一章 穢れなき世界へようこそ

 地下階段から地上へ出たメア・ギャビントンは、見慣れた退廃的光景に、一つ目モノアイヘルメットの中の目を眇めた。


 薄汚い煤に塗れた箱型建造物。

 その間から眺望できるのは、異常増築によってバオバブの木の如く歪に発達し、百を超える階層にまで成長したビル群だ。


 メディアは時折、そんな摩天楼の姿を「人類の進化の証だ!」などと言って誉めそやした。

 

 しかし、それはメアから言わせれば文明社会の発展した姿などでは決してない。尽きることないゴミを量産し、母なる大地を穢し続ける人間の傲慢そのものである。

 

 見上げれば曇天――いや、スモッグ雲が天に蓋をしている。


 昼間であっても雷雲ごとく空をおおう紫紺のスモッグ雲の影響で、多くの生き物が命を奪われ、棲家を追われた。今や渡り鳥がとび交うどころか、カラスさえ餌を求めてやって来ることはない。路地裏へ駆けこむネズミでさえ、餌場よりもむしろ、逃げ場を探しているようだった。


 物資配達、治安警備空撮カメラ、企業広告ホログラムを投影するドローンばかりが、闇に沈む街の上空を彩る。あるいは権力者の象徴たるホバリングリムジンが。


 そんな中、地上を行く市民たちに表情というものはない。


 アスファルトの上の小銭でも探すように、地面を見下ろし、とぼとぼと歩く者がほとんどである。多少、懐に余裕のある者であっても、視線の杭は携帯端末に打ちこまれて離れない。転職サイトや株価チャートの中に、細いほそい希望の糸を探しているのだ。


 そればかりでなく、光化学スモッグに汚染された街の中では、空気濾過呼吸装置が欠かせなかった。先の端末の所有者などは、その鋼鉄のマスクを着用し、髪の毛一本さえ外気にさらすことはなかった。


 もっとも、多くはそんなものを購入する資金にさえ恵まれない。


 地上面積の多くを占めるのは、もっぱら逆さの金魚鉢のような一つ目ヘルメットを被り、酸素吸入用ボンベを背負った、異様な集団である。


 メアもその一人だ。

 ヘルメットとボンベとを繋ぐチューブとは別のチューブから、嘆息とは名ばかりの二酸化炭素が排出される。


 でも、私は恵まれているほうよね……。


 メアは振り返り、今しがた自分が出てきた地下酒場の隣に佇む、過剰増築アパートの壁面を一瞥した。


 そこへ寄りかかるようにして、うなだれた浮浪者たちの哀れな姿がある。浮浪者たちの頭には、安物ヘルメットさえ装着されておらず、その身体は皮膚防護ラバースーツによっても守られてはいなかった。


 こうして汚染された空気の中に長時間さらされ続ければ、当然、健康被害は免れない。現にかれらの肌は、半身をおおう襤褸と区別がつかないほど黒ずみ、地面に落ちた自分の涎を眺める眼球は灰色に濁っていた。


 メアは彼らに見て見ぬふりをしながら、ビル群のそびえ立つ方角へそそくさと歩き始める。


 時折、メアの謎めいた罪悪感を刺激するように、彼らのくぐもった咳が追ってきた。


 ガキンガキンと喧しい音をたてながら転がるブロック型警備ロボットの間を縫うようにして、駅までの道程を急ぐ。


 私に彼らは救えないけれど……あの子のような娘たちだけは、これ以上犠牲にさせるわけにいかない。


 メアはふと五年前の悲劇を思い返す。

 メットの中の唇に、鉄の味が滲んだ。


                 ◆◆◆◆◆


 ミチェス・バートラーは、メアの幼馴染だった。

 教育機関とは名ばかりのハイスクールにまで、ともに通った仲間だった。


 弱い自分を棚に上げて女の子を蔑むクズ男たちは、腕っぷしに自信のあるメアが力でねじ伏せてきた。それでも屈辱の言葉の数々に悔し涙を流さざるを得ないとき、ミチェスは、メアの肩にそっと手を置いて、涙を拭ってくれたものだった。


