることもできるだろうが、そんなことをすればドローンに映像を撮られてしまう。


 幸い、トラックは交差点前で緩やかに動きを止めた。


 この後、路肩に寄ってバースが目覚めるまで待機することもできるが、得策ではないだろう。


 治安部隊は神経質な奴らだ。路上駐車しているだけで目を付けられかねない。その際、戸籍ID等の個人情報をスキャンされようものなら、一巻の終わりだ。仮に逃げ切れたとしても、だみ声の許に調査が入り、彼が凄惨な死体となって世からひっそりと消えることになる。


 協力者であるとはいえ、巻き込むわけにはいかない。なんとしても無事に、不審な行動をとることなく工場へ到達しなければ。


 ジェンは深く長い息を吐いた。まばらな車の流れをぼんやりと眺め、焦燥の鎮火に努める。


 次いで隣のバースを見やる。


「遅すぎるぜ、バース……」


 バースは電子の地平――形而宇宙メタバースへ意識を集中しているはずだ。そこでは物理世界とは異なる時間が流れている。


 正確に言えば、こちらの一秒が、あちらでは何十秒、何十分と感じられ、それだけ早く物事が進行する。電子の戦いは、物理世界から見れば一瞬の出来事に過ぎないのだ。


 しかしバースが潜行したと思しき時間から、もう数十秒――一分が経とうとしている。


 長すぎる。


 バースは電子戦の猛者だ。数々の死線をくぐり抜け、識者企業を実質的な壊滅に追いやってきた。その経験がある。


 企業のメインシステムにアタックをかける際は、さすがのバースも苦戦する。これくらいの時間を要することはままある。BORDERの戦いは常に死と隣り合わせであり、楽な仕事などなに一つとしてなかった。


 だが今、攻撃してきたのは、遊び半分でデータを破壊しようとしてきた、そこらのアウトローではないのか。


 もし、そうでないのだとしたら、すでにバースは狙われていたのだろうか。


 ジェンはかぶりを振った。


 そんな簡単に奴が特定されてしまうのなら、自分はもうここにいないはずだと言い聞かせた。


 歩行者信号が点滅を始める。


 このまま安全運転ってわけにはいかねぇぜ……!


 こめかみを汗が伝った。


                 ◆◆◆◆◆


 百にも達しようかという黒い正六面体から、次々と無個性な影が姿を現す中、バースは逃走経路の算出に神経を尖らせ、処理速度向上のために細剣を消滅させた。


 バースの呼吸装置は、あくまで通信出力媒体としての役割しかもたないハードウェアだ。実際にデータを管理し、情報処理を行っているソフトウェアに当たる部分は機械眼球のほうにある。


 だからこそバースは、形而宇宙を知覚できる。即ち、クラックされる恐れがあるのは、通信機能ではなく、バース自身なのだ。


 今、無個性の影の一つが、緩慢な動作で駆け寄ってくる。拳を握る瞬間さえ、バースにはスローモーションに映る。


 しかし動きが緩やかだからと言って、そこに内在するエネルギーが貧弱なわけではない。形而宇宙における「動きの速さ」は情報伝達のスピードであって、情報量の多寡ではない。言い換えれば、個人個人がそれぞれの時間を認識して存在しているとも言うことができる。


 攻撃を躱すのに支障はない。だが万が一命中しようものなら、女の影から攻撃を受けるのと大差ないダメージを負うことになる。実際、頬に受けたダメージは重く、バースの集中を乱した。


 女の影は、バースの行動範囲を制限するよう立ち回るだろう。逃亡を試みたとしても、物量を活かして退路を塞いでくるに違いない。


 その予想がまさに現実となる。


 女の影がバースの隣へと出現したのだ。


 その美しい肢体をくねらせ、裏拳が虚空を圧縮する。


 その数瞬前、女の影の対面に位置した正六面体からは影が滲みだし、攻撃モーションを開始していた。


 バースは嫌な予感を覚えながらも、冷静さを欠かず、退路を算出する。


 正面、いやそこにも影がいる。では、背後のみか?


