二十二章 夢の終わり

 ぱらぱらと煤の塊が落ちてくる。それは刀の爆発によって傷ついた館から降り注ぐものだった。

 

 ブラッドの長く黒い髪は、そうしてさらに深い黒へと染め上げられていった。


 まるで、炭が人型をなしたような姿。絶望に塗りつぶされた心までもが、そこから見て取れるようである。


 ところがブラッドの心は、まだ燃え続けていた。焦燥ではなく、やはり怒りだった。


 だが、勝機は失われた。愛刀〝華焔かえん〟が散った今、マティスの硬化した肌を断ち切る術など、どこにも残されていない。


 ならばブラッドの怒りは、闘志は、なぜ燃え続けるのだろうか。マティスに奥の手があったように、彼にもまだ秘した力が残されているのだろうか。あるいは、魯鈍ろどんな男の無謀でしかないのだろうか。


 一向に攻めも退きもしないブラッドを前に、マティスは高らかに笑った。


「ハッハ! そロそろ、ケッちゃクをつけヨウか」


 裂けた脇腹を押さえながら、マティスが立ち上がる。血こそ流れているが、致命傷には程遠かった。全身から噴きあがる覇気は、未だ、対峙するブラッドを圧し潰そうとするかのようだった。


 マティスの足許で、地面が蜘蛛の巣状にひび割れた。大通りが鈍い音に満たされ、褐色の輪郭が朧に揺れた。


 彼我の空隙を埋める一瞬。

 ブラッドは小さくステップを踏み、筋肉の硬直を解いた。


 最速の踏みこみで、二者の影が交錯する。


 マティスのソニックブームが、虚空を波打たせた。


 一方、背後へ回りこんだブラッドは、一気に重心を後ろへ傾けて地を蹴った。身体が跳ね上がり、回った。脚が鎌のように弧を描いた。


 その力は恐ろしく鋭かった。骨肉のしなりが、刃のごとき衝撃波を生じさせるほどに。


 ブラッドは踏みこみのエネルギーを一切無駄にせず、この一撃の糧としたのである。


 無論、無防備な背中をさらしたマティスは、これを回避するどころか、防ぐこともできなかった。


 修羅の脚が、熾火のごとく暗く燃え上がった。


「くハッ……!」


 背を打たれたマティスは、反吐を散らし、たたらを踏んだ。スーツは一瞬にして灰と化し、肩甲骨が割れるように痛んだ。


 ブラッドは反動で数メートルも離れたところに着地した。


 しかしマティスは、ほぼ無傷だった。肌が裂けることも、痣が滲むこともなかった。


 傷を受けたのは、ブラッドのほうだ。

 襤褸に隠された脚は、皮下で出血を起こした。痛みが燃え上がった。


 にもかかわらず、果敢に再度距離を詰めた。


 マティスが裏拳で反撃に出たとき、すでに、その身体は足許へ滑り込んでいた。視線は敵の胸を見上げていた。


 唇に鋭い犬歯がめりこみ、赤い膜が張られた。

 ブラッドはそれをふきだした。


 小さな血の霧が、純白のスーツを鮮やかに染めあげ、その肌までも斑に濡らした。


 マティスは訝しんだ。その真意に、すぐには気づかなかった。この期に及んで、スーツを汚す〝雲渡り〟に小さな怒りの火種が生じただけだった。


 マティスの足が地を離れた。膝蹴りで迎撃しようというのだ。


 ところがその時、膝に打たれたのはマティスのほうだった。こめかみに痛みが爆ぜた。


「ッ……!」


 視界が白んだ。

 朧の中に、敵の影を探した。


 紅蓮の眼差しだけが光って見えた。


 それを頼りに拳を繰り出すが、すでに相手の掌打が胸を打っていた。輪郭を取り戻す視界に、地を踏みしめる〝雲渡り〟の姿。


 鉄壁の肉体が押し返される。肌を裂かれ、血をしぶくことこそないものの、衝撃が肉を打ち、内側から揺さぶられるような不快感や痛みがある。


 手刀を切ると、修羅の肉体が血しぶきとなって爆ぜた。


 マティスは莞爾かんじとしたが、すぐに違和感を覚えた。手応えが返ってこなかったからだ。


 それだけではない。


 すぐ近くから識者シキシャの気配を感じた。


 ハッとして見下ろすと、黒い影が、今まさに足許を掬い上げようとしていた。


 速い……ッ!


