BORDER

笹野にゃん吉

プロローグ

 両親を手にかけたのは、何年前のことだったろうか。


 五年前? 七年前? それとも九年前か?


 ブラッドは首を捻るが、海馬の奥底に隠れた記憶が顔を出すことはなかった。


 茫洋としながら額を掻く。


 そもそも自分が今、幾度の誕生日を通過してきたのかも、ブラッドはよく憶えていない。瞬く間に老い死んでゆく貧民たちと異なり、特殊な代謝系によって数百年を生きられる識者シキシャにとって、歳を数えるのは、面倒で無駄なことでしかなかったからだ。

 

 とはいえ、とし月は記憶だ。記憶は経験を探るために決して欠かせない。


 その記憶が定かでないなら、俺はなにによって生かされているのか?


『人は他人との関わりやその思い出によって、目の前の困難を乗り切ることができます』


 不意に、街頭モニタでそんなことを言っていた若い実業家がいたのを思い出した。

 

 その言葉が正しいのだとして、この迷い――いや、疑問を「困難」だとするなら、払拭する術はないのだと思い至る。


 何故ならブラッドには、人との繋がりなどなければ、大切にしてきた思い出もないからだ。死にかけたことなら幾度もあるが、その度になにかを想うということはしてこなかった。

 

 この身を動かしてきた力は、ただ一つだ。

 それは脳裏に湧き上がる、記憶や思い出と言える類のものでは決してない。

 むしろ、すべてを燃やす尽くしてしまうもの――怒りだ。


 両親の身体を刺し貫いた時も、胸に燃えていたのは怒りだった。両親と過ごした時間よりも、視界を真っ赤に舐めつくす憤怒の炎のほうが信用できたのだと思う。


 この欺瞞に満ちた世界の中では、肉親も自分自身さえも疑うべき存在だ。本能的に燃え上がる業火は、だから、あれやこれやと難しく考える思考よりも信頼に足る。


「な、なぜ、だ……」


 そのとき足許でが震えた。


 南一面に伸びた窓から忍び込む科学の明かりが、スモッグで窒息した月光の代わりに、スイートルームの汚れた床を薄らと浮かび上がらせていた。カフェラテのようなやわい茶のカーペットの端は血に滲んで黒ずみ、ティーカップの底に溜まった紅茶の茶葉を思わせた。生前、母はよく好んで紅茶を飲んでいたような気がする。


 いや、やたらと鼻腔を刺激するコーヒーだったろうか。


 まあ、どちらでもいいことだ。


「なぜ、きさ、まは……識者を、狩るの、だ……?」


 薄暗い部屋の中、ブラッドの赤い瞳が足許を見下ろした。その目の鮮烈な炎の色は、意外なほどに冷えて乾いている。今、彼の中に怒りはなく、途方もない寂寥めいた虚無だけがあった。

 

 ブラッドは答えず、手にもった刀を音もなく肉に突き刺した。それはびくんと跳ね上がったかと思うと、すぐに動かなくなる。両親を殺した時も同じ反応だったと思い返すが、それも遠い夢のことのように朧だった。

 

 血濡れた床の上に、ブラッドは胡坐をかいて座った。

 自分がこれまで生きてきた街を眺め、小さく息を吐く。


 空を埋め尽くすのは、灰のようなスモッグの雲だ。灰皿に押し付けられた煙草のように、歪な排煙塔群が摩天楼の中から覗く。地上を埋め尽くすのは、金魚鉢じみた丸いヘルメットで顔を隠す名もなき市民たちと、「規律」が形を成したような正六面体のブロック型警備ロボット――。

 

 この文明の発展を極めた街――カロン・シティでは、選ばれた者だけが、こうして腐敗した地上を俯瞰できた。


 胸の中、冷え固まったマグマが、熱を取り戻してゆくのが判る。


 ブラッドは投げ出した刀の柄を固く握り直し、スイッチをプッシュした。


 すると血に濡れた赤い刀がやんわりと蜂蜜色の熱を灯し、ぶすぶすと音をたてて、汚らしい赤い液体を蒸発洗浄した。


 やがて短い休息をやり終えると、ブラッドは立ち上がった。


 無造作に窓を割って空中へ跳びだす。


 今しがた人を殺したことなど忘れていた。

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