十四章 銀眼のバース

 エレベーターの破砕音は凄まじく、また亜人や謎の美女たちが社員を扇動していることで、いよいよ〝ニューサンス〟の電波妨害に乱れが生じ始めた。カメラの幾つかはすでに復旧し、遠からず通信システムにも繋がりが見られることだろう。


 やはり光学迷彩を作っておいたのは正解だった。バースには識者シキシャの超常的な能力もなければ、アリスの強化ガスに耐えられる肉体も持ち合わせてはいない。見つかればすぐに殺されてしまう。


 だがこれがあれば、たとえ全カメラが復旧しようと、バースを見出すことはできない。識者へ極端に接近すれば、気配で気付かれる恐れもあるが、アリスが派手に暴れてくれたおかげで、奴らの注意は下階層へ向いているようだ。


 そもそも一つの企業が抱える識者の数は、そう多くない。警護はクレアトゥールのロボットや亜人に任せられるのがほとんどだ。数少ない識者たちは、企業の武力ではなく、単に富や惰眠を貪る竜のようなものである。


 バースは三十三階の西棟へ向かう。メアが事前に取得したからすれば、アクセスポイントはそこにある。とはいえ、真っ直ぐ廊下を歩いているだけで、事務室らしき部屋は、そこここに見て取れる。アクセスポイントに困ることはない。


 それでも、あえて三十三階を目指す。無事なエレベーターの方角へと歩く。


 〝ニューサンス〟が、却って障害となっているからだ。


 ネットワークに接続しても、それ自体が遮断されているのでは意味がない。人の流れが下階層へ向き始めている今だからこそ、あえて上階を目指し、妨害電波の希薄な地点からアクセスを試みる必要があった。


 バースは躊躇なくエレベーターへ乗りこむ。同乗する者はなく、すでに乗りこんでいた者もいない。


 三十三階へは、呆気なく辿り着いた。


 慎重に歩を進めるものの、人影など見当たらず、気配すら感じられなかった。半端な階層である所為か、あえて警護を残していないのかもしれない。


 それでも細心の注意は払っておくべきだ。迷彩で視覚をごまかせるとはいえ、一度、潜行してしまえば無防備となる。意識が形而宇宙メタバースへ向けば、こちら側の事象を知覚するのは難しい。その上、姿こそ視認されずとも、コンピュータがおかしな挙動をしていることは一目瞭然だ。


 事務室へ辿り着いたバースは、まず、開け放たれたままの部屋の中を見渡した。


 コンピュータはどれも電源が入ったまま。スクリーンセーバーが表示されている。デスクチェアはどれも乱雑に放置され、幾つかは倒れていた。床の上は鳥の暴れたあとのようだ。シュレッダーにかけられた紙屑まで散乱していた。


 部屋の最奥、その隅には、人体模型じみた美女の等身大ドール。なにに使うものかは判然としないが、どうせここを取り仕切っている亜人の趣味に違いない。


 危険はなさそうだ。


 窓側のコンピュータへ歩み寄る。迷彩のノイズの中をまさぐり、デバイスの感触を探り当てる。


 現れたのは、赤銅色の六面フレームだ。一面から尾のようにケーブルを伸ばし、先端に接続端子を備えた筐体である。


 名を〝ハックコア〟という。


 バースの擬似人格を投影したハッキングプログラムを仕込んだデバイスだ。いわば形而宇宙におけるバースの分身である。


 無論、設計思想自体は、マティス・クリーン社襲撃計画以前から存在した。しかし、なかなか完成に至らなかったのだ。ジェンの〝継接パッチワーク〟を用いても、設計図が正しくなければ、ガラクタが生み出されるばかり。試行錯誤を繰り返し、ようやくこの日に間に合った。


 その数は五つ。

 すべてをそれぞれのコンピュータへと接続した。


 そしてバースは顔面を覆った迷彩を口許にまで下ろした。

 痛みに顔をしかめながら、耳からケーブルを引き出す。


 ところが中途で、バースはその手を止めていた。


 視界の隅に動くものを認めたからだった。


 一瞬、すべての音が消し飛んでから、堰を切ったように心音が頭を叩き始めた。


 バースはそれを直視できなかった。顔面は今、素肌をさらしている。振り向けば、確実に気付かれる。


 相手を視認できないと、恐怖は余計に膨れ上がった。

 生唾を嚥下しようと、あるいは深呼吸を試みようとする己を何度諌めたことか。


 ケーブルは指先に摘まんだまま、恐るおそるもう一方の手で口許の迷彩を引き上げる。


 顔が覆われたのをたしかめて、衣擦れの音はしなかっただろうかと気を揉んだ。


 だが恐怖に竦んでばかりいられない。どのみち接触されれば終わりだ。姿が見えずとも、バースはここにいるのだから。


 思い切って視線を上げた。


 すると、そこに人形めいた無表情があった。感情を根こそぎ削ぎ落とし、精巧さだけを追求したような隙のない美貌だった。部屋の隅に佇んでいたあれに違いなかった。人形ではなかったのだ。


