二十七段目
小さな手のひらがわたしの両耳を塞いだ。
「あたしの友達に、なにしてくれてんの」
こもった音で聞き取りづらかったが、その声は間違いなく杏子のものだった。
杏子の、拡声器の様によく通る大きな声で叫んだのだろう。車道を挟んだ向こう側を歩いていた男性が、一瞬こちらを向いて止まった。
耳に当てていた手が、すっと離される。耳元にあった温もりが無くなり、夏にもかかわらず、風を冷たく感じた。
しかし、目の前にある鬼の形相と、その横にあるすかした顔を見たら、それどころでは無くなってしまう。
「紗英のことさんざん傷つけといて、まだなにか用事かい宮ノ下淳斗」
「失礼だな。ふられた腹いせに、ビンタしてきたのはそっちだろう」
杏子の視線が、今度はわたしの方に向けられる。器用ではないからか、杏子の顔は怖いままだった。
「宮ノ下のこと殴ったの」
「うん、ビンタした」
すると杏子は、怖い顔の奥の方からじんわりと笑顔を見せた。
「さすが紗英だね。その方が紗英らしくていいよ」
杏子の笑顔に、わたしも思わず笑って返してしまう。それが気に食わない人がいた。
「なに笑ってんの。彼氏を突然殴られて、相当腹たってるんですけど」
ドスの利いた声が近寄ってくる。杏子は、また怖い顔をして睨み返した。
「そう言うなら、ひとの友達に掴みかかっといて……」
杏子の声が止まった。
「磯高の柊じゃない」
その顔からほとんど怒りが消えた頃、杏子は再び口を開けた。磯校とは、府立磯鵜高校のことである。
杏子の声は、驚きと戸惑いとをマーブルに混ぜたような色をしていた。
「東高の笹瀬」
眉間の皺がすっと引いていき、清楚で可愛い表情に戻っていく。東高は、わたしと杏子が通っている府立平高東高校のことだ。
「え、杏子知り合いなの」
「磯高バスケ部の柊。同期で、この辺で一番背が高い、磯高攻略の壁。普段は、清楚な見た目に似合わず、良い意味でバカっぽくて面白い子」
見た目と性格があっていないのは、さっきまで嫌というほど体験していた。
「もしかして柊、宮ノ下と付き合ってるの」
「そうだよ。本屋で漫画買って、これから家帰って読むところだったのに、その子が突然表れて淳斗にビンタかましたんだから」
整った顔が、わたしにむけてまた歪む。ころころ変わる表情が笑顔だったなら、飴玉を口に入れたときのような気持ちになれただろう。
短いため息とともに、杏子がわたしから離れた。わたしもまっすぐに立つと、歪んでいた襟元を杏子が直してくれる。
「それで、紗英はちゃんと説明したの」
わたしにだけ聞こえる声で、杏子が聞いてくる。わたしは自分の行動をもう一度よく思い返して、ごもごもと空気を口の中で転がした。
「まあ、ざっくりと」
短く返答すると、杏子がじろりと睨んできた。「ちゃんと説明しないから、こんなことになるんだよ」と下から眼で訴えてきている。
身体が持ち上がりそうなほど、その圧は濃い。きっと、あとで小言を言われるだろう。ただ、その圧に棘はなかった。
そんな杏子から視線をはずすと、柊さんは黙ってこちらの行動を待ってくれていた。杏子の登場によって、少し冷静になってくれたのだろうか。
「ごめん柊。残念だけど、この子の言ったことは本当だよ」
「あんたとは一緒にバスケしたこともあるし、一緒にご飯行ったこともある。
だから、笹瀬のこと全く知らないわけじゃない。けどね、その友達まで全面的に信用しようとは思えない」
杏子にしては珍しく、落ち着いていて冷静な口調で話している。いや、わたしがこの姿を見るのが久しいだけで、杏子にはこういう一面が元々あった。
副部長を任されるだけの信頼を得ることが出来る、理由の一端なのだろう。
対する柊さんは、やはりまだ怒りが抜け切らないのか、少し口調が荒い。
「宮ノ下と柊は、付き合ってどれくらい経つの」
「そんなの、今は関係ないでしょ」
「少なくともあたしは、紗英と宮ノ下が、半年間付き合っていた事実を知ってる。紗英がどんな振られ方して、どんなに傷ついたのかも知ってるよ」
「そんなの、その子の嘘かもしれないじゃない」
「半年も嘘つき続けるの、無理でしょ。二人で撮ったプリクラだって何度も見たことあるし」
「でも淳斗は、私が好きだって。三ヶ月前に淳斗から告白してくれたし」
「紗英にも、宮ノ下の方から告白したらしいわ」
怒りの表情が崩れていく。
強く上がった眉尻はゆっくりと落ちて、ギュッと結ばれた唇はゆるくなり、みるみる困惑に変わっていく。
霧のような声で「ちがう……」と小さく呟く姿は、数日前の自分とダブって見えて、掴まれたことを忘れて抱きしめたくなった。
今柊さんの頭の中では、いろいろなエラーが発生しているはずだ。修正の邪魔になるようなことをしてはいけない。
それに、柊さんのことを全く知らないわたしがやっても、逆効果だろう。
その時、ずっと沈黙していた淳斗が動いた。貼り付けた仮面を、少しずつ崩しながら。
「残念だな。これは、修正出来そうにない」
「そうだ、淳斗どういうことなの」
最後の砦にすがるように、柊さんは淳斗に声をかける。けれどその砦は初めから、幻で見た目だけを繕った、実体のない砦だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます