十六章 奢侈たる玉座は頂にあり

 通路に吹き抜けるその黒は、残像であった。動きとともに淀み、ねじれ、薄れゆく様は、どこか書家の筆法めいていた。


 やがてそれも消えゆくと、荒々しくも繊細な文字でなく、鮮血と死肉が残されるばかりとなる。


 仇なす者はただ斬られた。その流麗にして、猛然たる嵐の中で塵と化した。


 無論、この黒き流れは、書家の魂の一筆でなければ、自然の暴威でもない。集を個に、個を細に断つのは、たった一口の刀だ。


 それを繰る男の双眸は、刃を彩る血と同じ紅。振り乱された髪は、その怒りを秘めることなく、ひたすらに荒々しかった。


 さながら地上に顕現せし修羅。


 その名は数多あり、科学の力によって神を気取る傲岸なる怪物は、識者シキシャを狩る者として〝識者狩り〟、あるいは人工の雲を馳せるとして〝雲渡り〟と呼んだ。偽りの神々の桎梏によって知恵を奪われた人々は、脅威と異端の記号として、ブルーデシュ・ルカニエを叫んだ。


 そしてたった一人、世界に忌み嫌われた彼だけが、自らをブラッドと暗示する。


 血濡れの風は、奥へ奥へと吹き抜ける。非常階段の防護ドアを破壊し、上へ上へと駆け抜ける。


 それがようやく止まったのは、五十階層の小さなホールへ辿りついたときだった。


 ホールの両手にはそれぞれ狭い通路がある。果てには巨大な防爆扉が、眠れる怪物のあぎとのごとく固く閉ざされていた。


 正面にも同様のものが鎮座している。通路はなく、一面がすべて銀の扉だ。


 ブラッドは柄のスロットルを回そうとするが、疲労のよどみを意識してやめた。


 刀の燃焼機構を使用すれば、この扉も断ち斬ることは可能だろう。だが一太刀では無理だ。多大な労力を強いられる上に、刀を用いた〝血濡写ブラッディミラー〟の瞬間移動まで封じてしまうのはリスクが大きすぎる。


 ブラッドはすぐさま踵を返した。


 治安維持局を呼び寄せぬために、あえて外界からの進撃は控えてきたが、それももう終わりだ。邪魔者は大勢排除したし、充分に時間も稼いだ。これ以上、ジェンたちに手を貸してやる義理はない。


 そもそも何故、彼らに協力するような立ち回りをしたのだろうか。


 ブラッドは己の行動を訝しんだ。

 だが、模糊とした結論なら、すでに掴んでいた。


 怒りに導かれて生きてきた。そうして識者を狩ってきた。複雑な感情すらも喰らい、爆ぜる業火が照らす先に、失われたアイデンティティーがあるのだと信じてきた。


 それこそが、ブルーデシュ・ルカニエでなく、ブラッドの生き方だった。


 感情を信じてこなかったわけではないのだ。むしろブラッドは、己の感情をこそ信じてきた。


 心の動く先に正しいものがあることを、直感的に理解し続けてきた。


 そうだ。心の動く先だ。


 怒りだけではない。哀れみだけでも、嫌悪だけでもない。

 ただこの心が「動け!」と叫んだその先へ、進み続ければよかった。


 今回はそれが昨夜の女やジェンへの、細やかな協力となって表れただけのことだ。


 そして今、ブラッドの心は、傲然たる識者への憤怒に燃えあがっている。「今度こそマティスを討つべく全力を尽くせ!」と叫んでいる。


 エレベータードアをこじ開け、空洞のレール内に身を躍らせた。壁を蹴り、四十九階のドアを破り、彼は再び黒き嵐と化した。


 一通り邪魔者を斬り捨てた今では、障害などどこにも見当たらなかった。通路を適当に徘徊し、窓を探り当てると、躊躇なく煙の外界へ向けて跳びだした。


 マティスの社長室、その大窓は、〝修理屋〟が修復したと見え、外からでは視認できなかった。だが前回の襲撃で場所は憶えている。たとえ見当違いのところに刀を押し当てることになっても、最上階の壁面を虱潰しに叩きつけていけば、いずれ辿りつくのは解りきっている。