 否。


 そこにも無個性の影があった。加えてその影は、他のものよりも遥かに動きが速い。知覚者パーセプショナーではないが、生体接続器官バイオインターフェースを用いたクラッカーに違いなかった。


 バースは強行突破を検討するが、やはり嫌な予感を拭えず、垂直跳躍した。


「な……ッ!」


 ところが、そこにもすでに攻撃モーションを開始した影の姿があるではないか。


 バースは咄嗟に防御姿勢をとったが、振り抜かれた拳が、バースを斜めに叩き落とした。


「ぐっ!」


 両腕に激しいノイズがはしり、皮膜が瞬時に塵と化した。


 その痛みに喘ぐ暇もない。


 落下点にはすでに女の影。大鎌が斜めに弧を描く。


 バースは空中で身をひねり、それを踏み台に斜めへ跳躍。迎撃地点へ舞い戻り、影の一体を仕留めんと試みる。


 あとは影のデータ残骸を足場に加速し、システムの壁を突破して脱出する。バースは一瞬にして、暫定的な逃亡案を構築していた。


 しかしバースは、その計画の破綻を知ることになる。


 影の両隣では、先程までなかった二つの影が飛び蹴りのモーションを開始していたのだ。


 バースは焦りを押し殺し、その中間に腕をねじ込んだ。鋏をひらくようにして影を左右へ弾き飛ばす。


 それが一瞬の隙をさらす。

 女の影を呼び寄せる。


「フフッ……」


 その手に今や大鎌はない。

 重力が反転したかのような飛び蹴りが、データの大気を焦がし襲いかかる。


 バースは物理法則を無視した不自然な軌道で、空中を折れ曲がり、回避した。


 その軌道上にも新たな敵。

 拳にすべての力を集約させたかのような捨て身のストレート。


 それを視認した瞬間、バースは確信した。


 ……あの女だな。


 おかしいとは思っていた。知覚者でない者がこちらの動きに対応し、なおかつ仲間の動きまでをも予測し、こうして精密なコンビネーションを組めるのは。


 だが、一つある仮説を立てれば、不可解な事象にも説明がつく。


 あの女が識者だとしたなら――。


 見れば、無個性な影たちの肩には、恐ろしく白い亡霊のような手がのっている。その腕が長く伸びて、女の許へと収束しているのが判る。


 女が影たちを統率しているのだ。女が予測し得る動きの中では、こちらに自由は与えられないだろう。


 ならば、予測を超えた動きで対処するしかあるまい。


 バースは両手両足を拡げ、大の字を作った。

 防御姿勢を取ることも、身を翻すこともなかった。


 女はそれをどう見ただろう。

 バースの気が狂ったとか見たか。あるいは敗北を確信した男が潔く死の覚悟を固めたかに映っただろうか。


 無論バースの決断は、そのいずれでもなかった。


 衝突の寸前、バースの肉体は網目状に解れた。

 網は拳を呑み込んでたわみ、次の瞬間、影を叩き飛ばす。


 地上に出現し、追撃のモーションを始めていた影が、驚愕したようにぞわりとノイズをはしらせた。


 異変を感じ取った女の影が地を蹴ってとぶ。だが、遠い。


 バースは細剣を再構築。その手がゴムのように伸び、大きな弧を描いてバース目がけ柄を叩きつける。


 刹那、バースの足が柄を蹴り、その身体が稲妻と化した。


 幾度も中空を折れ、電子の風をまとった光が、一点へ向け突き抜ける。


 その速度についてこられる者はない。女の影が早々に追跡を諦め、肩をすくめて暗い笑い声をあげた。


 その最中、バースは背後を一瞥した。


 システムの最奥、自身の軌道上とは真逆に位置する、表面に格子模様をはしらせる球体。


 マティス・クリーン社のシステムコアを。


 なんらかの形でこの場へ導かれた以上、それはシステムコアを破壊する好機でもあった。


 しかし稲妻が翻ることはなかった。


 決着の時は今ではない。今はまだ女の影を含めた護り手たちを突破できない。前回のアタックでも、それは確信できていた。直接交戦することのなかったあの時でさえ、近付きつつある女の気配に、バースは敗北を予感したのだ。


 ゆえに準備を進めてきた。

 次に刃を交えるときこそ、白き手の君に敗北の屈辱をくれてやるときだ。


 蒼白い壁との衝突の瞬間、バースの身体は波紋となって融けた。


 再び意識が一つところに結ばれるとき、押し寄せる情報の波が、バースの回路を烈しく叩きつけてきた。


                  ◆◆◆◆◆


 歩行者信号が赤になった。

 じきにホログラムゲートが開く。


 識者は優れた身体能力をもつ。非識者ではとても破壊することのできない鋼鉄の板を徒手空拳で破壊することも容易だ。


 だが、精密で繊細な作業に秀でているかどうかは、識者の中でも個人差が大きい。

 

 そしてジェンは、そういった作業が苦手だ。メアに体術の稽古をつけていたときも、ただ拳をいなしたつもりが、彼女の腕を折ってしまったことが何度もあった。今になって思えば、メアが生き残っているのが不思議でならない。


 そんなわけで、無事に工場へ辿り着ける自信がない。車の運転自体得意ではない。まして助手席から無理やり足をねじこんで運転すれば、事故を起こしかねない。


 これまで普通に運転してきた車輌が急に下手くそな運転を始めれば、ドローンに異常だと判断される可能性も高い。まずい。


 焦燥に胃を焼かれる思いがする。

 それでもやるしかない。覚悟を決めるしかない。


 ついに信号が青となり、ゲートが開いた。


 ジェンは唇を噛みしめ、ダッシュボートを掴み、足許に全神経を集中させた。


 トラックが緩やかに前進を始めた。


 おっ、おっ?


 ここは右折ポイント。対向車線から車が来る。

 ブレーキに足を乗せ替え、優しく踏む。車が緩やかに速度を落としながら、交差点へと進入する。


 あれ、俺意外とうまいんじゃねぇか!


 その時、不意に頭を叩かれた。


「邪魔だ、ジェン」

「ええっ?」


 声に驚き、咄嗟に運転席を振り向く。


 呼吸装置に覆われた表情は窺い知れないが、その手がしつこく頭を叩く。マスクの中で、キッキッと機械眼球の駆動音がする。


「バース、戻ったのか!」

「いいから席に戻れ。メットで前が見えん!」

「あっ、すまん……」


 言われた通り助手席に腰を戻したジェンは、深く安堵の息をもらした。そして得心する。


 どうりで上手く車が進むわけだ……。


 ジェンの心境はころころと移り変わり、またも焦りがやって来た。


「なにがあった?」


 問うと一瞬、沈黙があった。


 トラックが右折したところで、バースが小さくかぶりを振った。


「……解らん。とりあえず話は、工場に着いてからにしてくれ」

「分かった」


 どうやら今は、運転に集中したいらしい。形而宇宙から物理世界へ戻った直後だから、意識と肉体の連結が不安定なのだろう。


 工場へは無事辿り着いた。

 早速〝継接パッチワーク〟の力を発動しようとしたジェンは、その手を止める。


 だみ声に抱えられるように運ばれ、工場の隅へ蹲ったバースを見たからだ。


 怪訝に思ったジェンは、通信端末に表示された時間を一瞥した。メアがアパートに戻って来るまで、まだまだ時間がある。こちらは重い荷物を背負って徒歩で帰ることになるが、それでも充分余裕はある。


