二十三章 愛してる

 全身がバラバラになるような反動に耐えながら、ブラッドはひたすら乱打を続けていた。


 そこにはもう思考と呼べるほどのものは残っておらず、心身を焼くような熱と、それを吐き出す呼吸だけがあった。


 ブラッドはその循環を、どこか深いところに感じていた。


 敵を怯ませ後退させるため、どこに掌打を打つべきか、反動を最小限に抑えるため、どの程度の力が求められるのか。


 そんなことは考えなかった。

 肉体はただひとりでに、脳の支配を離れ、動くだけだ。


 真に意識すべきは、やはり呼吸。そのタイミングが僅かにでもズレれば、体裁きにも淀みが生じてくる。


 真っ先に血を噴きかけられなかったのは、そのためでもあった。刀を用いた的確な力と軌道を維持するために、噴くという行為はリスクが大きすぎたのだ。まして、強化状態のマティスの一打一打は、肌をかすめるだけでも致命傷が予想されるものだった。細心の注意を怠れば、血の噴水があたりを真っ赤に染め上げていたかもしれなかった。


 つまり、〝華焔かえん〟を失ったあと、懐に跳びこみ血を浴びせたのは、ほとんど賭けだった。マティスがその意図に気づき、一拍でも速く腕を一振りしていれば、勝敗は決していたのだ。


 ひとまずその賭けには勝った。


 館に実体があり、常にマティスの頭上を浮遊しているという仮説は、間違いではなかった。ゆえに、こうして衝撃を与え、後退させ続けることで、テミスを館へ誘導することにも成功した。