 視界が反転した。と同時に、腹部へ鈍い痛みがはしった。

 踏みしめる地面を失くしたマティスは、上下逆さのまま蹴り飛ばされた。


 着地する間もなく、眼前に紅の目が光った。掌打が螺旋を描き、執拗に腹部を狙った。


 痛みが僅かに強まり、身体はさらに後方へ弾き飛ばされる。風景が伸びるように遠ざかった。〝雲渡り〟の姿も遥か向こうに取り残される。地を蹴り、距離を詰めようとするが遅――跳び蹴りが腹に刺さった。


 そうか……!


 ようやく解りかけてきた。


 ブラッドには瞬間移動の能力がある。初めて拳を交わしたとき、奴は突如バスタブの中で消失した。


 街の中を追ってくるときも奇妙な軌道をとった。奴は、投げた刀の許へ出現したのだ。


 だからこそ刀を蹴り飛ばす際には、奴が瞬間移動してこないのが不可解だった。


 マティスは血に濡れたスーツを一瞥した。


 これがそうか。


 三度目の追撃を腹に受け、マティスはスーツを破り捨てた。さらに地面へ指を突き立て、無理やり静止した。


 その顔面に膝が突き立てられた。


 その攻撃は予期していた。不格好な姿勢のまま堪えた。僅かに後退させられるが、それだけだ。無様に吹っ飛ぶことはなかった。


 しかしそれは大きな隙をさらした。


 ブラッドが口に含んだ血を、その肌へ直接ふきかけた。胸が血の色に彩られた。


 修羅の猛攻が始まった。


 なす術がなかった。強化状態に移行した今では、どうしても初動が遅くなる。〝雲渡り〟はそれを見切っている。瞬間移動を用いた間断ない連撃は、もはや妨害の余地を残さず、逃げることすらも許しはしなかった。


 ところが、マティスに焦りはなかった。


〝雲渡り〟の攻撃に一切のダメージがないからではない。徐々にではあるが、肉体は損傷してきている。衝撃は確実に体内へ届いている。この状態が続けば、いずれ殺されるだろう。


 だが、この状態は長く続かない。


 識者の常人離れした聴力は聞いている。

 この肌を打つ掌が、脚が、看過できぬ反動に瓦解してゆくのを。


「ハッハ……!」


 マティスは勝利を確信し、打擲ちょうちゃくの雨にさらされながら空を仰いだ。


 そこに愛しい己の分身があった。スモッグ雲の蓋する空を塞ぐような巨大で美しい館だった。


 それは半身を慈悲深く見守るように、常に頭上にあり続けた。

 空がボボボと唸り始めた。


                 ◆◆◆◆◆


 突如、打ちあがった火輪。未だ天空を侵し続ける館。


 フロントガラスをぶち破り跳びだしたジョエルは、膨れ上がる闘争心に期待を重ねた。


 あれらがなにを意味しているのかまでは解らない。だが彼には、そもそも、それを追究しようという気概などなかった。そんなことは、彼にとって、道端のクソほども価値のないことだからだ。


 重要なのは、あれらの出現に、間違いなく識者の力が影響しているということだけである。


 意味もなく、あんな大規模な力を使うバカはいない。識者同士の戦いが起きていると考えるべきだった。


 となれば、一方が〝雲渡り〟である可能性は非常に高い。館の存在は、戦闘の継続を裏付けている。


 問題は、いつ決着がつくかだ。


 スモッグの流れを裂きながら疾走しているこの間にも、死闘の趨勢は一つところへ収束しようとしているのかもしれない。急がねば、逃げられる。あるいは殺される。


 そんなことを許しはしない。平和な日常などクソ食らえだ。


 幸い、識者の速力から鑑みれば、さしたる距離ではなかった。ものの数分もせぬうちに辿り着けるだろう。


 半身に燃えるような血をめぐらせる。障害物を蹴り、加速し、滞留する熱を放出しながら、また血液をめぐらせる。足が地面をとらえる度に、ジョエルは閃光と化し、長い残光の尾をひいた。