 ジェンはコンテナと中の鉄屑を〝継接〟で幾つかのブロックに分割してから、バースの傍らに腰を下ろした。


「どうした、バース?」


 バースは答える代わりに呼吸装置のロックを解除した。頭部を覆っていたカバーが前部に収納され、呼吸装置が顔面からかぱりと剥がれ落ちる。


「おいおい……」


 ジェンは目を疑った。


 バースの鼻や耳、機械眼球の隙間までもが血に濡れ、その顔がひどく蒼褪めていたからだ。


「ジェン、悪いが少し休ませてくれ。少々無理をした。頭が痛む」

「そりゃあ、いいけどよ……。なにがあったんだ?」


 バースがこうして血を流すのは珍しいことでもない。形而宇宙での戦いは過酷で、常に命が懸かっているのだから。


 だが、企業のメインシステムにアクセスしたわけではないはずだ。やはり、潜行時間が長いと感じたのは、錯覚でも思いこみでもなかったのだと思い知る。


「今のところ詳しいことは解らん。マティスの識者から攻撃を受けたということ以外は」


 頭を槌で殴られるような思いがした。視界が実際にぐらりと揺れた。


「マティスだと……? バレたのか?」


「敵から一部データを盗み取った。解析できた限りでは、どうやらこちらのことを知られたわけではないようだ」


「なんかよくわかんねぇけど、BORDERは無事なんだな?」


「ああ」


 ささくれだった心が束の間の安堵に鎮まる。


 しかしバースの状態は、かなり悪そうだ。声は震えているし、呼吸も荒い。


「ちょっとアリスに連絡を――」


 ジェンが通信端末を取り出そうとした時、バースがその手を荒っぽく掴んだ。


「やめろ。しばらくは通信するな。これ以上、ここに人が出入りするのもよくない」


「でもよ」


「大丈夫だ。この程度で死んだりはせん。だが少し眠る。データはその間に解析しておくから。メアと合流した後、詳しいことを話そう」


 ジェンは端末に目を落とし、それから改めてバースを見た。


 痛々しい仲間の姿。プライドの高いバースは、もしかしたら強がっているのかもしれない。いや、強がっているだろう。


 だが、バースが冷静で合理的な男であることも知っている。もし自分に危機が迫っているなら、BORDERのこれからのことについて、死んでも伝えようとしたに違いない。


「……了解した。でも帰りはお前も荷物をもたなくちゃなんないんだぜ。眠りながら覚悟しとけよな」

「承知した」


 バースは微笑むと、機械眼球に瞼を下ろし眠ったようだった。


 ジェンは作業を再開すべく、すぐにその場を離れた。


 本来なら数秒で終わらせる雑な作業のはずだったが、少しばかり頭を捻る必要がありそうだった。幸い、時間には余裕がある。


 酸素吸入用ボンベとブロックとに触れ、ジェンは〝継接〟を発動させた。ボンベだけが残り、ブロックが消える。ブロックは空のボンベの中で鋼鉄の塊となって融合されたのだ。一つ目モノアイヘルメットにもできる限り鉄屑を混ぜ、ラバースーツの下に着こんでも気付かれないよう鋼鉄の鎧を生成する。


 識者でもない傷ついたただの人間に、これ以上無茶はさせられない。少しでもバースの負担が軽くなるよう、ジェンは試行錯誤を繰り返した。


                 ◆◆◆◆◆


 束の間の休息の最中、バースは夢を見ていた。


 それは一人の女性のくだらない物語だった。


 彼女の名をその夢から知ることはできなかった。バースが知ることのできた名は、彼女が十の誕生日を迎え、とある手術の後に手に入れた力――〝導白触イゾルデ〟だけだった。


 彼女は社会の支配者の一人となるべく育てられた。それゆえ、日々多くの学問を収めることを強要され続けてきた。体術においてもそうだったし、礼儀・作法についてもうるさく教育され続けてきた。


 彼女はそんな人生に飽いていた。支配者になることなど、彼女にとってはどうでもいいことだった。自分を束縛する両親が、ただ疎ましかった。


 彼女は日々堆積されてゆく苛立ちから解放されたがっていた。

 束縛のない、自由な遊びが欲しかった。ベッドの中で蹲り、眠りに落ちるまでの短い間だけ許される空想の世界のような。


 そこではなんだってできるから。欲しいものを手に入れ、気に入らないものを壊せるから。鬱陶しい両親だって。


 彼女はベッドの中で、頭の中で、何度もなんども両親を殺し、破壊の限りを尽くして笑った。


 そして十歳。

 識者の力を手に入れた時、空想は現実となった。


 識者の中には、より早い情報伝達を行うため、生体接続器官をインプラントしている者が多い。彼女の両親もそうだった。


 だからこそ彼女は、両親を殺せた。彼女に生体接続器官はインプラントされていなかったが、〝導白触〟は、通信媒体がなくとも彼女の意識を形而宇宙に潜行させることができた。アクセスする相手を物理的に認識してさえいれば、そこに直接潜行することも可能だった。


 そして両親を殺したあと、彼女は遺産を食い潰しながら、遊びを続けた。


 相手を認識していなければ〝導白触〟の力の行き先は制御できない。しかし、彼女にとって「場所」は深い意味を持たなかった。ただ自分の思う通り、弱き者を殺し続けることができれば、それだけで彼女は楽しかったから。