 止めた息を、いっそう奥へ押しこめる。


 見えていないはずのその視線が、まっすぐこちらを見据えているように映ったからだ。


 しかしその目は、やはりこちらを視認できていないようだった。不意に逸らされた視線が、ポートに接続された〝ハックコア〟の輪郭をなぞった。


 いずれにしても悪い状況には違いない。


〝ハックコア〟を破壊されるのはまずい。〝導白触イゾルデ〟の力に対抗するには、バースだけでは力不足なのだ。


 なんとしても早急に仕留めたかった。


 懐には護身用の拳銃が一丁だけ忍ばせてある。換えのマガジンも一つ、武装はそれのみだが識者であろうと亜人であろうと、脳を撃ち抜けば確実に殺せる。加えて、この至近距離でも気付かないということは、おそらくただの人間だ。


 問題なのは、拳銃を抜けば、それが見えてしまうこと。

 そして、この距離では迷彩に血糊が付着してしまう恐れもあった。


 バースはやおら後退を始めた。


 すると美女が、手にした〝ハックコア〟を手中に握り潰した。


 内心ひやりとした。

 とても並の人間の握力ではなかったからだ。


 しかしその手のひらが開かれ、デバイスの残骸がパラパラとこぼれ落ちると、一緒に血の雫が滴った。


 見れば、手の中は真っ赤だった。

 やはり識者や亜人よりも脆弱なのは間違いない。


 とにかくやるべきことは一つである。障害は排除する。この女を殺さなくてはならない。


 バースはさらに一歩後ずさった。

 美女はもう一つの〝ハックコア〟へ歩み寄り、やはりすぐには壊さず摘み上げた。


 その隙にもう一歩――。


 踏みしめたところで、足許がカサと音をたてた。


 はっとして一瞥した先には、紙屑。

 戻した視線の先に、顔だけをこちらへ向けた美女。


 一瞬の膠着があった。


 思慮をめぐらす暇はなかった。


 美女が拳を握り、二つ目の〝ハックコア〟が破壊されるのと同時、バースは端のデスクの側面へ潜り込んでいた。


 そのすぐ隣を、闇雲な蹴りが払った。ごうと空を穿つ音が、美女の人間離れした能力を確信させた。


 バースはさらに対面するデスクの正面へ回り込んだ。輪郭の刻むノイズが、美女に居場所を知らせた。


 コンピュータをなぎ倒して、美女がデスク上をスライディングした。


「……ッ!」


 したたか肩を蹴られた。身体がゴロゴロと床の上を転がり、荒いノイズが電流のごとく地を這った。


 美女の足が振り上げられた。

 首筋に死の気配が凝った。


 そのときだった。


 美女の背後でカッと赤い光が瞬き、筐体の一つが爆発したのは。


 爆風に煽られ、美女はたたらを踏んだ。

 その足が奇跡的にバースを跨ぎ越えた。


 バースはあえてその場で身を固めた。


 美女の注意はすでに、バースの許を離れていた。爆発した筐体へ向け、大仰に跳躍して破片に拳を振り下ろした。


 バースはその場で二回転して距離を取り、迷彩の前部をひらいて銃を取り出した。


 美女はなおも拳を叩きつけ続けている。

 その背中へ向け、慎重に照準を合わせた。


 引き金をひいたのは、安全装置を解除し、美女がその音に身体ごと振り返ったのとほぼ同時だった。


 パン、と乾いた音がして、美女の片目が弾け、僅かに仰け反った。そこへ容赦なく二発撃ちこみ、一発は肩に、もう一発は胸の中央に銃創を刻んだ。


 それでも美女はまだ動いた。ほんの二、三本の糸だけで操られたマリオネットのように。


 バースは顔をしかめ、さらに三度発砲した。


 二発は外した。


 最後の弾だけが、見事に額を抉り抜いていた。


 美女の身体がゆっくりと後ろに傾ぎ、背後の窓に後頭部をぶつけた。ずるずると床の上へ落ちてゆく。窓に赤い筆書きのような痕が残された。


 バースは荒い息を吐いて、懐に銃をしまう。

 迷彩の前を留めると、肩を押さえ立ち上がった。


 痛みに呻くことも、恐れに震えることもなかった。早急に動き出さねば危険だった。


 コンピュータの爆発によって、書類やカーペットが小さく火を噴いている。じきにスプリンクラーが駆動するだろう。迷彩の表面に水滴が付着すれば、もはや正確な映像処理は施せない。


