九段目

 吐き気をこらえたような顔になるのを必死で隠して、わたしは引き出せるだけの情報を引っ張り出そうと試みた。


「先月分としてもらった生活費はどうしたの? まさか借金」


「借金はしてない。貯金があるから、そこから捻出した。何十年とはいかないけど、しばらくは大丈夫だ」


 その言葉にも、わたしはチクリと胸を刺される。しばらくって、いつまでだろう。大丈夫なんて保証は、いったいどこにあるのだろう。お父さんにしか、わからない。


 一つ一つの言葉が、わたしを安心させようとしていることはわかっている。この暗がりを少しでも明るくしようと、お父さんが「大丈夫」と発しているのは理解している。


 けれど大丈夫の度に、わたしは手で両目を覆ってしまうのだ。


 だめだ、イライラしている。物事を冷静に、理性的に判断できていない。わたしは、マグカップに氷を追加するために一度席を立った。


 氷を二つ入れてリビングに戻ると、お父さんは、コーヒーに口をつけていた。


 口に含んで、喉に流して、ため息を一つ。もう話は終わったつもりでいるのだろうか。冷えたカップとは裏腹に、わたしの熱は上がっていく。


 わたしが再び椅子に座るのとほぼ同時に、お父さんがカップを置くことりという音が聞こえた。顔をあげると、お父さんは口角をめいっぱい引き上げ、目じりにたくさんのしわを作っている。


 数年前の話し合いが、またフラッシュバックする。お父さんの笑顔が、わたしには二つ見える。髪も肌もパリッとしているお父さんと、ほんの少し白髪が増えたお父さん。同じ顔の、同じ笑顔。あれ、今飲んでいるのは紅茶? コーヒー?


 ああ、コーヒーだ。煎れる技術は、まだまだ未熟だな。


 濃くて不味いブラックコーヒーを飲んだ時のような苦味が、口の中でじわりと広がっていく。その苦味は、何度甘い紅茶を飲んでも、拭い去られてはくれない。


 二つのお父さんの顔は、笑顔をそこに残したまま、同時に大きく口を広げた。


「「大丈夫だ。沙英は、なにも心配することはない。お父さんが、何とかするから」」


 二つの顔から発せられた二つの声は、エコーがかかったようになんどもわたしの中で響き、徐々に重なって一つになっていった。


 その瞬間、口内を満たしていた苦味が急激に暴れまわる。その苦味はどんどんと濃くなって、わたしの口を押し広げようとしてくる。あまりの凶暴性に、呼吸するために口をあけることすら躊躇した。


 行き場を探し這いずり回る苦味は、外へ出るのを諦めて、反対にわたしの喉のほうへと這いずってきた。


 苦味によって、どんどん息苦しくなっていく。吐瀉物のような何かが逆流してきそうになるのを、わたしは必死の思いでこらえた。


 その間にも、どんどんとわたしの奥へと入ってくる苦味。気道と食道で二股に別れると、胃と肺が瞬時に侵され、酸素と混じる。血管を通って全身を巡り心臓へ。


 食道を進んだものが、胃の中に居座るのがわかる。わたしの全身が支配されていき、いよいよ表情を取り繕えなくなってきた。


「おい紗英、大丈夫か? どっか調子悪いのか」


 わたしの変化に気付いたお父さんが声をかけてきた瞬間、わたしの口は弾けた。


 出口を見つけた苦味は、暴れていたのを落ち着けて、腹這う蛇の様にぬらりとわたしの口から出ていく。


「ねえお父さん。今のわたしが大丈夫だって言ったら、素直に信じられる?」


 一度口から出してしまうと、苦味は一瞬で脳を犯し、機能を停止させた。この苦味に身を委ねてしまおう。それがきっと、最も気持ちがいい。


「わたしの作り笑いに気付かないフリをして「そうか、大丈夫ならよかった」って素直に口から出てくるかな。そんなはず、ないよね」


 ゆっくりと吐き出される言葉と、出る量に比例して速くなっていく心臓のリズム。二つが作るものは、わたしが初めて体験するもので、戸惑いと快感が、同時に体内を駆け巡った。


「お父さんはわたしにそれを強要しているんだ。何度も何度も。わたしは何も知らないまま、お父さんが言うならじゃあ大丈夫だねって言うしかないんだ。不安を飼いならして、昨日と同じように生活しなくちゃいけない」


 わたしの目の前で、戸惑っているお父さんを見るのがこんなに愉快だなんて知らなかった。お父さんは、こんな表情もするんだな。


 ただ困惑しているだけだったお父さんが、弱弱しく口を開いた。


「なら、紗英が疑問に思う点を聞けばよかっただろう」


 ああ、やっぱり。そう言ってくると思った。


「無理やり話を終わらせようとしているお父さんに、聞けるわけがないじゃない。わたしを安心させてくれようとしているお父さんの気持ちを、わかっているのに。


それともお父さんは、わたしに聞いて欲しかったの? 仮に聞いたとして、お父さんはわたしに全部教えてくれた? そんなはずないよね。それは大人の事情で、わたしはまだ子供だからね」


 紫煙をくゆらせるようにゆっくりと言葉を並べる私を見て、お父さんは口を閉じた。


 わたしの心地よい暴走は止まらない。染み出た黒い苦味は、私の中で増殖して尽きることが無いのだから。

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