八章 孤高の狩人

 耳を聾するようなサイレンの音が近づいてくる。


 治安部隊の警邏車輌回転灯の光が夜の闇を切り裂き、スモッグ流に歪んで、朧な残光を形作った。


 メアは薬剤の残り香を鼻腔に感じている。その所為か頭の奥に微かな痛みがある。


 けれど彼女がその歩調を乱すことはない。極端に足を速めることも、ふらついて足を止めることもない。


 やがてメアの傍らに警邏車輌が停まる。サイレンの音が一つ目モノアイヘルメットの中で反響して痛む頭を苛み、回転灯の明かりがメットの側面を叩いた。


 メアは辺りを見回す。他に通行人らしき人影はない。切れかけた街灯の明かりが、かろうじて路地の様相を浮かび上がらせているばかりだ。


 警邏車輌に視線を転じると、下がるミラーの向こうから漆黒のパワードスーツに身を包んだ隊員が現れた。


 挙動不審と見做されておかしくない行動だが、治安部隊を前にした市民の反応は、おおよそこんなものだ。今更、これくらいのことを見咎められることはないだろうし、却って普通の市民に見えるはずだった。


『治安維持局である』


 甲高い合成音声が発せられ、すぐさま国民登録ナンバーをスキャンする。


 すると、頭部に設けられた一文字の覗き穴に「異常なし」を意味する緑の明かりが明滅する。「異常あり」の反応が返ってくることなどありえないと解っていても、こんなつまらないことで安堵を覚えられるのは、後ろめたいことをしている人間の特権だ。メアはなぜだか笑い出したい衝動に駆られるが、ぐっと堪えた。


「……どうかされたんですか?」


 震えた声に、怪訝と怯えが混じる。サイレンの音にかき消えてしまいそうな弱々しい響きだ。


 しかし隊員のスーツは自動的に人の声を識別する。隊員から発せられる合成音声も、騒音の中でその声を聞き取りやすくするための機能であり、肉声を隠そうという意図はない。


『つい先頃、ステュク・ストリートで殺人事件が発生した』


「さ、殺人……っ!」


『犯人は指名手配中のブルーデシュ・ルカニエである』


「ルカニエ……あの赤眼の?」


『うむ。まだ近辺に潜伏している可能性がある。それらしき人物を見たか、市民?』


「いえ、メットの中まで見ることなんて滅多にないですから」


『だろうな。協力に感謝する。それらしき人物を目撃した場合は、早急に当局へ連絡せよ』


「ええ、早く捕まえてくださいねっ。街の中に犯罪者がいると思うと、怖くて……」


『市民の安全を祈っておこう』


 そう言い残すと、警邏車輌は瞬時にトップスピードに達し、角を曲がっていった。


 メアはほっと胸を撫で下ろし、メット越しに頭を軽く叩いた。まだ耳の中でサイレンの音が谺している。ズキンズキンとこめかみのあたりが疼いていた。


 今すぐにメットを外してこめかみを揉みほぐしたいが、こんなところでメットを外せば、健康を害してしまう。


 早く帰らなくちゃ。


 その意思に反し、メアは踏み出そうとしなかった。代わりに空を見上げた。


 彼女の眼は外科手術によって移植された改造眼球である。視覚的な機能においては、バースの機械眼球とほぼ同等の性能を有する。要するに、視力の増強や彩度調整を行える。


 ゆえに、メアは上空を旋回飛行するドローンの数が極端に減っているのを視認できた。ちらほらと確認できるのは、企業ロゴのプリントされた広告ドローンや物資輸送ドローンばかりだ。


 メアはその場から数歩後退り、路地裏のほうに目を細めた。


 そこに建物と建物の間に襤褸を張っただけの簡素なテントがある。浮浪者が寒い夜を明かすためにこしらえた住処だ。


 その中に赤いものが二つ、闇を払うように煌めいていた。


 無論、それは浮浪者の充血した眼ではない。


 テントから這いずるようにして現れたのは、ボサボサの長い頭髪を逆立て、襤褸のような服をまとい、背に刀を負った男だった。識者シキシャたちの間では〝雲渡り〟や〝識者狩り〟と呼ばれ恐れられる、識者を狩る識者であり、先の治安部隊員が追跡していたブルーデシュ・ルカニエその人である。


