三段目

「半年前に彼氏つくっといて、これ以上なにを望むのかしら。あー怖い」

「杏子だって、部活で充実してるじゃない。四六時中一緒にいるわけじゃないんだし、いつも脳内ハッピーだったら、それこそ気持ち悪いでしょう」

「部活は、あたしの心に潤いを与えちゃくれないの」


 ため息を付きながら、杏子は隣の席にドカっと座った。大股開きで座るような女子のもとに、どうして彼氏ができようものか。その風格は、小さな大物演歌歌手のよう


 スカートの下に、短パンジャージを履いているし。杏子には、少しお淑やかさが足りない。これを全部言ってしまうと、きっと三倍の言葉でお返しがくるから、胸のうちに秘めておこう。


 こんな風に言い合っているけれど、仲が悪いわけではなく、むしろ良い方なのだ。なんの気遣いもなしに話ができる友達として、杏子のことはとても大切に想っている

 喧嘩をしたことが無いとは言わないが、何も考えずに話ができる信頼性があるから成り立つ掛け合いであって、杏子自身も、その辺はわかってくれているだろう。


「どうしたの? 今日はえらく荒れてるじゃない」

 わたしが聞くと、杏子は薄い眉をハの字に垂らして頬杖をついた。


「なんかさ、部活の後輩が、一年もレギュラーに入れてくれって」

「年功序列じゃないの? あんたは試合に出てるけど」

「それは、三年生が三人しかいないからでしょ。「勝つためなら、年功序列じゃなくて上手い人がレギュラーになるべきです」って聞かないのよ」


 そう言って、杏子は自分の右耳たぶを右手で摘んだ。これは、杏子が本気で苛々している時にする癖だ。こういう癖は、子供っぽいなと思う


 ほとんどの人が各々会話を楽しんでいる中、こちらをじっと見ているグループがいることに気がついた。視界の左すみっこから、困ったような顔でこちらを見ている。同じ女子の困り顔でも、杏子とここまで違うのかと思うほど、卵のように脆そうな表情。


 気にはなるけれども、だからといって、「何か御用ですか?」と聞くわけにもいかない。何か用事があるのなら、向こうからアクションがあるだろう。

 そう思っていると、視線の元から一人、こちらへと近づいてきた。


「どうしたの、佐藤さん」

 オドオドとした様子で近づいてきたのは、同じクラスの佐藤さんだった。


 彼女がかける眼鏡の奥の瞳は、小さな小鹿をイメージさせた。力なく、か細く、か弱い。実際に小柄でほっそりとした佐藤さんは、杏子がちょっと強く触れば崩れてしまいそうで、無意識的にやさしい口調になってしまう。


「あのね、紗英ちゃんって、宮之下くんと付き合ってるよね」

「うん、そうだけど」

 遠慮がちに開かれた口からは、意外な名前が飛び出した。


 宮之下淳斗とは、半年前から付き合っている。サッカー部の時期キャプテンが内定済みと噂で、勉強はできないけれど、スポーツが出来て顔も格好いいと、一部の女子で評価の高い男子だ。


 実際に付き合っているわたしも、サッカーをしている姿は格好いいと思う。さわやか好青年とは、彼のような人のことを言うのだろう。


「淳斗がどうかしたの? 話があるなら聞いておくけど」

「うん、それなんだけど」


 一度結ばれた佐藤さんの口は、もともと話し下手なんだろうなと私に思わせた。そういえば、授業中に一生懸命板書をノートに取っている姿は見るけれど、あまり積極的に発言するという印象はない。


 今彼女は、一生懸命頭の中で話す内容を組み立てているのだろう。ホームルームが始まるまではまだ時間があるし特に急かすようなことはしないが、なかなか話が始まらないことに少し不信感が出てくる。


 特にせっかちな性格ではないのだが、こうも長く間をあけられると、さすがに続きが気になってくる。

 こういう時にじっと待っていられる杏子は、本当にすごい。後輩に慕われる一つの要因なのだろう。杏子を横目に見て関心をしていると、やっと佐藤さんの話が始まった。


「昨日ね、梅田の大きな本屋さんに行ったんだ。いつものところがたまたま休みで、久しぶりに大きいところに行こうかと思ったの。


 それで、買い物を終えて店から出たら、偶然宮之下くんが歩いてるのを見たんだけれど。梅田に、私立の女子校あるでしょ。あそこの制服着た、ちょっと派手目な女の人と歩いてて、それで……」


 一度開けた口が塞がるのを恐れるように一気にそこまで話すと、佐藤さんの唇はまたキュッと結ばれてしまった。しかし、そこで止めると、大きな意味を含ませてしまう。


 わたしは、自分の足の指が無意識のうちに力んでいるのに気づく。

 今された話を、もう一度映像として頭のなかに映しだす。その映像は、私の中に薄氷のような冷たい気持ちを生み出させた。薄汚れた気持ちの悪い氷は、わたしの内に不快感を蓄積させていく。


 なるほど、佐藤さんが話しづらいわけだ。自己主張のあまりしない彼女が話そうとしてくれただけでも、とても勇気ある行動なのだと思う。それだけ彼女は真面目で、優しい人なのだ。わたしのことを考え、悩んだ末に話してくれたのだろう。


 気弱で臆病な彼女が、嘘をついているとは思えない。教室の後ろでかたまって、漫画雑誌を読んでいる佐藤さんと、ほとんど毎日外へ出てボールと戯れている淳斗に接点も無さそうだ。


 彼女の握りしめた手を見ると、少しだけ震えていた。そんな姿を見せられては、彼女に対してありがとうしか言えない。彼女に悪意は無いのだから。


 先程よりも硬く結ばれた唇が創りだした沈黙は重く、とても朝の爽やかな教室には似つかわしくない。私たち三人が話しているこの小さな一区画だけが、薄黒いカーテンに包まれているような気がした。そのカーテンに包まれていると、息苦しく感じる。


「いやいや、宮之下のお姉さんかも知れないじゃない」

「あいつにいるのは、小学生の弟だけよ」


 重たい空気を断ち切るように、杏子がいつもよりもワントーン高い声を出す。しかしわたしは、その言葉を下から切り捨てた。杏子の不自然な声音が、より一層私を締め付ける。


「じゃあほら、いとこのお姉さんとか幼なじみとかじゃないの」

「それは、どうだろう」

 無理矢理な杏子の明るさだが、今度は佐藤さんに破られた。

「私と目があった途端、急いで逃げていったような気がする。それに、手を繋いでた」


 消えてしまいそうな佐藤さんを、杏子がキッと睨んだ。違う、今責めるべきは佐藤さんではない。そう言いたいのに、わたしの口は開かなかった。


「少なくとも、確かめないことにはわからないでしょうが」

 すこし苛立ちを含ませた杏子の言葉に、今のわたしは頷くしかない。

「そうだね、うん。昼休みにでも話してみるよ。ありがとう佐藤さん」


 佐藤さんは小さく首を横に振ると、そそくさとその場を後にして、遠くに居た友達グループの輪の中へ戻った。何も起きなかったように、わたしの視界はまたいつもの日常背景を写し取る。


 まもなくしてチャイムが鳴る。それによってできた人の動きにより、重たい空気が緩和されたような気がした。

 わたしは、担任教師が入ってくる前に素早く淳斗へメールを送り、昼休みにプールの横で落ち合う約束を取り付けた。

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