十九章 その使命果たすまで

「シィィィ……ッ!」


 大蜘蛛のあしが敵の半数を薙ぎ払うと同時、その鉄のような甲皮がめくれ上がった。紫の体液が宙を舞う。それすらも穿つように、次なる刺客がアリスを襲う。


 矢のごとく飛来する美女の貫手を、僅かに首を傾げて躱す。上腕部に指を這わせる。装甲が反転。手中にダガーが吐き出される。


 躊躇なく、美女の腹部へ刺しこんだ。手の中にまで返り血が溢れた。関節部のラバーを通して、恐ろしく冷たい血液の感触が感じられた。


 識者シキシャでも亜人でも、そして人間でもないと判った。一方で、その美しい相貌と冷えた血液に、人の名残りを見た。アリスは正体不明の怒りを、マスクの中から吐き出した。


 空いた手で拳を握り、美女の側頭部へ真っ直ぐにそれを叩きこむ。美女がピンボールのように吹っ飛び、ダガーが腹を半分に裂いた。奈落めいた闇の中にはらわたがこぼれ落ちてゆく。


 その無機質な光景を、さらなる怒りとして燃やした。


 振り抜いた腕に、鈍痛があった。美女の蹴りが次々に炸裂した。装甲が歪み、皮膚を鋭く押しこんだ。


 しかし、痛みは一瞬だ。怒りが感覚を麻痺させ、窮地を乗り切るべく、身体が動く。美女の群れを腕の一振りだけで薙ぎ払い、レールに叩きつける。


〝アイちゃん〟も肢を振り抜き、突き刺ししながら応戦している。


 血が飛び散り、四肢が舞う。骨の砕ける音が反響する。

 壁を打ち、風を切る音がする。


 なにかがおかしい。


 そう感じた時には、腹の裂けた美女が迫っていた。


 アリスは拳を打って逸らし、顔面を掴んだ。そのまま力任せに握り潰した。


 血と脳漿が四散し、皮下を蛆が這うような嫌悪を覚えた。あるいは、美女に蛆がわいているのだろうか。


 姿形は人間のそれでも、性質はまるでゾンビだ。


 識者の力か。それとも研究所の新型生体兵器だろうか。


 いずれにしても、ろくなものではない。人の手に余る罪障だ。


「ッ!」


 アリスは背中を打たれながら、飛来する拳や足を手刀で斬り飛ばした。いきおいを失った本体は、〝アイちゃん〟の槍のような脚が貫き叩き落とした。


「キリがないわねッ……」


 刺客の数はほとんど減っていない。頭を潰された者が再び襲いかかってこないことから、おそらく頭が弱点なのだろうということは想像がつく。


 しかし三十近いゾンビの群れの頭を、的確に破壊するのは容易ではない。


 その上、こちらの動きは、徐々に鈍り始めている。〝アイちゃん〟の体躯も、緩慢であるとはいえ風船のように萎んでゆく。いずれは手のひらに載るくらいのサイズにまで縮んで、とても戦える状態ではなくなるだろう。


「〝アイちゃん〟場所を変えるわよ!」

「シイッ!」


 アリスが促すと、単眼の大蜘蛛は壊れたドアからホールへと這い出した。その間にも美女たちは襲ってきたが、その衝撃が却って〝アイちゃん〟の移動を速めた。


「もう少し先まで頑張ってッ!」

「シイィ……!」


 返答は、やや恨めしげなものを含んでいた。それでも大蜘蛛は、血のしぶく肢を引きずりながら、一本の通路へと這い進む。


「うわ、なんだッ!」

「きゃあああぁ!」

「ば、化け物ォ!」


 すると、そこで右往左往していた連中が悲鳴を上げた。幾らかはその異形に恐れをなして逃げ出したが、残った者は腰を抜かしながらも銃を構えた。


 アリスはその一人の手許に、躊躇なくダガーを投擲した。銃が弾き飛ばされ宙を舞った。そこへ跳びだし、銃を掴んだ。着地と同時に、残りの銃口目がけ引き金をひいた。


 遅れて幾つかの悲鳴が上がった。銃を弾かれた男は、股に滲みを作り意識を失った。残りはそそくさと逃げていった。


 その間、〝アイちゃん〟は後肢で美女たちを迎撃していた。背後を見ることができないために、致命打を与えるには至らなかったが、通路へ進入したことで、闇雲な攻撃も外れはしなかったようだ。