 館はみるみるうちに近づき、商業区の摩天楼は背後へ追いやられた。警邏隊のサイレン音が、正面からぶつかってくるように感じられた。横道で閃いた回転灯が、莞爾としたジョエルの相貌に赤いフラッシュをたいた。


 やがて地上を覆う影の中に、ジョエルもまた呑まれる。


 皮膚がひりひりと痛んだ。日焼けを炙られるような心地よい痛みだった。


 識者だ。


 毛の一本一本までもが、かすかな痛みを訴え「あっちだ」と警戒の声を上げる。


 その気配は二つ。

 鋼を打つような鈍い音とともに、気配はさらに濃厚になる。まるで臭気さえ感じられてくるように。


 高揚が脈を打っていた。ジョエルは己の力を拳の中に握りこみ、鋭い犬歯をむき出した。


 それとほぼ同時、識者の姿を捉えた。

 小さく褐色の背中が見えた。明らかに〝雲渡り〟のものではなかった。


 では、件の〝雲渡り〟はどこか。


 どこにも姿が見当たらない。


 褐色の識者は、腕を交差させて防御の構えを取り、黒々とした影を浮遊させているだけだ。敵対する者の姿が見えない。


 ところが、感覚は告げている。二つの識者の気配を。


 どこだ……?


〝雲渡り〟の姿を探しながら近づくと、あちらも接近しつつあることに気づいた。防御姿勢のまま。こちらに背を向け、駆けるような速度で。


 ジョエルはそれをさらに怪訝に感じた。


「おい、止まれ! 治安維持局だ!」


〝雲渡り〟は、ここにいないのかもしれない。褐色の識者は被害者ではなく、加害者かもしれない。テミスが執行すべき敵であるのかもしれない。


 それならそれで結構だ。ジョエルは殺戮を愛している。その快楽に酔いたいのだ。


 それでも、敵意があるかどうかは明確にしておかなければならなかった。理由もなく識者を殺せば、ジョエルのほうが執行対象とされてしまう。社会を敵に回すのも面白そうだが、血溜まりの中で惨めに朽ちたくはない。


 褐色の識者は、返事もなくさらに近づいてくる。摩擦で地面が黒く焦げてゆく。

 その周囲には、黒い影が揺らめき続けている。虚空にマントが舞うように。ごおごおと風を切りながら。


 ジョエルはそれを奇妙に感じ、目を凝らした。


 すると影の中に、赤い残光が閃くのが見えた。

 褐色の識者からは、絶えず重く鈍い音が鳴っていた。


「……まさか――」


 ジョエルはステップで適切な間合いを保ちながら、さらに注意深く影を窺った。


 やはりそこには、時折、赤い光が混じった。影の輪郭は曖昧で、霞のようだった。スモッグの灰を帯びた景色の中に、それがじわりと融けこむ。融ける度に音が弾け、虚空が赤く膿む。