 彼女は強い子ではなかった。けれど、優しい子だった。常にメアの心に寄り添ってくれた。親友が悲しめば、彼女も自分のことのように悲しんでくれた。


 彼女の「優しい」は、褒めるべきものがない相手のために用意される言葉ではなかった。正真正銘の「優しい」だった。


 メアはミチェスを愛していた。彼女は親友であり、姉であり、妹であり――そう、家族のようだったのだ。


 そんな二人もいつかし大人となり、社会の中へと組み込まれていった。メアは地下酒場の看板娘となり、ミチェスは父親の経営するスクラップ工場で、流しの仕事に就いた。


 そうして二人の時間は減っていった。


 一週間に一度、ひと月に一度、一年に一度会っているつもりが、気付けば連絡も途絶えていた。


 ところが、ふと「今日はミチェスの誕生日」だと思い至ると同時に、彼女から連絡が来たのだった。


『今すぐ会いたい! メアに最初に聞いて欲しい、最高にハッピーな報告があるの!』


 と。


 奇跡のようだと思った。


 メアはすぐに外へ跳びだしていた。ボンベを背負ったまではいいが、危うくヘルメットを被り忘れるほど、彼女と会えるのが嬉しくてたまらなかった。


 地下のオートマチック食堂で成長したミチェスを見つけたときは、つい歔欷きょきとして泣きだしてしまい、数年ぶりに涙を拭ってもらってまた泣いた。


 ミチェスの報告は、さらに素晴らしいものだった。


 彼女はスクラップ工場に勤めだしてからも、就職活動を続けていた。その結果と言ったら散々なものだったらしいが、努力はついに実った。


 マティス・クリーン社に内定を得たというのだ。


 マティス・クリーン社と言えば、このオートメーション化された社会の中で、未だ人の温もりを捨てず「人間によるエコ」を追求し続けている企業だ。要は社内清掃員の派遣企業なのだが、生の人間の働き口と言えば、そこここで押し合いへし合いしている下層工場群が主で、スモッグを避けて働けるというだけでも、彼女たちにとっては憧憬の対象足り得た。


 当時のメアは、まだ大企業の掲げる「環境保全」や「平等社会の実現」と言った甘い文句を信じる若い娘だった。


 だからマティス・クリーン社が、この社会を動かす権力者――識者シキシャが、どれだけ卑劣で、醜悪で、汚濁に満ちたクズどもであるかも知る由などなかったのだ。


 無論、ミチェスも無知な娘に過ぎなかった。全身を花のようにひらかせ、喜びを表現したものだった。


 ――ところがその半年後、メアの通信デバイスが受信した文言と音声は、ミチェスがこの半年で味わった苦痛を想像するに充分過ぎる内容だった。


『もうやだ。たすけて』


 首筋が粟立った。


 ミチェスは決して強い子ではなく、弱音を言うことも少なくなかった。『会いたい』と言われたときに会えば、大抵、ほとんど泣くような調子で愚痴を漏らしたし、理不尽な怒りで頬の裏を噛むこともあった。


 しかしこれだけ直截的な思いを、記す子ではなかったはずだ。

 彼女の感情は、メアの前に立って初めて発露されるもののはずだったから。


 その直感は最悪の形で的中した。

 

 メアは添付されていた音声データをひらいた。

 たちまち、聞くに堪えない悲鳴が鼓膜を突いてきた。


『やめてぇ! イヤ、お願い、離れてっ!』


 男の湿り気をおびた吐息がノイズ混じりにかかり、ひきついった悲鳴が断続的に繰り返されていた。


 その悲痛な金切り声に聞き覚えはなかった。

 だが、ここに添付されているということは、そういうことだった。


 やがて男が大きな溜め息の後に『やっぱりマティスの選ぶ子は最高だな』と漏らすと、ミチェスのすすり泣きが聞こえてくる。最後に男が粘ついた声で『またね』と言い残した後には、ベッドのスプリング音やベルトを締め直す音が、いやに甲高く感じられた。