 アリスは、大蜘蛛の甲皮を小さく撫でて囁いた。


「〝アイちゃん〟ありがとう。アタシのことはもういいから、メアちゃんのところへ行ってあげて」

「シイィ?」


 大蜘蛛は訝しむように単眼を転がした。一人と一匹の視線が交錯した。


 ほんの一瞬の出来事だった。


 アリスはすぐさま大蜘蛛の背へと跳躍し、刺客たちへ向けて引き金をひいた。眉間や眼球に風穴が穿たれ、幾人かの美女がくずおれた。


 さらに大蜘蛛の背を蹴り、天井を蹴ると、刺客の頭を上から叩き潰した。


 すると社内のどこかから、激しい衝撃音が轟いた。

 大蜘蛛はそれを合図としたように駆け出した。


 エレベータードアの闇の中から、ぞろぞろと傷ついた美女たちが現れる。ホールへ投げ飛ばされた者たちも、体勢を立て直し、地を蹴った。


 アリスは歪んだ太腿の装甲に、無理やり銃を突っ込んだ。彼女らの一挙手一投足を慎重に見て取り、丁寧にいなすよう努めた。大振りの攻撃で挑みかかってきた者は、頭を掴んで握り潰すか、回し蹴りの反撃で首を刈り取った。


 屍の数は増えていった。この短時間のうちに、およそ半数は破壊できたはずだ。


 しかしこちらは一人。限られた空間の中、敵の動きを予測しやすくなったとはいえ、すべての攻撃を躱すことなどできるはずがなかった。


 装甲のそこここがひしゃげ、肉体を締め上げてゆく。刺のないアイアンメイデンに拘束されたような気分だ。


 アドレナリンが痛みをごまかしてはいるが、限界はある。身体中が悲鳴を上げ、ガスの効果も気力も、次第に衰えてゆく。


 その時、霞んだ視界に手刀が切られた。


 アリスは身を反らして躱し、勢いそのままにサマーソルトで反撃した。三度バック転を打ち、床に転がったダガーを手に取り構えた。


 したたか顎を蹴り上げられた美女は、顎や首の肉を裂かれこそしたものの、まだ息があった。


 柄を握る感触には違和感。ガスの効果がかなり薄れてきている。すでに、徒手空拳で敵の頭部を破壊する力は残されていないだろう。確実に相手の動きを読み取り、クリティカルな反撃を繰り出す必要があった。


 無論、無貌の美女たちは、アリスが息つく暇など与えてはくれなかった。


 二の拳が迫り、四の脚が降った。


 アリスはこれもバック転で対処した。反撃の隙を見出すことができなかった。目が相手の動きに対応できなくなってきている。


「おごッ……!」


 意識を失っていた男が、美女の蹴りを受けて血を吐いた。

 アリスは胸中に罪悪感が凝るのを感じた。


 だが今は、それと向き合う時間などない。


 第二波が来る。


 反撃の手がなくなったことで、迫る美女たちの数はいや増す。壁を蹴り、天井を蹴り、散弾のような乱撃が襲いかかってくる。


 アリスの目は、かろうじて反撃の糸口を見出す。

 あえて後退せず、ダガーを前方へ投げつける。


 正面の美女の眉間が、刃に貫かれた。仮初の命を繋ぎとめていたものが断たれ、美女が倒れる。


 アリスはその懐へと駆け出した。


 乱撃の僅かな隙間を縫い、スライディングで屍の懐へ滑りこんだ。眉間のダガーを回収し、二の腕の装甲に収納する。


 立ち上がり、ターンを打つ。

 美女たちの背後をとった。


 大腿の銃を抜き放つ。


 着地する幾つかの後頭部。

 それらへ向けてアリスは三点バーストを行った。


 狙い過たず、三つの頭が無機質な血液を吐き出した。


 十の顔が振り返る。

 さらに三点バースト射撃で迎撃を試みる。


 しかし、頭部に命中したのは一発だけだった。

 後退しながら、さらに引き金をひく。


「……クソッ!」


 ところが返ってきたのは、虚しいノック音だった。


 九つの影が迫りくる。

 アリスは銃を投げ捨て、収納したダガーを再度取り出す。


 敵の動きは――まだかろうじて読める。


 右から飛来する蹴りを下から掬い上げ、左から来る美女へ投げ飛ばす。

 さらに身を屈め、正面からの拳を躱す。切っ先は上に。屈伸の要領で直立し、顎へ刃を抉りこむ。


 たちまち血の翼がひらいた。


 刃は脳へ届いたか。


 たしかめる間もなく、脇へ滑るようにして美女が現れる。その足許に描かれるは円弧。


 鉄槌のごとき裏拳が、脇腹を打ちつけた。


「うぅぬ……ッ!」


 激痛を噛み殺し、堪える。

 ダガーを引き抜き、一閃する。美女の目許が一文字に裂ける。浅い。しかし視力は奪えた。


 それでも猛攻は終わらない。

 正面の美女が倒れるその瞬間、背後から現れたのは、二つの足裏だった。


 ドロップキック。


 アリスの身体はピンボールのように吹っ飛んだ。


 視界が爆ぜた。

 意識が明滅した。


 微かに感覚が浮遊していた。頼りない星の瞬きのような。


 しかしその中に、目を射るような火種がある。アリスはそれを手繰り寄せた。


 たちまち、五感が浸潤した。


 無数の理不尽の記憶が去来した。

 バースとともに涙を流した夜。

 大切な者を喪う悲しみ。

 耳鳴りの中に、愛する者の声が聞こえはしなかったか。


 アリスは歪んだマスクを放り出し、吐いた。

 口端を伝う吐瀉物を拭おうともせず、頭を振りかぶった。


 こちらへ向け、馳せる影は五つだ。


 死ねばすべてが無駄になってしまう。襲撃が失敗に終わるという意味ではない。バースとともに失い、踏みだすと決意した夜。あのとき抱いた思いが、無駄になってしまうということだ。


 バースが恋い焦がれ、アリスが心の底から慕ったあの人は、二人に未来を託した。「世界を壊して」と、そう言い残し散っていったのだ。


 マティス・クリーン社は、世界の一部であっても、世界そのものではない。そんな大それたものではない。ここはBORDERが、大願を果たすための軌跡となる場所。踏み台だ。


 怒りが燃焼した。四肢に燃えるような血液がめぐった。


「うあああああああッ!」


 アリスは吼えた。すべての感覚を背後に捨て置き、ただ誓いだけを胸に駆け出した。


 全身が軋んだ。骨が唸り、筋肉が叫んだ。


 最前の敵の首をダガーが貫いた。肩を打たれ、バゴと鈍い音が弾けた。


 構わずそのまま走り抜けた。美女の首が、ごとりと床を転がった。噴き出した血液が天井までをも赤く汚した。


 手の中からダガーがこぼれ落ちた。片腕が力なく揺れた。


 それでも踵は返さなかった。


 槍のようなハイキックが襲いかかった。

 それを屈んで避けると、床に横たわった歪んだ拳銃を手に、体当たりをしかけた。


 美女は押し倒された。すかさずその顔目がけ銃底を振り下ろす。鈍く不快な音ともに眼球が爆ぜ、眼窩が陥没した。


 もう一撃。


 美女がその腕にしがみ付き留めようとした。しかし筋肉のちぎれる音とともに、銃底は傷口へと届いた。潰れた眼球の中から、脳が溢れ出した。


 次なる刺客の気配を感じ取る。

 死体の上を転がり、振り下ろされる踵落としを躱した。


 足裏、膝、掌の三点で身体を支える。ここから如何なる反撃に転じるか。


 頭はまだ動いている。戦う気力もある。


 ところがアリスの視界は、水の膜を張ったように歪み、激痛を訴える肉体はすでに限界を超えていた。


 血がめぐり、身体を立ち上がらせようとするが、動かない。全身を覆うメカニカルスーツが、自身の肉体であるかのように錯覚する。重く、軋む。


 動いて、動きなさい……ッ!


 アリスは、心中で己の肉体を叱咤した。


 しかし願い虚しく、身体は硬直したままだった。


 ぼやけた視界の中、敵の輪郭が流動する。皮膚が風圧を伝える。


 目端に丈高い闇がはしった。


 アリスはなおも全身に力をめぐらせた。


 輪郭が蠢き、膨れ上がる。顎を掬い上げるような蹴りが弧を描いた。


「ッ……」


 アリスの全身に衝撃がはしった。

 視界が反転した。

 血濡れた天井が見えた。

 それが奇妙に感じられた。


 ワタシ、まだ生きてるのね。


 死ぬつもりはなかった。生き残ろうと尽力していた。


 しかし、生き残れると思っていたかどうかは別だった。あの脚が迫ってきた時、アリスはたしかに死を予感した。首を砕かれ、事切れるだろうと、直感的に理解していた。


 どうして生きてるのかしら……。


 戦わなければ、とは思わなかった。何故だろう。自分の役目は、もうすでに終わっているような気がした。


 その茫洋とした直感を肯定するように、視界の端から黒い塊が現れた。


「シイィ……」


〝アイちゃん〟が気遣うように鳴いた。アリスは随分と小さくなった怪物に指を這わせた。


「もう、イケない子ね……。メアちゃんのところへ行きなさいって、そう言ったじゃない……」


 口器のあたりを撫でてやると、単眼が白く濁った。瞬膜のまたたきだった。


「ホメてやれよ。そいつが来なかったら、お前死んでたぞ」


 不意に壁際から声がした。

 アリスは重い頭を横向けて、それを見た。


「……あんたこそ、死にそうなツラしてるわよ」


 死屍累々の光景に混じって、ジェンが壁にもたれかかっていた。目が合うと、血の唾を吐いて引きつった笑みを浮かべた。


「実際、死にかけたんだよ。強敵だった。ここまで来るのも辛かったんだぜ?」

「わざわざありがとね、ジェン」

「だから、礼は〝アイ〟に言えっての」


 そう言うとジェンは頭を押さえながら立ち上がった。


「どこ行くの?」


「もう少し人目につかねぇところへ移動したほうがいいだろ。新手に来られるとさすがにヤバい。そこのカワイコちゃんたち相手にするだけでも、頭が割れそうだった」


 アリスは自分が役目を果たせなかったことを恥じた。雑魚を請け負うつもりだったのに、結局助けられてしまった。


 だが、もう一つ恥の上塗りが必要らしかった。


 アリスはジェンから視線を逸らすと、言った。


「……ワタシ、動けそうにないわ」

「お前が幾らか片付けてくれたおかげで、まだそのくらいの力は残ってるさ」


 アリスは、はっとしてジェンへ向き直った。その気遣いが嬉しくもあったが、哀しくもあった。まだまだ未熟な己を責めずにおれなかった。


 けれど、それはまた後になってからでもいいだろう。今は、目を開けるだけの力も途切れてしまいそうだ。脱出してアジトへ帰るまで、他の事柄に気をとられていてもいけない。


「……珍しく男前じゃないの」

「ホレんなよ?」


 ジェンは複雑な笑みを返すと、軽々アリスを肩に担いだ。それだけで全身が痛み、吐き気もこみあげてきたが、同時に睡魔めいた安堵も感じられた。


 ジェンが走り始めた。手負いとは思えない速度だった。アリスはそれを誇らしく感じた。


「ねぇ、ジェン」

「あん?」

「適当なところにワタシを隠して」


 そう言うと、訝しむような一瞥があった。


「言われなくても、一緒に身を隠すつもりだ」

「違うの。あんたにはまだ、やってもらいたいことがあるから……」


 安堵とともに意識が朦朧としてくる。

 ここで眠るわけにはいかない。アリスは意識の手綱を探り、もがいた。


 すると、そこへジェンの返答があった。


「……そうだよな。任せとけ」


 アリスはそれに応えられなかった。ジェンが意味を理解していたのか、たしかめることもできなかった。


 不意にぱっくりと口をあけた夢の世界が、アリスを引きずりこんでいった。

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