 そのさらに細分化された一瞬、視覚のフィルムに刻まれたものを、ジョエルはついに認めた。


「見つけたぞ、クソ野郎……」


 血の華だ。〝雲渡り〟が力を発動する際に見せる刹那の幻。


 ジョエルは、高揚を推進剤に、すぐさま踏みこもうとする。


 影の中の殺意が、ぎらりと鞘走った。


 肌が粟立った。微かに痛みを訴えるようだった。


 だが、それは〝雲渡り〟に対する畏怖ではなかった。背後に、三つ目の気配が感じられたのだ。


『やっと見つけたぞ……』


 声が忍び寄った。


 ジョエルは舌打ちし、ステップを踏んだ。そうして声の主の隣に立った。

 蒼い燐光をまとった猫背の男が、上目遣いによどんだ視線を寄越した。


『勝手に出歩くな。出動命令だ』


 陰気な声でそう告げたのはガフォンだった。


「だろうな。あいつを狩れってんだろ?」


 ジョエルは、今まさに褐色の識者に猛攻をかける〝雲渡り〟を一瞥した。攻めるべく重心を前へ傾ける。


 しかし、それをガフォンが引き留めた。


『馬鹿が。お前の耳は飾りか?』

「アン?」


 苛立ち睨みつけると、ガフォンが空を指さした。


 つられて見上げると、館がある。注意が分散し、五感が広く情報を取り入れようとする。ボボボと唸るような音が、遠く近づいてくるが判った。


 その出所を探ると、すぐに見つかった。遠方の空から、紺青の機影が接近していた。ヘリだった。


『執行対象は館だ。早急に破壊せよ、との命令が下った』


「は? 館だぁ?」


『あれには実体がある。その上、商業区へまっすぐに進行している。あの高さでは、企業群を破壊する恐れがある』


 ジョエルは館を睥睨し、唾を吐き捨てた。

 そのほど近くを、褐色の識者と残像と化した〝雲渡り〟が通過していった。


「あれが班長たちを乗せてんだな?」


 ジョエルは怒りを噛み殺し、努めて冷静にヘリを顎で示した。


『ああ。このバカげたサイズだからな。全員で対処する必要がある』

「クソが! どうせてめぇは出動しねぇんだろうが」

『俺は戦闘員ではないからな。とにかく用は伝えた』


 そう言うと、ガフォンの輪郭は急速に縮小した。手のひらに収まるほどの光の球だけが、そこに残された。


 ジョエルはそれを乱暴に殴りつけた。しかし、拳はむなしく球を通り抜けた。球はそれを嘲笑うように震え、ひとりでに商業区へ向け飛翔した。


 取り残されたジョエルは、怒りに震えながら、地を蹴り、壁を蹴り、建物の屋上へ立った。握りこんだ期待は、すっかり怒りに塗り替えられ、ひりひりとした熱をもっていた。


 力任せに、さらに強く拳を握りこんだ。指の間から血が滲みだした。紅玉のように鮮やかな血だった。


 否、それは血ではない。


 手中から絶え間なく溢れてくる。沸々と煮え立ち、ボゴ、と粘ついた泡が弾ける。胎動するようにゆっくりと明滅する。溶岩である。


 ジョエルの腕は、たちまちその熱に融かされた。だが、溶岩はこぼれ落ちるわけでなく、腕の形を保ちながら、緩慢に流動するのだった。


「待ってろよ、〝雲渡り〟……。すぐにぶっ壊してやるからよおおおッ!」


 憤怒にとり憑かれたジョエルは、溶岩の腕を天空へと伸ばした。


 その瞬間、溶岩は中から巨大な泡を噴き、膨れ上がって無数に枝分かれした。数瞬の間もなく、縄のごとく編み直され、再び激しく泡を噴いた。溶岩の大樹がスモッグ雲を貫いた。大気が熱に悲鳴を上げた。


