四章 識者たち

 マルサラス・マティスがこの世に生を受けたとき、世界は煌びやかな光に埋もれていた。


 暗いあばら家や路上の側溝の中で悲鳴じみた産声を上げ、いずれ潰え、あるいは悲鳴さえ上げることもできず、陰鬱な社会の中で地面を見下ろすことはなかった。

 

 彼は許されていた。


 美味いミルクを飲むこと。上等な肉を頬張ること。間抜けな召使いを足蹴にすること。社内に自分好みの部屋を作ること。そこに女たちの嬌声を響かせること――。すべてを許されていた。


 それなのに――。


 マティスは今、護衛ロボットの間隙から覗く赤眼の男を睨み、はらわたの中で凝った怒りの塊を転がす。


 せっかくのお楽しみを邪魔され、部屋の大窓まで破壊されてしまった。顔に吹き付ける風の冷たさが煩わしい。識者シキシャの肉体に害がないとはいえ、汚れた空気など吸いたくはない。


「君は失礼な男だな。アポイントメントくらいとってもらわないと困るよ。ハッハ」


 普段の高笑いも、今は乾いていた。突然の識者の襲来に緊張しているわけではない。ムカついているのだ。


 すべてを満たされたマティスの世界に、土足で踏み込んできたこの男に。


 ビジネス相手になら、こうも腹は立たない。マティスにとってのビジネスは、胃を痛めながら臨むくだらない交渉ではなく、自分がこの支配体制の一部として機能していることを実感する場だからだ。


 だが、この男はどうか。


 獅子めいた怒髪天を逆立て、薄汚い襤褸で全身を覆い、白刃をこちらへと向けるこの男は。


「私は知っているぞ、君のことを。我々識者の間では有名人だからね。識者を狩る男。たしか……まあ、いいや。忘れてしまった」


 マティスが話す間、識者狩りの男は切っ先を揺らすだけで襲いかかってこようとはしなかった。護衛ロボットも相手の筋肉の緊張具合などをスキャンしながら襲撃タイミングを窺っている。


 マティスはそれを眺めながら、男をどう調理するかよりも、別型を新調しようと考えた。


 識者相手にこれではダメだ。相手を認識した時点でアタックシークエンスに移行できないようでは、識者にかすり傷を負わせることもできないだろう。


 その予想は見事に的中する。


 護衛ロボットの一体が、マティスの前面をカバーし両腕の銃剣型ガトリングを閃かせた瞬間、識者狩りの男の姿は、すでに護衛ロボットの頭部にあった。


 予想外だったのは、その一瞬で、隣のロボットの胴にまで風穴が穿たれていたことだ。


 外界から吹き寄せるスモッグがそれを覆うと、中で無数の火花が鈍く光った。ロボットはそのままベッドに倒れ、純白のシーツを焦がす。


 マティスは風のように後衛ロボットの間をすり抜けた。そこへ刃こぼれ一つない白刃が閃き、ガトリングの一本を断った。マティスが小さく肩をすくめると、ベッドに小さな火種が灯った。


「ああッ! ようやく思い出したよ」


 ベッドの炎は見る間に大きくなる。二人の識者の頬が赤く濡れる。


 天井が裏返り、大型のスプリンクラーが起動する。


 それとほぼ同時、怒髪天の男が刀を真横に振り抜いた。マティスはそれを屈んで躱す。科学の雨に濡れ、刀身の光がいや増す。二体目のロボットが、いつの間にか半身を両断され倒れた。


 マティスは男の鋭い太刀筋に舌を巻く。


 この男は、こちらを狙うようにしながら、実際は確実に戦力を削ぎ落とせるよう立ち回っている。ロボットの頭部に、あるいは背中に半身を隠し、こちらの反撃の隙を殺しながら、邪魔な火力を削っているのだ。