 問題は、最後の賭けに勝てるかどうかだ。


 館が奴の能力の媒体なのか否か。


 もし、否のカードがめくられれば、死を避ける術などありはしない。


「……ッ」


 骨まで刺すような痛みに耐えながら、なおも打ち続ける。マティスはその一打を受ける度に、鈍い音を鳴らし後退する。


 二者の攻防は、すでに居住区と商業区の境に達しようとしていた。


 聡い市民が声を荒げ、避難を煽っていた。吹き荒ぶ嵐は、容赦なく周囲に存在するものへ破壊の舌を伸ばした。燃え盛り砕け散る空からは、瓦礫の雨が降っていた。


 押っ取り刀で去来した数機のヘリが、避難を呼びかける音声と、胸をざわつかせる恐ろしげな警報音を鳴らし始めた。世界が終わろうとしているかのようだった。


 ブラッドは、さらに敵を打つ。一方の掌は骨まで砕け、中で肉をズタズタに裂いた。


 打つ。無事な掌も燃えるような熱をもっていた。腕がギリギリと締め付けられるように痛み、軟骨が擦り切れた。


 蹴る。足裏だけでなく、背までが爆ぜて四散しそうだった。臓物が痙攣し、呼吸を乱した。


「ぬがァ……!」


 そのとき、不意にマティスが喘いだ。袖も手甲も失われ、むき出しになった一方の腕が、元の色を取り戻し始めていた。


 二人の周囲を広く切り取った影は、もうずいぶんと小さくなっていた。瓦礫が通りを果てしなく埋めていた。


 ブラッドは最後の賭けにも勝利した。

 館は強化状態を維持するための媒体だったのだ。


 ブラッドは、さらに打ち込んだ。

 強化の解けた肌が、破砕の音色を奏でた。


「クああァ……ぐッ!」


 褐色の肌は、今やまばらだ。元の敏捷さは、まだ取り戻せていない。


 たたみかけるべきは今だ。


 しかしその時、ブラッドは地上に立っていた。


 その脚がくずおれた。かろうじて、膝だけが身体を支えた。


「ううぅ、っがッ……!」


 マティスが痛みに喘ぎながら防御を解いた。

 腕の中から現れた顔は、半分だけが褐色に染まったままだ。瞼をもった目が見開かれ、ちぐはぐな笑みが浮かんだ。


「ハッ……ハ」


 ふらつく足で、マティスは歩み寄った。間断なく繰り出された連撃で、そこここの肉が断裂を起こしているようだった。


 それでもマティスには、とどめの拳を振り上げるだけの力が、未だ残されていた。


「これデ……貴様は、私のものダ」


 マティスが両手を組んで振り上げた。


 怒りの眼差しが見上げた。


 識者シキシャの背後に、遠くその城が窺えた。美しい女たちを玩具とし、貶めてきた牢獄がそびえたっていた。


 胸の中には、暗い炎が燃え続けている。それが四肢にまで行き渡り、動けうごけと叫びに変わる。


 けれどブラッドの身体は、微かに震えただけだった。


 動け……まだ死ぬな。


 スローモーションの視界の中、脳がまばらに記憶を投射した。


 両親を殺した感触。手許に残された〝華焔〟。裏切りを知る心。支配者に燃える怒り。


 ここで命を落とせば、それらの正体を見出すことは、ついに叶わなくなる。


 走馬灯は死を宣告するのではなく、むしろ「ここで終わっていいのか?」と問いかけるようだった。


 それでも身体が動き出すことはない。


 ただ、なぜだろうか。違和感があった。


 この期に及んで、なにかを思い出したのだろうか。身体が動かないことが、そんなにおかしなことなのだろうか。


 あるいはマティスのまばらに染まった肌が奇妙なのか。奴の城になにか変化があったのか。


 ブラッドは違和感の正体を探した。与えられたすべての情報をかき集め、なけなしの意識を凝らした。


 そして見つけた。


 遠くそびえる摩天楼。

 傀儡の実のなるマティスの大樹。

 その壁面に、およそありえない突起が生じているのを。


 それは、まるで建設途中で投げ出された連絡通路のようだった。あるいは、子どもが誤って付け足した粘土のオブジェのようだった。


 だが無論のこと、マティス・クリーン社に、あのような誤りが放置されるわけがない。


 あれは――ジェンだ。


 さらに目を凝らした。その異様な横向きの柱へ向けて。

 その先端に黒い影が蹲っているのが見えた。


 ブラッドは、それが何者かを知っていた。


 あの奇妙な邂逅を果たした夜、ほんの半日ばかり前の暗闇の中で、女が言っていた。


『……私はBORDERという組織の一員。仲間とともに識者を狩っているの』


 そう、BORDERだ。

 ブラッドと同じく識者を狩る者。


 そこにもう一つの言葉が去来する。


『――知っていて欲しいんだ。俺たちのように識者に抗う奴がいるんだってこと』


 胸のうちでなにかが爆ぜる。それが四肢に循環する。メキメキと全身が軋む。


 鉄槌のごとく振り下ろされる拳を、まっすぐに見据える。


 それを知ってなんの意味がある?


 ブラッドは、記憶の中のジェンに同じ問いを投げつけた。同じ答えが返ってきた。


『勇気が湧くかもしれねぇ』


 言葉が心身に浸潤したその刹那、ブラッドは地面を叩きつけていた。それが疲弊し傷ついた身体に、回転の力を与えた。


 無様に横回転したブラッドの顔のすぐ隣を、全体重をのせたマティスの拳が叩き割った。


「なッ……!」


 さらにその直後である。


「ぐはぁッ!」


 ギャリと鋼を削るような音が轟くのと同時に、マティスがのけ反り、背中から血を噴いたのだ。


 ブラッドは、それがどこから飛来した攻撃なのかを瞬時に見抜いた。


 マティスも、その正体に気づいたようだった。足許が弧を描き、振り返った。その眼差しが歪な横向きの柱を射抜いた。


 ブラッドは跳んだ。

 その胸に燃ゆる炎に、己をくべようとでもするように。


 伸ばされた脚が弧を描き、総身が火車と化し、今、全身全霊をかけた最後の踵落としが振り下ろされる。


「逃がさんぞ、マティスッ!」

「ぐあああああッ!」


 絶叫とともに、マティスの足が地に沈んだ。放射状に衝撃波が吹き抜けた。


 そして遠く離れた突起の先端。

 瞳に憤怒を燃やした女が、すべてを終わらせようとしていた。

 

 吐き出された薬莢が、緩やかに弧を描いていた。


 ミチェス。


 メアは親友の名を心中に呟く。この引き金に結びつけられた運命が、人ならざる者と化した彼女の軛を砕くことを願って。


 銃口が火を噴いた。


 人口眼球によってズームアップした視界の中、マティスが胸を押さえた。遅れて血の塊が吐きだされた。一方の手が虚空を掻くように彷徨った。


 その指の一本一本に、金糸がまとまわりついた。朽ちかけの館から伸びる糸だった。


 マティスの身体が、不意に、その糸に引き上げられた。

 相貌に屈辱と恐怖がはりついた。


 次の瞬間、かろうじて門の体裁をとっていた闇が、マティスを呑み込んだ。


 門はそうして主を食らうと、満足したように闇を閉ざした。輪郭が霞み、やがて無機質な風景と融け合うようにして消えた。


「……終わったな」


 いつの間にか隣にジェンが立っていた。その向こうには掌にのった〝アイちゃん〟を撫でるアリスの姿。


「まだ一つだけ、残ってる」

「そうよね、なんとか逃げなくちゃ」


 疲れた様子でアリスが言った。


「ううん、違うの。……ミチェス。ミチェスが」

「そうだな」


 答えたのはジェンだった。彼は深く訊ねようとはしなかった。ただミチェスが生きていたと、それだけを伝えてあったが、なにかしら悟った風な気配があった。識者として生きてきたジェンには、この先に待つ非情な現実が見えているのかもしれなかった。