 ところがバースは、すぐには部屋を出ず、あえて火の許へ炙られようとでもするように、床の上に投げ出されたコンピュータへと駆け寄った。それを嫌がるように、迷彩表面の映像が烈しく波打った。


 よし、無事だ。


 筐体をためつすがめつして接続されたままの〝ハックコア〟を見つけ出した。外部フレームやケーブルに破損は見られない。それを引き抜いて、すぐに懐へと忍ばせた。


 残念ながら、残りはすべて破壊されたようだった。二つは美女が、もう二つは爆発によって無残な金属の塊と化していた。


 たった一つの分身を胸に、その場をあとにする。


 数秒後、スプリンクラーが炎と血を洗い始めた。炎はすぐに鎮火され、血ばかりがカーペットへと滲みていった。



 銃声を聞いて駆けつけてくる者はいなかった。


 次に入った部屋の中には、先の人形のような美女も、社員も見られなかった。今度こそ無人の室内だった。


 いよいよ潜行の時である。


 しかしバースは〝ハックコア〟の接続端子をつまみ、耳からケーブルを伸ばしながら気を揉んでいた。


 私は勝てるだろうか、と。


 先の筐体の爆発は〝ハックコア〟の一つが敗れたからに他ならない。五つのコアを用いて挑んでも〝導白触〟は確実に戦力を削ぎ落としてきたのだ。


 にもかかわらず、今、手許に残った〝ハックコア〟はたった一つだけである。自身を含めても戦力は先の半分にすら満たないのだ。


 バースは腹の底から重い嘆息をしぼり出し、仲間たちの顔を思い浮かべた。


 次いで、一人の女の儚い笑みを思い出していた。


 彼女はこの三十二年の人生で、バースが唯一愛した人だった。


 母のようであり、姉のようであり、恋人のような人だった。どんなに苦しい世界の中でも、彼女さえ存在してくれれば、明日が保証された。涸れた心に、潤いが戻るような気がした。


 しかし彼女は死んだ。この腕の中で死んだ。熱いあつい涙で、この手のひらを濡らして死んだのだ。


 今際のきわに残したのは『世界を壊して』の一言だった。その末尾には、コードネームでしか呼ばれることのなかった彼を呼ぶ『バース』が付属した。


 彼女の言葉は、桎梏となり、呪いとなって、バースを生へと縛り付けた。心の寄る辺を喪った世界の中で、自ら命を絶つことさえ許されなかった。


 ……私はこの世界を壊すために生まれてきた。


 あの日、大切な者を喪った青年は死んだ。

 そして世界の破壊者が生まれた。

 約束を果たすべくBORDERが作られた。


 今更、死ぬつもりなど毛頭ない。


 彼女を思い出し、胸が潰れそうに痛んでも、彼女の許へ行きたいと心が叫んでも、この命とともに消えてしまう沢山のものがあるのを、今ではよく理解している。


 かつて彼女との約束は、バースを生かすたった一つの戒めだった。しかしBORDERを組織し、仲間とともに生きてきて、バースは変わっていった。彼女に生かされた人生の中、約束の他の糧もまた、心の中に蓄えられていったのだ。


 出逢いの中で、命は重みを増してゆく。自身と他者とを繋ぐ、固く分かちがたいものが、自分を途轍もなく大きなものへと変貌させてゆく。


 だから慎重な行動を心がけ、無謀なことは極力避けてきた。仲間たちにも口を酸っぱくして強いてきた。


 だが、そのために臆病になって立ち止まれば、また自分という巨大に成長したものを無為にしてしまうこともある。


 この世には、避けきれぬ困難が満ちているものだ。そこに立ち向かうとき、絶対の安全などあるはずがない。無謀と解っていても、踏み出さなければならないときが、必ずある。


 それが今だ。


 ……望みはまだある。


 まったく勝算がないわけではない。無謀であったとしても、無為に命を捨てるほど、バースは馬鹿ではない。


 もう一度、思い浮かべた。

 約束に縛られ、憐れに生きてきた自分に付いてきてくれた、無謀を顧みない同胞たちを。


 そうして迷彩の中で薄く笑んだ。


 必ずこの世界を壊してみせる。


 心中に生き続ける愛しき人へ、バースは熱く告げた。


 そして〝ハックコア〟と自身の端子を、コンピュータへと接続する。

 滅ぼすべきカオスが幕を上げた。

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