 いいじゃないか。


 マティスの中の怒りが、残忍な衝動へと変わり始める。


 こいつを殺したい。八つ裂きにしたい。

 そして自らの傀儡にしたい、と。


「たしか君の通り名は〝雲渡り〟だったね。科学の雲海を己が足で跳び渡り、事実、私の前にまで現れた」


 背後から斬りかかるロボットを、男は一瞥することもなく肘打ち迎撃した。軽くトンと肘を当てたようにしか見えなかったが、ロボットの胸は大きく陥没していた。そればかりでなく、振り下ろされたアームは刀によって僅かに軌道を逸らされ、床を掻いている。機体は停止。微かな内部駆動音さえ聞こえない。


 流れるような足捌き。濡れてゆくカーペットの上を行くそれは、本当にその足が流水となって円弧を刻んでゆくように映る。


 マティスは、その美しさに見惚れた。


 四体目のロボットが膝をついた。


 僅かな隙間を縫って、殺意の流れが火を噴いた。


 五体目が一刀両断され転がった。


 マティスがようやく我に返ったとき、男の口許から、微かな息遣いが感じられたような気がした。


 頬に熱が伝った。


 見れば、散らばったガラスの中に、赤い線のひかれた自分の顔がある。


「おっと?」


 さすがは狩人だ。感嘆する。


 マティスとて識者の襲撃に警戒してこなかったわけではない。社会の支配者である識者とて、一枚岩ではないのだ。中には実力行使で企業ノウハウを奪取しようとするイカれた輩もいる。五十九階に、わざわざトレーニングルームを設けたのは、そのためだ。鍛錬を欠かしたことはない。


 それが活きていると思っていた。自信があった。

 それなのにこの男は――。


「ハッハ! 実にいいッ!」


 後退を続けたマティスの背中が、ついにドアに触れた。

 左手は壁。右手もまたシャワールームを囲う壁が塞いでいる。


 逃げ場はない。


〝雲渡り〟は、最後の護衛を蹴った。ロボットはそのまま割れた窓の外に消え、〝雲渡り〟は殺意の弾と化した。


 マティスは愉快に肩を揺らし、それを迎え撃つ。


「私自身の手を汚すなんて馬鹿馬鹿しいと思っていたよ」


〝雲渡り〟の手の中で、白刃が奇妙な円弧を描いて閃いた。マティスはそれをかろうじて側面から打って逸らす。その衝撃はすぐさま回し蹴りとなって返ってくる。屈む。背後のドアが木端微塵に吹き飛ぶ。


「やはり、いいな。私の〝館〟は男子禁制なんだがね、特別に招待してやろう」


 マティスは残忍な笑みを浮かべた。


 その手が空をむしり取るような掌底を繰り出す。


 空中の〝雲渡り〟は壁に刀を刺すと、それを支点に回転し、正面から踵落としで迎撃を試みた。


 マティスはそれを掴んだ。


 そのまま壁へ叩きつけてやるつもりだった。


 だが、腕が動かない。肩が軋み、噛みしめた歯列の隙間に血が滲んでも、力は拮抗したままだった。


「ハッ……!」


 それでもマティスは、かすれた笑い声をあげていた。

 愉快だったからだ。この力を欲していたからだ。


「開け――」


 そしてマティスは、自らの中に宿った力を熾した。


「〝傀儡窟ドールハウス〟!」


 ゴオオオオオオッ!


