四十二段目
気がついたわたしは、何も書かれていない画用紙みたいな少し硬くて白いベッドの上で寝ていた。嗅ぎ慣れない薬の臭いと、ホコリのない清潔な空気。人生で初めての病院のベッドだった。
わたしの頭を包帯が何集か回っていた。カーテンで仕切られた空間は寂しいほど閉鎖的な気がして、無味無臭の空気は清潔さをこれでもかというほど強調してくる。
横になっているわたしは、ベッドの側で何か作業をしている年配の看護師さんに目配せをした。それに気付いた看護師さんは、一瞬顔を固まらせたものの、落ち着いた笑顔をすぐに作った。こういう仕事がかなり長いのだろう。ベテランの雰囲気を、嫌味にならない程度に感じる。
「おはようございます葉月さん。先生を呼んできますね」
それだけを素早くハッキリと言うと、カーテンを抜けて出て行った。決して焦りを患者には見せず動きだけをきびきびと動かす所作は、長い勤務時間に比例して磨かれていった技だろうか。
しばらくすると、短髪のある若い男性医師がやって来た。先ほどの看護師さんとは違い、まだ少し頼りない雰囲気を持っている。下がり眉と丸っこく幼い顔も手伝って、着ている白衣がおままごとの道具に見えた。こういった雰囲気の違いも、職人業のように、場数をこなせば磨かれていくのだろう。
幾つかの問診を終えて、男性医師はニコリと笑った。作り笑いも、まだ少しぎこちない。
「頭を五針縫っただけで、他に大きな外傷はとくに見当たりません。ですが、頭をかなり強く打って気を失っていたようなので、しばらく様子を見ましょう」
「わかりました」
感情を特に出さず、わたしは頷いた。
「もう少ししたら、お父様が来るそうですよ」
男性医師よりも綺麗な笑みで看護師がそう告げると、二人はその場を離れていった。
わたしは、しばらく何もしないで、ただぼーっとしていた。
共用部屋なのだろう。カーテンの向こう側にも、人の動きを感じる。幸いなことにわたしの使っているベッドは窓の近くで、今が夕方と呼ぶには少し気が早い頃だと日差しが教えてくれた。
それから十分ほど経過した頃、お父さんが引き裂いたのかと錯覚するほど乱暴にカーテンをくぐって入ってきた。
「大丈夫か紗英! 階段から転げ落ちたって聞いたぞ」
「ここ病院だよ」
息と心の乱れたお父さんは、見た目も乱れていた。汗びっしょりでネクタイも曲がっている。急いでくれたのはわかるけれど、誰にも迷惑をかけてはいないだろうか。
「紗英が病院に運ばれたなんて聞けば、慌てるに決まっているだろう」
先程よりも声のボリュームを下げて、けれどまだ早口のまま、お父さんはそう言ってくれた。よかった。お父さんの幸せは、わたしと居る場所にあるみたいだ。
普段のわたしなら聞き流していたところだけれど、今のわたしにはお父さんの息切れが、早口が、込められたお父さんの心がどんな形をしているのか分かる。だからこそ、胸に刺さって痛い。
「階段から落ちたそうだな。たまたま遊びで駆け回っていた小学生が見つけてくれたらしい。最近の小学生は凄いな、救急車呼んでくれたらしいぞ」
話しながら、声と呼吸を落ち着けていく。わたしの姿を見たら、少しは安心してくれたのだろう。乾燥した土の色をしていた顔も、少しずつ血の気が戻ってきた。
「でも、マンションの階段なんかに、一人で何をしに行ったんだ」
「お父さん、一つ聞きたいことが」
お父さんの質問の上から、わたしは質問を投げかけた。いつものように、お父さんはわたしを優先してくれて、聞く姿勢を取った。
「お母さんの出て行った理由が知りたいの」
「それは、紗英はまだ知らなくていい」
「嫌だ。わたしは今知りたい」
笑っては誤魔化そうとするお父さんを逃がさないように、わたしは目線でお父さんをその場に縫い付けた。
しばらく膠着状態が続く。お父さんは一つため息を落とすと、裂かれたようなカーテンを整えて綺麗に閉じ、まわりに聞こえないよう小声になりながら話しだした。
「お母さんは、新しい男を作って出て行った」
予想していた結果だった。そうあって欲しくないからこそ、予想してきた結果だった。涙は流せなかった。今は、そうなのかとしか思えなかった。
「紗英に今まで話さなかったのは、紗英の中でのお母さんを壊したくなかったからだ」
「壊したくなかったって、どういう意味」
穏やかな口調で、わたしは聞き返す。顔に表情はなく、ただの疑問として湧いて出たのだろう。
「紗英はお母さんが大好きだから、親の勝手な都合で悪いイメージを付けてやりたくなかった。紗英がもう少し大人になってから、話してやろうと思っていた」
話すお父さんは、まるで懺悔をするようだった。無機質なカーテンで仕切られた狭い空間が、余計にそう思わせるのだろう。わたしは、懺悔を聞く牧師のようにただ黙って頷き先を促した。
「相手との出会いなんかは、腹が立って聞けなかった。紗英を連れていこうとするのを止めるだけで精一杯だった。突然出てきた知らない男と三人で暮らすだなんて、かわいそう過ぎて、なんとしてもそれを阻止しようと必死だった。紗英を置いていくことと、紗英が自分で考えて、自分から連絡出来るようになるまで紗英には近づかないことだけを約束してもらったよ」
「それじゃあお母さんは、ここ数年のわたしを何も知らないの」
「月に一回、近況を報告している。何か行事があった時は写真も添えて。黙っていたことは謝る。本当に申し訳ない」
熊みたいに大きな体が、風が起きるほど勢い良く前に傾く。その肩に、わたしは腕を伸ばしてぽんと手を置いた。
「身勝手じゃなくて、わたしを考えてやっていてくれたことでしょう。いいよ、むしろありがとう」
お父さんがどれほど考えてくれているか、わたし自身が一番よくわかる。浮気をして出て行ったお母さん。恨みや愚痴もたくさんあるはずなのに、そんなこと一度もお父さんの口からわたしに向かって出てきたことはない。お母さんとの想い出の品だって、一つも欠けること無く家に飾ってある。見るだけで腹が立つこと、数えきれないほどあっただろう。
お父さんなら、経緯を話したからといってそれらを捨てたりしないだろう。愚痴だって、これまで通り顔を見せないだろう。
昔のわたしなら、我慢しないでと悲しくなっていただろうけれど、二人での幸せのためだと知った今は、素直にありがとうと思えた。
「仕事をクビになったことは、どうして教えてくれなかったの」
「今まで散々苦労や心配をかけたのに、これ以上心配させたくなかった。といっても、それが余計に紗英を怒らせたみたいだったな」
あの時はごめんね。わたしのことを沢山考えてくれてありがとう。そう伝えたいけれど、お父さんには届かなかった。
「けが人相手に、重たい話になってしまったな。紗英も、まだ本調子じゃないみたいだし。なんか違和感あるぞう。父さん走って喉が渇いたから、飲み物買ってくるな。紗英も何かいるか」
わたしが首を横に振ると、お父さんは「そうか!」とその場の空気を入れ替えるように無理やり明るく言って、少し大げさにカーテンをめくって出て行った。
めくれ上がったカーテンが、元の位置に戻る。
「よかったね、紗英」
ふうわりと空気みたいに佇むわたしに向かって、わたしの顔をしたわたしじゃない誰かは、変な笑顔で笑った。
「そんな顔をしないでよ。大丈夫、僕ならうまくやれるから」
変な苦笑い。
長期的自殺と他殺 日月明 @akaru0903
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