 メアは仕事も投げ出し、酒場の亭主に怒鳴られるのも構わず、ミチェスの許へ走った。


 傷ついた彼女の側にいてやらなければ、彼女が壊れて消えてしまうような気がした。神経を焼くような焦燥が、ぎこちなく、けれど風を切るようにメアを走らせた。


 だが、もう遅かった。


 ミチェスの住むアパートへ到着した時、そのドアは歪んで、中の闇を静かに吐き出していたのだ。


 初めて嗅いだ硝煙のにおいが、すべてを物語っているような気がした。


 それでもメアは、悲劇の現場に飛び入ろうとした。中にいるであろう何者かと刺し違えてでも、ミチェスを救いたかった。


 ところが、その願いさえも虚しく散った。


 メアは不意に何者かに腕を後ろへ捻り上げられたのだ。


 それは一瞬の出来事だった。振り返る間もなかった。首筋にちくりと痛みがはしったときには、絞り出そうとした叫びも凍えた。全身の筋肉が弛緩し、意識がこぼれ落ちてゆくのが判った。


 ――目覚めると、古めかしいランプを灯した四畳半ほどの小さな部屋の中にいた。ランプを置いたテーブルの周りを、三人の異様な男たちが囲む汗臭い部屋だった。


 メアの脳裏に、ミチェスの音声データが去来した。


 私もあの子と同じように、汚く醜いクズに犯され、果てるのか。


 メアの胸に怒りと屈辱と絶望がシェイクされ、呻きとなって吐き出された。


 それに短髪痩躯の男が気付いた。狭い部屋の中で男が立ちあがると、その背丈の大きさに息が詰まった。恐ろしかった。


 ところが、傍らに屈みこんだ男から吐き出された言葉は、意外なものだった。


「危ないところだったな、あんた。俺が駆けつけるのがあと少しでも遅れてたら、治安部隊に消されてたぜ?」


 長身の男が言うと、一人がその後ろに立って肩を掴んだ。

 全身を薄汚れた白衣ですっぽりと覆った小男だった。


 メアは怪訝にその顔を睨めつけた。彼らを信用できなかったから、というのは当然、理由の一つではあった。しかし、それ以前に小男の姿は異様だった。


 小男の眼には瞳がなく、一面が銀色に彩られていたのだ。


 身体機能の不足を機械化によって補う人間は、決して珍しくない。下層工場群で働く者の中には、事故で手足を欠損する者も多い。身体のサイバネ補強・置換には、たしかな需要がある。


 とはいえ、視覚障害や欠損によって眼球を置換したり、補填したりする場合は、人工生体素材を用いるのが一般的だった。生体素材は移植してしまえばそれきりだが、機械化するとなれば、定期的なメンテナンスの必要が生じるからである。


 この小男は金銭的に余裕があるんだろうか。


 メアは場違いに、そんな感想を抱いた。


「ジェン。余計なことを言うな。まだ、この娘の処遇は決めかねている」

「ここまで連れてきちまったんだ。今更、処遇もなにもねぇだろうよ」


 そこへ猫目の男が長い髪をかき上げ、やってきた。ジェンと呼ばれた男の肩にするりと手をのせる。


「そうよ、ジェンの言う通り。ここまで連れてきちゃった以上、もう手は一つしかないじゃない」

「しかし不用意に仲間を増やせば、リスクが……」

「んもうっ! 固いわね!」


 メアを無視し、三人は口論を始めた。


 なにが起きているのか分からなかった。一瞬は抱いた恐怖も不確かで、縋りようのないものと化していた。


 やがて口論が一つのところに収束を始めてからも、メアは一言も言葉を発しなかった。

 