 空撮ドローンを破壊せしめたのもまた彼だった。


「気付かれなかったってことは、警邏隊の中に識者はいないのね」

「……なぜ俺を助けた?」


 メアは肩をすくめ〝雲渡り〟の背後の暗闇を一瞥した。


「あなた、助けてくれたでしょ。その借りを返したの」


 テントの中では、三人の男たちが気を失って倒れている。


 警邏隊がやって来る数分前のことだ。

 業務を終え、BORDERの拠点であるアパートへ向かっていたメアは、三人の酔漢に絡まれたのである。


 密着性の高いラバースーツによって、扇情的なボディラインが強調されるためなのか、無骨なメットで顔が隠れていても、男たちに絡まれるのは珍しいことではない。


 適当に理由をつけて切り抜けようとしたメアだったが、酔っている所為なのか、男たちは強引だった。周囲を取り囲んで、腕に掴みかかってきたのだ。


 鍛え上げられた彼女にとって、足許の覚束ない市民を打ちのめすことなど、赤子の手を捻るようなものだった。蠢く手を振り払い、後ろに捻り上げて泣かせてやるつもりだった。


 しかし、そこに突如現れた影が、三人の男たちを一瞬にしてのしてしまった。それこそが〝雲渡り〟だったのだ。


 メアは彼が識者を狩る男であることを知っていた。マティスの部屋を襲撃したのが、彼であることにも気付いていた。


 だから警邏隊の接近に気付いた時、近頃出入りのなくなった浮浪者のテントへ、彼を導いてやったのだった。


「……思い出したぞ」


 ヘルメットの一つ目を覗きこんだ〝雲渡り〟が、不意にそう言った。どうやら先の会話は時間の海に投げ出してきたようだ。


「なにを思い出したの?」


 メアは一歩詰め寄る。彼女には〝雲渡り〟に対する恐怖も警戒心もない。それは彼の目にもまた、敵愾心のようなものが感じられなかったからかもしれない。


「マティス・クリーン社」


 それだけで彼の言いたいことが理解できた。


「ああ、ちゃんと私のこと認識してたのね。見られてもいないんだと思ってたわ。メット越しに判るなんて、やっぱり識者は目がいいのね」


 そう言ってメアは身を屈めると、テントの中へ入る。倒れた男たちを椅子代わりにして座りこんだ。メットが襤褸の天井を押し上げ、葉擦れのような音をたてた。男たちの呻き声が続く。


