十章 変化と不変

 そこは情報が形をなしたカオス。

 現実ではあり得ない有象無象の乱れが、この世界では常識であり普遍だ。


 形而上の宇宙――名をメタバース。


 グリッドの地上に立ち、彼女は黒い闇に覆われた身体をざわざわと揺らした。それが彼女の笑いだった。残酷であり、無垢であった。


 彼女にとって、電子の海を遊泳する獲物たちを狩るのは、遊びに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもなく、彼女は、ただそうして悦びを得てきた。


 子どもが虫の四肢をちぎり、石を叩きつけ殺すように、彼女も獲物を殺し続けてきた。そこに罪悪感などない。与えられた玩具をどう扱おうと勝手だ。彼女は純粋無垢な子どもの心をもったまま育った。


 両親を手にかけたのも、我儘な子どもが起こした癇癪に過ぎなかった。彼女は遊びを邪魔されるのをひどく嫌った。苛立ちを消化する術を、夢の中で自由を味わうこと以外に知らなかった。


 だから物理世界から仲間たちの声がした時は、よほど殺してやろうと思ったものだ。


「地上正面ゲートより、不審な物体を確認!」


 彼女は寝起きの身体を叱咤するようにして、形而宇宙メタバースから物理世界へ意識を戻す。それでも彼女の意識は、完全に物理世界と直結されたわけではない。視界に時折ノイズを生じ、モニタ映像とは別の混沌とした世界が映りこんだままだった。


 しかしすぐに、看過しがたい事態が起きているのを認めねばならなかった。


 地上正面ゲート。

 清掃業務員たちの出入りする通用口のセキュリティドアが、突如、溶けたように形を歪ませたのである。


 咄嗟に先のカメラ映像に視線を移すと、黒いメカニカルスーツに身を包んだ何者かが走り去っていくところだった。その背中にもう一人、同色のメカニカルスーツを着込んだ者が確認できた。


 形而宇宙の意識を重ねながら、それを順々に追った。


 常人の速度でないのは明らか。

 識者シキシャだ。


 ここからでは気配を察知することまではできないが、先の奇異な現象といい、もはや疑うべき点は見当たらない。


 彼女は早急に識者や亜人へ、鎮圧命令を出した。仲間たちも異常を察知し、緊急対策マニュアルに準じて行動を開始した。


 ところが――


「あらぁ……?」


 メッセージが送信できない。


 彼女の電子的采配は〝導白触イゾルデ〟によってなされる。よって機器の故障はあり得ない。


 形而宇宙との同調率を高め、彼女はマティス・クリーン社のセキュティスペースへ潜行した。


 そして愕然とした。


〝導白触〟の力でランダムに電子の海を飛翔するとき、そこは混沌とした無限にも思われる広場である。電子情報の中継点やデータの屑がそこここに点在するものの、窮屈さなどまったく感じられない。


 一方、システム内部は広大でこそあるものの、自由さからはかけ離れた場所だ。電子の海がその名の通り大海原めいた空間であるとするなら、システム内部は大小こそあれ、一つの建造物に過ぎない。セキュティや保護すべきデータによって、壁・床・天井、その他諸々の障害物が構成されているからだ。


 マティス・クリーン社のシステムも例外ではない。だから彼女は、仲間の救援がない限り、システムに常駐しなかった。


 しかし今、認識されているシステム内部は、これまで感じていたものより、さらに窮屈に見えた。


 いや、窮屈などという生易しいものではない。


 そこここに点在するはずの通信ルートが、荒いノイズによって遮断され、大きく歪んでしまっているのだ。


 彼女には、これが人為的に引き起こされたジャミングであると、すぐに判った。


 亜人の詰めた階層は、すでに妨害電波の中だ。上部階層からなら治安維持局へ救援要請を出すこともできるはずだが、如何せん、送信してもレスポンスが返ってこない。どうやらすでに、外部にも妨害工作が敷かれているようだ。


 彼女は獣のごとく唸り、舌打ちした。


 そして天を見上げた。


 そこにダクトめいた細い道がある。強固なルートではないものの、微かに歪みがあるだけで、まだ生きている。


 焦燥を糧に、彼女はすぐさま飛翔した。


                 ◆◆◆◆◆


 ジェンにとってセキュリティなどというものは無意味だ。

 どんなに強固な扉であったとしても〝継接パッチワーク〟で作り変えてしまえば、それは意味をもたない壁や突起と化す。


 ジェンとアリスの二人は、ちょうど三十階層を突破したところだった。


 今のところ、亜人や識者による妨害はない。〝ニューサンス〟の起動によって、指揮系統が麻痺しているためだろう。


 だが、〝ニューサンス〟による妨害も、そう長くはもたない。

 破壊行為が社員たちに知られれば、ただちに避難を敢行するはずだからだ。彼らに寄生した〝ニューサンス〟は、その流れにともなって一個所に集中する。そうなれば、亜人や識者の連携は回復することになる。