 不意に小男の奇怪な眼がこちらへ向いた。


「君に一つ訊きたい。とても重要なことだ」

「え、え……はい」


 しどろもどろに答えると、小男の手袋をしたやけに長い指が天井を指し示した。そこにはLEDライトすら取り付けられておらず、用途不明のよれた糸くずが垂れているだけだった。


 メアはその糸くずを凝視した。小男の銀眼球と視線を交わらせるのは気味が悪かったし、何故だかそこに、なにか深い意味が隠されているかもしれないと思えたからだった。


 長い間、小男はそのまま動かなかった。他の二人も、小男を逸らせるようなことは言わなかった。


 やがて小男は、小さく咳払いをしてから、重たげな口を開いた。


「君は、この社会が憎いかね?」


 そのとき、不意に小男の指先が、血のように赤い炎を灯らせたように思った。

 メアの胸の中で、名も知らぬ怪物が暴れ、その炎を内に取り込もうと叫んだ。


 それは怪物ではなくメア自身の叫びだったのかもしれない。


 束の間、記憶があやふやになったあと、小男が長い指をそろえてこちらに差し出してきた。


「君がもし世を憎み、破滅を望むのなら、この手を取りたまえ。君を仲間として認めよう。ただし、ひとたびこの手をとったのなら、これまで生きてきた日常へは二度と戻れない」


 自分がその時なにを考えたか、メアは思い出すことができない。ただ迷いなく男の手を取り、獰猛に笑ったことだけが記憶にある。


 小男は少し驚いていたかもしれない。あるいは儚げに笑っていたかもしれない。

 

 いずれにせよ、小男が歓迎の意思を示したのだけは間違いなかった。


「ようこそ。我々の名はBORDER」


 メアの猟奇的な笑みに臆することなく、小男は小さく頷いた。


「識者に支配された世界の一線を断つ者だ」


                 ◆◆◆◆◆


 あの日からメアの市民としての日常は終わった。

 そして革命者としての、復讐者としての人生が始まったのだ。


 駅を降りたメアは、備え付けのオゾンステーションにコインを投入し、ボンベの中身を補填する。残量にはまだ充分余裕があったが、万一酸素がなくなりでもすれば大変だ。汚染大気を吸入してでも、ヘルメットを脱がざるを得なくなってしまう。


 それだけはごめんだ。

 単に寿命が縮まるだけでなく、この美貌まで損なわれかねない。


 これは女にのみ、それもほんの一握りの者だけに与えられる強力な武器だ。


 メアはこの武器を利用して今、あの憎き仇――マティス・クリーン社に潜入する機会を得たのだった。


 思えば、ミチェスも美しい娘だった。鼻の辺りにはそばかすが浮いていて、栗色の髪は乾いていたが、素朴な少女の面影を残した愛らしさのある子だった。


 それを歪んだ識者どもに見初められ、結果、彼女は悲劇の終幕を迎えることとなった。


 皮肉にも、あのときメアの許に送られてきた音声データが、死の引き金となった。識者の検閲システムに捉えられ、ミチェス・バートラーは邪悪なる権力の許に捻り潰されたのである。


 もちろん、それを受信したメアにも危険は及んでいた。


 しかしそれをBORDERの一人〝銀眼のバース〟が、彼女の与り知らぬところで、ダミーデータを放出し、電子戦を繰り広げ、メアへの被害を水際で防いでいたのだった。


 現場へ突入しようとしていたメアを、ジェンが止めたのもそのためだった。ミチェスの部屋にはまだ治安部隊が〝後始末〟をしている最中だったのだ。


 BORDERの一員となってからメアは、この社会がいかに穢れきったクズどもに汚染されているかを知った。


 そして社会を支配する識者と呼ばれる存在が、いかに人間離れした怪物であるのかを。


 ハイスクール時代からメアは、自分の腕っぷしに自信があるつもりだった。この肢体を豊かに仕上げるのは、単に生まれもった形態でなく、日々の鍛錬の賜物だと思っていた。


 酒場で看板娘を務めてこられたのは、メアの美しさだけでなく腕を見込まれてのことだとも思う。実際、酔っ払いのギャングもどきの男を何人もこの腕で捻り上げ、その顎をかち割ってきた。


