三十二段目

「それより、なんか紗英お酒臭い」


 わざとらしく鼻をつまんで、秋介はこれまたわざとらしく顔の前の空間を、手を団扇にしてあおいだ。


 目線は本に向いたままだけれど、さっきほど目がせわしなく働いていない。


「ついさっき、人生で初めてビール飲んだの。すごい不味いの。なんかね、抹茶みたいな渋い苦味じゃなくて、魚の肝みたいなえぐい苦味」


 想像したのか、秋介は本に視線を向けたまま眉間に皺を作った。


「よくそんなの飲めたね」


「どうせ死ぬって決めてるし、やってないことやりたいじゃない」


 本を閉じて傍らに置くと、秋介は膝を抱えてうつむいた。


「今の年齢で死ぬと、もっとたくさんやり残すよ」


 諭すでもなく、説教するでもなく、ただ無機質な音の塊が耳に届く。


「だからさ、ビールくらい飲んでおこうかなって」


 マジパンでもない、ナイフでもない。空気と例えるのも大げさなような秋介の声音に対して、迷った挙句、茶化して返すしかできない自分の浅さが嫌になった。


「ビール以外のお酒も飲むことは無くなるし、それ以外のもっと楽しいことやうれしい事だって知らないままだよ」


 秋介の顔は、陰になっていて見えない。こんなことを言う今の秋介の心の色は、何色なのだろう。強すぎる懐中電灯の光は、太陽よりも分厚い影を作っていた。


「でもさ、その分嫌な事だって知らないままだし、わたしが死ぬことで、好転することもあるかもしれないよ」


「それもそうだね。紗英の行動でどうなるかなんて、結局わからない。もしかしたらお酒が嫌いかもしれない。結婚しないくらい仕事が好きになるかもしれない。就職できないかもしれない。詐欺に遭うかもしれない。魚の肝が好きになるかもしれない。幸も不幸も、紗英が決めることだし、紗英以外の人だってそうだ」


 秋介の少し突き放したような言い方に、わたしは先生に怒られた中学生のようにムカッとした。


 秋介は嫌味を隠そうともしない。秋介の真意はわからない。ならば、あえて追求してやるものか。


「他には本持ってないの。わたしも、何か読みたいんだけど」


「ごめん、あいにく今日はこれしか持ってない」


 特別本が読みたかったわけではないし、どちらかと言うと、誰かと話したい気分だったから内心ほっとする。


 重たい湿度がここまで浮上できないのか、屋上は下よりもいくらか涼しかった。冬よりもぼんやりした星空が、夏バテを思わせる。


 今年はまだ、そこまでしんどくないな。昼間のオムライスは、夏バテの始まりだったのかな。そうだといいな。


「こんな時間に、紗英は何をしに来たのかな」


 先ほどよりも感情を混ぜた声で、秋介が口を開いた。前の声との対比効果か、いつもより甘く感じる声音に少しだけ怒りが和らいだ。


「ひどいな。いつでもおいでって言ったじゃない」


 小さな子どものように頬を膨らませると、秋介は困ったように、あの変わった苦笑いを見せた。さっきのいじわるの、仕返しになっただろうか。


「酔い覚ましだよ。お父さんに見つかると、さすがに怒られるだろうからね」


「不良娘だね」


 不良娘なのだろうか。そういえば、お母さんが出て行ってから、あまり反抗らしい反抗をしたことがないような気がする。


 小さな小競り合いはあったとしても、反抗期らしい行動はとった記憶が無い。


 家事を覚えるので忙しかったし、新しいことを覚えて、自分が家のことを廻しているという実感が嬉しくて満たされていたから特に不満らしい不満がなかった。


 わたしが反抗期というモノの存在を自覚していないだけなのかもしれないけれど。


「遅い反抗期に突入しちゃったのかもね」


「いくらなんでも、遅過ぎるんじゃないかな」


 おどけたわたしに、素直に返される。こういうところが、秋介はダメだ。少し真面目過ぎる。きっと、性格だけなら女の子にモテないだろう。顔がいいだけに、とても残念。


「まあでも、反抗期っていうのは悪くないよ。自己主張の現れだからね」


 得意げな秋介の横顔に「ふーん」と気のない返事を返しておく。そもそも、わたしは反抗期なんかじゃない。


 高校生にもなって、みっともないと思う。中学生とは違うのだから、もう少し大人にならないと。それが出来ていない高校生が多い。入学時に学校の雰囲気を感じて少し辟易したのを思い出してしまい、湿度が頑張ってここまで這い上がって来たのかと思った。


「さっきはごめんよ。意地悪な言い方をして」


 秋介からの突然の謝罪に、わたしは面食らった。どうも、秋介の前では自分がやたらと乱される。強風に煽られる洗濯物のように、あっちへふらふら。こっちへふらふら。


「待たせているのが申し訳ないというか、死ぬことが紗英の中でどんどん重荷になっているんじゃないかって思って」


 そんな秋介の話を聞いて、わたしの中から怒りが完全になくなった。彼はどうして、こんな状況で人のことを気にしていられるのだろう。


「けど、人を慰めるのなんて向いてないから、どうしたらいいかわからなくて」


 自分を苦しめる日常から逃げてきたこの場所で。彼の中にある余裕がうらやましい。


「秋介はなにしてるの。言ったとおり、こんな時間だけど」


 明るい声で秋介に言葉を投げる。努めて作った笑顔は、かえって不自然だっただろうか。携帯の画面を見ると、夜九時を少し過ぎたところだった。


「家に居れなくてね。行く宛も特に無いから、一人で読書。幸いここは、夜ならまだ涼しいから」


 置き去りにされた子猫みたいな顔で、秋介はおどけて見せた。努めて作ったのであろうおどけた表情は、どこか不自然に見えた。


 傍らの文庫本を持ってひらひらと揺らす。声音に少し寂しさが混じっていて、秋介がわたしの仲間だということを思い出した。


「旅立つまでに、秋介と少し仲良くなっておくのもいいかもね。どうせなら楽しい旅が良いし」


「旅立つって言うけど、死後の世界なんて本当にあると思うの」


 どうなのだろうか。今更過ぎるような、むしろこれから悩むべきなような疑問。


 小さいころに見た映画では、羽が生えて天国へ行く人と、地面に穴が空いて地獄に落ちる人の二種類だった。落下は、旅とは少し言い難い気がする。


 わたしが死んだら、わたしはどうなるのだろう。

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