 突如、シャワールームのドアが吹き飛び、社長室の天井の大部分が崩落した。

 たちまち膨れ上がった粉塵の中に、無数の人影が浮かびあがる。


〝雲渡り〟はシャワールームから躍り出た三つの影に脇腹を蹴られ、壁へ叩きつけられた。マティスがさらにもう一方の壁へ叩きつけると、〝雲渡り〟は壁を貫通して巨大なバスタブの中へと放り込まれた。


 そこへ五つの影が、一斉に飛びかかる。


 〝雲渡り〟は咄嗟に刀のスイッチを押しこんだ。瞬時に刀が赤熱し、温度調節されたバスタブ内の湯が蒸発する。粉塵と蒸気が綯い交ぜとなり、灰の空間が全員の視界を塞いだ。


 マティスは虫を払うような仕種で、目くらましを無力化した。


 そして端正な顔をしかめた。


「どこへ行った……?」


 シャワールーム内に見て取れたのは、皮膚を真っ赤に腫れ上がらせた五人の美女だけだった。バスタブの底は、五人の蹴りで亀裂こそ刻まれていたが、人ひとりが通り抜けられるだけの穴はあいておらず、逃げ場などどこにもないはずだった。天井を一瞥してみても、〝雲渡り〟の姿は見当たらない。奴がここへ突入してくる寸前に知覚できた気配も、もう感じられなかった。


「識者の力か」


 マティスは視線を落とした。踵落としを受けた手のひらは、僅かに擦り切れ血を滲ませている。


 しかしマティスが奴に与えられたダメージは〝傀儡窟〟によって呼び出した美女たちの蹴りと、マティス自身が奴を放り投げた際のそれだけだ。


 マティスの〝傀儡窟〟は、自分の者を奴隷にできる能力である。ただし、奴隷とした者の基本スペックは、奴隷になる以前とさして変わりがない。非識者の奴隷は、身体を多少頑丈にすることこそできても、識者を相手取るほどの超人じみたスペックまで付加することは不可能なのだ。


「ハッハ!」


 マティスは手近な奴隷を手繰り寄せ、そっとその肩を撫でた。


「よくもこの私を虚仮にしてくれたな〝雲渡り〟……」


 不意にその目が残忍な光を取り戻した。マティスは拳を握りこみ、奴隷の頭を殴りつけた。


 ベチャ!


 肉が弾け、血が放射状に飛び散った。

 頭部を失った奴隷が、ゆっくりと後ろに倒れた。


「ご無事ですか、マティス様!」


 そこへおっとり刀で駆け付けたのはネイスだった。強面の双眸を焦りに見開き肩で息をする様は、どこか滑稽だ。だがそれで溜飲が下がるわけではない。


「見ての通り私は無事だ」


 マティスはスーツの汚れを軽く叩いてみせた。


「しかし部屋はこの有様だ。すぐに〝修理屋〟を手配し直させろ。護衛もすべて壊された。あれはまるで役に立たんポンコツだったとクレアトゥールの連中にはクレームを入れておけ。もちろん、新型を用意させるのも忘れるなよ」

「承知いたしました」


 ネイスは恭しく頭を下げると、疾風の如く去っていった。


 遅れて警備の者たちがぞろぞろとやって来たが、マティスは相手をしなかった。彼は人形を片づけるのに忙しかった。全身に火傷を負って美しさを損なった人形に価値はない。


                ◆◆◆◆◆


 スモッグ霧充ち満ちる工業区の裏路地に、突如、一つの影が出現した。


 脇腹を軽くはたき、気だるそうに首を回したその者の名はブラッド。社会を支配する識者たちの間では、〝識者狩り〟や〝雲渡り〟とも呼ばれ恐れられる男である。


 彼は刀を背中の鞘へ収めようとして、不意にその手を止めた。


 ……こんなところにまで識者がいるとはな。


 ブラッドは識者の気配を感じとり、紅色の目を細める。


 とはいえ、スモッグが濃すぎる所為で、相手の正確な位置を視認することはできそうにない。


 ブラッドはゆっくりと刀を下ろし、筋肉の戒めを緩めながら、相手の出方を待った。


 すると、すぐさま相手の動き出す気配を感じた。


 だが、こちらへは向かって来ない。逃げた。


 ブラッドは躊躇なく地を蹴る。

 たちまちスモッグ濃霧に穴が穿たれた。


 あっという間に裏路地を抜けたブラッドは、人波ひしめく表通りの雑踏に衝突する寸前、もう一度地を蹴った。


 宙へ舞い上がる。

 