 その前にジェンは、二つのミッションをクリアしなければならない。


 一つはセキュリティドアの分解。

 バースを円滑に行動させるための措置だ。


 もう一つは敵の各個撃破。

 連携が回復する前に戦力を減らし、確実にマティスを討つ。


 一方、バースにルートを示唆するのはアリスの役目だ。


 それゆえ、遠からずアリスとは別行動になる。

 彼は亜人を相手取ることになるが、万が一識者と対峙すれば、死を免れないだろう。


 ジェンは、胃の腑をとろとろとぬるい炎で炙られるような焦燥を感じる。


 なんとしても、俺が識者を全員ぶっ殺さなくちゃいけねぇ……!


 覚悟を胸に、足を速める。

 壁を跳ね、天を這い、人の目を避ける。識者の鋭い嗅覚が、薬品のにおいを感じ取る。それが、まるで追手のように感じられる。


 だが識者の気配はない。亜人の気配は識者と比較すれば感じ取りづらいが、おそらく亜人に追われているわけでもないだろう。


 焦燥と緊張が錯覚を起こしているだけだ。


 ジェンは三十階の踊り場を蹴る。

 鋭角的に跳ね上がった身体が反転する。壁を蹴り、さらに上昇した。


「……ッ!」


 その瞬間、ジェンは両肩を押さえ付けられるような重圧を感じた。


 急停止し、アリスを下ろす。


 それだけでアリスは、事態を理解したようだ。

 別れも激励もなく、階下へ引き返していった。


 その背中を見送ったジェンは、沸々と闘志が湧いてくるのを感じた。普段は弱音ばかりのアリスもBORDERの一員として、たしかな覚悟をもっていると解ったからだ。


 ジェンは重圧を押しのけるようにしながら、上昇を続けた。階が一つ、また一つと上がる度に、それだけ身体が重くなるようだった。


 そして、四十四階の壁を蹴った瞬間。


「……来やがったな」


 内側に壁が砕け散り、跳ねた身体を追うようにして、破片が散った。


 ジェンは対面の壁を蹴り、回し蹴りでそのすべてを塵に変えた。階段の手すりに爪先がカツンと鳴った。


 壁のあった周囲に、濃い粉塵がたちこめる。そこに識者がいるのをはっきりと感じ取った。


「ここは清掃員の派遣企業だったと思うんだが、こんなに汚しちまっていいのか?」

「こんなもの、厄介な汚れにはならん。だが、貴様は少々厄介そうだな」


 答えと同時、粉塵の中に影が編まれる。ぬうと神経質そうな眼差しの男が現れた。顔立ちは整っているが、人好きのする人相ではない。眉間に寄ったしわを見ただけで、仲良くなれるタイプではないと確信した。


「厄介な汚れをとるのは大変だよな。手間も時間もかかってさ。だから見逃してくれねぇか? タイムイズマネーなんて言葉もあるし。俺を見逃して時間の余裕ができれば、もっと儲けられるはずだぜ」