 驕りが死を招くのだ。


 ブラッドは軽く肌を裂き、刀に血を吸わせると、上空へ投げ放った。それが逆向きの流星のごとく虚空を焼いた。


 次の瞬間、その刀の傍らに霞のごとく血が湧いた。たちまち修羅の影が編まれた。その手が柄を掴んだ。


 再投擲。

 

 瞬く間もなく、業物とその使い手が最上階の壁面に対峙した。


 その腕が舞うように閃くのと同時、黒ずんだ壁のようにしか見えなかったそれが、無数の欠片となって飛び散った。


 ブラッドはその間隙へと身を滑らせ、呆れるほど瀟洒な室内のカーペットを踏んだ。


 弑すべき奢侈を貪る怪物が、そこにいた。部屋のおよそ中央で、泰然と紅茶のカップを傾けていた。テーブルの三方を囲むようにして配置されたソファの一つに、マティスは闖入者と対面する形で座っていたのだった。


 カップをソーサーへ戻すと、マティスは、その口許に小さく悠然とした笑みを形作った。


「今日も君が来るとは聞いていなかったぞ。相変わらず失礼な男だな」


「玄関が開いていたのでな。てっきり歓迎されているものと思った」


「ハッハ! 識者を殺すことしか能がないのかと思えば、冗談も言えるんじゃないか」


 マティスの周囲へ目を光らせる。美女もロボットもいない。気配も感じない。


 ただ、座しながら隙のない男だけがいる。


 僅かに切っ先を傾ける。


「絡繰りの臣下は罷免させたのか?」


 訊ねるとマティスは小さく肩をすくめ、大仰に吐息を漏らした。


「クレアトゥールの護衛なら、すべて廃棄したよ。〝修理屋〟に直させることもできたが、ガラクタを修復するのは金の無駄なのでね。それより、君も座ったらどうだ? この紅茶は美味だよ。原産はね……ハッハ、また忘れてしまった」


「遠慮しておこう。こちらとしては、紅茶よりも、貴様の血のほうに興味があるのでな」


「ハッハ! 血か。まるで吸血鬼。化け物だな」


 マティスが立ち上がる。そこにはりついた笑みは、すでに先の優美なものではなくなっていた。凍えたように無機質でありながら、奥には、たしかに残忍な気配が漂っている。


「だがね、私も君に興味があるんだ。他でもない君という存在にね。あの刀捌きは美しかった。君の強さには輝きがあった。だから特別に、私の館へ招待してやる。永劫の隷属を誓ってもらう」


 純白のスーツの周囲へ、黒々と凝って見えるほどの殺意が漲った。それはあるいは、ブラッドを殺したいと思う以上の欲望の表れであった。


 マティスの〝傀儡窟ドールハウス〟は、見初めた者――彼が真に自ら殺したいと思い、殺した者を、生ける屍として隷属させる力だ。彼はブラッドの強大な力に強く惹かれ、それを屈服させたいという欲に溺れていた。