 背後の喧騒に悲鳴が混じった。だが、強い風に煽られて転倒した者が出てきただけだろうと、ブラッドはさして気にも留めなかった。


 どこへ行った。


 気配は感じているが、一手出遅れた所為で、距離がひらいてしまっていた。おそらく相手は、この工業区に土地勘がある。


 ブラッドは舌打ちし、弧を描きながら落下してゆく。


 しかし彼はまだ、識者への執念を捨ててはいない。


 彼は右手に持った刀の切っ先を、左手首に当て――裂いた。

 そして自らの血を吸った刃を、虚空に向けて投げ放ったではないか。


「……写しとれ〝血濡写ブラッディミラー〟」


 次の瞬間、さらに驚くべきことが起こった。


 ブラッドの身体は、身につけた襤褸や刀ごと血飛沫となって弾け消えてしまったのである。


 おかしなことはまだ続いた。


 ブラッドの投げ放った刀が速度を減じることなく真っ直ぐに――いや、時に軌道を変えながら宙を滑ってゆくのだ。


 だが、刀がひとりでに宙を翔けることなどありえない。


 ブラッドは消えたのではなく、にいるのだ。


 自身が血の華となって消えるのと同時に、ブラッドは刀の許へと出現し、それを投げ、消え、出現を繰り返しているのである。


 これが〝血濡写〟と呼ばれる彼の能力であった。


 自身の血のあるところに、自分自身と触れたものを移動させる異能の力。

 彼がスモッグ雲の中を渡る――〝雲渡り〟と呼ばれる所以である。


「……捉えた」


 人間離れした速度で、裏路地へと滑り込んだ背中は、意外なことに酸素吸入用ボンベを負っていた。頭部に光る鈍色の物体は、金魚鉢めいたヘルメットだ。およそ識者には必要のない装備である。


 ブラッドは沸々と滾る怒りを指先にまで伝えた。刀が再び手中から解き放たれ、識者の背中へ向けて閃く。


 識者は身体を反転させ、紙一重で飛来する刀を躱した。


 ところがその持ち主は今、識者の背後へと出現し、逆手に刀を掴んでいる。推進力を回転のエネルギーに転換した二の太刀が襲いかかる。


「くっ……!」


 識者はそれも前方へ倒れ込むようにして、かろうじて躱した。背中のボンベが抉れたものの、気体の噴出音らしき音はない。


 ブラッドは構わず刀を突き下ろす。


 だが相手は意外にもしぶとい。瞬時にメットとボンベを脱ぎ捨てると、横回転からのネックスプリングで立ち上がっていた。


 長身痩躯の若い男だった。どことなく扁平な顔立ちをしており、オルニの識者でないように見えるが、国籍などどうでもいいことだ。ブラッドは己が怒りに従い、識者を殺すだけである。


「おいおい、いきなり斬りかかんじゃねぇよ! あんたどっかの企業に属してんのか? ここに支社を建てるとかいう……あれとか?」


 男は飄々として言ったが、その目に油断はなかった。


 その一瞥で、こちらの装備を確認したのだと判る。なかなか手慣れている。絶対の自信に満たされたマティスとは違い、慎重で強かだ。


「……」


 だからと言って手を緩めるブラッドではない。


 答えず、斬りかかった。

 男は顔をひきつらせ、最小限の動作で躱す。素早い奴だ。


「ったく、なんか喋れよ! 守秘義務でもあんのか? それとも口が利けねぇのか?」

「……」


 やはりブラッドは答えず、返す刃で足許を刈りにいった。

 男はバックステップで距離を取り、舌打ちした。


「クソが。紡げ、〝継接パッチワーク〟!」


 男の足裏が接地するのと同時、丈高い壁が生じ視界を塞いだ。


「……ッ」


 ブラッドはたたらを踏んだ。


 怯んだわけではない。壁が出現すると同時に、足許の地面がごっそりと抉り取られていたからだ。


 識者の気配がまた遠ざかり始める。どうやら交戦の意思はないらしい。


 だがあちらになくとも、こちらにはある。


 全身に熱を廻らせるこの怒りが導くほうへ、ブラッドは進む。それになんの意味があるのかなど考えるのは煩わしい。ただ従う。怒りに従う。識者を殺し、怒りに新たな薪をくべるのだ。