 その頃、テミスのヘリが館の壁上に三つの影を落とした。


 たちまち館の一部から、爆ぜるような粉塵が舞い上がった。

 テミスの三人は、館の壁上で、踊るように破壊活動を開始した。


 無数の拳が壁を殴りつけた。ガラスの蛆が窓を食い散らした。突如、飛来した巌が屋根を穿った。


 それでも館は止まらず、進行を続けた。地上に瓦礫の雨が降り注いだ。


               ◆◆◆◆◆


 並走するコニアへ向けて、メアはスナイパーライフルを押し付けた。


「ちょっと持ってて!」

「ええっ?」


 素っ頓狂な声を上げたコニアは、しかし、その細長い筒状の武器を受け取った。


「ちょッ……!」


 抱えてみると恐ろしく重かった。危うく転びかけたほどだ。よくあの細腕でこんなものを軽々持てるものだと思う。


 一方、ライフルを預けたメアは、胸もとから携帯端末を取り出すと、大仰に舌打ちし、足を止めた。そして振り返り、コニアを睨んだ。


「え?」


 わけが解らなかった。ライフルをもってやったのに、どういうわけか睨まれるのだ。


 さらに不可解なことは続いた。


「ちょっと失礼」


 ずかずかと歩み寄ってきたメアは、一言そうことわりを入れると、躊躇なくコニアのスカートをめくり上げたのだ。


「え、はっ?」


 悲鳴よりも戸惑いが先にでた。先の太陽を見た影響で、頭をやられてしまったのかと不安になった。


 だが彼女は、裾をつまみ上げたかと思うと、すぐに手を離して言った。


「……あったわ」


 怪訝に思いながら、コニアはそれを覗き込んだ。


 メアの指先に摘ままれていたのは、小指の第一関節にも満たない大きさの機械だった。四本の脚が備わっており、円筒状の頭部がある。


「なにこれ?」

「電波を妨害する機械。私が仕かけた」


 コニアは耳を疑った。


「え、なに、どういうこと?」

「気にしないで」


 そう言うとメアは〝ニューサンス〟を放り出し、ブーツの底でにじり潰した。


 コニアはおもむろに額へ手を当てた。


 顔を上げた時には、メアはすでに端末を耳へ押し当てていた。どうやら通話が目的らしい。先の機械を破壊したのは、このためだったのだ。


 まだ腑に落ちないことは多かったが、あえて訊ねなかった。訊ねたところで、答えてくれるとも思えない。自分と彼女の間に、大きな隔たりがあるのは解りきっていた。


 けれど、預けられたライフルの重みに、彼女との繋がりを感じてもいた。決して踏み越えることのできなかった他人との距離。彼女のそれには、ほんの少し踏み出せたように思えるのだ。


 やむを得ず彼女がそうしているのだとしても、頼られるのは存外気分の良いことだった。これまで捨ててきたものの感触が、じんわりと指先にまで沁みた。


「もういいわ、コニア。ありがとう」


 いつの間にか、通話は終了していたようだ。差し出された腕に、コニアはライフルを返した。


「じきに私の仲間が来る。あなたはもう逃げたほうがいい」


 決然とした声が言った。強い眼差しがあった。

 有無を言わせぬ力を感じた。


 いよいよ、彼女との別れのときがやってきたのだと、コニアは察した。


 破天荒な行動。身のすくむような怒りの眼差し。


 コニアはそれらを名残惜しく感じた。ようやく手にした温もりは、気づいた瞬間、手離さなくてはならない儚いものだった。


 しかし、コニアは頷いた。


 ただ一言、踵を返したその背中に訊ねた。


「……あんたの名前教えてよ」


 彼女が肩越しに振り返った。


「ミール・ハチェット」

「違う。本当の名前、あるんでしょ?」


 コニアは潜入の心得など知らない。ただ直感的に、その名が彼女のものでないという確信があった。


 ややあって返ってきたのは苦笑だった。


 それが答えなのかもしれなかった。

 寂寞としたものが胸を過ぎった。


 その時、微かな吐息が鼓膜を揺らした。


 目が合った。燃えるような眼差しと交わった。怒りの色ではない。知らない色彩があった。


「……私はメア、メア・ギャビントン」

「メア……ギャビントン」

「そう、それが私の本当の名前」


 コニアは舌の上で、その名を何度も転がした。なんだかよく分からないけれど、優しい温もりを感じられるその名を。


 そして、もう一つだけ訊ねることにした。


「あたしたち、また会えるかな?」


 それにメアは目を伏せて答えた。


「たしかなことは言えない」


 コニアは肩をすくめる。予想通りの答えだったからだ。それを裏切って欲しい気持ちはあったけれど、好かろうと悪かろうと、夢はもう醒めたあとだ。現実の言葉は、耳に心地よく感じられた。


 ところがメアは、身体ごと振り返って、コニアを抱擁した。その唇が耳もとで弾けた。


「だけど、生きていればきっと会える」


 今度こそ、それがメアの最後の言葉となった。


 踵を返し去ってゆく背中を、コニアは茫然と眺めることしかできなかった。


 ただそのあとには、彼女の言葉と温もりが残った。涸れ果てて見える未来に、踏み出す勇気が湧いてきた。


「……またね、メア」


 コニアは、彼女から離れるように駆けだした。

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