エピローグ

 ぱたぱたと子どもの駆けるような音がしている。


 有害物質を含んだ黒い雨。

 それがカロン・シティを一層暗く、暗鬱に染め上げるその日、メア・ギャビントンは、裏路地に設けられたテントの中で手を組み、祈りを捧げていた。


 信仰する神がいるわけではない。


 今、この時代に残された神の歴史は、ほとんどが改竄されたものだ。教団には識者シキシャの懐が厚くなるよう搾取体制が敷かれており、信者が奇跡や恩寵を賜ることはない。真実の神はなく、欺瞞ばかりが溢れている。それが今の世の中なのだ。


 だからメアの信じるものは、神ではなく己自身だった。あるいは、この心の揺れ動く相手だった。それはBORDERの仲間たちであり、天へ召された親友であり、あるいは生死不明のまま姿を消した〝雲渡り〟であった。


「人のために笑い、人のために泣く世界を」


 目を見開き、誓いを固く結ぶと、シートの被せられた地面を見下ろした。


 ここにミチェスの亡骸が埋まっているのだ。

 決して、清潔でも開放的でもない。だが、荒らされることもない静謐な場所と言ったら、ここくらいしか思い浮かばなかった。


 ミチェスに別れを告げ、胸を軽く叩いて己を鼓舞し、テントから這い出す。途端に雨が、一つ目モノアイヘルメットやラバースーツを打って、不協和音を奏でた。


 壁に切り取られた黒々とした空を見上げ、メアはひと月前の出来事を反芻する。


 ここで〝雲渡り〟と話をした。


 彼はどうなっただろうか。


 マティスを討ったとき、辺りにはテミスの連中がうろついていた。メアたちはわざわざ迂回ルートを通って逃亡したが、〝雲渡り〟のその後についてはなにも知らない。


 もし、今も生きているなら――。


「……一言、お礼が言いたいわ」

「俺もだ」

「えっ?」


 突如、降りかかった声に、心臓がどくんと脈打った。


 振り返ると――しかしなにもない。今しがた出てきたテントが、雨を弾いて震えているだけだった。


 メアは小さく嘆息する。


 すると、頭上で小さく鉄を打つような音が聞こえた。


「なに?」


 見上げると、むき出しのダクトが振動していた。


 咄嗟に表通りのほうへ向き直った。


「……」


 そこに漆黒のローブをまとった人物が立っていた。フードの中から覗く目の色は、血のように濃い紅だった。


 メアは息を詰まらせた。


「……生きてたのね」

「無論だ。俺が捕まれば、街頭モニタも広告ドローンも騒がしくなるだろう」

「それもそうね……」


 そんな単純なことに思い至らなかった自分を恥じる。


 すると〝雲渡り〟が小さく肩を揺らした。


 メアはそれを意外に見つめた。


「……あなた、笑えるのね」

「無論だ」


 相変わらず、妙な話し方をする人だ。メアもおかしくなって笑った。


「今日は、礼を言いに来た」

「あら、幻聴じゃなかったのね」


〝雲渡り〟は、当惑した様子には気づいていないようだった。ただ小さく顎を引き「感謝する」と告げただけだ。


 メアは小さくかぶりを振って応えた。


「感謝するのは私のほうよ。あなたのおかげで、私は復讐を果たせた。親友を取り戻すこともできたわ」


「復讐? 親友?」


 事情を知らない彼にとっては、解せない言葉だっただろう。自分も妙な話し方をする、とメアはまたおかしくなって笑った。


〝雲渡り〟はその様をじっと眺めてから、おもむろに唇を湿した。


「……俺は、仲間を必要としない。一人で識者を狩ってきた。これからもそうするつもりだ。だが、あの日、俺はお前たちから力を与えられた」


 〝雲渡り〟は、そう言うと掌を見下ろした。そこになにか宿っているかのように。


「必要としない。必要とはしないが、興味は湧いた。今日は礼の他に、訊きに来た。お前たちがなぜBORDERを名乗るのか。世の境界を絶とうとする者が、なぜ自ら境界を名乗るのか。知りたくなった」


 メアは紅の瞳を見つめ、その中に揺れるものを見た。それは彼が戦い続ける理由だった。そしてメアが戦い続ける理由でもあった。


 人間と識者。男と女。独りと組織。


 立場は幾らか違えど、二人を動かしてきた怒りは、きっと、その言葉以上に似ていた。ただ怒り、荒ぶるばかりでなく、信じるに値するものだった。


 メアはまた一つ、この男と心を通わせたくなった。


「……BORDERは、この世の境界を絶つべく生まれた組織。そのためだけにある。だから、本当にこの世から境界が絶たれたとき、私たちもまた消えるの」


 言うと、紅の目が僅かに和らいで見えた気がした。


「なるほどな」


〝雲渡り〟はそれだけ答えて、さっさと踵を返した。

 そして、ぽつりとこう続けた。


「覚えておこう」


 行ってしまう。


 メアはその背中を名残惜しく感じた。


 不意に、コニアの姿が思い出された。彼女もこんな気持ちだったのだろうか。


 もし、そうなら――彼女のような別れ際の問いくらいぶつけても、誰も咎めたりはしないだろう。


 〝雲渡り〟の手を掴んだ。


「あなたの名前、なんていうの?」


 当然、訝しげな視線が返ってきた。面白かった。それが一層、胸の中を寂寞とさせた。


「知っているはずだ。俺はブルーデシュ。ブルーデシュ・ルカニエ」


 メアは小さく肩をすくめて、メットの中で悪戯っぽく笑った。


「ブルーデシュは長いじゃない。ルカニエって呼ぶのもかたい。もっと親しみをもって呼びたいの。あなたとは、これっきりじゃないと思うから」


 ひと月前と同じように、赤眼の識者は当惑したようだった。


 けれど、彼はまっすぐに向き直った。


 雨の音にまぎれ消えてしまいそうな声が、それでもはっきりとメアの耳に届いいた。


「……ブラッド。俺はブラッドだ」


 ブラッド

 好い名前だと思った。


 彼は識者だが、化け物ではないのだ。握った手は温かく、たしかに熱い血潮が流れているのだと判った。


「私はメア。メア・ギャビントン」


「メア」


「そう、メアよ。私、忘れないわ。あなたはブラッド。〝雲渡り〟でもブルーデシュでもない」


「ああ、俺も忘れない」


 薄らと笑みを浮かべたブラッドに、メアもまた柔らかな笑みを返した。


 そして掴んだ手を離した。


 刹那、黒い影は跡形もなく消えた。彼の温もりは虚空となった。


 だが、メアはブラッドを知った。どこかで彼が生きていることを知った。

 彼もまたメアを知った。忘れないと言った。


 背後でぱたとテントが鳴った。

 空を仰げば、黒い雫の線は、いつ間にか消えていた。



                               《第一話 完》

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BORDER 笹野にゃん吉 @nyankawa

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