 それでもメアは、行かなければならなかった。


 親友を、牢獄に置き去りにはできない――。


                  ◆◆◆◆◆


 彼女の前には闇があった。

 ただ果てしない闇だけがあった。


 そこには光もなく、声もなく、匂いもなかった。

 彼女は自分が何者であるかさえ知らなかった。知る必要があるとも思えなかった。


 闇の中に浸り、そうして永遠を過ごすうち、すべてが平坦な無へと変わってゆく。だから自己など必要ない。


 そんな確信があった。


 にもかかわらず、闇の中には苦しみがあった。


 その正体など解らなかった。


 ただ温かいものを、傷つける感覚があった。愛するものを貶める感覚があった。


 彼女はそれを拒み続けてきた。

 けれど、できなかった。


 彼女は、耐え続けるしかなかった。いずれ訪れるはずの無に、疑問を抱きながら。


 早く、早く消して。私を消して。


 彼女は願った。そればかりを願った。もはや流すことのできない涙を陰鬱と溜めこみながら、終わりのときを待ち続けた。


 ――長かった。とても長かった。


 終わりなどないのかもしれない。苦しみは永遠かもしれない。そう絶望するほどに、長いながい苦痛を味わってきた。


 けれど、その苦しみも終わるのだと、今、確信的に思うのだ。

 

 この世界のすべてだった闇は、今や身をすくめるようにして、遠くあるばかりだった。突如、闇を白い穴が穿ち、眩い光を溢れ出させたのである。彼女はそこへ吸い込まれようとしていた。


 その向こうに、なにがあるのかは解らない。ずっと欲してきた無なのか、あるいは幸福だけの待つ楽園でも広がっているのか。


 行ってみなければ解らない。


 今頃になって、恐れがやってきた。またあんな苦しみに苛まれるとしたら――そう思うと怖かったのだ。


 しかし彼女は、支えられていた。


 彼女が傷つけたくないと思った温もりが、すぐ傍にあるのを感じていた。

 それがそっと背中を押してくれるような気がした。


 恐れが泡のように消えていく。


 彼女は闇の中を振り返る。


 しかし温もりに形はないようだった。


 だから「ありがとう」と、それだけを告げた。


 すると、音のない世界に、果てなく声が響き渡った。


「愛してるわ、――」


 彼女はそれを胸に抱きながら、白い光の中へ融けて消えた。


                ◆◆◆◆◆


「……これでよかったんだな?」


 ジェンは弟子の悲愴な背中に訊ねた。

 硝煙のにおいは、こんなにも目鼻に痛かっただろうかと思いながら。


「当たり前じゃない……。ミチェスは、私の家族だもの」


 答えたメアの声は、ひどく震えていた。


 メアの足許には、血溜まりの中に倒れた美女の姿がある。いや、少女と言っても差し支えない、可憐な女の肢体が、無造作に投げ出されているのだ。


 マティスの死によって、美女たちの活動は停止した。


 しかし彼女らは、暴君を失ってなお生き続けた。簡単な命令を与えられれば、その通りに動くのだ。マティス・クリーン社には、死にながら死ぬことすらできず、ただ下される命令を待つばかりの人形が、大勢残されたのである。


 だからメアは、その残酷な軛を、自らの手で絶つ決意をした。親友の額に向けて、引き金をひいたのだった。


 その純朴な魂が天に召されるように。


「……行きましょう」


 親友の遺体へ踵を返したメアは、毅然としたものだった。マスクの奥に隠された素顔までは、識者にも窺い知ることはできなかったが。


「まあ、待てよ。その子、ここに置いてくのか?」


 訊ねると、刺すような視線を感じた。


「墓でも建てようって言うの? そんな場所、オルニのどこにもないわよ」


「どこにでも建てられるさ。いや、建てられなくても、埋めてやるくらいのことはできる」


「どうやって?」


「俺の〝継接パッチワーク〟がある」


 メアがはっとして瞬いた。

 ジェンは肩をすくめてみせた。


「三人も担いで逃げるのは大変そうだけどな」

「うだうだ言ってんじゃないわよ。女の子三人くらい軽いもんでしょ」


 アリスが肘で小突いてくる。


「お前は男だろうが。それに筋肉質で重いし」

「ちょっと、なによっ!」


 小競り合いが始まった。普段通りの光景だった。ジェンとアリスは、なにかと口論になることが多いのだ。今は二人のそんな滑稽な姿が、心底ありがたかった。


 メアは二人に苦笑を投げ、親友の前へ屈みこんだ。


 抱き起こすと軽い。血液が抜けたためだ。だがしかし、それは彼女の魂が呪縛から解き放たれた証でもあるような気がした。


 親友を抱いて立ち上がり、メアは改めて言った。


「ほら、ケンカしてないで。帰るわよ」

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