 ブラッドは両手で刀を握りこみ、スイッチを押すのではなく柄を回した。


 耳障りな音とともに柄頭がひらいた。スモッグの流れが吸い寄せられ螺旋を描く。

 さらに柄を逆方向へ。


 刀身が重く唸り、赤熱する。まとわりつくスモッグの中で、パチパチと火花が爆ぜた。


 それを閃かせると、壁はバターのように容易く切断され崩れた。


 ブラッドはその残骸を蹴り、瞬く間にトップスピードへ達する。


〝血濡写〟を利用した投擲移動はしばらく使えない。刀に血液を付着させようにもすぐに蒸発してしまうからだ。

 

マティスの許から逃げ帰ってきたあとには、湯船や移動の際の風の冷気で冷やされ、なんとか血液を付着させることができたが、フルスロットルで熱した刀を冷やすには、まだ随分と時間が必要になるだろう。


「……煩わしい」


 表通りへ出ると、そこにも不自然な壁が乱立し、非識者たちは軽いパニックを起こしていた。壁は高さがバラバラで、飛び越えるにしても足場が組みづらそうだ。かと言って、これらすべてを切り崩すわけにもいかない。そんなことをすれば市民たちが犠牲となってしまう。


 これまで数多くの識者を屠ってきたブラッドだが、非識者を殺したことはなかった。


 彼自身、なぜ非識者を殺してはならないのか、十全に理解できているわけではない。また、その理由を求めるつもりもない。心が進むほうへ、彼は自らの肉体を委ねる。それだけだ。


 彼にとって世界はシンプルでいい。解らないものは解らない。そうしたいことはそうしたい。だから非識者は殺さず、識者は殺す。心の動くままに生きる。

 

 そうしてきたからこそ今、疑義の念を抱く自分に、心をかき乱されるような気がした。


 試されているような気がしてならないのだ。


 何故、奴はここに壁を作った?


 引き離すつもりなら、壁を出現させるのはここでなくともよかったはずなのだ。最初の壁のすぐ後ろに、幾重もの壁を築いておくこともできたのではないか。


 それよりも奇妙なのは、壁の大きさこそ異なるとはいえ、これらが直線的に続いていることだ。能力の発現条件は定かでないが、もしそれが使い手の触れた周囲に影響を及ぼすのだとしたら、逃げ道を教えているようなものである。


 あるいは、ブラフか。


 だが、ブラフだとは考えづらい理由もある。


 漠然としているとはいえ、識者は他の識者の気配を感じ取れる。いくら視覚的に相手を攪乱しても、大まかな位置を気配で特定されてしまっては意味がない。


 人気の多い表通りで、ブラッドがどんな追跡行に出るのか。あの男はそれを見定めようとしているのかもしれない。


 ブラッドは文字通り壁を駆け上がりながら、先程はさして気にも留めなかった疑問と対峙する。


 そもそもあの男はなぜ、市民と同じ恰好をしていた?


 市民にとって、あのような恰好をするのは普通のことだ。汚染空気を吸えば確実に寿命が縮むし、肌に長時間触れるだけでも皮膚病の発病リスクが大幅に増加するからだ。

 

 だが識者は、そんなことを気にする必要がない。


 市民の目を避けるためか?