 だが夢には、いずれ終わりがやって来るものだ。


 彼女は衝動的に過ぎた。

 両親の死が知られてしまったあとのことなど、なにも考えていなかったのだ。


 それは彼女の人生の終わりを意味していた。識者を殺した者に与えられる罪状は等しく死だからだ。


 彼女は逃亡を迫られた。


 これまで一度も踏んだことのない地上の世界を駆けた。データを破壊し、空からの監視の目を欺きながら。


 食糧や金を得るために、何度も物理的に人を殺した。識者でない者などちょっと首を捻ってやるだけでよかった。呆気ないものだった。


 それでも生きていくのは辛かった。ふかふかのベッドで眠ることはできなかったし、美味いステーキを食うこともできなかった。おまけに外はスモッグで汚れていた。遊びに興じる時間さえもなかった。


 金があれば。

 短絡的にそう考えた。


 そして彼女はデータを改竄し、身分を偽り、マティス・クリーン社へと辿り着いたのだった。


 彼女はそこで美しい女たちが、性的にやり取りされることを知っていた。自分がそのシステムの中に組み込まれることについては、どうだっていいと思っていた。彼女はただ遊ぶ環境が欲しかった。


 無論、指名手配された識者にとって、そこは逃げ場でもなんでもなかった。


 彼女とて、それが理解できていないわけではなかった。ただ、このまま生きていたとしても、遊ぶことはできないし、快適な睡眠も、美味い肉も食えない。彼女は疲れ果てていた。最早、生きることに対してさしたる未練もありはしなかったのだ。


 ところが、部下に治安維持局へ連絡を入れさせようとしたネイスを、他でもないマルサラス・マティスが止めた。彼は地上から直々にやって来るイカれた識者を一目見たいとまで言った。


「ハッハ!」


 そうして現れた金髪の美青年は、彼女を見るなり快活に笑った。


 ネイスが困惑の眼差しを主人へと送った。


 マティスはそれを意に介さず、彼女の眼差しを覗きこんだ。


「飢えた目。私と同じだな!」


 そう言うとマティスは、またも大きな笑い声をあげた。

 そして小さく息を吸うと、言った。


「ここへ来るまで、誰にも見られなかったな?」


 不意にその表情から笑みが消え、声音が低くなった。


 彼女はぞっとしたものを感じた。マティスの感情の起伏が烈しかったからではない。彼がその言葉通り、底なしの飢えた目をしていたからだ。


「まあ、治安部隊が動いていないのだから、答えは明白か。よく生き残ったな」


 それからマティスは愉快気な調子に戻った。


「よし、ネイス。この女をうちで飼うぞ」

「は、なにを……?」


 ネイスが神経質そうな眼差しを困惑に大きく歪めた。


 それが彼女には可笑しかった。「フフッ……」と暗い笑いがこぼれた。


 ネイスの睨みが飛んだ。それでも彼女は笑いをやめなかった。


 マティスがそれを見て、にたりと笑むと、踵を返した。


「お、お待ちください、マティス様。この女は重犯罪者なのですよ!」


 言うと、マティスはつまらなそうに振り返った。


「それがどうした? 適当に閉じ込めておけばいいさ。こいつはこれまで逃げのびてきた。面白いじゃないか」


 ネイスの眼差しが怯えへと変わった。


「……で、では、せめて〝傀儡窟ドールハウス〟をお使いになるべきです。自分の両親を殺すような輩、いつ寝首をかかれても――」


 言い終えるより前に、大仰な嘆息が返ってくる。


「さっきの話を聞いていなかったのか、ネイス? この女はひどく飢えた目をしている。私と同じような目をな。〝傀儡窟〟を使ってしまったら、その飢えも服従に変わる。そんなのはつまらんだろうが」


「いや、しかし……」


「ハッハ! 心配するな。望むものを与えてやれば裏切らんさ。それだけこいつの渇望は大きい」


 ネイスは得心していない様子だったが、しぶしぶ頷きを返した。


 それを見て彼女はただ昂揚していた。


 遊び場が返ってくる。


 渇きかけた心に潤いが戻ってくるのを感じた。


 ――それから彼女はマティス・クリーン社のデータ管理を請け負う傍ら、形而宇宙を彷徨し、遊びに興じた。〝導白触〟はその経験の中で育った。敵を自らの領域へ誘い、労働に溺れたクズどもを導く力を手に入れた。


 ワタシはもっと強くなる。もっと自由になってみせるわ。


 夢の中、バースは彼女にそう語りかけられたような気がした。

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