七段目

 音の出所であろう方をもう一度目視で確認したけれど、これといって変化はない。わたしは、その先にあるお父さんの部屋へと視線を向けた。


 苦いチョコレートのような色をした開き戸の向こうは静かなもので、それが余計に不気味さを出している。


 泥棒だろうか……。


 いや、うちにお金になるような物なんて無いし、泥棒に入ったとして丁寧に玄関の鍵を閉めるだろうか。


 リビングやキッチンにも荒らされた様子はなく、今朝家を出た時から、何か変化があったようには見えない。


 同じ屋根の下に、わたしの知らない何かが存在している。それだけで、鳥肌が全身を覆う。足先が冷える。首筋がかゆい。


 どうしよう。武器になるようなものなんて、この家に無い。武器を持っていると、相手を刺激してよくない。なんてことも聞いたことがある。


 けれど、確認しないことにはどうしようもない。警察を呼ぶには早計過ぎる気がするし、このまま放っておいて家を出るのも嫌だ。


 わたしは、足音を殺してお父さんの部屋へと近づき、意を決してドアノブを掴んだ。手の震えが伝わらないように、なるべく強く。


 短くて細い息を、ゆっくりと吐き出す。息を吐きながら心の中で十数える。落ち着いて。大丈夫。


 足を玄関の方へと向けながら、お腹の底の方に少しだけ空気を残して、私は思いきり扉を手前に引いた。


 開けたのとほぼ同時に玄関のほうへと走る。振り返って、だれも追いかけてきていないのを確認。


 もう一度部屋に近づいて、左目の端っこでこそっと部屋の中をのぞいた。


 部屋の電気が付いているが、見える範囲には誰も居ない。


 無機質な白色の蛍光灯に、机や本棚といった家具が照らされる。そんなにたくさんの家具は配置されていないから、視界を大きく遮られるようなことはない。


 ほっとため息をつこうとしたけれど、肌を刺すような、ピリピリとした違和感を感じる。この部屋に誰かがいるという気がしてならない。


 汗でじっとりした手の平が、急激に冷える。わたしはそれをシャツの裾で拭うと、一度ゆっくりと息を吸った。


 無意識のうちに呼吸を止めていたようで、肺の空気が入れ替わり萎えていた気持ちが少しだけ持ちなおる。


 視界全体で部屋の中を観察し、ゆっくりと視線を右から左へ泳がせる。


 自衛できそうなものを持ってこなかったことを、今更後悔した。持っていたところで、どうこう出来るとも思えないけれど。


 視線が一往復する。特に、部屋の中に変化は見られない。


 音が聞こえたのは気のせいだったのかと思いながら、一応もう一度部屋全体を見回す。


 ――ああ。見回さなければよかった。何も考えずに家から飛び出して、お父さんに電話をかければよかった。


 素直に「怖い」と言えるような子供ではなく、正義感を振りかざしてしまう自分の性格と、掃除をテレビの裏まで細かくするようなマメな自分を恨んだ。


 違和感をひとつ見つけてしまった。とても簡単な、わかりやすい違和感。気が焦ると、こんな簡単な事にも気付かないものなのか。


 ベッドの掛け布団が、かなり膨らんでいる。だいたい、人一人分くらい。


 枕が入っているのかと思った。いや、正確にはそれを願った。しかし無情にも、枕はいつもあるところにきちんと揃えて置いてある。


 布団をめくりに行こうかと、右の足の裏が床から半分離れたところで思いとどまった。小学生のような、あまりにもバカバカしい隠れ場所に気が緩んだが、そもそも隠れているのはいったい誰だ。


 世の中は平日で、学生は学校へ、会社員の人は会社に居る時間だ。お父さんも、その例外ではない。


 無断で入ってくるような知人はいない。ピッキングスキルを持っているような知人も知らない。


 では、この布団を膨らませているのは誰だ。


 何も考えず捲るのはあまりにも危険だ。しかし、そのままにするわけにも行かない。


 私は一歩だけ後ろに下がる。玄関を確認して、走って逃げるのを頭の中でシミュレーションした。


 振り向いて、全力疾走。靴は履かずに、鍵を開けて叫びながら走る。大きな声で「助けてください」「変な人が居ます」


 交番は、公園を過ぎて左にまがってすぐのところ。中に誰も居なかったら、そのまま走り抜けて住宅街を通り商店街の方へ。なるべく、人の多い明るい道を選ぶこと。


 よし、大丈夫。焦るな。


 杏子ほど体育の成績は良くないけれど、悪い方ではない。ベッドからここまでの距離。すでに立っているわたしと寝ている相手。わたしの方が圧倒的に有利だ。


 わたしは、身を守るように胸の前で手をぎゅっと握った。


「誰ですか? いるのはわかってるので出てきてください」


 布団が、もぞりと動く。咄嗟に逃げだそうとする自分に活を入れ、下腹にグッと力を入れる。けれど、半身は玄関の方へ。いつでも逃げ出せるように。


「なにもしなければ警察に電話したりもしません。おとなしく帰ってください」


 もう一度声をかける。先程よりも、少し力強い声で。


 時計の音も聞こえないほどの緊張の中、わたしの心臓だけが、どたばたとうるさい。


 心拍というものは、こんなにもお腹に響くのかと、どうでもいいことを考えて現実逃避をしてしまう。


 もう一度声をかけようかとわたしが息を吸った時、布団で出来た繭はのっそりと動き出した。


 咄嗟に走り出す。けれど、わたしの足は、たったの二歩で急ブレーキをかけた。慣れないダッシュとストップの動きに、身体がつんのめる。


 視界の隅で捉えた物に、見覚えがあったのだ。


 布団から現れたのは、白いカッターシャツにグレーのスラックスを履いた男性。あの程度のふくらみでよく収まったなと思うほどの大きな身体。


 わたしが昨日アイロンを掛けたシャツに、わたしが洗ったスラックス。見慣れた大きい身体と、短い髪の毛。そして、悪い目つき。


 玄関の方へ向いていた足を、部屋の方へと戻す。わたしは、目の前の人物をもう一度よく観察した。何度見ても、見間違えようがない。


 布団に潜っていたのは、お父さんだった。


「なに、してるの」

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