 それも説得力に欠ける仮説だ。識者の身体能力があれば、人目を避けて移動することなど容易い。識者社会に属する者なら、上層のドローンカメラに捉えられても問題は生じないはずで、工業区においてはその目すらもない。


 そういえば……。


 ブラッドは力を微調整しながら、壁の天頂を蹴り渡る。


 あの男、オルニの者のようには見えなかった。


 表通りを抜け、ブラッドは上空から横道の一つに目を留めた。スモッグで正確に見て取ることはできないが、そこに大きな空気の乱れがあるのは一目瞭然だった。


 左右の工場からせり出し折れ曲がった歪な煙突を交互に蹴りながら、ブラッドは速度を増す。地上へ下りて行く。


 スモッグの中、輪郭が明瞭に浮かび上がってくる。


 ブラッドは刀を構え、振り抜いた。

 熱波が吹き荒れ、裏路地で絡み合った排熱パイプが歪んで煙を噴く。


 識者の男は向き直った。腕を交差させ衝撃に耐える。その腕には、先程対峙した際には見られなかった鋼鉄の手甲が装着されていたが――


「あっつ!」


 男はそれをすぐに放り投げた。


 工場の壁に刀を刺し、着地衝撃を殺したブラッドは、刀を引き抜き、冷たい目で男を睨みつける。


 男は両手をぶらぶらと振りながら、小さく肩をすくめる。


「まあ待ってくれよ、頼む。一つだけ訊かせて欲しいことがあんだ」

 

 ブラッドの中で猜疑心が刺を逆立てた。


 識者は殺すべきもので、信用すべきものではない。


 しかし彼は、すぐには踏み込まなかった。

 興味が勝ったからだ。


「ちょっと落ち着いたみたいだな。よかった」

「……」

「あー、早速訊くがよ、あんたは識者なら誰でも殺すのか?」

「……」

「非識者は殺さないのか?」

「質問は一つではなかったのか」

「どうやら、口は利けるらしいな」


 男がにやりと不敵な笑みを浮かべた。ブラッドは怒りこそ感じなかったが、苛立ちを覚えた。刀が地面にこすれる音が響く。


「おい、待てって! 話をさせてくれよ」

「識者は殺す。そうでない者は殺さん」


 もう一度男が肩をすくめる動作をした。


「独特のテンポだな、あんたの話し方」

「余計なことを言うと、斬るぞ」

「あー、分かったよ! でも、話すつもりはあるらしいな。問答無用で斬りかかってくるわけじゃないのか」

「なにが言いたい?」


 ブラッドは凄味のある眼差しで男を睨む。対して男は「まあまあ」と両手を掲げ、飄々としたものだ。


 ところがその顔から、不意に表情が消えた。


「俺が知りたいのは一つだ。あんたの目的がなんなのか。あんたが俺たちの敵なのか、そうじゃないのか。それをたしかめたい」

「識者は敵だ。俺はそれを屠る」

「なら、どうして俺を斬らない?」


 ブラッドはますます目を細め、じりと踏み出した。


 だがやがて、その首は左右に振られた。


「……解らん」


 そう口にした途端、男から訝しげな視線が返ってくる。


「あんたは〝識者狩り〟とか〝雲渡り〟とか呼ばれる有名人だ。あんたは実際に、多くの識者を殺してきた。そこに志や正義はあるのか? あんたはただ、識者を殺し続けるだけの殺人鬼でしかないのか?」


 ブラッドは構えを解かぬまま、自らの心と向き合おうとした。


 なぜ、自分が識者を殺すのか。なぜ、識者を前にすると怒りが湧くのか、これまで触れようとしてこなかった、その真相に手を伸ばした。


 だが彼の心には、その手がかりがなかった。


「……志や正義がなければ、それが殺人鬼だというのなら、俺は殺人鬼なのだろう。俺には識者を殺す理由がない。心が動く場所に、識者の屍がある。それだけだ」

「快楽のために殺すってことか?」

「ある意味ではそうだ。心を満たすために殺す。怒りを燃やすために殺す」

「怒り?」

「そうだ。俺は、己というものがわからないままここにいる。両親をこの手にかける以前のことは……ほとんど、なにも思い出せない。記憶がない。生きるための標がない。だから俺はこの怒りに従う。識者に抱くこの怒りが、俺をどこかへ導いてくれるような気がするのだ」