 それでも識者は、メアの敵う相手ではない。


〝裏切りのジェン〟からそう教えられた。


 だが彼は、こうも言った。


『識者は殺すことができる』


 と――。



 そして今、彼女はマティス・クリーン社の自動ドアを潜る。

 背後でドアが閉まった瞬間、四方八方から銃弾の雨のようなエアーが吹きかけられ、メアは思わず仰け反った。


 クリーンな環境を保つため、外からやって来た者は、この浄化の洗礼を受けなくてはならない。汚染物質を全身に付着させたまま、社内を汚されては「クリーン」の名まで汚れてしまうからだ。


『洗浄完了。IDを提示してください』


 自動音声機能に従って、メアは正面に通信端末を掲げた。


 彼女はマティス・クリーン社から正式な採用通知を得てここにいるが、端末には念のため、バース仕込みの強力なセキュリティロックがかけられている。また、採用試験の時からすでに情報の偽造がなされていて、メアの個人情報はすべてダミーだ。彼女がミチェスと同じハイスクールに通っていたことも、現住所も、本名ですら相手に知られることはない。


 マティス・クリーン社からすれば、彼女は毒牙にかかった哀れな小鳥の一羽にしか見えていないのだ。


『ご協力感謝します、ミール・ハチェット。好い一日を』


 無論、ミール・ハチェットは彼女の偽名である。


 自動音声を聞き終えるより前に、メアは正面のドアが開くのも待たず、右手側の壁面へ寄りそうにして設けられた小さなセキュリティドアへ歩み寄った。


 彼女の到来を待ちわびていたかのように、ドアがシャッと軽快な音で左右に開いた。


 中は更衣室だった。


 メアより僅かに背の高い銀のボックスがずらりと二十は並んでいる。それが五列に分けられているので、百のロッカーがあることになる。ロッカーの向こうには清掃道具を運搬するための台車が歯抜けたように並ぶ。


 壁紙はすべて神経質な白だった。これにコーヒーでもこぼしたら、一体どんな洗礼を受けることになるのか。興味は湧いたが実行しようとは思わなかった。おそらく、殺されるからだ。


 識者の経営する企業に属するというのは、そういうことである。


 メアは小さく息を吐いて、ドアを潜った。背後でまたシャッとドアの閉まる音がする。


 先に出社していた女性の何人かが、メアを見て一瞬目許を怪訝に歪ませたが、すぐに虚ろなそれへと戻った。


 ここでは人の出入りがよくあるのだろう。ミチェスが消されたあとも、すぐに次の人材が見出されたに違いない。


 メアは自身にあてがわれたロッカーの前に立ち、再度端末を掲げた。

 すると赤の液晶画面が緑に明滅し、アンロックされる。

 蛇腹状の開閉部が、吸い込まれるように隅へ消え、奥行きのあるロッカーの薄暗い中身をさらした。


 メアはまず、ボンベのバルブを閉め、吸入・排出チューブをメットから取り外した。ボンベを下ろすより先に、メットを取る。ようやく「生」の酸素が吸えると、生きている実感が湧いてくる。充分な酸素に満たされていたとしても、メットの中はどこか息苦しく窮屈なものなのだ。