「カメラが戻って来たら厄介よ。こっちに来て話しましょう?」


 真紅の目に逡巡が過ぎる。


 だがそれも束の間のことだった。


〝雲渡り〟は空を一瞥すると、テントの中へ入り、乾いたシートの上に胡坐をかいて座ったのだ。


 メアは微笑んで小さく肩をすくめた。


「ちょっと驚き。こんな素直に対話に応じてくれるなんて思ってなかったから」

「……」


〝雲渡り〟は答えず、冷たい一瞥を寄越した。


「ごめんなさい。怒らないで」

「なぜ識者を知っている?」

「え? ああ……」


 唐突に質問がきたことで、返答に窮してしまった。


 たしかにこの社会において、一般市民は識者のことを知らないはずだ。暗部を知った者は、すぐさま粛清される。それが今の社会だ。


「お前は何者だ?」


 たて続けに質問がとんでくる。メアは今度こそ、はっきりと答える。


「あなたと似たような人間よ」


〝雲渡り〟が釈然としないように眉をひそめ、自身の胸を見下ろす。


「……識者の気配は感じられんが」

「そういうことじゃなくて。立場というか、なんというか……」


 今更になって言い淀む心境が、メア自身解らなかった。


 次いで放った言葉の訳も。


「あなたは、この世界にある境界を感じない?」


 訊ねると〝雲渡り〟は目を細めた。


 その瞬間、静謐にさえ感じられていた暗闇の中に、黒々とした淀みが噴出したかのように思えた。


 それは炎の周囲を取り巻く陽炎のようだった。

 陽炎を形作る炎は、メアのすぐ目の前で、ごおごおと燃えていた。


 それだけでメアは彼の答えを知った。答えは彼女の逡巡を灰にして散らせた。


「……私はBORDERという組織の一員。仲間とともに識者を狩っているの」


 告白と同時に、〝雲渡り〟の目から炎が晴れた。残ったのは、灰すらも吹かれたあとの乾きのようだ。


「また仲間か」

「え?」

「なぜ皆、仲間を頼るのだ。この胡乱な世界で、どうして他者を信じられる?」

「それは……」


 メアはまたも返答に窮してしまった。


 同じ志をもつ者が集う。弱いから頼らざるを得ない。

 前者に対しては、そのように答えるのが無難だろうか。


 だが、他者を信じられる理由はどこにあるのか。メアはそれを言葉にできなかった。


 代わりに質問を返した。


「あなたは誰かから、ひどい裏切りを受けたことがあるの?」


 不快感すらもない、無感情な目が見返してくる。


「解らん。だが、おそらくその経験はある」

「おそらく?」

「俺には記憶がない。記憶はないが、疼きはある。怒りもある」


 突如、打ち明けられた事実に、メアは静かな衝撃を受ける。

 これまで何度も識者を狩ってきたこの男の頭から、記憶が失われているなどとは思ってもみなかった。


 そしてメアは、彼の言葉の微妙なニュアンスの中に、彼がその疼きや怒りに従って識者を狩ってきたのだという真実を感じ取った。


 信じられない。そんな頼りないものだけで、この人はこんな危険な生き方を選んできたの……。


 たとえ自分が彼と同じ力をもっていたとしても、同じ選択ができるとは思えない。


 メアの中で燃え盛る炎は、彼女の命を繋ぎとめられるほど強い。


 けれど彼女の炎は、炉もなく燃え続けているわけではない。曖昧な感情だけで、炎を形作っているわけではない。


 それと結びつく記憶、理由が炉として存在していなければ、きっとこの復讐の炎は、奔流のような経験の中で消えてしまう頼りないものだ。


「あなたは強いのね」


 気付けば、ぽろりと声がこぼれていた。


「独りでも立ち、歩みだせるほどに」


 当然だ。とでも言うように〝雲渡り〟がこちらを見返す。


 メアはその心中の声を否定するように、かぶりを振った。


「だけど、あなたにも弱さはあると思う」

「なに?」


 その声にははっきりとした苛立ちがあった。

 メアは臆さず言葉を紡ぐ。


「だってあなたは、その疼きを感じているんだもの。裏切られることの恐怖や痛みを、記憶がなくても感じているのは、あなたが孤独の痛みを知っている証だと思うわ」


「……」


 〝雲渡り〟は答えない。その眼差しには、声音に混じった苛立ちすらもなく、情動を感じさせなかった。


「さっきの質問の答えだけど」


 メアは男たちの椅子から降り、おもむろに〝雲渡り〟の手に触れた。

 彼はそれを怪訝に見た。けれど不思議と手をひこうとはしなかった。


「こんな世界でも、私が仲間を信じられたのは、きっとこういうことよ」

「なんだと?」


 今度ははっきりと当惑を口にした。

 メアは小さく笑った。


「ごめんなさい。私にもはっきりとしたことは言えないの。上手く言葉にできなくて。だけど、きっと私たちが出会って、こうして言葉を交わしているこの瞬間が、私があなたを、あなたが私を信じているってことだと思うの」


〝雲渡り〟が思案するように、重ねられた手を見下ろす。彼はぴくりとも動かず、しばらくの間そうしていた。


 やがて、その口が開かれたとき、彼はまた訊ねた。


「……お前の言葉が正しいとして、なぜ俺たちは信じ合うことができた?」

「心が動いたからよ」


 その時初めて〝雲渡り〟が虚を衝かれたように目を見開いた。


「心が……」


「ええ。信じるためのプロセスとか私には解らないけど、難しいことを説明されるより、そのほうが私には正しいと思える。まあ、正しいかどうかなんて、解らないけどね」


〝雲渡り〟の眼差しが持ち上がり、目が合ったかと思うと、それはまた二人の手の上に落ちた。


 もう一方の手が動き出したのは、その時だ。


〝雲渡り〟は躊躇するように指先を曲げては伸ばし、メアの手に、その手を重ね合わそうとしているように見えた。


 ところがその手は、不意に動きを止め、離れた。メアの手のひらから、重ねられていた手もすり抜けていった。


 気付くと〝雲渡り〟の背中が、テントの外にある。


 メアもテントから這い出し、その隣に立った。


「……まだカメラは来ていない。怪しまれないうちに逃げろ」

「ええ、そうするわ。ありがとう」


 今はまだ見えずとも、空撮ドローンはじきにやって来るはずだ。少々話し過ぎたかもしれない。急いで戻らなければ。


 けれどメアは踏み出すと、すぐに振り返った。


〝雲渡り〟はまだそこにいた。


「ねぇ、最後に一つ」

「なんだ?」

「私たちの仲間にならない?」

「断る」


 即答だった。

 メアは肩をすくめ、メットの中で小さく舌をだした。


「そうよね。ごめんなさい」


 サイレンの音が、まだ遠く聞こえている。それは円を描くように、右から左へと流れてゆく。


 メアは踵を返し、今度こそ踏み出した。


 ところがその背中に、予想だにしない声がかかった。


「……明日、もう一度マティスへ襲撃する」


 咄嗟にメアは振り返った。

 しかしそこには、もうあの赤眼の残滓すらも感じ取れなかった。


 サイレンの音が、また近づいてくる。


 メアは高鳴る胸を押さえつけながら、仲間の待つアパートへと駆け出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る