 男が眉をひそめ、小さな唸り声を上げた。

 不意に構えを解き、腕を組んだ。


 その間抜けな様に、虚を衝かれるような思いがした。


 敵とも味方とも知れぬ相手の前で構えを解くなど自殺行為だ。

 ブラッドはイメージの中で、眼前の男を五回斬り捨てた。


 だが、踏みこむ気にはなれなかった。


「思ってた以上に、あんたは話してくれた。俺は自分のことを話すべきか迷ってたが、やっぱり話すことにする」


 ブラッドは馬鹿馬鹿しくなってシミュレーションをやめた。


 刀を収めなかったが、構えは解いた。この男からは今や露ほども殺気を感じなかった。胸中の怒りもすっかり冷え切って乾いていた。識者を前に、こんな心持ちになるのは初めてだった。


「俺はジェンっていう。あんたと同じく識者を狩ってる。仲間たちと一緒にな」

「仲間?」


 聞きなれない響きに思わず問い返すと、ジェンは頭を掻いて苦笑した。


「あー、一匹狼のあんたには馴染みのない言葉かもしれねぇな。俺はあんたほど大胆に識者企業を襲ったりはしてねぇ。そこまで腕に自信があるわけじゃねぇからな」


 ブラッドから言わせれば、これで腕に自信がないというのは謙遜のようにしか聞こえない。だが、わざわざ仲間を頼るのは、この男の弱さだ。孤独に心細さを感じるような人間は、戦いの場でも必ずその弱さに足許を掬われる。


 信じるべきは自分自身。あるいは自分の中で暴れ回る激情だけだ。


「……俺はお前たちの仲間にはならんぞ」


 ジェンが僅かに目を見開いた。


「誘う前から断れちまうとは思わなかった」


 そう言ったジェンは肩をすくめ、弱々しい笑みを浮かべる。


「まあ、俺だってあんたみたいな強い奴が、そう易々と仲間になってくれるとは思ってなかったさ。でも、知っていて欲しいんだ。俺たちのように識者に抗う奴がいるんだってこと」

「それを知ってなんの意味がある?」

「勇気が湧くかもしれねぇ」


 ブラッドは怪訝にジェンを見つめる。この男がなにを言っているのか理解できなかったからだ。


 ジェンはその補足も解説もしてはくれなかった。


「悪いが、そろそろ行かなくちゃいけねぇ。あんたに襲われた時に置いてきたものを取りに戻らなくちゃいけねぇしな」

「……」


 謝罪がてら、ブラッドは刀を背中へ収める。


 するとジェンはかっかと笑い「じゃあ、また」と手を振ると、風のようにブラッドの傍らを通り過ぎていった。


 ブラッドはその背中を一瞥し、あまりの無防備さに呆れのようなものがこみ上げるのを感じたが、すぐに胸の中を怒りで満たした。


 仲間に頼るような生き方など知らないし、おそらく自分には必要ないものだ。ジェンのことなど、いずれ忘れていくだろう。忘れてはならないのは、この胸に巣食う怒りのみ――。


「……マルサラス・マティス。次は殺す」


 どろりとした炎を内に燻らせながら、ブラッドは歩み出す。


 だがその怒りには、普段の強さが感じられなかった。己が身さえ滅ぼしてしまうような熱が感じられなかった。


 ブラッドは当惑する。


 それでも彼は、たった一つの生き方しか知らない。


 識者を狩る男の背中は、スモッグ濃霧の中に融けて消えていった。

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