 メットとボンベをロッカーの中に押し込め、やたらと露出の多いナースコスプレのような作業着に着替えている途中、傍らに長身の女性が歩み寄ってきた。


 他の作業員にも同じことが言えるが、息を呑むほど美しい女だった。色香が虚空に立ち昇り、渦を巻いているかのようだ。


 だが、その相貌はどこか疲弊してやさぐれた印象も受けた。目下に薄らとはしった隈が、どこかとうが立ったように見せているのかもしれなかった。


「ハロー、見ない顔だね」


 メアは整った相貌に、人好きのする柔和な笑みをのせた。


「ハロー、今日から配属になりました、ミール・ハチェットです。よろしくお願いします」

「ああ、よろしく。あたしはコニア・ジルトン」

「素敵なお名前ですね。宝石みたい」


 適当な社交辞令を返すと、コニアが意外そうに肩をすくめるので、メアも驚いた。


「びっくり。この名前、本当に宝石をもじってるんだ。ジルトンのジルとコニアを合わせてジルコニアになるようにしたんだって。無理矢理だけどね」

「素敵です。ジルコニアの石言葉は安らぎでしたっけ?」

「あんた博識だね。そうさ、安らぎ。この世界には不釣り合いな言葉」


 コニアはそう言うと、卑屈に笑った。


 メアは曖昧な微笑を返した。

 しかし彼女の中では、その表情とは裏腹に、ぶすぶすと黒い炎が燻り始めていた。


 コニアが何故、こんな卑屈に笑わなければならないか、この世界の裏側を知っているメアには解っているからだ。


 メアはすぐに炎の鎮火に努めた。コニアに気付かれぬよう深呼吸をして、怒りを鎮める。


 この怒りに衝き動かされてしまってはいけないと、彼女は知っていた。この怒りを制御できなかった所為で、危うく殺されたかけたこともあった。


 相手の境遇に寄り添い過ぎれば、待っているのは死だ。識者を相手にするなら、優しさを捨てても、強かさを捨ててはならない。


「突然、話しかけて悪かったね。あたし、新人のこと放っておけない性質なんだ。分からないことがあれば、なんでも聞いてよ。あたしもうここに六年も勤めてるからね」

「えっ……」


 無意識に驚愕が声に出ていた。

 メアは咄嗟に口を塞いだ。


 それを見たコニアが訝しむような目を向ける。

 

 心中でメアは舌打ちした。己の愚かさに。

 だがまだいくらでも繕いようはあった。


「いや、ジルトンさん、とても若く見えるので。もう六年も勤めてるんだってびっく

りして」

「ああ、そういうこと。嬉しいこと言ってくれるね」


 コニアが、にんまりと微笑んだ。

 

 メアはその瞳に怪訝も猜疑もないのを見てとって、そっと胸を撫で下ろす。


 たとえ相手が識者でなかったとしても油断してはならない。


 情報は時に抜身の刃よりも鋭いのだ。そしてそれは、識者であるとあらずとに関わらず、誰もが持ち得る武器である。また、武器とは自ら扱うこともできるが、他者へ譲渡することもできる。


「……あ、そろそろ時間だ」


 壁面の埋め込みデジタル時計を一瞥したコニアにつられて視線を滑らせると、就業時間が迫っていることに気付いた。


 話の半ばで着替えは済ませていたので、遅刻する心配はなさそうだ。持ち場もすでに把握している。


 ふとコニアの持ち場はどこだろうと考えた。


 マティス・クリーン社は派遣企業を謳いながらも、主な業務内容は自社清掃である。企業の主管的立場の人間はすべて識者によって構成されるため、メアたちのような非識者の人間には、こうした雑用しか回ってこない。


 現場に派遣される際は、夜間勤務になることが多いそうだから、こうして朝から出社している社員は派遣依頼を受領していない、自社清掃にあたる社員ということになる。


 まあ、彼女の持ち場がどこでも、私のやるべきことに変わりなんかないわ。


 メアの役目は、この派遣企業の清掃を十全に行うことではない。

 この企業に勤める女たちと安っぽい団結を築くことでもない。


「そうだ、あたし新人にはいつも言うことにしてる言葉があるの」


 更衣室を出ようとしていたコニアが振り返り、その声音とは対照的に淀んだ眼差しを寄越した。


「ミス・ハチェット、穢れなき世界へようこそ」


 この穢れた世界を紫紺の淀みに沈める者――識者を殺すことこそが、彼女の真の目的なのだ。

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