 ブラッドの怒りは、怪物を前に、なお烈しく燃え上がった。卑しい欲望のために弱者を踏みにじってきたマルサラス・マティスは、その心を動かすのに充分な世の毒だった。


 修羅が地を蹴った。


 空隙が裂かれた。解き放たれた怒りの刃が、不条理の化身へと迫った。


 ところがマティスは、残忍な笑みを刷いたままだ。構えることすらしなかった。


「ハッハ!」


 いや、それどころか背を向けて逃げ出したではないか。


 社長室のドアを身体で破り、一瞬の減速もなく、ブラッドとの距離を保った。


 間もなくマティスは、吹き抜けの回廊の中央へと身を躍らせた。その身体がたちまち落下を始め、幾度も身を捻って回転しながら、五十八階の床を踏んだ。


 ブラッドもまた、そのあとを追い、五十八階の床の上で前転した。起き上がりざま、刀を横一文字に閃いた。


 マティスはバックステップで躱した。顎の先を凍てついた斬撃が通り抜け、鋭利な風圧が生じた。それ自体が一種の斬撃だった。


「……ッ」


 端正な顔に、小さな切り傷が刻まれた。神経質な彼にとって、それは非常に腹立たしいことだった。


 しかし今は高揚が勝っていた。


 確信があったのだ。今こそが決着のときであると。最高の人形を手にする好機であると。


 それに応えるかのごとく、両者の踏む床が微かな揺れを刻み始めた。


 ブラッドは構わず踏みこみ、袈裟がけに斬りつけた。


 マティスはその内側に腕をねじ込み、逸らした。もう一方の腕が掌底を形作り、虚空を穿った。


 ブラッドの腕が、それを叩き落とした。さらに柄を手の中で回し、逆手に握りかえ、腿を抉りにかかる。


 それすらもマティスは、絡めた腕を肘ごと持ち上げることで防いだ。


 刹那の応酬の間に、揺れはさらに激しさを増す。


 六十階の回廊から、五人の美女が回転着地した。通路という通路から、ぞろぞろと美女が集合してきた。


 揺れが、彼女たちの跫音であることは判っていた。前回の襲撃の際、ブラッドを退けたのも、この屍の美女たちだった。


 ここはマティスの城なのだ。王を満足させるためにあり、守るためにある。王も自ら、そのようにこの城砦を築き、真実、これまで陥落することなくあり続けてきた。


 容易に切り崩せるものではないと解っていた。だからこそブラッドも、ただ無策に刃を振るうばかりではない。


 幾らかの膠着のあと、マティスを蹴り飛ばした。

 その間隙を埋めるように、一斉に美女たちが襲いかかってくる。


 刀はたちまち閃く。山頂に吹きつける冷風よりなお鋭く、平地に流れる川よりもなお緩やかに。


 一の肉が断たれ、二の肉が宙を舞う。三、四と飛沫と化し、五は音もなく崩れ落ちる。


 その流麗なる捌きの中、無論、マティスは仕かけてくる。


 剛にして柔、その流れの中でも、まったくの隙を殺すことはできない。マティスの非道にして容赦なき拳は、狙いすまして、その空隙を打ちにくる。


 美女を斬り捨てた刹那、その脇腹目がけ放たれる拳。


 ブラッドは一方の手を刀から離し、そのいきおいゆえに体勢を崩した。守りの型はままならず、背に美女の強烈な踵が刺さる。


「くッ……!」


 しかし刀を手離したそれは、マティスの正拳突きを殺せずとも、たしかに一撃を捕らえた。


 血色の眼が煌めいた。


 そこに触れたすべてのものが、一瞬にして血の霧と化した。ブラッドが、そこに身につけられたものが、刀が、素手に掴まれたマルサラス・マティスさえも。


 紅の蒸気と化し、その場に散り、収斂し、消えた。


 殺到した美女たちが虚空を殴り、蹴り、払い、あるいは仲間同士で衝突した。


「なっ……ッ!」


 そしてマティスの視界は、眼前の敵と両脇を挟んでそびえ立つひび割れた壁、薄らと黒ずんだ霧を捉えた。


 白き回廊に囲まれた広場は遠く吹き消え、複雑に入り組んだダクト群が頭上に画をなしていた。陽光を受けて錆色に滲んだ空は、幼児の覚束ない鋏捌きで切り取られた画用紙のように細かった。肺をめぐる空気が恐ろしく不味かった。


 やや遅れて、ブラッドの身体が弾き飛ばされた。

 だがそれはすぐに壁を蹴ることで、推進力に変換され、当惑するマティスの許へと飛来した。


 通路は狭く躱す空間がなかった。壁となる人形も今や身近にはいなかった。


 マティスは腕を交差させ、その一撃を受けるしかなかった。


 純白の袖が破れた。内側からあらわになった鋼鉄の手甲が、なんとかそれに耐えた。


 だが重い。腕がひどく軋んだ。踏みしめた地面が音をたてて爆ぜた。


 ブラッドは反動を利用し、十メートルも離れたところに着地した。

 そして憤怒と殺意を漲らせ、決然として言い放った。


「奢侈たる玉座は頂にあり。しかし王を気取る魔物も、玉座を降ろされ城を出されれば、無力な肉塊に過ぎん。穢れた富で作り上げた鉄壁は今や彼方、貴様を守るものはなにもない。観念してその首差し出すがいい」


 修羅の刃が妖しく煌めいた。

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