「ふっ……」


 識者の男は失笑した。


 そして、緩やかに拳を握りこんだ。

 それだけで背後にわだかまっていた粉塵が、後方へ消し飛ばされた。眼差しに殺意が滲んだ。


「貴様ほど目立つ汚れを見逃すなど、我が社の沽券にかかわる大問題だ。死ね」

「まあ、そうなるよな」


 両者は睨み合った。


 どちらも、すぐに動き出そうとはしなかった。


 ジェンはこの時間を、ひどくもどかしく感じた。先の些細な会話さえ、時間の無駄だったと思えてならない。


 しかし、時間稼ぎのために話していたわけではない。相手が挑発に乗り、多少なりとも精神が乱れれば、肉体にも綻びが生じる。ジェンはその隙を狙おうとした。


 もっとも、そんな陳腐なかけ引きが通用するとは思っていなかったが、悔しいほどに隙のない相手だった。生唾を呑む猶予さえ与えてはくれない。


 慢心から鍛錬を怠った弱敵でないのは明らかだ。


 だからその輪郭が霞んだとき、ジェンは迎撃を躊躇した。咄嗟に手すりを編みあわせた障壁を形作った。


 編み目の間から、男がこちらを睨んだ。


 その拳が大きく振りかぶられた。


 そして――殴られていた。


「がはッ!」


 腹部を突き破るような衝撃が襲い、踊り場の壁面に叩きつけられる。腹の底からせり上がったものが、口中を鉄の味で溺れさせた。


 腹を押さえ、頭を上げると、眼前に男の拳がある。


 ジェンは背後の壁を意識した。正面にドーム状の厚い障壁が生じ、背後の壁が消失する。


 ところが次の瞬間、


「……ッ!」


 ジェンは真横に弾き飛ばされていた。


 マスクの接合部が砕け、宙を舞った。切れた頬が血を噴いた。あまりの衝撃に吐き気がした。


 マスクが落ちるのも待たず、怒涛の追撃が迫る。


 ジェンはその中に信じ難い光景を見た。


〝継接〟が次の壁を生み出す。


 と同時に、横へ跳んだ。

 顔面からマスクが滑り落ちた。


 そして、ようやくその瞬間を見て取った。


〝継接〟の壁が消失し、拳が空を穿つのを。


 男が意外そうにこちらを見た。


 ジェンは片手で床を叩いて跳ね上がると、手すりや壁を蹴って、間合いをとった。


 男が小さく息を吐き、肩を揺らした。


「たしかに手間も時間もかかる相手らしい。己の言を真となす。まったく感服する」


 男が再び拳を握りこみ、低く腰を落とした。


「俺の力をどうやって見破った? この数瞬のうちに」


 ジェンもまた軋む身体にきつい鞭を打ち、構える。


「……へっ、教えてやらねぇ」


 にやりと唇を歪める。

 

 情報は勝敗を大きく左右する重要な因子ファクターだ。

 識者同士の戦いにおいては、単純な力比べだけでなく、相手の能力をいかにして早く解明し、自身の能力をどれだけ長く隠し通せるかが重要になってくる。


 バースには「口が軽い」と散々罵倒されるが、識者の戦いにおいてはシリアスだ。


 ジェンは当然ながら、自身の能力に知悉している。

 それゆえ敵の能力を推察できた。


 先の攻撃を受ける寸前、ジェンは二度目の攻撃を受けた壁を一瞥した。


 そこにあったのは、なんの変哲もない壁だった。


 しかしそこには、壁が存在するはずなどなかったのだ。


〝継接〟は、無から有を生み出すことはできない。「完成品」を生み出すためには、材料が必須となる。


 ジェンはあの時、ドーム障壁を張り巡らせるために、壁を消費したはずだった。


 にもかかわらず、壁は存在した。


 それが奴の能力の手がかりだった。


 おそらく〝継接〟はされたのだ。


「汚い口調のわりには賢明だな」


 男がこちらの思考を読んだかのように言った。


「そりゃどうも」


「強者には敬意を払う。冥土の土産に名を教えてやる。俺はネイス。ネイス・アンダーソン。貴様が〝雲渡り〟か?」


 意外な潔さに、ジェンも冥土の土産のつもりで告げてやった。


「識者のクズどもを殺しまくってきた英雄と勘違いされるなんて光栄なこったが、あいにく〝雲渡り〟じゃねぇ。俺はジェンだ」


 その瞬間、ネイスが昂揚を抑えきれないとでも言うように牙を剥きだした。


「ほう、ジェン。ジェン・スーツィか。オルニに逃れたという噂は事実だったか」

「へぇ、知ってんのか。俺も随分有名になったもんだな」


 ジェンは嘲るような笑みを投げ、血の唾を吐き出した。


「自己紹介はここまでだ。さっさと再戦といこうや」


「ああ。貴様がなにをなそうとしているのかは知らんが、後悔させてやる。変化は崩れ、変わらぬ平穏だけが残る。俺の〝廻重眼イレラヴァントアイズ〟がそれをなす!」


「へっ、長々とキザな名前だなッ!」


 ジェンは手すりを蹴り、風を切った。


 奴の〝廻重眼〟とかいう能力は、能力をリセットする。


〝継接〟で防御を試みたのが、そもそもの間違いだった。

 正面から殴り抜ける。純粋な格闘だけで奴を屠る。


 バカみてぇな話だが、それが最適解だ!


 ジェンの身体が空中で二、三、四度回転した。

 天の神が落とす鎌のごとき、断罪の踵落としだった。


 一拍遅れてネイスが踏みこんだ。


「オラアアアアッ!」


 ジェンはすでに次の行動を予測している。

 いかにして奴を葬るか、そのための最適な体捌きは――。


「ぐはぁっ!」


 しかしそれは意味をなさなかった。


 弾き飛ばされ、階段を砕いて血を噴いたのは、ジェンのほうだったからだ。


 バカな……。なにが起きやがった?


 その答えを探し当てる間もなかった。


 敵がすでに肉薄していた。

 両手が組み合わされハンマーのごとく振り下ろされる。

 

 ジェンは身体の前で腕を交差し、防御姿勢をとった。


「ごッ……」


 ところが、それもまた崩された。

 肋骨の砕ける音が鼓膜を掻き毟った。


 背中の段は今度こそ砕け散った。


 ジェンは重力の網に絡めとられた。

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